奈良林さんのアドバイス

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  4章 家庭訪問  

 「やっぱりコラージュ・キュービズムていうのは破格のところがあるわよね」
 「・・・ああ」
 「初期のキュービズム、ブラックやピカソの作品をじかに見ると、当時のヨーロッパ人たちの驚きがよくわかるの。でも、キュービズムからフォービズム、フォービズムからアブストラクト・アートへの流れっていうことを考えると、やっぱり、ほら、コラージュ・キュービズムの役割っていうのはやっぱり凄いのよ。さっきのコンポジション見ると、ほら、無造作に四角が二つ書いてあるだけみたいだけど、でもよく見ると、この位置でこの黒と赤でないとダメってわかるじゃない」
 「はあ・・・」
 「はあって・・・、そう思うでしょ?」
 「・・・そうかなあ」
 「そうかなあって・・・、じゃあ、ほかにあると思うの? あの位置で赤と黒の四角以外に何かある?」恭子は首を斜めにしたまま、ぐっとこちらに近寄ってくる。
 「いやあ・・・」
 「何かある?」
 「いや、そう言われると・・・」言葉に詰まって、腕組みをして下を向く。「・・・あっ、いま気がついた」顔を上げる。「うん、ない。確かに、ない。・・・へえー。不思議なもんだね。さっき見てたときは、こんなもの何でもいいじゃないかって思ってたてけど、へえー、よく考えてみると、ないね。確かに。・・・やっぱりあの位置であの色じゃないとダメなんだ」疲れてきた。
 「でしょ」恭子は安心したように背中をソファーに戻す。「わたしも実はね、そう思ったの。あんなもの何でもいいんじゃないかってね。でも、ほら、よく考えると、ダメでしょ。あの斜め六〇度のあの配置で、あの赤と黒でないとダメなのよ。絶対そうなのよ。そこが凄いわよね」
 「・・・」
 目の下には池袋の駅のホームの屋根がずらっと並んでいて、その向こうにはデパートの屋上のミニ遊園地も見える。
 石田恭子の方が見たいと言うので、このビルの美術ホールで丸や四角のやたらに出てくる子供の貼り絵のような絵を見て、彼女はときどき腕を組んで、“さもあるべき”という感じでうなずいたりしていたが、ぼくは彼女が二枚の絵を見る間にホールを一周できたので、“キーポイントは腕振りだ”という競歩の解説の一節を思い浮かべていた。
 「例えば、カンディンスキーの作品見ると、ロシア未来派との関係抜きには語れないし、それはデュシャンに対するフォービズムの影響ということでも同じだと思うの・・・」
 「・・・」
 彼女の美術史講義の間に、半分残っていたマイルドセブンが空になる。コーヒーは二杯飲み干して腹がだぶついてくる。このタバコとコーヒーと意味のないあいづちの一時間になぜ耐えられたかというと、理由がある。自然界の法則には、すべてそれに足る原因がある。ライプニッツもそう言った。池袋からぼくの下宿のある大塚が近いということが原因である。ライプニッツもそれが原因だと言った。池袋から大塚が近いという事実が、マイルドセブンをむやみに吸わせ、コーヒーを二杯飲ませ、“はあ”とか“ああ”とかいう民謡の合いの手のような返答を強いたのである。 美術ホールのあるデパートを出て、首都高速の下をくぐり、サンシャインビルの横を通る。
 「だからあの頃のキュービズムのアーティストたちっていうのは、そういう形態を打破するっていうこと、それはのちのタダイズムっていうのとは異質だとわたしは思うんだけど・・・、ところで、どこ行くの?」
 「うん?」
 「どこか目的地あるの?」
 「いや、別にないんだけど・・・。あっ、そう言えば、ぼくの下宿ここから近いんじゃないかなあ」
 「へえ・・・。だから、とにかく、何て言うのかなあ、あの頃のアーティストたちっていうのは、そういう何ていうの、新しいアートへの胎動っていうの、そういうのがうごめいてたのよね、心の中に」
 “うごめいていた” ・・・? ぼくの頭が突然真っ赤になった。“蠢めく膣”が蘇ってきた。小学校六年生のとき、父親が投げ捨てていた、どぎつい彩りの雑誌を押し入れの奥で見つけて、その表紙に赤い大きな字で“蠢めく膣”って書いてあって、これは“ムシめくムロ”だとてっきり思って、部屋に持ち帰って、辞書を引いてみたが“ムシめく”なんていう言葉は載っていない、“ムロ”は載っていたが、“食物を保存する所”とかって書いてあって、“いや、違う。そんなんじゃないはずだ”とそこのところだけは鋭敏な勘が働いて、姉の机からそっと漢和辞典を持ってきて、初めて読み方が分かったあの「蠢めく膣」、あの「蠢めく膣」が蘇ってきたのだ。
 「ちょっと寄って行こうか?」
 「何?」
 「ぼくの下宿。ここからすぐだから」何気ない口調だ。よし。口元にほほ笑み。そう、ほほ笑み、ほほ笑み。よし。いいよ。さわやか。いいよ。
 「・・・いいけど」
 ハハハ。いけるじゃないか。
 サンシャインビルの横から春日通りをぬけ、空蝉橋を渡ってアパートを目指す。ときどき横を見ると、話し続ける女がいて、この女の下を見ると、コートの下から足が出ていて、当たり前だ。当たり前だけど・・・。あっ、また、頭の中を“蠢めく腟”の真っ赤な幟を立てた小人が走り抜けた。生唾が大きな音を立てて喉に入り込んでくる。
 「ハハハ」ぼくは相変わらずさわやかに笑う。下宿に来るっていったって、それは友達としてなんだから、友達がお互いの部屋を行き来するのは自然なことなので、「ハハハ」何をそんな大袈裟な。「ハハハ」
 ぼくの部屋はコンクリート通路の続きの靴脱ぎ場が半畳ほどあって、そこから三〇センチぐらい高くなって六畳(正確には五畳半)のたたみの間になっている。恭子はその段になったたたみの端に腰掛けた。
 「汚くしてるけど、まあ上がって」先に立って部屋の中央まで来て、コタツのまわりに座布団を敷く。恭子は、体は横向きのまま、首だけ回して部屋を眺めている。
 「さあ、どうぞ」席の割り振りをしようとしていたが、中腰のまま所在がない。
 「ううん、ここで結構」
 「結構って・・・」
 「へえー、こういうものなのね、男の人の部屋って・・・」
 いや、男の人の部屋はいいんだけど・・・。 「そこじゃ、なんだから・・・、とにかく上がって」と言いながら、座っている恭子の上から開いたままの引き戸を閉めようとした。あとから入ってきた恭子が当然閉めるだろうと思っていたが、その気配がなかったからだ。 「あれ」戸がうまく閉まらない。普段はよく閉まる戸なのにおかしい。うん? 下を見るとレールの上に恭子のローファーシューズが乗っかっているではないか。
 「あ、ちょっと、足どけてくれる?」
 「え」
 「足」ぼくは恭子の足を指さす。「どけてくれる? 戸閉めるから」
 「ああ、・・・開けといて」
 「・・・?」
 「へえー。こんなところに住んでるのね。男の人って・・・」
 「開けといてって・・・」声が小さくなる。たしかに突き当たりの部屋だけど、でもこれじゃあ、向かいの部屋からだってまる見えじゃないか。・・・やめてくれよ。首が、夕暮れの街を歩くジャンバルジャンのようにガクッと落ち込む。
 「・・・ああ、そうなの。・・・このコタツが机代わり。へえ・・・」
 開け放された上がりがまちに座った女がいて、この女は勧められた座布団さえ敷かず、首を動かしてあたりを見回し、“あれは何? これは何?”タイムスリップした縄文人のごとく質問し続け、横にはかしこまり、額のあたりをこすりながら説明している男がいて・・・、さっきから思ってたんだけど、そう、これは家庭訪問の図だ。玄関に座っている小学校の先生と、家庭のことを一生懸命説明している母親の図だ。
 「・・・そう、これが流し。・・・うん、確かに狭いんだけど、・・・でも、結構ご飯炊いたりもするけど」
 「・・・そう、寝るときはこのコタツどける。・・・ああ、フトンはこの押し入れの中」 「・・・そう、暗い。・・・いや、一日中こう。去年隣にアパートが建ったから」
 どうしてこんなにまで事細かく事情説明しなきゃいけないんだ。・・・警察の取り調べか。・・・お前は刑事か。泣きたくなってきた。
 「なるほど。これが男の人の部屋なのね。・・・ありがとう。・・・あ、いいの。駅はさっき通って、分かってるから」
 先生は立ち上がり、出て行かれた。わずか一〇分足らずで家庭訪問は終わった。


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