なにわ忠臣蔵伝説

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  十章  


 九月第三木曜の一門定例会、ついに一人の客も入りませんでした。
 不入りには慣れているわたしたちですが、これには参りました。台風が接近していたり、給料日前だったり、いくつかの偶然が重なったのだとは思います。雪合戦は急いで常連の数人のところに電話しますが、不在だったりしてなかなかうまくつながりません。
 「雪だるま」と師匠がわたしを呼びます。「雪合戦連れて心斎橋に出て呼び込みして来い」
 呼び込みは何度かやりましたが、もちろんそんなことで客が入るぐらいなら、一門会の運営など苦労しません。しかし師匠の命令とあれば仕方ありません。
 そのとき大師匠がホールを出て行こうとするわたしと雪合戦を呼び止めます。
 「もう、ええ」
 「は?」
 わたしと雪合戦は顔を見合わせます。
 「もう、行かんでええ」
 皆はどうしたものか一瞬躊躇します。師匠も同じく困っています。本来なら一門の総帥・大師匠の命令ですから有無を言わさない言葉なのですが、何しろ大師匠の言葉はただ人を驚かすだけの了解不能のものも多いので、みんな言葉にこそ出しませんが、大師匠の正気の弁なのか、例の悪癖なのかを見極めるのに時間を取っているのです。
 「今日は流会や」
 珍しく物静かで、そして落ち着いたものでした。その口調にみんな今日は従うべき状態と判断しました。
 大師匠は立ち上がってみんな見回し後支度を指図したあと、わたしに懐の財布を渡して「今日はこれでみんなで『勘平』行こ」と言います。

 『勘平』での打ち上げも当然お通夜のようです。いつもは最低ここの払いだけは木戸銭から出るのですが、この日は自腹切るしかありません。六人の席でビールが二本、漬け物とシシャモ三匹だけ、寂しいテーブルです。
 ときどき出る話も電話と電気と水道とガスが話題の中心です。料金滞納のときどれが一番早く切られるか、どれが一番ごまかしやすいかという話です。
 「電気は三ヶ月まで滞納きくんですけど、でもこれは切られるとキツいです。真っ暗な部屋でテレビも冷蔵庫も止まって、これは生きるのが嫌になってきます」
 雪合戦です。
 「いやそんな精神的なことはなんとでもなる。水道が止まると、これはほんとに命にかかわる、これはほんまかかわるで。死ぬで、ほんまに」
 雪蛍が空元気を出して反論します。
 普通の人にとっては悲しい話題ですが、この話題ならみんな不思議と元気が出てくるのです。
 「こんなときに何やけどな、少しみんなに話したいことがあるんや」
 師匠がビール一杯飲んだあと、珍しく重々しい声を出しました。
 「雪まじり、今日は難しい話はやめとこ。験直しにパーッといこ」
 「いや、大師匠。難しい話やないんです。一門にとってええ話なんですわ」
 師匠はそう言うと座り直して正座しました。
 「実はこの前、みんなも知ってる阪西大学の植木教授と話した」
 またあの教授の話かと、内心みんないやな気分になります。
 「前にもちょっと言うたけどな、阪西大学の“日本精神プロジェクト”がいよいよスタートするらしい。そのモニターは色々と候補があったらしいんやけど、植木先生の強力なプッシュで、どうやらわが一門に決まりそうな気配らしいんや」
 師匠は「どうや」という表情で全体を見回しますが、みんな俯いています。
 「先生はわが一門を日本精神の集団的無意識、武士道の輪廻転生、民族のペルソナだと、まあこう言うてもな、正直、喋ってるわたし自身あんまりよう分からへんのやけどな、ハハハ(師匠の枯れた笑いが座に響きます)、まあ、これはとにかく凄いことらしいんや。京都の仏典保存会とか、飛鳥の雅楽演奏会とか、とにかく名のある団体を押しのけての採用らしいんや」
 「・・・」
 「何や、お前ら嬉しないんか、あのな、これはほんまに凄いことなんやで。ええか、このモニターになるとな、われわれが今やってる月例の一門会が文化庁後援になるんや。ええか、文化庁後援やで」
 自分の嬉々とした報告に反応がないのに苛立って、師匠は「吉報」を出します。
 「文化庁後援て・・・」
 雪合戦が少し興味を示します。
 「そうや、文化庁後援や。師走の南座歌舞伎顔見せとか、劇団四季のキャッツとか、あんな風になるんやないか」
 「ギャラ出ますか?」
 雪合戦が身を乗り出します。
 「何言うてんねん。ギャラなんか取り放題やないか。植木先生の話では全体の興行売り上げが一回あたり200万は下らんということやったから、一人あたり一回30万にはなるやろ」
 「30万」と一斉に声が出ました。
 ひたすら酒を舐めていた大師匠まで唱和しました。わが一門の基本的習性で、こう具体的金額が出てくると俄然座に緊迫感が出てきます。それも半年分の高座ギャラが一回の公演で出るというのですから、沸き立つのも無理はありません。
 「ええか、文化庁後援ということはやな」師匠の背中が反ってきて、声に張りが出てきました。「国が自国の文化として保証するいうことやで。地方からの修学旅行では必ず行程の中に入る。外国の文化視察団も必ず見学に来る。お前、皇室の関西来訪でも必ず一度は立ち寄られることになる。・・・第一お前、絶対破産することがない。破産させられんやろ、国の文化の代表と言ってるものを。え、そうやろ?ええか、もう今日みたいな惨めな一門会は金輪際ないちゅうことや。国がやるんやで。こんなシシャモと漬け物の打ち上げ、国が許さへんがな、お前ら、日本国をナメとんか、そんなことで日本文化のイシズエたりえるのか、万世一系の天皇陛下を何と心得とるって、右翼やって怒ってくんで。・・・ハハハハハ」
 「ほう」と、また一斉に声が出ました。
 「おねえさん、ビールと銚子追加。あ、それと造りの盛り合わせ一つね。・・・そうか、30万か」
 雪合戦が日本文化はさておき、金額ばかり口にしながら注文します。払いは大丈夫なのでしょうか。
 「まあまあ、そんな固うならず、飲みながら聞いてくれたらええがな、ハハハハハ」
 調子づいてきた師匠が珍しくみんなに酌をしながら言います。
 「ただな、一つ問題があって・・・、いや問題っていっても大したことではないんやけど、そのモニター集団になるに当たっては必ず事務所を開かなアカンらしいんや。植木先生はそこを“民族ペルソナ研究センター”として阪西大学の研究施設認可を取りたいらしいんや」
 「事務所・・・?」雪合戦が繰り返します。
 「そうなんや。いや、植木先生は申し訳なさそうにそのこと言うてはったんやけど、まあ、考えてみれば当たり前のことやわな。何せ文化庁後援の団体なんやから、何かと折衝がいるがな。それに民族のペルソナとしてのモニター研究も欠かせへん、それが植木先生の専門分野なんやから、そこんとこはちゃんと斟酌してあげなアカンやろ?そりゃもちろん植木先生が自分でマンション提供すればええんやけど、そこまで先生にオンブにダッコではこっちも肩身が狭いがな。植木先生は第一、いま東京からの単身赴任で借家住まいやから、物理的にも不可能なんや」
 「阪西大学はやってくれないんですか?」
 わたしはちょっと不審に思って訊きます。師匠はジロッとこっちを睨みます。あの“カル事件”以来、師匠とはまったくの冷戦状態、睨むのも無理はありません。
 「阪西大学は文化庁とワシらの橋渡しをするだけや。そんな、なんで阪西大学がマンション提供したりするねん」
 まったく取り付くしまのない言い方です。
 「でもマンションていっても・・・」
 雪合戦が首をひねります。
 「いや、もちろんワシが豊中のマンションを提供すれば、それで事は済むんやけどな、恥ずかしい話なんやけどな、みんなも知っての通り、いまウチは離婚調停の最中で、マンションは慰謝料物件として差し押さえ中なんや。それでワシも困っとるんや・・・」
 そう言いながら、師匠も、話を聞いている雪合戦も、シシャモつついている雪蛍も、今日一緒についてきた雪んこも、そしてわたしも、見るとはなしに大師匠の方に目が行ってしまいました。
 「ワシの甲東園のマンション、つこたらええがな」
 師匠は運ばれてきたタコの造りを歯に挟まらせてシーシー苦労しながら言いました。
 「え?」
 師匠も一応驚きます。
 「もうバアさん死んだし、子供はおらんし、あのマンション、一人で住むには広すぎるがな・・・、あれつこたらええがな」
 「大師匠、それは出来ません」
 師匠がさも“これは意外な申し出”とでも言いたげに、大仰に手を振ります。
 「いや、つこたらええ。ワシ、雪だるまんとこで寝させて貰うわ」
 「は?」
 わたしは久しぶりの好物、ハマチの造りを喉に詰めそうになりました。あの狭い文化住宅にこの老人と一緒に住んで、あれやこれや無理難題押しつけられるイメージが瞬間、頭に広がってきました。
 「わたしのところへですか?」
 わたしは恐る恐る念を押します。
 「そうや。その方が何かと便利やしな。最近膝が痛うて立ち上がるのも難儀するさかいな、雪だるまに面倒見てもらうわ」
 大師匠は入れ歯に挟まったタコのカスをシーシーハーハー言って取りながら、簡単に言いました。清々した表情の大師匠とは反対に、わたしは暗澹たる気持ちになってきます。
 「いや、雪だるま、心配せんでええ。事務所いうてもな、もちろん正式に文化庁後援が決まるまでの話や。まあいうたら“民族ペルソナセンター・開設準備室”いうたらええのかな。とにかく認可が下りるまでの仮事務所や。植木先生の話では、森ノ宮の、ほれ、ホテルニューオータニと大阪城ホールの間に上方講釈演芸場という常打ち小屋が建設されるらしい」
 「常打ち小屋?」とみな一斉に身を乗り出します。戦災で環状線沿いの「天満天神席」がなくなって以来、もう五十年も上方には講釈の常打ち席はありません。東京の「上野本牧亭」に匹敵する上方の講釈常打ち小屋はわが天神斎一門の悲願です。みな色めき立ちます。
 「いや、この前、先生と一緒に場所も見てきた。図面も見せてもろた。そら、大阪城ホールに比べたらさすがに小振りやけど、しっかりした木造り、なんでも伊勢神宮・外宮のイメージで作られるらしい」
 「伊勢神宮・・・」
 「そら格式を感じるものになるで」
 「格式・・・」
 全員で溜息まじりの復唱です。
 「そこにな、もちろん事務所も併設されるんや」
 「事務所併設・・・」
 高揚のあまり、つまらないことまで復唱します。
 「雪だるま、そやからそれまでの辛抱や。来年中には完成の予定やから、ほんのちょっとの辛抱や」
 「はあ・・・」
 「みんな、よく今日まで辛抱してくれた」
 師匠は急に座り直し、ゴホンと咳払いして、あらたまった声を出します。
 「さぞ辛かったことであろう。身をやつし、人目を忍び、あえて不忠者のそしりを受け、思えば一門のお前たちには艱難の日々を過ごさせてきてしまった。みな、師匠である、このわたしの不徳のいたすところだった。許して欲しい」
 「師匠」と、雪合戦が感極まった声を出します。すでに涙声です。師匠は顎を引いてそちらを見てうなずきます。
 「しかしいよいよ上方講釈一門としての本懐を遂げる日がやってきた。ようやく日の当たるところへ向かってゆける。ただひたすら今日のまでの辛苦、この天神斎雪まじりの名に免じて許して欲しい」
 「師匠」と雪合戦が涙声でにじり寄り、それにつられて雪蛍にわたしに大師匠といういびつな集団がゾロゾロ固まり、何やら異様な盛り上がりです。
 その晩、師匠は終始上機嫌で財布の底をはたいておごってくれました。

 大師匠が突然意識朦朧として病院へ運ばれたのは、わたしの部屋で暮らし始めてすぐの頃でした。
 いつも早起きの大師匠がその日に限って起きてきません。
 大師匠はわたしが使っていた簡易ベッドで寝ていたのですが、大いびきかいています。心配になって揺すると「う」と言って目を開けます。
 「大師匠、大丈夫ですか」
 わたしは大きな声を出します。
 大師匠は助けを求めるように手を差し出します。その手を引くと、上体を壁にもたせかけて「バックとらせてもらいます」とはっきり一こと言って、それから目を閉じてまた大いびきかきはじめました。
 「バックとる」というのは競輪用語で、最終周回のバックを先頭で走るという意味だと思います。なぜそんなことを言ったのか、全然分かりません。
 わたしは心配になって救急車を呼びました。運び込まれた府立住吉救急病院の診断では脳梗塞ということでした。医者から余談を許さない状況だと言われ、一門の者に連絡を取りましたが、師匠だけどうにも連絡が取れません。
 酸素吸入器や点滴の針をつけた大師匠は相変わらず呑気な顔でイビキをかいています。血色もいいし、とてもそんな危険な状態には思えませんが、人間が死ぬというのはこんなふうに何気ない日常的なことかもしれません。
 大師匠の家族に連絡せなアカンな、でも子供はおらへんし、兄弟はどうなんやろ、昔めかけがおったいう話聞いたことがある、そのめかけとの間には子供がおったいう話も聞いたぞとか諸説紛々、集まった一門の者の間で鳩首会議します。
 何だか普段の講釈会のときより、みんな活気づいています。雪蛍など病院に駆けつけたときから腕まくりズボンまくりあげで、真新しい運動シューズまで履いています。まるでこの日に備えて準備していたようです。この活気がどうして一門会のときに出ないのだろうと不思議な気がします。
 しかし治療費どうする、大師匠は銀行預金あったんちゃうんか、痩せても枯れても大阪府の上方芸能大賞まで受賞した人やぞ、うーんと全員腕組み唸ります。
 どうもわれわれ一門の会話の突き当たりはいつもカネのことです。カネのことに行き着くと会話が滞ります。
 とにかく最低でもマンションは持ってた人なんやからと、そこまで言って、全員で「あ」と小さく声が出ました。
 「逃げたんちゃうか」
 雪蛍が言います。師匠雪まじりのことです。
 九月末に府の賛助金、半年分二十五万円が振り込まれます。そのことを全員で暗黙に了解していましたから、疑惑が広がりました。さらに植木教授に貸したという大師匠の甲東園のマンション・・・、心配です。おかみさんには連絡がつきましたが、わたしはもう天神斎とはゆかりのない人間ですと冷たく宣言されて、とりつくシマがありませんでした。
 大師匠は三日後、奇跡的に意識を回復しました。
 「ジャンが鳴ってんのにまだ言うとるんや、ホルモンうどんよ、横山のアホは」
 驚くほど大きな声でした。競輪の話でしょうか、意識回復の劇的言葉も意味不明のもので、ベッドを囲んだみんなは首をひねりました。
 右半身に後遺症が残り、歩行は困難になり、車椅子の生活になりました。その後、言葉も不自由になり、高座への復帰は無理となりました。
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