奈良林さんのアドバイス

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  2章 王手飛車  

 日曜日の朝。昨日からの雨も上がって、晩秋のさわやかな休日になりそうだ。部屋は、朝になったって昼になったって真っ暗だけど、隣のアパートとの三〇センチほどの隙間の光でそれが判断できる。人間、慣れとは恐ろしいものだ。
 近くに住んでいる山口がいそいそとやって来る。ぼくがフトンから上半身を起こして眠気を覚ましている間、スイッチの入ってないコタツに足を入れてじっとしている。ときどき「あれは、ええーっと、・・・でも人間と人間のぶつかり合いだから」などとわけの分からない独りごとをブツブツ言いながら、灰皿の吸い殻をマッチのじくでつついている。 「やろうか?」頃合をみて、山口が上目使いに言う。
 「・・・」ぼくが黙っていると、山口もまだ時期尚早だと判断して、“吸い殻つつき”を再開する。だいたい来るのが早すぎるんだ。農家の手伝いじゃないんだから、九時前に来るな。ぼくは髪をかきむしり、タバコを掴み出し、空になった箱を握りつぶす。そのけんまくに気圧されて、山口はますます小さくなる。そっと流しに立ち、山口は湯を沸かしてコーヒーを入れる。他人の部屋なのに、コーヒーカップのあり場所も、スプーンのあり場所も全部知っている。一つをこちらにそっと差し出したあと、自分の分をあったかそうにすする。
 「オイシイ」と小さく呟いている。気持ちの悪い奴だ。
 「そろそろ・・・」ぼくの顔を覗き込む。「やろうか?」二度目の打診である。
 コーヒーで大分目が覚めてきた。目をこすりながら立ち上がる。
 「やるか・・・」
 何をやるかというと、将棋をやる。ぼくの承諾を受けて、山口はそそくさと押し入れを開け、将棋盤を取り出す。バカに手際がいい。来てから今までの遠慮はなんだったんだ。 一局や二局ではない。続けざまに十数局やる。山口の近くのこのアパートに越してきて二年、おかげで将棋はずいぶん強くなった。
 同期に入学した人間たちは、そろそろ来年の就職活動を意識し始めているというのに、ぼくら二人の留年組には関係がない。特に山口の方は、はっきりとは言わないが、もう卒業の可能性がない様子だ。演劇に没頭しているとか、学生運動にのめり込んでいるとかという積極的留年ではない。とにかく授業に出ない。学校の近くまで行っても、パチンコ屋や映画館の方にスーッと入っていく。雨の日は決してアパートから出ない。その怠惰な男が、どうして将棋にだけはこんなにファイトを燃やすのか。
 「あそこで飛車成っちゃダメなんだよ。・・・ダメって知らなかった?」
 今日は調子が悪い。続けざまに負ける。逆に山口はすこぶる機嫌がいい。
 「へえ、知らなかったのか。あれはダメなんだ、王手飛車があるんだよ。定跡教えとこうか?」山口は駒を並び変えようとする。
 「いい」
 「いいって・・・」
 「教えていらない」
 「教えていらないって・・・、困るだろ? 次の時だって。あそこはねえ・・・」山口はなおも、その王手飛車の局面に駒を戻そうとする。
 「いい」ぼくは山口の手を将棋盤から払いのけて、次の勝負に向けて駒を並べ始める。 「勝ったときにはなあ」下を向いたまま、ぼくが呻く。声が震えている。「勝ったときには相手を誉めるもんなんだぞ」
 「うん? 何だ?」明るい声だ。
 「何でもない」ぼくは俯いて駒を並べ続ける。
 「え? 何か言っただろ? 何だ? やっぱり定跡教えとこうか? ほら、今後のこともあるし・・・」また駒を並べ変えようとする。
 「勝ったときには、相手のよかったところから感想を言うものなんだ」顔を上げて怒鳴る。「それがエチケットなんだ」
 「・・・あはあ、いや、そうか、それを怒ってたのか、そうだよな、そうだったよな、すっかり忘れてたよ、誉めなきゃいけないんだ、ええーっと、よかったところね、・・・エチケットだからな、ええーっと、・・・そうそう、・・・すごい粘りだったよ、びっくりしたよ、普通は諦めるよな、あそこまでくると。びっくりしたよ。ほんと、よく粘ったよ」
 シ・メ・コ・ロ・シ・テ・ヤ・ル。ぼくの唸り声が六畳の間に低く漂う。
 二一才。晩秋の休日。

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