なにわ忠臣蔵伝説

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  九章  


 天神斎雪まじりの“山科閑居”が始まったのはそれからまもなくでした。
 大石内蔵助の放蕩は山科の寓居から伏見撞木(しゅもく)町の遊郭に夜毎出向くし、京都二条の大店の娘を妾にするという華やかさを伴っていましたが、師匠の“山科閑居”は切迫する財政事情から初めから苦しい展開でした。
 しかし45歳にして初めて手にした“閑居”、ワクワクするものがあるようで、あれやこれやと気配り、段取りをすすめます。師匠の場合は“忙しい閑居”です。コマネズミのような大石内蔵助です。
 まず仮住まいを決めねばなりません。
 「トイレと風呂がついて六畳と四畳半ぐらいの二間のアパート探しとる。大阪市内で駅から近くて日当たりがよくて出来れば鉄筋のマンションがいい。家賃は2万円まで出す用意がある」
 ある日、師匠から電話でそう言われました。
 いまどきそんな好条件のアパートがあれば、わたしたち一門の者は大挙してそこへ押し掛けます。
 「師匠、そんなアパート、大阪じゃ無理です」
 「2万2000円までなら出せる・・・」
 セコい“山科閑居”です。
 「師匠・・・、変わりません」
 わたしはわざと冷徹に言います。
 「雪だるま、探して来い。カルのためじゃ」
 「カルって・・・」
 「カルじゃ、吉野のカルじゃ」
 すでに師匠は初枝という吉野のヘラ塗り娘を“カル”と呼んで“山科閑居”に入っているのです。わたしはさしずめ内蔵助からかるの身の世話を依頼された足軽・寺坂吉右衛門でしょうか。伏見撞木町での遊蕩を止めさせるために、京都の老舗の娘を侍女としてあてがうという策を案じた原惣右衛門でしょうか。
 「実は今日、来とる」
 師匠は気恥ずかしそうに早口に言います。
 「何ですか?」
 「カルじゃ」
 「カルって、じぁああの吉野のヘラ塗り娘ですか?」
 「ヘラ塗り娘・・・」
 師匠はムッとします。わたしはだんだんアホらしくなってきました。
 「わたしのことですみませんでしたとカルは涙を流した」
 師匠は急にシンミリと言います。
 「・・・」
 「カルは大切な旦那様の足手まといにだけはなりたくないと、そう繰り返すばかりだ」
 「そんなこと言うんですか?あのヘラ塗り娘が」
 師匠に聞き取れないような小さな声で言います。
 「何?何か言ったか?」
 「いえ、何も・・・」
 「もしかして大望あるご一門の妨げになっては困りますと、いや、そうはっきり口に出して言う訳ではないが、しかしわたしには分かる。わたしを見上げる目で分かる」
 「はあ・・・、目で分かりますか・・・」
 わたしは気のない返事をします。
 「しかしここだ、もののふの辛いところは。後先考えずここまで来たが、色恋ざたは大望あるもののふにとって禁句であるという、討ち入り当夜に恋人と心中した毛利小平太の無念の言葉が頭をよぎる。・・・なあ、雪だるま、われわれはなぜ女に心を許せぬ生き方を選んでしまったんだろう。なぜわれわれは因果な宿世のもとに生まれてしまったんだろう」
 「はあ・・・、別に心許してもいいような気もしますが・・・」
 「とにかく」師匠は自分で問いかけながら相手の返事は全く聞いていません。「今日カルが近くに来ておる。よくよくせっぱ詰まった上の行動のようだ。会ってくれ。会ってカルの希望を訊いてくれ。わたしには直接言えないことでもお前になら言うかもしれない。お前には大望の雰囲気が薄いからな、気を許してカルも本心を言うかもしれない」

 梅田阪急ビルの30数階というとんでもなく高いところの喫茶店に呼び出されました。店に入ると、一番奥の窓際の席から師匠が手招きします。
 「雪だるま、こっちがさっき話したカルや」
 席につくと、師匠は背筋を伸ばして咳払い一つして“カル”を紹介します。
 「どうも。カルです」
 一重瞼のはれぼったい目をこっちに向けて、胸のあたりがプックリ膨れた黒いシャツにジーパン履いた“カル”はペコッと頭を下げます。“冗談やってます”という雰囲気ではありません。ごく自然にやっています。
 参りました。一体何を考えているんでしょうか、師匠もこのヘラ塗り娘も。
一体どうして自分のことを“カル”などと簡単に言えるのでしょうか。
 「あなた、カルっていう名前なんですか」
 ムッとして訊きました。
 「へ?」
 自己紹介したあと、すぐまた大きな窓から淀川やその向こうの大阪湾の霞んだ景色を見ていたカルが振り向きます。
 「あなた、カルって名前なんですか?」
 「何を言うんや、雪だるま。カルに決まっとるやないか」
 師匠が横から危機を悟って口を出します。
 「師匠、しっかりして下さいよ、いま、一門はこんなことしてる状況じゃないでしょ。文化庁の古典芸能振興金が廃止になるらしいじゃないですか。どうやって一門維持していくんですか」
 わたしは思いあまって師匠に詰め寄ります。
 現在、わが上方講談は府からの上方芸能賛助金(これは公演回数に比例して出ます。いわば公演奨励金で年50万円)と文部省からの古典芸能振興金(各団体一律に年100万円)によって何とか体裁を維持できています。しかし今年文化庁の査察があり、“雪焼け”と“雪上車”という兄弟子が行方不明になっていることと、“雪んこ”という末弟子がまだ十五歳だということがばれ、団体登録員数が十名に満たないということで振興金の方が来年からカットされることになったのです。
 「雪だるま、お前、サラ金行ってカネ借りてきてくれんか」
 師匠はわたしの詰問など聞こえなかったように身を乗り出して言います。
 「カルは身一つで吉野出てきたから当座の資金がいるんや。お前、別に会社勤めしてる訳やないから借りにくいかもしれんが、バイトしてるコンビニの店主とかに保証人になってもらえないか。・・・うん?どうや」
 「師匠、聞いてるんですか、わたしの話。文部省の振興金がカットになるんですよ。どうやって、これから高座維持するんですか」
 「雪だるま、・・・いい雰囲気になってきたな」
 師匠は不意にニッコリします。
 「ワシ、こういうの、長年待ってた気がする」
 「何ですか・・・」
 「山科閑居」
 「な、何ですか?」
 「いえいえわたくしも先月父が離縁状を書いて母を豊岡の里元へ送り返すときまでは、覚悟固き鉄石心の現れと一途に信じておりました、なーんてな」
 「・・・」
 「しかしその後日に日に募る父の放埒ぶりはあきれ果てるばかり、今では京の町人二文字屋の娘カルとやらを家に入れ、家にいては妾狂い、外に出ては郭遊び、濫行三昧、虚(うつ)け放題・・・。主税(ちから)、近う寄れ、話がある。お前にだけはまことを話そう。わしが、この内蔵助が、好きで酒を飲んでいたと思うか、好んで女に狂っていたと思うか。・・・主税、よいか、いかに上手に計ろうても、所詮はかりごとははかりごとじゃ、・・・人の手からは水が漏るのじゃ、・・・ああ辛い、わしが好きこのんで女に狂うなどと、苦しい胸のうち、どうか察してくれ、わしが好きで放蕩していると思うかー」
 テーブルの端を叩きながら師匠の熱演が続きます。
 「あなたはどうなんですか、カルさんは」
 師匠を無視して、わたしは外ばかり見ているカルに訊きます。一体この女は何を考えているんでしょうか。
 「何?」
 カルが振り向きます。
 「山科閑居なんですか、やっぱり。死地に赴く内蔵助をひたすら愛するカルなんですか、あなたは。一夜の寵愛だけを胸に来世の再会だけを願うカルなんですか」
 「何?」
 「何って・・・、あなた、自分でカルって言ってるじゃないですか」
 「わたしね、グイーッとくる生活がしたいの」
 「何ですか、それ」
 わたしは感極まって大きな声を出しました。
 ほんとに涙が出そうです。大師匠がああいう現況では師匠は一門の柱じゃないですか。上方講釈三百年の伝統を双肩に負う柱じゃないですか。どうしてこんな女に入れあげるのでしょうか。
 最近、大師匠はますます訳の分からないことを言い出して対処に苦慮します。この前は大阪駅の派出所に入って“ミタラソン攻撃”をやったらしく、深夜、わたしが身柄を引き取りに行きました。何かにつけて「膝が悪い」とこぼして、悪ければじっとしていればいいと思うのですが、競輪には相変わらず毎回参加したいし、一門の例会も「客はワシを見に来とる」という長年の妄執から決して休もうとしません。わたしの付き添い仕事は増えるばかりです。甲東園のマンションに身の回りの世話に行かねばなりませんし、もうヘトヘトです。
 このところ、高座の口はもちろん、一門の経済的支えのイベントの余興の口が全然かからなくなりました。それも当然だと思います。事務所の中心の師匠がこの様子なのですから。
 雪蛍も雪合戦もアルバイトの方が生活の主になり、稽古も出来ず、「講釈から足洗いたい」と何かにつけて漏らしています。
 「これはな、雪だるま、こういうことなんや」
 横から師匠が解説役をします。
 「カルはな、今年二十二や。高校中退して一度は大阪天王寺の喫茶店で働いとったのが、そこの店長に騙されて子供堕ろすはめになって吉野に帰っとった。辛い十代やった。カルは愛情に飢えとる。男に怯えとる。その苦しい体験が言わせる言葉なんや。世間を斜めに見て少女時代を過ごした女が歯を食いしばって発する言葉なんや」
 「グイッーとくる生活っていう言葉がですか・・・」
 「そうや」
 師匠は力が入って大きく頷きますが、カルは知らん顔で外を見ています。
 「で、今度は大阪に住むんですか、カルさんは」
 「そうや」
 横から師匠が力強く頷きます。
 「大阪のどの辺がいいですか、カルさんは」
 外を見ているカルの方に訊きます。
 「何?」
 カルが振り向きます。お前の話をしてるんやから、ちゃんとずっとこっち向いとったらどうやねん。ほんとにムカついてきます。
 「大阪のどの辺がいいんですか」
 気持ちを押さえてもう一度言います。
 「ヒ・ミ・ツ」
 カルは自分の唇を人差し指で押さえて言います。
 「はあ?」
 自分でも素っ頓狂な声が出てしまいました。
 「いや、これはな、雪だるま」また師匠が緊急解説です。「つまりこういうことだ。カルの父親というのは昔は腕のいい吉野の樵夫だったんだが、カルが小学生のときに伐採林の下敷きになって足に大けがした。このけがは大変やった。もう山へ出ることが不可能になった。父親は荒れたね。そりゃもう、ほんとにこれがきのうまでのあの優しく真面目なお父さんなのかと家族全員で驚き、動揺したぐらいだ」
 師匠はまるで見てきたようにカルの父親のことを話します。この“見てきたように話す”のが高座で出来ていたら、あれほど大師匠に引け目を感じず、はっきり名人の後継者と言われただろうにと思います。
 「カルは毎日、毎日、晩酌のたびに荒れ狂う父に怯えた。そして世間というものを恐れ、次第次第に無口になっていった。辛く苦しい少女時代をおくらねばならなかった・・・」
 「悲劇の連続ですね」
 「そうや、カルは悲劇のパテで塗り固めたような女なんや」
 わたしの皮肉にも師匠は頷きながら大まじめに答えます。
 「カルの部屋は土塀で囲まれた離れ。屯田兵が釧路湿原に立てた小屋みたいなものだった。光が入らない。ただ一つ北の吉野の山々に向かって竹の支えの渡された小さな窓が空いていて、そこがカルの安らぎの場所だった。カルは夜中、その窓に頬杖をつき、遠く吉野の森から聞こえてくるホトトギスの鳴き声を聞いた。その声だけが友達のような、そんな気がした。学校の行き帰りも、友達と遊ぶときも何かと言えばホッチョン、ホッチョンとホトトギスの鳴き声を呟くようになり、吉野では“ホッチョン娘”と異名をとった。その荒れ狂った父も酒がもとの肝臓ガンで七年前死んでしまった。あれほど恐れた父もいまは懐かしい思い出ばかり。天国のお父さん、吉野のホッチョン娘はこんなに大きくなりました」
 師匠は俯いてハナをすすり上げます。
 「え、カルさんて、お父さん亡くなったんですか」
 「ううん、元気。カルのお父さんはね、カマボコ工場で守衛やってるの」
 「はあ・・・」
 どうでもいいけど、いい歳した女が自分のことをカル、カルと呼ぶのはやめろ。ほんとムカムカする。
 しかしさっきから見ていると、このカルは人の言うこと、特に師匠の言うことはほとんど聞いていません。こんなので恋仲などと言えるのでしょうか。
 「とにかく、大阪でアパート探せばいいんですね」
 まだ俯いて目をさすっている師匠は無視してカルに訊きます。
 「カルはね、大阪より東京の方がいいの」
 「は?」
 「カルね、東京の代官山ってとこ住みたい。修学旅行のとき一度通って気に入ったの。でなかったらねえ、ウーンとねえ、両国でもいい。あそこ、お相撲さんが見れるでしょう。カルね、お相撲さんが好きなの・・・。フフフフフ」
 どうも頭がおかしいんじゃないのかと思います。何を言ってるのかさっぱり分かりません。でも、そう言って上目使いで見るときの目つきは確かに変な、多分師匠好みの色気があります。
 「師匠、悪いですけど、カルさんのアパート探し、わたしにはできません」
 「へ?」
 師匠がカルの不遇な少女時代からやっと現実に戻ってきます。
 「悪いですが、アパート探し、お断りします。そうでなくてもわたしは今、大師匠の世話で手一杯なんです」
 その言葉に師匠が不意に外を見ました。
 「雪だるま、わたしが知らないとでも思ってるのか」
 さっきまでのハイトーンが嘘のように呻くような声を出します。
 「な、なんですか」
 「三万円どうした?」
 「さ、三万円て・・・」
 痛いところを突かれた気がしました。
 「今年の二月、お前“とんぼりホール”の支払いで三万円だけ少し待ってくれって言うたそうやないか」
 「・・・」
 「雪だるま、ワシはお前だけは信用しとった。何かの間違いやと思った。“とんぼりホール”の支配人からその三万円の話聞いたときも、お前のことや、何かきっとやんごとない事情があったんやと理解することにした。カネのことはキッチリせな気がすまんウチのやつにも知らせへんかった。ワシの胸のうちに収めた」
 「でも師匠、あの三万円は一ヶ月後にはちゃんとホールに入れました」
 「入れりゃ済むんか、エノラゲイが札束撒いたら原爆はなかったことになるんか、ヒトラーが頭剃ったらアウシュビッツはなかったことになるんか」
 「そんな大それたことじゃないと思うけど・・・」
 わたしはブツブツ言います。
 「とにかくや、冷たい言い方やけど、お前が一門のカネに手を着けたことは間違いない。間違いないけど、でもワシはいままでそれを黙っとった。何といってもお前はワシの弟子や。弟子と言えば芸の世界では実の子以上や。しかし・・・、悔しい。お前は結局ワシより大師匠を大事にしよる、そういう弟子やいうことが分かった」
 「そこまで師匠が言うんなら、わたしも言わせてもらいます。先月の定例会の木戸銭1万1000円、持ち逃げして、女のパジャマ代にした人がいます。一門のことより先に女のことを考え、弟子たちより先に得体の知れない自称大学教授に骨抜きにされている師匠が一人います」
 言ってはいけないことを、わたしは勢いに任せて口にしてしまいました。
 師匠は何か決心したように深呼吸しました。
 「分かった、雪だるま、お前がそこまで言うんならワシにも考えがある。もうお前には頼まん」
 師匠は憤然と言いました。
 「お前は一門の危機や、危機や言うけどな、ワシもバカやない、ちゃんと考えとる。実はきのう植木教授から電話があった。あの方は“わたしが力になる”と、そう言ってくれた。どういうことなのか、分からんが、とにかくわが一門はユングという人の言う集団的無意識らしい。民族のペルソナというものらしい」
 師匠は意味不明の単語を力を入れて繰り返します。
 「驚くなよ、雪だるま。わが一門は民族のペルソナだぞ」
 「はあ・・・、ペルソナですか・・・」
 何のことか、さっぱり分かりません。多分師匠も分かっていないのだと思います。
 「民族のペルソナになるとな、驚くなよ雪だるま、植木先生からの強力プッシュでわが一門は阪西大学集団心理学研究センターのモニターになるらしい。これは文部省の肝煎りプロジェクトや。吉良の高家肝煎りやない。文部省肝煎りや。国家の肝煎りや。阪西大学というのはそういう古典芸能から日本精神を保存していく、そういう大学上げての命題があるらしい。とにかく困ったことがあったら何でも相談して欲しいって、そう言ってくれるんや。・・・何やら凄いことになってきた。やっぱり東大出は違う、この前聞いたけど、植木先生、東大現役で入ったらしい」
 「東大」「現役」という言葉を二度三度うわごとのように繰り返します。
 「これからの話芸は叩き上げだけじゃやっていけへん。キャリアや。世間から認められるステータスや、リザベーションや」
 リザベーションといのはわたしの記憶では予約とかという意味だと思いますが、話芸が予約だというのはどういう意味なんでしょうか。もう訳が分かりません。
 「リザベーションいうてもただのリザベーションやない。リスポンシィビリティーと言い換えてもええ。リストラクチャリングと言うことも出来る。中にはリズムアンドブルースと言い切ってしまう人だっている」
 そのときテーブルの下で「携帯用カタカナ語辞典」を開いているのが見えました。植木教授から「ペルソナ」という言葉を聞いて意味が分からず、わたしに買いに行かせた辞典です。どうりで「リ」で始まる英単語ばかり出てくると思いました。
 「とにかくそういうものや、これからの話芸いうのは・・・」
 「はあ、なかなか難しいんですねえ・・・」
 わたしは小さく言います。
 「ワシはな、雪だるま、やっと分かってきた」
 師匠はこっそり「カタカナ語辞典」をズボンのポケットにしまいながら続けます。
 「植木先生という人は羽倉斎宮(はぐらいつき)なんや」
 「・・・」
 「討ち入り前日、師走十三日、内蔵助が故殿の奥方瑶泉院に最後の暇乞いに訪れた。折からの雪で赤坂氷川台南部坂は白一色、木立はたわわに頭を垂れる。瑶泉院への最後の目通りも叶わず、悄然と坂を下る内蔵助に黙って唐傘を差し出す総髪の長袖者(ながそでしゃ)。不審に思う内蔵助にただ一言「上野介はここ両日、茶会を開く」とそれだけ言い残して去って行った。後の国学中興の祖となる荷田春満(かだのあずままろ)の、その若き日の姿。昼行灯よ、腑抜け侍よと、世間の物笑いになっていた内蔵助をしっかり忠義の士と見抜き、助力を与え、その本懐成就を静かに願った憂国の士。あの羽倉斎宮が平成の世に蘇って植木誠司と名乗っているのだ・・・」
 そこまで言うと師匠は静かに立ち上がりました。
 「ワシは決めた。植木先生と一緒にペルソナ講釈師として生きて行く。たった今はっきり決心した。・・・決心させてくれてありがとう、雪だるま君」
 師匠はそう皮肉を言うと、何か分からず嫌がるカルの手を引いて出ていきました。テーブルの上にしっかり伝票を残っていました。

 「生まれてくるヤヤコのこともあるゆえ、しばらく実家に帰るがよかろう」
 師匠がおかみさんに訳の分からないことを言い出したのはその晩でした。
 山科の大石内蔵助がいよいよ討ち入りのために江戸下向の腹づもりを固めたときに妻のリクと幼な子を離縁するときにつかったセリフです。
 「何ですか?」
 おかみさんというのは気丈な人で、師匠の没入癖にも慣れていました。
 「しばらく豊岡の実家に帰っておれ」
 「・・・」
 「何も聞かず、言う通りにしてくれ」
 「わたしは腹に子などおりません。また実家も豊岡ではありません」
 おかみさんは淡々と言いました。おかみさんは気位が高く、ものごとを冷徹に見る人です。我々一門の弱さやなれ合いを見抜いていました。じれったく思っていたのだと思います。
 「あ?」
 師匠は立ち上がったまま、口を半開きにします。現実に引き戻されます。
 「わたくしはリクではありません」
 おかみさんはソファに座ったまま、また淡々と言います。
 「でもあろう。そのことも分からぬではない・・・」
 師匠はすぐ腰砕けになってヘナヘナ座り、訳の分からないことをフニャフニャ言います。
 「わたしはリクではありませんが、でもあなたの望み通り、しばらく実家に帰ります」
 「う?」
 今度は師匠の方が絶句します。
 「あなたが吉野の麓から若い女を連れてきて、“山科閑居”を気取っていることを聞きました」
 おかみさんは相変わらず淡々と言います。
 「え?」
 「あなたはその何だか得体のしれない女をカルと呼んで悦に入っていると聞きました」
 「誰から聞いた。・・・雪だるまか、やっぱりお前が裏切ったか。そうか、お前か、やっぱりお前が裏切ったか」
 師匠は夫婦の問題とは別の所のはけ口を求めて逆上します。わたしは凍りつき、呆然と立っていました。
 「雪だるまじゃありません。ありませんけど、あなた“山科閑居”なんでしょ。四十七士はもちろん、京都にも江戸にも三百年後にまで知れ渡っている“山科閑居”なんでしょ。妻に知られたからって、そんなこと、いいじゃありませんか。歴史に残る“山科閑居”やってるんじゃないんですか。いいじゃありませんか、誰に知られたって」
 「・・・」
 「あなた、わたしがなぜ別居を決意したか、分かりますか」
 「つまり、その若い女と・・・」
 「わたしはずいぶん前から離婚考えてました。・・・天神斎一門のその芝居がかったところ、いえ、もっと正確にいえばその芝居としてしか自分を表現できないその侘びしさ、いじましさがわたしが我慢できませんでした。・・・貧乏だけなら何とかなります。芸のこやしだとは思わないけど、一度や二度の浮気なら目をつぶってもいいとも思います。わたしが前々から我慢できなかったのは、あなたやあなたの一門のその忠臣蔵に仮託しないと何も言えないところ、すべて赤穂義士の言葉にしないと自分の言葉が言えない、その優柔不断なところがわたしはたまらないんです。何が赤穂義士なんですかるあなたはただの芸人、ただの講釈師じゃないですか」
 言い終わっておかみさんはフーと息を吐きます。師匠は力無く首を上げておかみさんを見ます。
 「あなたは若い女と浮気したいと思ってて、望み通り若い女がひっかかってイチャイチャする。それだけのことでしょう。世の男がみなやることをあなたもやったという、それだけのことでしょう。それがどうしてあなただけが“山科閑居”なんですか。雪だるまも雪だるまで自分は殿の一番近いお側に仕える片岡源五右衛門だとか、“山科閑居”を助ける原惣右衛門だとか、女性と付き合っても絵図面を手に入れるために付き合っているような気がする、まるで岡野金右衛門だ、とか、もうそんなの沢山。変じゃないですか。男らしくないでしょうが。あなたたちの言うこともすることも、その全部があなたたちの意志でしょうが。どうして、それを全部自分で引き受けないんですか」
 一気にいままでの積もり積もった感情を吐き出したおかみさんと、痛いところをつかれた師匠。この十五年連れ添った夫婦に長い沈黙が支配します。
 「分かった。・・・お前の言うことはよく分かった」
 しばらくして師匠が静かに言います。心の奥底、自分の弱さをズバリ射抜かれて師匠は意気消沈します。
 「お前の言う通りだと思う。わたしもしばらく静かに考えてみようと思う」
 おかみさんも師匠のその様子を見て、逃げ場のないようなところまで夫を追いつめたことを少し後悔しました。
 「しかし“雪んこ”だけは置いておかねばなるまい」
 師匠は静かに言います。
 「は?」
 「下の“雪虫”はまだ八歳じゃ。いくら本人が忠臣蔵講釈師になりたいと切望していても、ワシは心を鬼にして里へ帰す。万が一にも累禍がいたいけな雪虫にまで及ぶことになってはワシも安穏と死地におもむけない。しかし“雪んこ”はまだ年端もいかない十五歳ではあるが、どうしても忠臣蔵講釈師になりたい、ぜひとも誓詞神文の連判に加えてくれと言ってきかない。父として、一門の帥として断腸の思いではあるが、これはワシの手で成人させねばなるまい」
 師匠は腕を組み、苦虫を噛みつぶしたように言います。
 そのとき雪んこはいつものように弟の雪虫を蹴飛ばして、部屋の隅でテレビゲームをやっていました。この雪んこは良く言えば頓着しないというか、悪く言えばニブい性格で、中三にもなっているのに親の離婚だ、別居だという騒ぎにも平然とテレビゲームに夢中になっていました。
 ですが、さすがに自分の話題には気づいたようで「ふああ?」などという変な呻きと共に振り向きました。手にはまだゲームのコントローラーを握っています。
 「何か言うた?」
 「あんた、ほんとに忠臣蔵講釈師になるの?」
 おかみさんが雪んこの方を見て訊きます。
 「イヤや、講釈師なんか絶対」
 両親の話が自分の不利益に関わっていることを知り、俄然コントローラーを放り投げて立ち上がります。
 「イヤやで、絶対。大体、ちゃんとした本名があるのに小さい頃から雪んこ、雪んこって呼ばれて、何か北国の置き物みたいに言われて、ほんと悔しかったんやから・・・。でもオレなんかまだええよ。弟のこいつなんか雪虫やで。“雪虫、泣き虫、サナダ虫”ってみんなから言われて、ほんま可哀想やったんやからな。・・・イヤやからな、講釈師なんて、絶対」
 唇とんがらかせて雪んこは反抗します。
 「天神斎の一門は大師匠雪中も師匠雪まじりも、みな十五歳にて元服仕りました。火急の仕儀にて、まともな元服が叶わぬなら、どこぞその辺の茶店の軒先なりとも借り受けてなにとぞ堀部様の剃刀を受け、即刻元服したる上、天神斎の総領らしく正式に名を雪んこと名乗らせていただきたく、切にお願い申しあげまする。・・・なれども、そなたは天神斎一門の総領、一門の帥の承諾なくば連判に加える訳には参りませぬ。・・・その段のご斟酌ならば何とぞご無用に願いまする。手前これより撞木町の揚屋に参り、父の許しを得てきましょう。なーに、叶わぬときはたとえ親子の縁を切っても必ず連判に参加させていただきます」
 師匠は目の前の一点を見つめてモグモグと唸り続けます。
 「テレビゲームのモニターやったらやってもええ」
 雪んこは父の唸りにかまわず、大きな声を出します。
 「そうか、そこまで父に従う固い決意をしていたか。もはや言うまい。内蔵助はがんぜない年端もいかない雪んこを自死必定の討ち入りに組み入れることには反対であった。しかしそこまで強い決心を持つなら、もはや何も言うまい。わが血盟の一端を担い、共に忠義を尽くそうぞ」
 呆れたおかみさんは押入を開けて荷物を整理し始めました。雪んこと雪虫は首を捻りながら部屋を出ていきました。

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