奈良林さんのアドバイス

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  5章 創意工夫  

 バイトのない雨の日は、本を読む。本を読むのに飽きると、テレビを見る。テレビを見るのも飽きると、両腕を枕に天井を見る。
 「・・・うん?」
 目の端にチラッと陰毛が見えたような気がした。驚いて上体を起こしたが、そんなものがあるわけがない。悲しかった。教室の前に立たされて、“女の股ぐらのことばっかり考えてる奴はこいつだ”と差し棒で指されたような気がした。また天井を眺めて嘆息する。 「うん? ・・・でも」やっぱり見える。首を折り曲げるようにして見ると、それはTシャツの袖口から見えるぼくの脇毛だった。「へえー」と感動した。こんなに身近なところにこんなにイヤラシイものがあったのか。「グフフフ」と思わず含み笑いが出た。
 ぼくは毛の薄い方なので、斑にしか生えていなかったが、それがかえって卑猥さを増していた。
 “ねえちゃん、ススキっ原やでェ”
 “オネガーイ、やめてェ”
 “やめてって言われてもな、やめられへんねやで。あんたのお父ちゃんがな、借金作り過ぎたんが悪いんや。かわいそうにな”
 こういう非常時になると、自然に関西弁が出てきて、しかもスムーズに二役をこなせる。誰にも教えていないから隠れてはいるが、こういう方面での(どういう方面かよくわからないが)ぼくの才能はかなりのレベルに達しているはずだ。
 ホンノリだが、匂いもついている。もっと強烈な匂いだったらどんなに素晴らしいだろうと思うが、そう贅沢も言っていられない。
 ただ、この申し分ないと思える“脇毛陰毛”にも重大な欠陥があった。皮を手繰り寄せて正面から見ようとしても、よく見えない。無理に見ようとすると、あまりの不自然な態勢に首がつるのである。それに横目を長く続けるので、目がおかしくなる。
 しかし解決策はすぐ見つかった。創意工夫の精華である。考える葦の勝利である。こう見えたって、だてに勉学を重ねてきたわけではない。まず洗面用の手鏡を正面に置く。その鏡の向こうから、スタンドの光がちょうど脇の下を照らすようにセットする。部屋の電気を消し、手の平を後頭部に置き、顎を肩にうずめる。ちょうどマリリン・モンローのポーズだ。手鏡の中にスポットライトに照らされた“陰毛”が浮かび上がる。マジックで“陰毛”の中に筋を一本入れるという演出効果ももちろん忘れない。
 また“悪徳金貸し”と“非運の娘”の登場だ。
 “どや、ええやろ”
 “ああ、お願い、もう堪忍して”
 “・・・そやけど、ヘヘ、ここは堪忍してとは言うてへんで”
 マジックの黒い筋をゴシゴシこする。
 “ああ、やめてくださーい”
 女の叫び(のようなぼくの声)が、欲情のルツボと化した電気スタンド劇場に響き渡る。金のために身を委ねておきながら、おぞましい男のオモチャになりながら、老練なテクニックに快楽の奈落に落ちていく。
 “・・・ああこの体が、ああこの体が憎ーい”
 電話が鳴った。あわてて電気を点けようとして、コタツの端で脛を打つ。「イテェー」と叫びながら電気を点けると、脇のあたりは拡散したマジックで真っ黒だ。・・・ほんとに、一体、誰だ。
 今年の春取り付けた電話はスチール製の本棚の一番下に置いていたので、呼び出し音が鳴ると部屋中に響き渡る。すぐ横で鳴るとびっくりするので、いつも座布団をかぶせている。
 「・・・はい」座布団の下からモゾモゾと受話器を取り出す。部屋のどこにいたって一回の呼び出し音で出ることは可能なのだが、あまり悔しいので最低三回は待つことにしている。
 「元気?」明るい女の声だ。
 「誰?」
 「誰でしょう」ぼくの電話番号を知っているような女はそうはいない。少なくともこんな馴れ馴れしい電話を掛けてくるような女はいない。
 「・・・えっ、誰?」
 「フフ、・・・さて、わたしは一体誰でしょう」ふざけた女だ。
 「誰だ。 はっきり言えよ」腹が立ってきた。
 「フフ。・・・中村リエ。・・・憶えてる?」
 「ああ・・・」と言って言葉に詰まる。高校時代、同じクラスにいた女だ。取り立てて美人ではなかったが、男子にも気軽に話すので人気はあった。卒業のとき、関西の短大に行くと聞いていた。
 「今度、就職試験受けに東京行くの」
 「・・・ああ」
 この中村リエとぼくは二人で生物の実験準備係になっていたときがあって、放課後生物室に残ってザリガニの観察をしていたとき、急にぼくに顔を近づけてきたので、キスしたことがある。ぼくにとってはファースト・キスだった。てっきり、こいつはオレのことが好きなんだと思ったが、その後先輩と付き合ってるという噂も聞いたし、卒業間際には体育の教師とできてるという話まで流れていた。
 「でも、就職試験ていうのは口実でね、ほんとは東京に遊びに行くつもりなんだけど・・・、泊めてくれる?」
 「・・・うん?」
 「来週の火曜日なんだけど・・・、体で返すから」
 「え?」
 「お礼は体でするからね」
 「ああ・・・、なるほど・・・、ははは・・・」
 切れ切れに乾いた笑いが漏れる。電話を切ったあとも、“体で返す”というゴシック体の太字が部屋中を飛び回り、ぼくは腕組みをしてコタツのまわりを徘徊する。脇毛陰毛のことも、したたかに打った膝の痛みも雲散霧消している。・・・うーん、大変なことになった。

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