奈良林さんのアドバイス

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  1章 宿命  

 大学の本部の図書館は天井が異常に高く、白塗りの壁はところどころ剥げ落ちてるけど、部屋の広さが細かい音を吸い込んで、神経を落ち着かせる。閲覧窓口に行く。ぼくの申し込む本は決まっている。ヘーゲル全集全一三巻。これが最近の愛読書。なんといったって、人間は哲学なしで生きていけない。
 両脇に抱えられて、ヘーゲル全集全一三巻が大閲覧室の中央通路を通る。“右にジュリスト、左に六法全書”の弁護士の卵たちをかきわけて進む。一番奥の、へこみの部分にたどり着く。巨大な柱の陰になった閲覧室の忘れられた一角である。まず全一三巻を二つにわけてうずたかく積む。つぎにこの二つの山の間隔を、あごを乗せて両ひじを張ったときの長さに調節する。広すぎても狭すぎてもいけない。
 まず第一巻の第一ページだ。ウーン、なかなか難解だなあ。でも驚かない。そんなことは予想どうり。かえってファイトが沸いてくる。

  一般に悟性は規定し、またその規定を固執するのに反して理性は悟性の諸規定を無の 中に解消するものであるから、理性は否定的、瓣証法的普遍であり、かつこのような精 神の運動、即ち自分の単純性のカテゴリーにおいて、特殊はその規定の働きとその解消 の中で、すでにその役目を終えたのである。

 ウン? 何か終わったのか? 何か終わったんだよなあ。終えたって書いてあるんだから。さあ、もう一回読んでみよう。もう一回読めば分かるはずだ。

  一般に悟性は規定し、またその規定を固執するのに反して理性は悟性の諸規定を無の 中に解消するものであるから・・・

 アレ、変だぞ。どうしたんだろう? なんだか活字がぼやけていくような。なんだか意識が遠のいていくような。アレ、おかしい・・・。
 一ページの三分の一を読んだとき、安らかな午後の眠りがぼくを包む。何回チャレンジしても、この第一巻第一章の壁を越えられない。呼べど答えぬシオンの丘。せっかく一三巻全部借りてきたのに・・・。でも、これが結構気持ちいいんだよなあ・・・。眠っちゃいけない。お前は今日も挫折するつもりか。頭の中の検閲官がカネを鳴らして、“何て意志の弱い奴なんだ”“あっ、また言い訳探してる、イクスキューズの人生か”自虐のほむらがメラメラ燃え上がり、・・・ああ、でも、ヨダレが出る。ああ、・・・この背徳の眠り。

 暫く経ったとき、突然隣の席からのドスンドスンと本を机に叩きつける音がした。それは明らかにこちらの眠りを意図的に妨げようという悪意に満ちた音である。かろうじて片目を開けると、“ヘーゲル全集の山”の向こうに石田恭子の顔がかすんでいる。目が覚めた。
 ただの女ではない。一年生のとき・・・、あっ、また。喉の奥で、無意識に嗚咽が起こる。今でも思い出すたび、この下唇を食いちぎりそうになる。ただの女ではない。本当にただの女ではない。首を上げ、垂れ落ちているよだれをグイッと拭う。
 ぼくはそのとき、御茶ノ水の駅に立っていた。固い約束だった。一週間前にも、三日前にも電話した。
 「ロシア語TクラスのNだけど・・・」東京に来てはじめて掛ける女の子への電話だった。
 「Nだけど・・・」話したことはなかったけど、彼女のことはクラスの中で一番かわいいと思っていた。「・・・わかる?」
 「うん、わかる」彼女が素っ気なく答える。
 「え?」
 「わかるよ」
 「・・・そりゃ、わかるよな」電話のこちら側で小さく頷く。「同じクラスなんだから、うん、わかって当然だ。・・・驚くことはない」
 「何か・・・」
 「ああ、・・・映画なんだけど」
 「・・・」
 「ロシアの初めてのトーキー映画で、なんとかっていう革命家のセミドキュメンタリーなんだけど、ロシア革命時の教育理論の実践が主題になってる。そのなんとか理論が革命の混沌のなかで挫折して、でもその挫折のなかで、何かこう、もっと大きな運動っていうか、そういうものとして花開いていくっていうねそういう映画なんだ」
 「はあ・・・」
 「有名な文学者とか芸術家もその運動のなかでたくさん育ってきたらしい。まあ端的に言えば革命と挫折の映画っていうのかな。ああ、映画の方にも影響与えてるらしい。ただし映画の方では呼び方が違って、何とか映画運動っていうらしいけど。まあロシア語の勉強にはなるかもしれないし、でも初期のトーキー映画だから音は悪いだろうけどね。トーキーっていっても水ノ江滝子じゃないよ、あれはターキーだからね、ハハハ、えっ、知らない? 水ノ江滝子?」
 恭子も地方出身だったので、ぼくは東京区分地図を見ながら丁寧に岩波ホールの場所を教える。
 「地下鉄で行けば便利かもしれないけど、うん、地下鉄だと神保町という駅があるんだ。これは近い。これは近いけど、欠点がある。ぼくがよく知らない。だからこういう場合は、こういう場合ってのは、つまり二人で待ち合わせをしても、一番早い行き方をよく知らないっていうような場合だけど、JRがいい。何といったって、JRには、ほら、いざとなったら帰って来なさいみたいな、何ていうのかなあ、愽奕打ちの女房みたいなところがあるじゃないか・・・」
 ぼくは御茶ノ水の駅の階段に腰掛けて二時間待った。
 「御茶ノ水には改札口が二つあるんだけど、御茶ノ水橋口っていう方だよ。ダラダラって下りていくと明治大学があるんだけど、とにかく目の前にスクランブル交差点っていう、スクランブル交差点ってわかる? 青になった途端、人が思いがけない方向から来るあのスクランブル交差点。正面向いて待ってても、斜めからも人が来る。横からも人が来る。とにかく、不意を突かれる。人が八の字になって歩き出す。でも、この前考えたんだけど、こっちから不意を突いてもいいんだ。正面向いて待ってて、だから向こうの人間はこっちに向かって歩いて来るだろうと思ってるだろうけど、青になったとたん横に歩き出してもいいんだ。つまり前へ行こうと思って正面向いて待ってるっていうのが、普通の交差点だけど、斜めに行こうと思って正面向いて待っててもいい、横へ行こうと思って正面向いて待っててもいい、横へ行くんだけど、それとは関係なく正面向いて待ってるという、何て言うか、目的のための準備でなくてもいいっていうか、一生懸命試合はするんだけど、それとは別に勝負はジャンケンで決めるみたいな、“なあーんだ、じゃあジャンケンだけ強ければいいんじゃないか”みたいな、“いままでの練習は一体何だったんだ”みたいな、つまり何て言うか・・・」
 「何かよくわからないけど、御茶ノ水橋の方ね」
 ぼくはしゃがみこんで、人が不意を突いて渡って行くのをながめ続けた。何度電話しても恭子は留守だった。パチンコをして、ハンバーガーを食って、帰るとき新宿駅で恭子に会った。一人じゃなかった。
 小田急デパートの壁がオレンジ色に輝いていて、案内のアナウンスが続き、人がひっきりなしにホームを移動していた。偶然ていうのはある。ぼくが乗ろうとした外回りの山の手線から恭子の一団が下りてきた。恭子は凝視しているぼくを見つけて、「あら」と声を出す。流線形の説明図のように、電車に乗り込もうとする人の流れが二人のまわりで迂回していた。恭子は押してくる後ろの人間を気にする。
 「・・・急にサークルのミーティングが入っちゃって」ぼくの方に向き直る。「映画どうだった?」平静な顔で訊いてくる。
 ・・・なんだと
 ぼくが拳を握って一歩前に出ようとしたとき、二人の間に堰を切ったように乗客がなだれ込んで来た。
 「じゃあ、また」
 人混みの中で微かにそれだけ聞こえて、恭子はグループに帰っていった。満員の電車が出ていったあと、ほくは乗客にはたき落とされた東京区分地図を拾う。この女だけは一生許さないと思った。
 その一生許されないという宿命背負った女が、一人の男の怨嗟の炎を背負った女が、こっちを向いてほほ笑んでいる。何だ、何か用か。
 あれから二年。自慢じゃないが、ぼくは教養課程の段階で早くも留年が決まっていたし、ロシア語に挫折して、露文専攻も断念していたので、顔を合わすことはほとんどなかった。恭子は紺のブレザーに金のネックレス、うっすら化粧もして、しばらく見ない間にずいぶん大人びた。
 ぼくはようやく首を起こし、体勢を回復する。こういう場合、意表を突かれたことを悟られることが一番良くない。しかし、そのとき、「ああ・・・」という寝起きの間抜け声がぼくの口から漏れてしまった。失敗した。敵はすぐさまその機に乗じてきた。
 「お茶でも飲みに行こう」宿命が呟く。
 ・・・なんだと
 「お茶、飲みに行かない?」宿命の顔からほほ笑みが消えて、哀願するように言った。 よく言った。自分の気持ちを素直に言ったんだな。うん、よく言った。しかし可哀そうだが、お前の背中には十字架がある。お前は一生許されない。いいか、お前はもう世俗の幸福を求めちゃいけないんだ。
 ぼくはおもむろに立ち上がって言う。
 「いいねえ」
 アレ?
 「ウトウトしてたら喉乾いて・・・」
 アレ? お追従笑いまで浮かべてる。一体どうしたっていうんだ、オレの脳は。

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