ちゃりんこダビデ

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  第3章  


 新幹線のガード下に児童公園を示す看板が立っている。落書きだらけの看板だ。コンクリート側壁からししたり落ちる雨滴がその落書きをにじませている。公園とは名ばかり、置き去りにされたガラクタが並び、浮浪者用ビニールテントが立ち並ぶ広場である。
 十三(じゅうそう)は神戸へ帰る者も、宝塚に帰る者も、京都に帰る者も、みな一様に通る関西北部交通の結節点である。サラリーマンたちが、帰宅前、つかのまの憂さ晴らしをするための小道具が揃っている。パチンコ屋や居酒屋や回転寿司屋の間に、イメクラや性感ヘルスやランジェリーパブや、あらゆる風俗店が軒をつらね、その向こうにはラブホテル群の一段高いネオンが点滅する。しかし駅前から十分も歩けば密集歓楽街はあっさりとまばらになる。まるで関西北部の勤め人のその情の薄さに合わせるように、惜別の街・十三は、いかさま骨董屋のごとくトバぐちだけきらめいている。
 ネオン街を通り過ぎ、ラブホテル街を抜けると、すぐにガード下になる。八方に伸びる阪急電車、新大阪駅から大阪中心部を避けて西に向かう新幹線、JR貨物の引き込み線、阪神高速、国道一七六号線バイパスと、いたるところ高架だらけである。十三はピンクネオンとガード下の街だ。
「ワニさん児童公園」もそのガード下にある。すすけた看板に書いてあるその公園名に申し訳を立てるように空き地の隅にワニのコンクリート椅子とワニのシーソーがあり、それらを目印に錆びた冷蔵庫やテレビやボロ布などが投げ捨ててある。そのゴミ山の横に“チャリンコ修理屋のバン”が点滅するオンボロ街灯に照らされて止まっている。高架の上を大音量を立てて新幹線が通ると街灯も揺れるので、バンも震動しているように見える。
 夜になってにわか雨が降り出した。高架の端から垂れる雨滴でバンの前にはウツボ穴のような小さな穿(うが)ちが並んでいる。車の荷台横の窓には「パンク修理三〇〇円」「チェーン取り替え五〇〇円」「油差し一〇円」などという札が下がっている。ほとんどシミと判別不可能なようなかすれた字だ。しかもどれもびっくりするほど安い。かなり以前に掲げられたもののようだ。バン後部の開けられたハッチから、ゴミ山のように積まれた錆びた自転車のフレームやらスポークやらハンドルやらがはみ出している。チャリンコ修理車というよりは廃品収集車の様相である。
 競輪というのは前検日と開催三日の計四日間、隔離された競輪場脇の選手宿舎に入ることになっている。地元甲子園の開催でも同じことで、ぼくはこの十三の寝所から西宮甲子園競輪場までママチャリで行ってママチャリで帰ってきた。
 甲子園球場スサノオ神社脇、意味不明のアンパイヤセンターを出たころ、急に雲行きが怪しくなってきた。国道二号線武庫川のあたりで稲妻が光り、大粒の雨滴が叩きつけてくる。ぼくは武庫川の河原にママチャリを止めジャージの上下に黄色のビニール・カッパを羽織る。背中には同じくビニールで覆った大きなキャリーバッグをかついでいる。
 尼崎市街地を抜け神崎川にかかる左門橋を渡るあたりで、全身から滴がしたたる。悲惨な状態になってきた。濡れるだけならまだいいが、稲妻はほんとに怖い。
「何や、この雷は、当てつけみたいに・・・、泣きっ面に蜂かい」
 泣きごとを言いながら頭をハンドルの下に入れ、まるでイヤイヤをする子供のような小さな体勢を取る。臆病者と言われようと何だろうと、雷に撃たれるのはいやだ。ほとんど泣きそうになって十三に着き、ガード下にびしょびしょのママチャリを入れる。ママチャリを入れると同時ににわか雨が急激に撤収し始めた。
「やっぱり当てつけや、くそーっ」
 ぼくはずぶ濡れのカッパから雨滴をしたたらせながら、ガードから顔を出して急速に移動していく雨雲を見上げる。「ワニさん児童公園」の隅にあるバンの中を覗く。でもこの「ママ屋」のあるじ、テツの姿が見えない。
「川瀬さーん」
 ぼくはその声に首を回して辺りを見る。
「ここですよ、川瀬さん」
 不法投棄物の山の向こうから、赤ら顔のこの店のあるじ、大河原哲二郎がニッと笑っている。まだ三十代半ばのはずだが、額は両側から大きく禿げ上がっている。でも顔の色つやは熟れたトマトのようにピカピカしている。
「川瀬さん、いいところに来ましたね。いまから試験飛行なんです」
「何?」
 ぼくは投棄物の山の上を見上げる。
「試験飛行ですよ、川瀬さん。この自転車、ETなんです」
「何?」
「何って、この自転車ですよ、ETなんです」
「どれが」
「どれがって、これですよ、このチャリンコですよ。やっと完成したんです」
 テツはそれだけ言うと、大きな前カゴのついた改造ママチャリのハンドルを握ったまま、じっと前を見据える。
「エリオット少年は飛来生物を追う特命CIA部隊に追われていた。後ろからは数十台のパトカーが迫る。目の前にはシェラネバダの深く険しい谷が横たわっている。思わず目をつぶるエリオット少年。その絶体絶命のピンチをETを乗せた自転車が救う。空を飛ぶんです」
 ガラクタ山の頂上で改造ママチャリに乗ったテツは、新幹線高架のコンクリート面を見上げて大きく息を吐き、それからぼくの方を見下ろす。
「チャリンコ・ママ屋」は二トン積みのバンである。もとは白い車体に「チャリンコ・ママ屋」の黄色い字が浮かんでいた。でも今はあちこち剥げ落ち「 ンコ 屋」としか読めなくなっている。近所の子供らがそのレタリングを指さして笑ったりするがテツは気にしない。「見せ物やない」とうなってガキどもを追い返す。テツは「恥には怒りを」をポリシーにして生きてきた。車体に書かれた屋号なのだから立派な見せ物だと思うのだが。
 雨の日はこの十三のガード下にママ屋のバンを止めて、テツは日がな一日過ごす。晴れた日にはあちこちの団地を回って自転車修理をする。競輪のレースがないときはぼくもその団地周回を手伝ったりするのだが、このところ、これがテツの唯一の収入源である。
 でも雨の日は出かけない。どうかすると曇りの日も出かけない。最近テツにはすることがある。
「川瀬さん、あなたが来るのをいまかいまかと待ってました。やっぱり誰かに見ていてもらわないと。それもこのスーパー・エクセレント・チャリを理解できる人に見ていてもらわないと。何といっても処女飛行だから。・・・・・・川瀬さん、川瀬さんの好きな処女です。十三栄町通りの化粧だるまのおネエちゃんが“わたし?わたし処女よ”って言うあの処女です。ああドキドキするな、処女はやっぱりドキドしますね、川瀬さん、見てて下さいね。いまからときめきの踏み初め、ターンラーン、ラララララ、ラーンラン・・・・・・」
 テツはガラクタ山の自転車にまたがり、自ら指揮をしながら「ET」のテーマのハミングをおこなう。よく見ると、捨てられたフトンやベニヤ板や古タイヤを使って滑走路のようなものが作られている。
「どけー、ガキども」
 テツは脇を見て不意に大声を上げる。児童公園に花火をしにやってきた四、五人の子供たちを怒鳴りつけたのだ。テツは自分より弱い者に向かっては驚くほど威勢がよい。
 昼間あんなにいい天気だったのに、にわか雨のせいで高架のコンクリート橋脚に湿気の波模様が出来ている。しかし夏の盛りのドシャ降りとはどこか違う、涼気を含む秋の気配のある雨だ。
「これはガキどもの見せ物やない。散れー」
 怪訝な顔で花火を中断した子供たちは脇に寄り、ブリキの羽のようなものの付いた奇っ怪な自転車と、得意げにそれに乗る異様な中年男を見上げる。
「見せ物やなーい」とテツは得意のセリフを吐く。
「別に何にも見てへんのになあ」と子供らはブツブツ言い合う。
「川瀬さん、今夜は満月ですか?」
 テツは一転柔和な笑い顔になり、ぼくの方を見下ろして問いかける。
「何?」
「月ですよ、川瀬さん、サン・フェルナンド・バレーの森でETとエリオット少年が見た、あの丸くて青い月は出ていますか?」
「月って何や?」
「川瀬さん、ETの空飛ぶ自転車は満月の夜に飛ぶことになってるんです」
 テツは染みだらけの新幹線のガードを、まるで遠い宇宙を見るように見上げてぼくに問いかける。
「アホか、さっきまで雨降ってたやないか、月なんか出てるか」
「あ、そうか、そうですね。・・・・・・うん、それは残念だ」
 テツは伸ばした背筋を丸めて落胆する。
「でもまあいいや、今日は単なる試験飛行だから」
 テツは自分にそう言い聞かし、すぐに笑顔になる。
 大きく息を吸い込んでグッと背筋を伸ばす。車体に比べて不釣り合いに大きい前カゴのついた自転車に乗ったテツは、体勢を低くして発進の構えに入る。カゴには大阪此花(このはな)のユニバーサル・スタジオで買ってきたETの縫いぐるみが乗せられている。
「やけにデコボコした道だなあ、ET」
 テツはそう言って、ETの縫いぐるみに話しかける。
「ほんとにデコボコした道だよ、ET、・・・ほんとにここからは危ないよ。自転車降りて歩かないといけないって、あ、何するの、ET、EーーーTーーー!」
 不自然な叫び声とギギギギという錆びたホイールの軋む音を残して、テツの自転車が手作りジャンプ台から外に飛び出す。飛び出すと同時に失速して、店の前の水たまりだらけの泥道に叩きつけられる。
 処女飛行はガラクタ山を助走するガタガタガタという軋みの音と、そのあとの人が自転車もろとも叩きつけられるグシャという音を残しただけで、あっさり終わってしまった。「Don't crash,please」
 テツは泣き顔になってエリオット少年のセリフを呟く。子供たちが花火やバケツを抱えたままクスクス笑う。
「あ、ガキども、まだおったんか・・・。見せ物やないって言うてるやろ。クソーッ、あ、痛!」テツは大声で怒鳴るが、顔は泥だらけだし、腰の辺りを打ったようで背中をくねらせている。「こいつら、体ねじりあげて、ギア・オイル絞り取ったるぞ、ブフォ!」
 テツが続けて怒鳴ろうとすると、今度は口から泥水が出て来た。子供たちは「アホや」などと言いながら、笑って行ってしまった。
「テツ、何度も言うてるやろ、堅実な、普通のチャリンコ屋をやれって」
 ぼくは背中からキャリーバッグを下ろしながら溜息まじりに言う。いつものことだ。
 テツは泥だらけの顔のまま、悲しそうにこっちを見上げる。
 テツのチャリンコ修理「ママ屋」はもうとっくに限界を越えている。パンク修理したらチューブがタイヤからはみ出す。ギア交換したらチェーンが外れてスポークに絡みつく。近所の豆腐屋や魚屋ですらもう修理に来なくなった。頼みの団地周回も、パンク修理のたびに「鉄のタイヤにしませんか、地雷踏んでも壊れません、カンボジアじゃ喜ばれます」などと訳の分からない口上を言うチャリンコ屋に住民たちがソッポをむき始めている。
 最近では店の運転資金はおろか生活費すら出なくなってきた。もしこの二トンのバンがなければテツは十三ガード下の名物“段ボールおじさん”と変わるところがない。普通なら何とか専門技術を高めて挽回しようと努力するところだが、テツはこのところ、ひたすらET自転車制作だけを目指している。
「今回だけは違うんです、川瀬さん。珠樹さんの軽快車プロムナードなんです。珠樹さんから、ハンドルにETを入れられる頑丈な前カゴをつけてくれって言われたんです」
 テツは水たまりから自転車とベトベトになったET縫いぐるみを引き上げながら、ブツブツ言う。
「誰や、タマキさんて・・・」
「え、どうして川瀬さんが珠樹さんの名前を知ってるんですか」
「いま聞いた」ぼくは吐き捨てるように言う。
「え、言いました?この哲二郎が?このチタン合金耐火金庫と言われた哲二郎が? 八つ裂きになっても口を割らないと言われたカムチャッカ・カタクチイワシの哲二郎が?」
「誰や?タマキって」ぼくはテツの言葉を無視して質問を繰り返す。
「それは言えません。申し訳ないですが、たとえ川瀬さんの頼みでもそれだけは言えません」
「誰や?タマキって」ぼくはもう一度聞き直す。
「最近よくうちに来てくれるお客さんです。きれいな人です。甲子園球場のチアガールやってた人です」
 テツはいつものように簡単に口を割った。
 数度の処女飛行墜落を繰り返したあと、テツは「今日のところはこれぐらいにしといたろか」などと定番ギャグをブツブツ言って起きあがる。
 泥だらけのプロムナードを抱えて上げると、バンの荷台に腰掛けて漫画を読んでいたぼくと目が合う。テツは恥ずかしげに視線を逸らす。
「川瀬さん、今日A級優勝戦だったんでしょ、どうだったんですか」
 ぼくはテツの質問には答えず、タバコに火を点け、煙を吐きながら放り出してあるペダルクランクの一つを動かしてみる。
「一番人気だったんでしょ。どのスポーツ新聞見てもグリグリだったじゃないですか。どうだったんですか? 今日優勝すればA級にとどまれるんですよね。どうだったんですか、結果?」
 ETプロムナードを手に持ち、泥だらけの顔を近づけて矢継ぎ早にぼくに質問する。
「結果?」
「結果ですよ」
「結果とは内在的な相関である」
 ぼくはジャージのポケットから小冊子を取り出し、それをめくって呟く。
「はあ?」
「結果とは内在的な相関であり、原因とは自己を措定する実在である」
 テツは不審げな様子でこっちに顔を近づける。
「深いよなあ、措定しちゃうんだから。相関が措定までするんだ、そんなことまでしていいのかってぐらいのもんだよな、な、テツ。・・・・・・深いよなあ、ヘーゲル。やっぱりヘーゲルは深い」
 ぼくは小冊子『ヘーゲル語録』を手に持ったまま目を閉じた。
「でも、あのバカどもはこの深さが分からん。オレがなぜ常にこの『ヘーゲル精神現象学』を座右の書としてきたか、なにゆえに哲学競輪選手の名を背負ってきたか、殺伐とした鉄火場にフィロソフィーを持ち込んだのはなぜか、競輪選手五千人、その数多しといえども、この意味が分かるやつはおらん、皆無や、悲しいことや、テツ。論理弁証法を語れる競輪選手はオレしかおらん、弁証法競輪選手はオレ一人や、それが辛いところや。・・・・・・思えば大変な日々だった。“競輪に哲学なんか要るか、もの考えるヤツがチャリンコ漕ぐか”と何度棒もて追われ、石打ち脅されたかしれん。結果とは内在的な相関であり、原因とは自己を措定する実在である。ゆえに原因は結果のうちに消失する。既に消失しちゃってるんだなあ、これが。・・・・・・うーん、深い」
 ぼくは俯いたままブツブツ言い続ける。
「何言ってるんですか、川瀬さん、今日のこと聞いてるんですよ、どうだったんですか、決勝戦」
「転んだ」
 ぼくは小冊子をポケットにしまい、早口に言い捨てる。
「転んだって・・・、川瀬さん、また転んだんですか?」
「ただ転んだだけやない」
「ただ転んだだけやないって・・・、それ、どういうことですか?」
「客ともめた」
 ぼくは目の前の修理自転車のペダルクランクをぐるぐる動かしてみる。
「もめたって・・・」
「四の五の言いやがるから、三コーナーの上まで山登りして、それから両手コブラのスタンディングを見せてどやしつけた」
「ええっ・・・」とテツは目を丸くする。
 ぼそぼそと今日一日の出来事を説明するぼくを見捨て、テツはまたETプロムナードを抱えて掘っ建て小屋の中に入る。テツが倉庫兼住居として廃材とブリキ板を集めて作った小屋だ。掘っ立て小屋ではあるけど、テツのセンスは出ている。ちゃんとペンキを塗り、「チャリンコ・ママ屋」の黄色い看板も掲げている。ちゃんと寝室と居間とキッチンがあるし、粗大ゴミ集積所から拾ってきた温水器を利用してドラム缶風呂とシャワーも作っている。
「それって黄檗山(おうばくさん)行きじゃないですか、川瀬さん。三ヶ月の斡旋停止じゃないですか」
 テツはプロムナードの泥を雑巾で落としながら、ほとんど泣き声のような声で喚く。ぼくの話を聞いて、泥だらけの顔がさらにくしゃくしゃになっていく。
 競輪選手はペナルティーの点数によって、試合斡旋停止の上に、京都宇治の黄檗山万福寺に二週間籠もって自分の来し方行く末を静かに観想するという行が課せられる。そんな行をしたからといって競走がフェアになるというものではないだろうと選手はみな不満を持っているが、プロスポーツでは他に類を見ない“寺籠もりペナルティー”は延々続けられている。
「黄檗山行けって、だいたい選手に一つの宗教を押しつけていいんか?どうや、テツ。信教の自由はどうなるんや。イスラム教徒の競輪選手がおったらどうするんや。“わたし、アッラーの神に背くような所へは行けません”って言われたら、管理課のやつらどうするつもりや。オレはな、テツ、今回これで行くつもりや。前のときは“わたしはゾロアスター教徒です”って言って、あまりにも唐突で失敗した。やつらゾロアスター教って言っても知らんのや、情けない。やつら、ニーチェなんか読んだことも見たこともない、“まっぴらごめんのヘヘヘのへじゃ”とかヌケサクのような顔をしとった。いやあ、やつらの無教養を甘く見過ぎとった。やつら、ほんまに底なしの無知蒙昧(もうまい)や。今回はいっぺんイスラム教でいってみる、イスラム教なら少しは反応するやろ、ははははは」
 テツはペラペラ喋るこっちの話を聞いて、余計に沈んできた。
 廃材のベニヤ板をつぎはぎして作った小屋は、あちこちに隙間がある。新幹線ガードからの雨だれが天井の穴を通して落ちてきている。チャリンコ組み立て場の一角にバケツを置いて受けているが、もうあふれ出そうだ。
「テツ、おれ、黄檗山行ったら、しばらくママ屋の仕事も手伝えんな」
 ぼくはテツの落胆した表情を見てしょんぼり言う。
「そんなの、どうってことないですよ。団地回ってたって“奥さん、オレの太モモ触ってみる?どう、すごいでしょ?ケーリン、へへ、甘くないよ、あれ、奥さんの胸も何か特別の訓練してんの、すっごーいね”なんて川瀬さんいつも言ってて、あれは手伝いでも何でもないです」
 テツはETプロムナードを眺めながら、吐き捨てるように言う。
 十年ほど前、ちょうど今日、兵藤清之助に声を掛けられたのと同じように、イザナギ神社のクスノキ林付近でぼくはテツに「川瀬達造選手ですよね」と声を掛けられた。体は小さいが胸幅もあるし、Tシャツからのぞく二の腕も盛り上がっていた。その小柄の男が自分の背中の大きなキャリーバックを下ろし、目深にかぶった黒い野球帽を上げて、ぼくの方を見た。
「大河原哲二郎と言います。川瀬さんのメカニックやらせて下さい。ぼく自転車が好きなんです。川瀬さんにはまだ決まったメカニシャンはいないって聞きました。お願いします」
「メカニックたって、お前・・・」
 ぼくは乗ってきたママチャリを何かしら隠すような素振りで両手で覆いながら言う。
“ロス五輪帰り”をキャッチフレーズに鳴り物入りで競輪学校に入り、もちろん在校成績も他の素人選手とは隔絶したもので、大きな触れ込みでプロデビューを果たす。B級戦からのデビューも破格の三場所連続、それも一度も負けることなしの完全優勝を果たし、半年後にはA級を飛び越えて、最上級S級特進を果たした。「川瀬達造」の名は競輪界の外にまで知れ渡り、栄華を誇った。ビッグレース制覇、世間のうらやむ大金獲得も時間の問題とぼく自身も思い、周囲も信じたが、そこから停滞に停滞を重ねた。何が悪いという訳ではなかった。ただ強いて言えば、ぼくは人とぶち当たるのが苦手だ。最上級の争いともなると前へ進む脚力だけでは勝てない。人に体当たりしていい位置を取り、ブロックし、包み込んで勝っていかなければならない。これがぼくには出来ない。人並み以上に接触、落車に怯える。怯えれば怯えるほどクランクはきしみ、フレームは揺れて落車につながった。それでも努力して前に進む脚をケタ外れにすればこの停滞は抜けられたのだが、そのがむしゃらな努力にもぼくはひるんだ。思えば今までひるみの塊のような人生だった。
 十年前、甲子園裏のクスノキ林でテツが唐突に声を掛けてきたとき、ぼくはまだかろうじてS級にいた。しかし既にボディビルと哲学入門書暗記に精力を費やし始めていた時期だ。そんな専属のメカニックを置くような卓越した身分ではなかった。
「実はぼくも競輪選手目指して二度ほど競輪学校受けたんですが、ダメでした。やっぱりこの体ですし、諦めました。でも、ぼく、メカニックには少しだけ自信があるんです。競輪学校受験のかたわら和歌山競輪場の近く、ESSOのガソリンスタンドでバイトしてたんですけど、あそこは和歌山の競輪選手もよく来るんです。ランドクルーザーにピスト・レーサー積んでたりするんです。そのレーサーがピカピカでかっこよくて、オレ、独学でピストの構造とか勉強したんです。だからオレに川瀬さんのメカニックやらせてください。二人で競輪日本選手権目指しましょう」
 テツは必死に訴え、ぼくは「はあ、はあ」と不得要領の返事して二人の共同生活は始まった。テツは二年のバイト生活で得たわずかのカネで中古のバンと自転車修理の工具一式を買い「移動チャリンコ屋」を開業した。そのチャリンコ屋を兼ねるバンの中で生活しながらレースのある日はそのバンで会場の競輪場まで移動し、ぼくのためのメカニックサポートをやると言い出した。何のあてがあった訳ではない。テツはただ何となくぼくのそばにいたかったようだ。ぼくも物心両面でサポートがいるというのは嬉しいことだった。
 デビュー当初、日の出の勢いの時代には一台百万円以上する競技用自転車ピスト・レーサーを年に一台は新調していた。テツに出会った頃もまだその余韻はあった。「じゃ一回作ってみろ、うまく出来たら乗ってやる」などと鷹揚なことを言い、出来上がると「そのへん置いとけ」と言って買い上げてやったこともあった。
 テツはいい仕事をした。少なくとも競輪選手よりは職人に向いていた。しかしぼくとテツの蜜月は二年と続かなかった。得意の“転び癖”によるケガと、生来の練習嫌いが重なって、ぼくの成績は見事に急降下し、スター選手と一流メカニシャンのコンビは一挙に“責任転嫁・なすり合い”コンビに変貌した。
 いまのぼくはもう専属メカニシャンなど持てる身分ではない。商売道具のピスト・レーサーでさえ、ここ数年新調していない。レース中、落車事故が起きたら、ぼくは自分の体よりまず自転車の方を心配する。車体故障など起きたら一大事だ。十年前に廃棄したピストを調整し直して使わねばならない。試合前の前検日、ギーギーと音のするぼくのレーサーのクランクシャフトを見て、他の選手に「油さした方がええんちゃいますか?」と嘲笑を受けることもたびたびあった。
 ぼくも黙って土間のバケツに溜まる雨垂れを見つめる。テツもスパナ持ったまま溜息をつく。お互い、辛いところなのはよく分かっている。
「川瀬さん、最近よく街道練習さぼって下新庄の“関西スーパー”に行ってるらしいですね」
 ETプロムナードのためのタイヤチューブを握りしめたまま、テツがこっちを見る。
「なんや」
「行ってるんでしょ、下新庄の関西スーパー。あそこはこの辺じゃ、ちょっとしたショッピングタウンで、それを目当てに毎日通ってるそうじゃないですか」
「確かにオレは下新庄の関西スーパーにはよく行く。それが何や。何か悪いことか」
「川瀬達造、あの十九年前のロサンゼルス・オリンピックで日の丸を背負い、関西サイクル界の星として騒がれた川瀬達造が、東淀川・下新庄の関西スーパー駐輪場で、いつもチャリンコにまたがり、それも片方のペダルを百三十五度の角度にセッティングし、その上に足を乗せていつでもスタートダッシュの効く体勢でペダル待機してるらしいやないですか。ちょっとケツの張った骨のあるように見える奥さんがチャリンコ漕ぎ出したら、十メートル後ろからもがいて相川の相愛女学園前の四つ辻までに抜き去るっていうじゃないですか」
「はあ・・・・・・」
「嬉しいですか?」
「・・・・・・」
「嬉しいですか、スーパーの袋を前カゴに乗せたオバチャンたちを抜き去って。そりゃ勝つでしょうよ。もうかつてのオリンピック選手の力はなくても、買い物帰りのオバチャンは抜き去るでしょうよ。でも、それって嬉しいですか」
 テツはクシャクシャになった顔でぼくを見上げる。
「川瀬さん、あのロス五輪のサンノゼヒルズの神風と言われた脚はどうしたんですか。大和魂の山おろしと言われた、あの怒濤の追い込みはどこへ行ったんですか」
 テツはほとんど涙声になって訴える。
 ぼくは答えず、置いてある特大スパナを鉄アレイ替わりにして、膨らんだ自分の上腕二頭筋を眺めてニッコリする。
 テツは何かといえば涙声になる男だ。最初のうちは騙されたが、オレもバカやない、そうそういつもいつも騙されてたまるか。
「川瀬さん、そんな筋肉が何になるんですか。ただただエネルギーの無駄な蓄積じゃないですか、川瀬さん」
「エネルギーっていうのはな、テツ、こんなところに蓄積されるもんやないんや。アデノシン三リン酸の分解におけるATP回路っていうのがあってな・・・・・・」
 ぼくは得意の筋肉理論をブツブツ言う。でもテツは全然聞いていない。知識はいつの世も友人を峻別する。
「そんなこと言って何になるんですか、川瀬さん。何ですか、あなたの、そんな聞きかじりの理論」
「テツ、ATPっていうのはな、聞きかじりなんかでは理解できん。アデノシンに三つのリン酸が結合した、これをヌクレオチドっていうんやけどな、これが水と一緒になって分解する、これを加水分解っていうんやけどな、この加水分解するときにエネルギーを発するんや、これがまた化学の神秘的なところでな・・・・・・」
「“ヘーゲル精神現象学ではな”“エネルギーの分解回路においてはな”・・・・・・もういいですよ、川瀬さん。そんなどうでもいい知識のオンパレード、それいくらかなりますか?あなたのレース報償費に加算されますか?それ知ってたら人並みの暮らしのA級選手にとどまれますか?川瀬さん、下宿代、もう三ヶ月もらってません」
「は?」
「下宿代ですよ、川瀬さん、もう三ヶ月分もたまってます」
 テツは立ち上がり、ぼくに詰め寄って言う。
 ぼくはS級からA級に落ちた五年前から、このテツの倉庫兼住居のバラック小屋の一部屋を借りて住んでいる。
「テツ、下宿代、下宿代って、こんな小汚い掘っ立て小屋でカネ取ろうっていう魂胆が大体浅ましいんとちゃうんか」
 ぼくはなおも特大スパナを鉄アレイ替わりにして動かし、自分の上腕筋の膨らみを見ている。
「取るんです、川瀬さん。ぼくはあなたの哲学競輪や加水分解エネルギーにはいい加減飽き飽きしています。大事なのは家賃です、川瀬さん。大事なのはカネです。どうです、参りましたか」
 テツはそう言いながら詰め寄る。いつにない気迫にぼくは思わず二歩、三歩後ずさりする。
「参りましたか、川瀬さん」とテツはなおも詰め寄る。
「参った」とぼくは俯いて小さな声を出す。
「川瀬さん、あなたはこの小屋に住むとき、家賃のことはちゃんとせなあかん、どんなに小汚い部屋でも、貸し借りはちゃんとする、スポーツ選手は公明正大、明朗快活、朝は笑っておはよう、郵便来たらありがとう、夜になったらパジャマに着替えて歯磨きして、今日一日の幸せを感謝する、これが大事なんや。特にカネに関しては一点の曇りもない、ニッポン晴れの運動会、国旗掲揚台の日の丸のようでないといけない、それでこそスポーツ人間なんやと、あなた、そう言ってたじゃないですか。・・・川瀬さん、下宿代ください」
「何や、下宿代、下宿代って、一ヶ月たった二千円やないか」
「ひと月二千円の三ヶ月分、六千円ください」
「何や、そんなチッポケなカネのことをゴタゴタと」
 ぼくはスパナを持ったまま立ち上がり、上腕二頭筋を突きつけるようにしてテツに迫る。悲しいことだが、こんなときでもぼくは筋肉を先行させなければ相手に近づけない。
「川瀬さん、六千円ください」
 テツも唇を噛みしめてぼくの前に立つ。ぼくのアゴ下あたりにある顔をぐっと上向かせてこっちを睨む。すでに涙目になっている。
「そんなチッポケなカネのことでオレらの間が険悪になってもええんか、テツ。けがらわしいカネのことで」
「ああ、カネです。けがらわしいカネですよ、川瀬さん。あなた、いつも言ってるじゃないですか。うつろな愛はいらん、カネが欲しいって。カネのためならオレは魂だって売る、嘘だと思うならカネ持ってきて、オレのほっぺた札束で叩いてみろ、すぐにナメクジのようにふにゃふにゃになるからって、川瀬さん、あんた、いつもそう言ってるじゃないですか」
 テツはぼくを見上げたまま言う。百八十センチの筋肉男の前で、十五センチ背の低い貧相なチャリンコ屋が胸を張って見上げる。
「うん、言ってる」とぼくは小さく言う。
「テツ、お前」
「何ですか」
 テツはなお虚勢を張って顎を突きだす。ぼくはテツをぼんやり見下ろす。
「お前、そんなに小さな体で、何で競輪選手なんかになろうと思ったんや」
 そう言いながらスパナを置き、上腕二頭筋をTシャツの袖で隠して力無く座る。
 テツはぼくの意外な言葉に呆然として、座り込んだぼくを見下ろす。
「オレは・・・・・・、オレはずっと野球をやってたんです。これでも熊野林業高校・梅の木むら分校ではエースだったんです、甲子園だって出たことあるんです」
 テツは肩肘を曲げてポーズを取り、急に微笑んで嬉しそうに言う。
「甲子園?お前、甲子園出たことあんのか?」
「はい」と言ったあと、テツは俯く。
「熊野林業高校梅干し村分校でか」
「梅干し村じゃありません、梅の木むらです」
「それが何でまた競輪選手なんかに」
「それは・・・・・・、甲子園から帰って紀ノ川あたりをブラブラしていたとき、和歌山の紀ノ川かわっぷちのガソリンスタンドでバイトしたりしてたんです、そのころすぐそばの競輪場で競輪見てカッコいいなあと思って・・・・・・、川瀬さん、あなたを見たんです、まだS級バリバリの頃、梅の木むらは貧しいし、競輪選手ならカネ稼げるかと」
 つゆの長雨がまた一段と激しくなって、軒下からのしずくがぼくの剥き出しの上腕筋にかかってくる。
「オレを見たのか・・・・・・」
 ドドドドという低い響きと震動を残して新幹線が通り過ぎると、高架の縁に溜まった雨水も一斉に落ちてきて、その跳ねもかかる。でもぼくはしばらく身動きせず、しずくを受けたままになっていた。

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