奈良林さんのアドバイス

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  3章 風が吹いてるの  

 下宿のある大塚から山の手線をぐるっと半周して、田町の駅に着く。そこから倉庫の立ち並ぶ運河伝いをテクテク歩く。週に三日はここに来る。スーツにコートのサラリーマンの一団の中で、ジャンパーにジーパンはいて、軍手をはめた両拳にフーッと白い息を吹きかける。この瞬間がいい。なんかスカッとしている。さあ、これから一日、若者が生活のために働く。ほとばしるエネルギーをこの体に託して、今日一日の糧を得る。むずかしい事はわからねっス、あんまり考えたことねっス、でもこの貨物船がホーン岬を越えたって分かったときは、ペンギンの群れの向こうにダーウィン山脈が見えたときは、涙が出たっス。・・・何のこっちゃ。
 芝浦埠頭まであと少し。ポケットに両手を突っ込んで、海からの朝風を受ける。肉体派である。今日はどこの船が相手だ。
 埠頭の手前で肉体派が左折して、とあるビルに入り込む。ウン? 相手の船はどこだ?
 「はい、今日は電気カミソリのタグつけね」
 主任のおばちゃんが、タグのぎっしり詰まったダンボール箱を机の上にドスンと置いた。 「えーっ、またかよ」
 間髪を入れず、ぼくらアルバイト三人の嘆声が飛び出す。芝浦埠頭の手前まで来て、バーレーンの砂嵐もキンシャサのスコールもすぐ手が届くところにあるっていうのに、何でいい若い者が、ひがな一日テーブルに向かって“下げ札結び”しなきゃいけないんだ。
 外資系電気機器メーカーの荷下ろし配送業務ということで、アルバイト情報誌に出ていた。それで山口と一緒に応募した。面接のときも“仕事きついけど頑張れる?”と訊かれた。きつくはなかった。船からの荷下ろしも配送も専門の人がいて、ぼくらはパートのおばちゃんたちの横に座り、ドイツ語のタグを日本語のタグに付け変える作業を主な仕事とした。
 それでも、あるがままの状態から出発する。腕を組み、イナゴの食い尽くしたトウモロコシ畑を眺めて“ここからだ”と呟く。三人の開拓農民は、夕日に向かって静かに目を閉じ、日焼けした顔をほころばせる。
 まずパートのおばちゃんたちの子供の成績話と芸能界噂話から身を避けるために、ジリジリとテーブルを離すことを試みる。そしてある日、おばちゃんたちの席との間に商品の段ボールで二重の壁を作ることに成功する。倉庫はだだっ広かったが、隣の部屋にいるような気分になれた。
 商品の搬入はだいたい一週間に一度だったので、三日目、四日目ぐらいになると、フロアーのあちこちに隙間ができる。この隙間を有効利用できないかと鳩首協議を巡らす。段ボールの切れ端とピン球と商品の壁を利用したラケットボールが提案され、リーグ戦方式と各人の日当の一〇分の一を拠出した賞金制度という改良が加えられ、採用される。早く言えば“賭けラケットボール”である。一日中ラケットボールのことで頭が一杯になった。バイトの合間にラケットボールをやるのではなく、ラケットボールの資金を集めるためにだけバイトしているような気分になった。
 搬入されてくる商品は、わざわざドイツから送られてくるんだから勝手に持ち帰ってはいけないだろうということでは、大体見解が一致していた。このあたりは三人とも大学や専門学校まで行っている常識人だからすんなり結論が出た。しかし地下の返品倉庫の商品については見解が分かれたので、この見解の統一を試みた。山口は“返されてきた商品なんだからゴミと一緒だ”という過激な意見を主張したが、“ちょっと待て”と穏健派のぼくと専門学校生の谷村が押しとどめ、鳩首協議となった。われわれは鳩首協議が得意である。その結果、鳩首三人は返品についても厳しい自己規制を課した。
 一、それ(返品商品)がポケットに入る大きさ以下の物であり、かつ、
 二、返品処理者は、あくまで返品処理者であるのだから、当然“そのために”通ったのではなく、あくまで“偶然”通りかかったのであり、かつ、ここが大事なところだが、  三、返品処理者が、“故意に”飛び出させたり、あるいは現実を歪曲して“飛び出している”と解釈するのではなく、あくまで返品商品の方から“自主的に”“現実として”段ボールの外に飛び出している
 という、この三つの条件を満たしている場合に限りゴミとみなしてよいという厳しい規制を敷くことになった。
 こうして働きやすい職場作りは一歩一歩進んでいく。でも何か足りない。何か芯の部分で穴が空いている。テラスに座った女が長い髪を掻き上げて、“風が吹いてるの”と呟く感じだ。
 ぼくは倉庫の高い窓から冬の空を見上げて、溜息をつく。
 昼飯は地下の社員食堂で食べた。このビルは首都圏の配送センターとなっているので、昼飯時は大変な混み具合であるが、この食堂でかわいい子をみかけるということを谷村が言い始めた。
 「どれ?」
 テーブルの上のカレー皿を乗り越えるようにして、ぼくと山口が谷村の方に顔を寄せる。 「うん?」
 カレーを食べていた谷村は、急に近づいてきた二つの顔に驚く。
 「“うん”じゃないだろ、どれ?」ぼくらは、短いが、鋭い叱責を谷村に浴びせる。
 「え・・・、ああ」
 谷村はその気配に慌てて周囲を見渡す。
 「ああ・・・、あれ、あれ」とスプーンで指し示した。
 磁石に導かれる砂鉄のように、ぼくら二人の顔がスプーンの先に吸い寄せられる。
 子羊は白いセーターの上に紺のエプロンをしてレジに座っていた。
 「・・・」
 ぼくらはカレー皿に視線を戻す。カレーの残りをつつきながら沈思黙考する。しばらくすると横の気配に異常を感じる。山口が頷きだしていた。あっけに取られて見ていると、振幅はすぐに極大に達し、ラジオ体操第二の“首の運動”のようになる。
 「とりあえず、キッカケ作ってくる」
 山口が立ち上がる。ぼくと谷村は口を半開きにしたまま、そのうしろ姿を見送る。
 山口は本当にレジのところまで行き、子羊と言葉を交わして帰ってきた。席に着くとタバコに火をつけ、うまそうに天井に向かって煙を吐く。口元には笑みまで浮かべている。 「何だって・・・?」ぼくと谷村が山口の顔を覗き込む。
 「え・・・?」山口が横目でこちらを見る。まだ薄笑いを続けている。
 「“え”じゃないだろ。・・・何だって? 彼女」谷村が入れ込んで訊く。
 「ああ・・・、“はい、わかりました”って」山口は言ったあと、ククと含み笑いする。 「わかりましたって、何が分かったんだ、何言ったんだ」谷村がさらに身を乗り出したとき、ウェートレスがホットミルクを三つ運んで来た。
 「何だ、このホットミルク、なんでこんなものが来るんだ・・・?」谷村はキツネにつままれたような顔になる。
 山口はホットミルクに砂糖を入れて、鼻歌まじりでかき混ぜている。
 「ホットミルクは、か・ら・だ・に・い・い・ん・だ」メロディーをつけて言う。
 「オレのおごりだから、どんどんやって」手振りまでついた。「オレのこと知ってるって・・・、クク、一階にいるでしょって・・・、ククク」ホットミルクを見つめてほほ笑んでいる。薄気味が悪い。
 「名前は何ていうんだ」ミルクをグイッと一口飲んだ谷村が不機嫌そうに尋ねる。
 「うん? なーに?」
 「なーにじゃねえ、この野郎、気持ち悪い、・・・名前は何ていうんだ?」
 「ああ、名前か? ・・・“宮下”かな、そう呼ばれてたから」
 「へえー、宮下カナっていうのか」谷村が頷く。
 「う?」浮かれていた山口が一瞬言葉に詰まる。
 「・・・宮下カナちゃんか、・・・うん、かわいいよな」谷村は再び頷いた。


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