ちゃりんこダビデ

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  第4章  


 世紀の珍事、金網越しに客とトラブルを引き起こして三日後、ぼくは甲子園競輪場に選手誘導のために出向いた。競輪の道中は風圧を受ける先頭の選手が圧倒的に不利になるので、最後の一周半前までレースに出ていない地元の選手が選手集団の先導役を務める。“誘導”と呼ばれるそのアルバイトを二レースやり、一万円もらう。
 その帰り、自転車競技施行公正室に呼ばれ、今回のトラブルに関する正式な制裁が言い渡された。「黄檗山での精神修養二週間、その後斡旋停止三ヶ月」である。レースはもちろん、誘導のアルバイトもしばらくおあずけだ。黄檗山に行けばとりあえずカネはかからないが、そのあとの斡旋停止期間三ヶ月が何としても長い。しかしとりあえずはこの一万円で“黄檗山”まで過ごさないといけない。
 そんないじましい気持ちの中、帰り道またフラリと「アンパイヤ・センター」のケージの前にやってくる。兵藤清之助はスサノオ神社のクスノキ林の横で、傾き掛けた晩夏の日に照らされる甲子園球場の壁面を見上げていた。
「まだ夏の残影があるというのに、もう甲子園大会終わってしまったんだなあ、来年の春まで純粋無垢な精神の高揚はおあずけなんだなあ、アーウト!でも甲子園の青春はそんなもんじゃない、タイム!デッドボール!」
 また体の動きまで入れてジャッジしながら一人で喋っている。
「特にこの夏の大会終了後は体の中から沸いてくる寂寞をまぎらわすこの行為を止めることが出来ない。祖父の代からのアンパイヤ稼業を受け継いで三十年、淡路島南淡町で営んでいた生業の酪農小屋は人に売り渡し、呆れた妻子も出て行ってしまった。しかしそんなことは気にしない。人生、一瞬、アウト・セーフの剣が峰に賭けて生きてきた。それだけを自負に胸を張ってきた、・・・・・・でも」と言って、清之助はこぶしを胸の前で止めたまま不意に黙る。
「でも反省はないのかって聞かれたら、そう聞かれたら否とは言えない。こんな生き方、偏向してるんじゃないか言われたら静かに頷くしかない。屈折した人生じゃないか、こんなんじゃだめなんじゃないか、そんなネガティヴな思いも心の片隅には悲しいけれど残っている。でもそんな反省をしかけると、落ち込むしかないのかうなだれ始めると、なぜか知らないが、どういう訳かこらえきれず、オレの体の底から無数の衝撃波が嗚咽のごとく押し寄せてくるんだ、どうしようもない、ほんとに理性じゃ押さえきれないんだ、う、う、うー、ストラーイク!」
 いわし雲の空に、兵藤清之助の、どういう訳かこの暑いさなか白手袋はめた右こぶしが突き上げられる。
「“日本一のストライク”と言われた。・・・・・・球を見極める中腰の姿勢から、こうすっくと直立し、そこから一拍置いて右手を差し上げる。肘を返して手の甲を体の前に持ってきて、そこから脇を固め、体の中心を通して腕を差し上げる。ストライクマン一族三代目兵藤清之助の編み出した甲子園ストライクの“インサイド・アウト”だ」
 誰が見ているということもないのに、兵藤は自分の動作に説明を付けながら“ストライク”をやっている。
「甲子園球場スタンド上端が区切る丸く青い夏の空、その円形の中心に、どこまでも真っ直ぐな兵藤清之助の白手袋が伸びる。その美しさゆえに、どのバッターもただ見とれて、文句を言う機会を逸すると評された。ああ、今日もどこまでも白く真っ直ぐなストライクだ」
 ぼくは気恥ずかしくなって顔を逸らす。
 清之助の大声にクスノキ林の周りを通るOLや近所のおばちゃんや宅配ピザ屋の配達人まで「何だ?」という顔で見ている。
 その気配を感じ、清之助は「あ、またやってしまった」と小さく呟く。
「何てことだ。近所の人間からも奇異な目で見られている。え?オレってひょっとして人生の落伍者?・・・・・・ああ、でもそう思うと、そういう殊勝な反省心に侵され始めると、逆にどこからか無性に怒りが沸いてくる。えーい、お前らの人生、白黒つけてんのか。まだまだお前らは甘い、ディフィニションがない、オレのコールは精神の彫刻刀だ、区分けだ、刻印だ、際立たせだ、ウ、ウ、ウー、アウトー!お前ら、言い切ったことがあるのか、ほとばしるパッションにフレームをつけたことがあるのか、うー、デッドボール!能登の荒磯でフンドシ締めて、オラァ、鬼太鼓(おんでこ)座のフンドシ男だぁ、ストラーイク!ドンドコ、ドンドコ、ドドドドドド、ビールいかがっすかぁ、カチワリいかがっすかぁ、来い、とっからでも来い、ドンドコドコドコ、オレは甲子園だ、鬼太鼓座(おんでこざ)のフンドシ男だぁ、ウー、ノータッチ、セーフ、ゲーム」
 清之助は鳴尾浜に傾く西日を見ながら、ポケットからハンカチを出して汗を拭い、「・・・・・・ああ、燃えたなあ」と呟く。
「あのですね、オジサン、もういいです、ぼく帰ります」
 一人の少年が例の胸当てを着け、あの汗くさいマスクを半分上げながら、防護ネットを開けて兵藤清之助の方を向いて抗議している。
「ピッチャー、キミ危険球だ、警告」と架空のピッチャーに向けて“警告”のシミュレーションをやっていた清之助がケージの少年の方を向く。
「帰る?帰るとは何だ」
「何だって何だあ?帰るっていったら帰るんだがや」
「何だって何だあって、何だそれ。そんな同語反復やったって、この甲子園のルールブック・兵藤清之助には通用せん、ファールボール」
 清之助は防護ネットを掻き分けて中に入り、少年の前で大きく両手を広げる。ファールボールの表示だ。
「もう帰るがや、何だあ、ここは。名古屋からわざわざ来て、甲子園に来たついでに何かの記念になるかと思って入ったのに」
「待て、早まるな、試合放棄はいまだかつて甲子園八十年の歴史の中に存在しない、まず冷静になることだ」
「だったら打たせろや、その、あんたがフトシくんとか呼んでる、そのシミと傷だらけのデブ人形どけて、オレに打たせろや」
 少年はフトシ人形を指差して興奮した声を出す。
「分かった、抗議内容はそういうことか、ちょっと待て、いま審判団集めて協議する」
 清之助はピッチングマシンの方に近寄り、両手で“来い、来い”という指示を出しながら頭をひねっている。たぶんこれはマウンド近くで審判員が全員集って協議している風景なんだろう。
「あ、タイム!いまタイムかけているだろうが。タイム中の投球練習は禁止だ」
 清之助は不意にピッチングマシンの方を見て注意する。二百円受け取って、自分でスイッチ入れたんだから、マシンから球が出てくるのは当たり前だと思うのだが。
「公認野球規則第八章第四項に規定されている。キミは、いま我々審判団がキミの処遇について協議している、そのことについて何のシリアスさも感じないのか。あ、またいま球にツバ付けたろう、公認野球規則第八章第三項不正投球、それに抵触する行為だ。だいたいそんな脳天気なことだから、キミに対する抗議が跡を絶たないんじゃないか、あ、また球なめた、ベロッて、いま舌出して球なめたろう、ひもじいのか、飢え死に寸前か、終戦直後の数寄屋橋浮浪児か、きみは、だめだって言ってるだろ、球にツバ付けちゃあ、ピッチャー、ボーク!」
 清之助はピッチングマシンの方に歩いていき、片手を腰に当て、もう一方の人差し指をマシンに向けてコールする。もちろん、そのコールする審判にかまわずマシンから球は出てくるから、清之助は慌てて体をよける。
「あ、あぶないやろ、いまボークって宣言しただろうが!」
「帰るー、絶対帰るー、二百円返せー」
 マシーンに向かって説教する様子を見た少年はマスクを取り、胸当てを投げ捨てて泣き叫ぶ。
「詐欺や、詐欺。これは甲子園に憧れるオレたちを食い物にする詐欺や」
 少年は防護ネットを掻き分けて、外へ出る。
 清之助はトトトと走ってきて、「少年、詐欺は言い過ぎよ」と注意する。
「確かに我々審判プロフェッショナルは“お前は詐欺師か”というそしりは甘んじて受けよと薫陶を受けてきた。ときに詐欺師のごとく振る舞えとさえ教えられた。詐欺師と呼ばれることはある種、我々審判の定めとするところである、しかし」
「バッティングさせろー」少年は清之助の言葉を遮ってなおも叫ぶ。「いかれたバッティングセンターだがや」
「少年、大人に何度も同じことを言わせるもんじゃない。バッティングセンターやない。ここに書いてあるやろ、兵・藤・ア・ン・パ・イ・ヤ・セ・ン・タ・ー」
 兵藤清之助はまたこの前ぼくに対してやったように、看板を一文字ずつ指差して発音する。
「こんなピッチングマシーンが四台も並んでたら誰でもバッティングセンターだと思うがや。二百円返せー。クソー。名古屋からわざわざ甲子園見に寄ったのに。がんばって愛工大名電入って、野球部入ってレギュラーになって、そんでもって絶対ここ来るぞって誓い立てて、その記念にバッティングやって帰ろうと思ったのに、クソ、クソ、クソー、思い出が台無しや。二百円返せー!」
 少年は涙ながらに叫ぶ。
「ここは甲子園の演出家の養成所や。野球やるやつをさらに演出するところや。ハイレベルレッスン場や。そんなことも分からんのかあー!二百円は絶対返さーん!」
 清之助も叫ぶ。なおも清之助に詰め寄ろうとする少年に、ぼくは後ろから寄っていって背中を叩いた。
「世の中にはイカれた大人がいるからな、これがこの世の不条理というもんや。そういうのを勉強するのも甲子園に出場するための練習の一つなんやで」
 ぼくは優しく諭し、「オレも実はここの関係者なんや」と微笑みながらポケットから五百円玉を出して少年に渡す。
「ええんや、取っとけ。かまへん。悪く思うなよ。これも何かのきっかけ、分かるか?きっかけ、つまり契機やな。ヘーゲル弁証法で言うところの即自的な契機、アウフジハーベン・モメーンテなんや。分からんか、こりゃ難しかったな、ははは、こりゃ難しかったわな、わりい、わりぃ、まあ簡単に言うとやな、即自的アンジッヒな障害が対自的ファージッヒな対立に転化されて、それがさらに即自かつ対自的統一としてアウフヘーベンされるということや、あ、これも難しかったな、わりぃ、わりぃ」
 ぼくは微笑みながら、得意のせりふをゆるゆると説諭し、さらに慈愛の微笑みを畳みかける。
「訳の分からんこと言うなあ!二度と来やせんぞー!」
 ぼくを睨んで少年はそう叫んで走り去る。それでも五百円玉はしっかり握りしめて行った。通路に置いていた自分のスポーツバッグを肩に掛けると、スサノオ神社脇から甲子園球場外壁の下を伊賀忍者のような猛烈なスピードで駆け抜けて行った。
 呆然とするぼくのところへ清之助が寄ってくる。
「つまりこれはあれだな」
 清之助が下を向いて言う。
「は?」
「ロールシャッハテストだな、これは」
「・・・・・・?」
「ロールシャッハテストってあったろ?こう、インクのシミみたいな左右対称の絵を出されて“何に見えますか?”っていうやつ」
「知らん」
「知らんて、やったやろ、昔。こうインクのシミ見せられて“拳銃に見えますか? 女二人が向き合ってるように見えますか? ダンサーが踊ってるように見えますか?”とか色々質問されるやつ、あったやろ?」
「ああ」
「あれや、あれについてオレは言いたいことがある。オレには十枚の絵が全部女のあそこのように見えた」
 清之助はそう大きな声を出して胸を張る。張られても困る。
「ほんと、どの絵見ても、これや、これ、これこそ女のあそこや、ちょっと斜めになってるけど、あ、これや、これこそ女のあそこを横から見たやつや。あ、これも女のあそこや、あそこを下から見たやつやと思う。でも“女のあそこ”ってのはないんや、選択肢に。ここや問題は」
「どこ?」
「どこって、つまりそういうことや。やつらは“女のあそこと思うやつもおるやろ、いや大多数の男は女のあそこと思うはずや”と、そう思って準備しとるんや、やつらは。準備しといて、でも“女のあそこ”が選択肢になかったら、そいつらどう振る舞うか、ここが面白いんやと手ぐすねひいとる、心理学者というのはそういうやつらや」
「五百円返せー」
 ぼくは清之助の胸張りを無視して低く唸る。
「え?」
「五百円もやったのに、気に入らないんやったら五百円置いていかんかー、それが人間としての礼儀やろー」
 ぼくはなおも唸る。
「五百円って、お前らみんな、だいたいカネの亡者か、さっきのガキは二百円返せ、二百円返せって言うし、お前は五百円返せか、どっちにしてもほんとにみみっちい金額や、情けない、涙が出てくる、涙の谷や、お乳とお乳の間は涙の谷でございますや」
「何や、それ」
「太宰や、太宰の桜桃や、太宰治は女と死にに行くとき“お乳とお乳の間は涙の谷”と叫んでサクランボの種吐き出したんや、どうや参ったか」
「参らへんわ、そんなことどうでもええ、とにかく五百円返せー」
「まだ言うとるか、そんなこと。それよりどうなんや、川瀬達造、最近チャリンコの成績は?」
「え?」
「チャリンコの成績はどうやって聞いとるんや」
「何でそれを?だいたい何でオレの名前知ってんだ」
「お前が落ちぶれた競輪選手、川瀬達造だってことか?侮るなよ、オレは旭川中学のスタルヒンがカミソリシュートを投げるときボールにツバつけるのさえ見破った男だぞ、裸眼視力三・〇、甲子園のニカウさんとまで言われた男だぞ」
「スタルヒン見たって、あんたいったい何歳や」
「川瀬、もういいかげんチャリンコから足洗え」
 清之助はぼくの呟きを無視して続ける。
「大リーグボール・アンパイヤになれ、川瀬。お前の先はもう知れとる。ロス五輪ベスト4の栄光がなんだ、そんなもんでメシが食えるのか」
「それも知ってたのか、あんた、さては競輪客か」
「いいか、川瀬達造、お前の先は知れとる。お前のような、スーパーに卵買いに行くときだけママチャリ全力で漕ぐような、そんな街角サイクリング練習で勝てる訳がなかろうが。いいか、川瀬、青春メッカ甲子園球場のアダ花、甲子園競輪場は来年でなくなることが決まったぞ。甲子園球場の日陰に咲くヨモギ草、甲子園競輪場は来年でなくなるんや」
「え?甲子園競輪場がなくなるって・・・、嘘やろ」
「嘘?オレを嘘つきだと言うのか?ユー・アー・ライヤー、オレは上祐史浩か。・・・・・・でもあれはユー・アー・“ア”・ライヤーと言うべきだったんだ、冠詞をおろそかにしてはいかん、外国人記者だから英語は間違わなんだろうとみんな妄信している、それが甘い。すべては疑ってかかれ、ユー・アー・ライヤー、え、でもいいの?ほんとはアイ・アム・ライヤーじゃないの?ほんとはユー・アー・ア・ライヤーなのにって、ほんとはそういう意味だったんじゃないのか・・・・・・。いいや、そんなことじゃない、ライヤーとかそんなことじゃない、甲子園競輪場のことだ、いいか、川瀬達造、だいたい面汚しだろうが、競輪場なんて。甲子園といえば青春。この、ストラーイク!(と言ってまた右手を上げる)の心。純粋無垢な若人の舞台や。それが灰色オヤジどもの欲まみれの愁嘆場、競輪場をも意味するとしたら、こりゃ甲子園という名の恥部だろうが。だいたい競輪場に甲子園の接頭辞を付けることからして筋違いもいいとこや」
「そんな、オレたちだって一生懸命踏んどる、さわやかなスポーツ選手や」
「さはやかあー?お前らのどこがさわやかや。お前ら、ゲーム!とコールされて土を拾い集めたことがあるのか?涙しながら校歌歌ったことがあるのか?そんなさわやかなスポーツをやったことがあるのか、えー? お前らチャリンコ漕ぎは欲まみれオヤジどもから“ヘタクソ、根性なし、コジキ、二度と甲子園競輪場来んな”と怒鳴れるて、クソ、あいつら、帰りにチャリンコでひき殺したると唸るのがせいぜい関の山やないか。さわやかさとは明石とブエノスアイレス、地球のおもてうらぐらいかけ離れとる」
「・・・・・・ええ、でも、甲子園競輪場がなくなるって、なくなったらオレ、どうしたらええんや」
「バカタレ、選手会でも大反対してたけど、もうすぐ市議会でなくすということに決定されそうや、川瀬、お前、選手会で聞いてないのか」
「いや、選手会の事務所の前を通りかかると、最近屁かまして通ってるから」
「新聞にも出てるぞ」
「新聞て、新聞なんてもう三年読んでない」
「だから新聞ぐらい取れって言うとるだろうが。お前が選手プロフィール欄に『愛読書・ヘーゲル精神現象学』って書いてるのを見たときは涙が出たぞ。何がヘーゲルだ。ヘーゲルってツラか。ヘーゲルなんか読む前に新聞読め、いいから来い、今日は特別サービス、三十球限定でタダにしてやる」
 何がタダなのか、どうしてこういうときアンパイヤ・センターなのかも分からず、ぼくはまた清之助に連行されるようにクスノキ林の中の錆びだらけのケージをくぐった。
「ストラーイク!」
 ぼくはキャッチャー・ドイの後ろに立ち、やけくそで右手を上げてコールしてみる。
「違うんだ、川瀬達造、そこが違うって言うてるんや。それはただの判定だ。考えてやっている判定だ」
 すぐに清之助が寄ってきてコーチする。
「Don't think,Feelだ、ブルース・リーもそう言った。燃えよドラゴンだ。トン・ウエイ少年は言った、リー先生、ちょっと考えさせてください、Let me think。リー先生は怒った、考えるんじゃない、感じるんだ、Don't think, Feel! ・・・・・・いいか、お前のはFeelじゃないんだ、考えてるんだ、考えて、これストライクかなと考えて、それから手を上げてるんだ。感じるんだ、達造、ストライクを。いいか、達造、ストライクを感じるんだ、これさえやれば泣く子も黙る、交通整理の警察官だって、子供にオッパイやってる母親だって思わず振り向いて見とれてしまう、そういうストライクでなければアカンのや、分かるか達造、わがストライクマン一族の受け継ぐこの辛いストライクの宿命が」
「ストライクマン一族って何?」
「このオジサンの一族は代々甲子園のアンパイヤやってたのよ」
 ほうきとチリトリ持ったサキだった。このおばさんは前のときも掃除の格好していた。このアンパイヤ・センターで清掃やってるのかとも思うが、このセンターで人が雇えるとも思えない。いつも暇なんだから掃除なら清之助がすればいい。それにいつもほうきとチリトリ持っている人間がいる割にはケージの中にはゴミや落ち葉も入っているし、まだ以前いた孔雀の匂いというか、動物の糞のような匂いも残っている。ほんとに掃除してるんだろうか。
「へえ、代々審判なのか」
「祖父の代からいえば、もう七十年になる」
 清之助が向こうを向いたまま答える。
「でも何でやめたの?清之助さんは」
「ほら、十年ぐらい前にあったでしょ、石川星稜高校、松井秀喜の五打数五敬遠、あれでクビになったのよ」
「アーウト!」
 二人の会話を遮るように、清之助は左手を腰、右手を自分の顔を遮るように左上に突き出す。次に「ファールボール」という言葉と同時に両手をかっちり開き、野手とランナーに示すようにぐるっと体を回転する。
「いかれダビデ、この前はまた競輪客に食ってかかったらしいな」
 清之助がくるりと振り返って聞く。
「何だ?」
「バカ競輪客に食ってかかるバカ競輪選手がいる、いかれダビデと呼ばれるバカ競輪選手がいるんだって甲子園競輪場界隈じゃ噂になっとる」
「あんた、何でそんなに競輪のこと詳しいんや」
「詳しい? 川瀬達造、まだ気づいとらんのか。オレに甲子園競輪場に詳しいなどという言葉は当てはまらん、オレは甲子園競輪場を作ったのだ」
「作ったってどういうことだ」
「甲子園競輪場を作ったのはわがストライクマン兵藤一族だ」
 そう言って清之助は近づいてきてぼくの顔を覗き、それからクスノキ林の向こうに見える甲子園球場外壁を見上げる。
「昭和二十八年の夏、松山商業に負けた土佐のエース水ノ江大輔は泣いとった。ドラマじゃない、真剣勝負がやりたいなどと青臭いことをぬかして泣いとった。そんなんだったら、あの浜甲子園の空き地でチャリンコ漕いどる男らのところへ行け。オレがパイプ作ってやると、わがオヤジ兵藤元之助は言った。当時の南甲子園はまだ空襲のあとの一面の焼け野原だった。甲子園球場のスタンドから南に見えるのは自転車組み立て屋が作った浜甲子園チャリンコ練習場だけだった。漕いだら漕いだだけカネになるように、車券も発売できるようにしてやる。ドラマよりカネ儲けしたい人間が溜まれるよう、浜甲子園のひび割れコンクリートトラックを競輪場と呼んでやる。ケアする一族なんや、オレたち兵藤一家は、とオヤジ元之助は叫んだ。水ノ江よ、お前は不幸にして筋書きのないドラマ・青春に泣いた。しかし嘆かんでええ、競輪なら真剣勝負が出来る。お前のような甲子園のドラマのために人身御供となった青春無宿のためにこそ、競輪場を作ってやる。そう言ったのはケアする兵藤一族、わがオヤジ兵藤元之助だった」
 甲子園の蔦かずらが浜風を受けてざわつき、キラキラと西日を返している。清之助は両手を腰に当てて、その西日の方に向く。
「ああ思い起こせば、この甲子園球場の通用口からそのまま競輪場に送り込んだ人身御供は限りがない。昭和三十八年、のちの黒い霧事件池永と投げ合った明星高校・大野川、昭和四十四年、三沢太田に引導を渡した松山商業豪打の山之内、昭和四十八年、作新学院怪物江川に暴投を放らせた銚子商業・山屋、やつらはすべて青春の蹉跌を背負ったまま、甲子園競輪場の門をくぐり、真剣勝負という幻を追い、そのイリュージョンに敗れて寂しくスポーツ選手の幕引きをやることになった」
「そんな・・・、競輪が甲子園球場の掃きだめであるわけがない」
「いずれ、お前にも分かるときが来る。甲子園競輪場が廃墟となって、その剥き出しのコンクリートに掘削機のピストンが打ち込まれるとき、鳴尾浜の潮風にその無味乾燥な重低音が響いたとき、お前は真剣勝負という名のおどろおどろしさと、その終焉を知る」
「何だ、それ、競輪は自分の脚だけで稼ぎ出す力だけの世界だ、ほかには何もない」
「退場!」
 清之助が突然右手を差し出して大声を出したので、ぼくは驚いて絶句する。
「退場!退場!退場!」
「・・・・・・」
「なーんて、言われたわけだ、お前はこの前、自転車振興会の職員から。バカ客にバカ競輪選手が大声で食ってかかって。・・・・・・ああ、“退場”やりてえなあ。やっぱり審判の花だからな、退場は。高校野球じゃ、めったにこれがやれん、不満だ。十年はやっとらん。食ってかかって来いっちゅうんじゃ。高校生の分際でジャッジに文句言うなど、テメエ、十年ハエーンじゃ、とかね、ああ言いたいなあ、ああムササビだ、ムササビ。ムササビがほんの一しきり鳴いたんだ」
 清之助はまたアンパイヤの定位置から前へ進み出て、叫び始める。
「ホームベースとバッターボックスのわずか十五センチの隙間にムササビが鳴く。キエー、キェーと飛膜を広げて、今日もオレの空虚をせめる。グエン・フォアン・トンの父親は南ベトナムの警察官だった。新政権の粛正の嵐の中、一家五人は五メートルの手漕ぎボートに乗って、一九八五年サイゴンの港を船出した。佐世保商船高校のキャプテン東谷次郎の父親は第七管区海上保安本部、巡視艇『ひらど』の船長だった。五島列島沖、九月の嵐の中、『ひらど』は高波に木の葉のようにもてあそばれる手漕ぎボートを見つけた。ボートの中では水も食料も切れ、飢え死に寸前の両親と子供三人があえいでいた。母親は妊娠中、すでに臨月だった。救助・保護した長崎難民収容所で生まれた子供がグエン・フォアン・トンだった。ストラーイク!」
 ピッチングマシーンとホームベースの間のスペースに入り込み、清之助は体でアクションしながら喋り続ける。
「ああ、今日も甲子園アルプススタンドに入道雲がたなびく。第七十三回全国高等学校野球選手権大会準決勝、姫路天守閣高校のピッチャー・トンの投げた速球は佐世保商船主将東谷のバッターボックスの直前を通り抜けた。十八年前、嵐の東シナ海から拾い上げられた子供が投げ、拾い上げた巡視艇船長の息子が打つ。九回裏二死満塁、得点三対二、姫路天守閣一点リード。トンの両親は姫路の染色工場の釜の前、手を真っ青に染めながらラジオで息子のプレイを聞いた。東谷の父親“ひらど”船長東谷勇吉は佐世保市民病院のベッドの上でテレビから流れる実況を耳にする。勇吉は過度の難民保護によって海上保安庁を失職し、失意のうちに自殺未遂を起こし、すでに意識はない。それでも息子の名前を聞くと、涙を流して反応する。ストラーイク!ああ、ムササビが鳴く。ストラーイク!ストラーイク! お前ら満足か、ドラマを作って満足か。ボール!ファウルボール、チップ、チップ、ファウルボール!ストラーイク!スイング、バッターアウト!」
 ワイシャツの背中に汗のシミをくっきり浮かべながら、ツクツクボーシの蝉しぐれの中、清之助の異様なコールが続いた。
「兵藤さん」
 暑い中、ダークスーツを着た二人の男がアンパイヤセンターの入り口に来ていて、無表情に兵藤の方に声を掛ける。そばにはサキがいつものようにホウキをチリトリ持って困惑の表情で立っている。
 相変わらず「ストライク、スウイング、バッター、アウト」を繰り返している兵藤にはそれが分からない。
「兵藤さん」と言いながらスーツの男二人は兵藤の後ろのネット脇まで寄ってくる。兵藤も「あん?」と言いながら「ストライク」の手を止めて振り向く。
「兵藤さん、お分かりですよね、エクスタシーローンの渡辺です。これで三度目ですよ、兵藤さん。月々のもの返してもらわないと、我々も困るんでね」
 男は金網の後ろから静かに言う。水本サキはスーツの男の後ろでホウキとチリトリ持ったまま、不安そうに見ている。
「ストラーイク!きみの言うことは正しい。クレームつけなくても分かってるよ」
 清之助は白手袋のこぶしをスーツの男に突きつけながら、力ないストライクコールをした。

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