なにわ忠臣蔵伝説

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  七章  


 二月の月例一門会がはねました。
 例によって、わたしと雪合戦と雪んこという若手三人で木戸に立って客の見送りです。
 トリをつとめる大師匠のときに舞台の袖から「ひー、ふー、みー、よー」と目で数えて、八人残っていると確認しています。ここ半年では最高の入りです。悲しいことです。
 しかしとにかく元気よく挨拶して、一門の暗い予感を一時でも忘れなければいけません。大声出したって八回で済む訳です。スタミナ切れする心配は決してありません。
 「ありがとうございました。またお越し下さい」
 半ばヤケクソで深々と最敬礼です。
 「一回、二回、三回」と小声で数えて「ラスト八回目」と思ったとき「あのー」と声がかかりました。
 最近少し気になっていた客です。
 寝そべったり、壁にもたれて無遠慮にアクビしたりする客が多いなか、ゴザ敷きに座布団を並べた客席でいつも膝を抱えて静かに聞いていて、それだけでも「奇特な客だ」と楽屋で話題になっていた人です。細身で銀縁のメガネをかけ、いつもツイードのシックなジャケットを着ていて、ナンバ定席には珍しいインテリの雰囲気を持っています。
 大体が常連客で、恵比須町の将棋道場主、日本橋の電池屋の隠居、平野の中学校の先生と顔見ただけで識別できる客がほとんどなのですが、「誰だろうあの男は」と皆で話していました。
 新しい客に楽屋で「誰だ」と話すというのも変なことです。普通寄席というのは新しい客だらけのはずです。「あれは誰だ」などと一々客の詮索などしていたら日が暮れてしまうはずです。
 でもわが一門は違います。新しい客は楽屋の最高の餌食です。普通は客の方が「今日の出演の誰それはどうだった」と演者の批評をするのですが、わが一門は演者の方がまるでよそ者を排除する村の寄り合いみたいに客の品評をするのです。悲しいことです。
 話しかけられたわたしはもちろん、雪合戦も雪んこも最敬礼の顔を上げて「何だろう」とその中年インテリを見ます。
 「わたしたちが病理的所産とみなす妄想形成のことなんだけどね」
 「は・・・」
 若手講釈師三人は口を半開きにして瞬時言葉をなくします。
 「通常、妄想というのは主観的な信念であって、事実の経験や論理によって訂正されることのないものだと、これはキミたちも高校の倫理社会で習ってると思うんだけど、通常そう言われるよね。そこいくとどうなんだろ、講釈ってのは。“講釈師、見てきたような嘘を言い”っていう諺もあるくらいなんだけど、演題ということの蓋然的実体っていうのかな、言い換えれば、まあ言ってしまえば妄想なんだけど、しかしそういう一面的心理状態の把握というのはカール・グスタフ・ユングが集団的無意識の概念を提出してからもう終了したと、私は、そう言うと何だかお前自身は集団的無意識から乖離してんのか、お前は個の自我だけで集団的ヒペルブリアから疎外されてるって言えるのかって、そう言われそうだけど、フフフ、まあそう言われてしまうと、フフ、まあね、身も蓋もないんだけど、でもどうなんだろ、その辺。講釈界ではどう考えてんだろ」
 「・・・」
 わたしたちはただ硬直マグロになっていました。
 「あ、ひょっとして驚かしたかな。・・・申し遅れたけど」と言いながら中年インテリはジャケットの内ポケットから名刺を取り出します。
 「わたしは阪西大学の植木と言います」
 若手講釈師三人はまるで異国で追い剥ぎに会ったヒッチハイカーのようにただ呆然と名刺を見下ろします。
 「阪西大学・・・」
 「教授・・・」
 若手講釈師三人は棒立ちのまま虫の息のような声を出します。
 「ぼ、ぼく、師匠呼んできます」
 雪合戦が急に素っ頓狂な声を出して楽屋の方に走って行きます。
 大体変だと思っていたのです。十人にも満たない客で、それもほとんど常連、あの禿げたオジサンは恵比寿町の床屋の主人、こっちのメガネのオジサンは南海電車の車掌などと身元の判別出来る客ばかりなのです。そこへ異邦人のような新規客、何かあるのではないかと思っていました。
 わたしらの口から言うのも変ですが、ホールの前に貼られた小さなポスターや、夕刊のズラッと並んだ劇場催し物コーナーの一行告知などで新規客が来るほどいまの講釈界は甘くないのです。たまに新規客は来てもそれは常連の知り合い、それも半ば義務的・強制的に連れてきた客ばかりで上演中から居眠りしたりあくびしたり、高座がはねればソソクサ帰る客ばかりなのです。
 ちゃんとジャケットを着て、ゴザ敷きホールの真ん中に座って前座からトリまでアクビ一つせず鑑賞し続けるなど、何か一物を持っている客に違いないと睨んでいたのです。
 「何やいな、仰々しい」
 師匠・雪まじりが腰を押す雪合戦を煩わしそうに見ながら、しかめっ面で出てきます。
 わたしたちの前に立つ中年インテリの姿にチラッと会釈をします。
 「師匠」
 わたしが目で師匠の視線を名刺の方に促します。
 「阪西大学教授・・・」

 その夜の『勘平』での打ち上げは異様なものがありました。
 普段は師匠・雪まじりと雪合戦の三流大学連合軍が雪蛍やわたしたちの高卒連合軍に対し余裕と含み笑いの円高がどうの、デタントがどうのなどと知ったかぶりの「教養話題」を提供し、何やらジリジリした飲み会になって、堪忍袋の緒が切れると「円高だとか、デタントだとか、そんなこと言ってる場合ですか、世界を豊かにする前にわれわれを豊かにしろ」とわたしが怒って、それでも「これやから視野のせまい講釈師はいやや。これからの講釈師が世界経済視点に入れなくてどうする、東大出の西部先生も京大出の高坂先生も講釈は経済だって、まあそう表立っては言わないけど、それらしきことはおっしゃっておられる」などと余裕の冷笑を浮かべて、そうこうしているうちに突然「悔しい、悔しい。なんで芸人が学歴差別受けなきゃいかん」と雪蛍が泣き出したりして修羅場になり、そんなときに限って大師匠が「二百円返せ」だの「蛍光灯が図にのっている」だの「わしの弱点は水はけや」などと意味不明の言葉を発してみんなの混乱に油を注いだりする、そういう打ち上げになります。でもこの日は違いました。
 いつも師匠が座る一番奥席に阪西大学の教授が大師匠と並んで座って、テーブルの角を挟んで師匠がおり、それ以外の者は二人をグルッと囲んで成り行きを見守るという状況でした。
 「いやあ、わたしはね、講釈というもの、それは知ってましたよ」
 黒のタートルネックのセーターにツイードのジャケットをはおったオシャレな大学教授はすっかりビールが回ってきたようで、最初のダンディーな話しぶりが崩れて饒舌になってきました。
 「一門という師弟関係の中で話、ネタって言うんですか、そういうのを受け継いでいく。しかしですね、今日高座伺っていると、この天神斎一門にとって、特に雪まじり師匠の『萱野三平、恋と忠義』これに深く感銘して思ったのですけどね、天神斎一門にとっての忠臣蔵というのはそういうのとは違うんじゃないかと思ったんですよ」
 ウンウンと頷いて身を乗り出したのは師匠・雪まじりです。
 「輪廻転生という言葉はご存じですよね」
 教授はほとんど師匠・雪まじり一人に話しかけます。師匠は震えがついたように激しく頷きます。師匠に仕えて十年、こんな激しい同調は見たことがありません。
 雪蛍はそんなバイブレーターのように頷かなくても、1回頷きゃ分かるやないかと早くも小声で毒づいています。
 どうして芸人のそれも弟子を3人も持つ師匠がこうも学歴やインテリ・ステータスに弱いのでしょうか。もう横目で見ただけで大学教授のトリコになっているのが一目瞭然です。
 「わたしは別に仏教学も民俗学も専門ではなくて、ええ、心理学が専門なんですがね、その心理学の方でも最近少し再認識されてきてるんですよ、輪廻転生が。まあ心理学では集団的無意識とも言うんですがね・・・」
 ここでフト植木教授は隣りの大師匠の方に相づちを求めます。あまり師匠一人と会話するのに気が引けたのだと思います。
 失敗でした。
 大師匠は一心に肉ジャガのタマネギを選り分けていました。大師匠はタマネギが嫌いです。でも『勘平』に来るといつも肉ジャガを注文します。
 「ワシは玉ネギが嫌いや言うとるやろ、そやのにここの肉ジャガには目一杯玉ネギ入っとるから腹立つんじゃ」
 『勘平』の肉ジャガは大きな鉢盛りで出てくるので、タマネギの選り分けには大変な時間と労力がかかります。それをブツブツ言いながら大師匠は選り分けていきます。ブツブツ言ってはいるのですが、決して飽きずに選り分けていきます。
 それがわれわれ打ち上げする一門の者に憩いの時間を提供するのです。
 しかし「大師匠の沈黙」という安逸時間は教授の問いかけによって寸断されてしまいました。
 全員に一斉に緊張が走ります。
 「無意識ということについてはカール・グスタフ・ユングの前にフランスのピエール・ジャネや、フロイトも研究してきています。あ、フロイトはご存じですよね」
 教授が相づちを求めたので、大師匠は肉ジャガの鉢から顔を上げました。
 「フロイトです。ご存じですよね、精神分析の」
 「パンや」
 「は?」
 「パンがな、固いんや、固うて噛まれへんのんや」
 大師匠はタマネギ外しの箸を止め、その箸先を見つめて絞り出すような声を出します。
 教授はよく聞こえなかったのか、大師匠の方に顔を寄せます。一門の者はみな「まずい」と眉をしかめます。
 「“カビですか、大師匠。カビに難渋されておられるのですね、大師匠”てなこと言いよるんや、雪蛍が」
 大師匠は鳩のように急に首を振って教授を見ます。ちょっと見るとまた鳩のように首を戻します。いつも首が痛い、肩が痛いとぼやいているのに素早い動きです。教授のことをどの程度認識しているのか、それも周りからは判然としません。
 「カビ・・・」
 教授は小さく反芻します。
 「確かに難渋してきた。赤穂の腑抜けよ、フナ侍よと艱難辛苦を舐めさせられ、親に背き、世間を捨て、筆舌に尽くしがたい難渋をしてきた。にっくきはカビただ一人と、両手着き、ハラハラと涙していると、冷凍庫ですと言いよるんや、雪蛍が」
 大師匠は雪蛍をさも憎々しげにアゴでしゃくって指し示します。雪蛍はアジの開きの骨をまるで飢え死に寸前の南方戦線日本兵のようにほじくっていて、まるで気にしていません。大師匠も大師匠ですが、雪蛍も大したものです。
 「冷凍庫・・・」
 教授は充電切れのカセットレコーダーのように小さく単語を繰り返すばかりです。
 「固いがな、カビは確かに来(き)やへんけど、固いがな。“でも大師匠カビは来ませんでしたやろ”てなこと言いよるんや、ほれ、あの雪蛍が(大師匠はアゴをしゃくって雪蛍を指し示します)。ほんなんやったらコンクリート詰めしたらどうやって、な、そういうことになるやないか。パンをコンクリート詰めしたらカビ来やへんやないかってな、パンのコンクリート詰め殺人事件やてなことになるやないか、やれるもんならやってみいちゅうなことになるやないか、・・・でも、ワシももう八十や、七十九やない」
 大師匠は黙りました。自分の歳のことを言うと大師匠は不思議に一瞬黙るのです。大師匠が黙ると、雪蛍のアジの骨をせせる音だけ耳につく異様な沈黙が一座を支配します。
 「ワシももう八十や」
 大師匠は首を振って落胆している様子に見えます。
 「大師匠」とわたしや雪合戦が声を掛けて覗き込みます。これ以上やっかいなことになったら困ります。
 大師匠にはときどき老人性の鬱が出ることがあるのです。
 「思い返せば、あれは元禄十四年弥生小望月の宵」
 鬱老人は突如顔を上げ、箸を拍子木替わりにして叩いて唸り始めます。
 「芝愛宕下・田村右京太夫邸の小書院前、五十坪ほどの内庭に涼み台が置かれ、雨障子の屋根型が作られておりました。検分役・目付多門(おかど)伝八郎、この人ねっからの熱血漢でありまして、この様子を見て“これが五万石取りの国持ち大名の切腹の場か、武士の礼すら忘れたか”と、憤激いたします。庭先で最後の垣間見を許された側人・片岡源五衛門、両手を地面にじっと落とし、ただハラハラと落涙いします。しかし緋毛氈の上に薄桃色の桜の花びらが散り落ちていた。浅野内匠頭長矩、これを見て微笑んだ・・・」
 大師匠は周りをグルッと見回して皺だらけの顔をほころばせます。その気味の悪さにみな顔を伏せます。
 「もうよい。深くは言うまい、のう、源五右衛門、ウッハッハッハ。・・・許そう。もうよい。この桜に免じて許そう。フフフフフ」
 大師匠の異様な一節が止まると、シャカシャカという雪蛍の魚をせせる音が異常な静寂を作り出します。
 「ま、これもですね」
 気まずい雰囲気を何とかしようと教授が話の接ぎ穂を探します。
 「つまりさっきわたしが言おうとした、集団的無意識ということ、特に講釈一門というというある種特別な一団における輪廻転生、まあ、こう言うと少し大げさに聞こえるかもしれませんが・・・」
 「ミタラソンの飛行機や」
 突如、あらぬ方を指さして大師匠が大声を出します。
 「は?」と教授がつられてその指先の方を見たとき、その指した手をパッと広げて教授のオデコを大師匠がバシッとはたいたのです。
 「な、見たら損やろ。そやからミタラソンの飛行機やって言うたんや。グッハッハッハハッハ」
 大師匠は気持ちよさそうに笑います。
 わたしたち弟子は入門以来何度となくこの「ミタラソン攻撃」を受けて慣れています。ある程度たつと「ミタラソンの飛行機や」といつものワナをかけられても「見ません」と吐き捨てて相手にしなくなります。そのときの大師匠の寂しそうな顔にちょっと罪悪感は持ちますが、でもそうそう大師匠の機嫌ばかりはとっていられません。
 しかし最近、大師匠はこの「ミタラソン攻撃」を初対面の人にむかって仕掛けるようになってしまったのです。困ります。
 わたしたちは口を半開きにし、ハラハラして教授の様子を見ていました。
 「あ、いた」
 教授は瞬間ムッとした表情で赤くなったオデコをさすっていましたが、周囲の心配顔を見て慌てて取り繕います。
 「あ、いやあ、これは一本取られましたな、ハハハ、参りましたな、これは」
 教授は叩かれたところを手でさすりながら照れ笑いします。
 ホッとしました。
 「座興じゃ、苦しゅうない」
 大師匠は教授の肩を叩いてクククと自分の肩を震わせて心地よさそうに笑います。自分で仕掛けておいて「苦しゅうない」はないと思うのですが。
 師匠・雪まじりが向かいの雪蛍に「(大師匠を)連れていけ」と目で合図します。雪蛍は場の窮状もどこ吹く風、相変わらずアジのせせりに夢中になっています。師匠が座卓の下からの二度三度キックしたのでようやく雪蛍は気づき、不承不承アジのせせりをやめて大師匠の方に顔を向けます。
 「大師匠」と歯に挟まったアジの干物の食べかすを指でほじくりながら、大師匠の方ににじり寄ります。
 「はあ・・・」
 大師匠が気の抜けた声を出して雪蛍の方を見ます。
 「大師匠、われわれ天神斎一門六名の苦しい胸の内、そろそろこの遠来の博学者にお伝えしてもよろしいのではありませんか」
 大師匠は久々の仕掛けの成功になおも上機嫌、「ミタラソンの飛行機がって言って、オデコバシッっていう、グッハッハッハ、このタイミングが熟練せんと難しいんや、グッハッハッハ、この手首の返しがな・・・」などと教授の頭をはたきながら図に乗って実演して見せていましたが、雪蛍の問いかけに「ウッ」と瞬間絶句しました。
 「大師匠」
 雪蛍は膝をさらに寄せて、大師匠の顔を見上げます。
 「いままで雨に立ち、雪にたたずみ、人にうとまれ、世にさげすまれ、われわれ天神斎一門六人、あれが乞食一門よ、貧乏集団よと悪口雑言の数々に耐えてきました」
 雪蛍はここでグッと言葉を詰まらせ、俯きます。大師匠はジリジリ近づいて、もう雪蛍の手を取らんばかりです。
 「大師匠(また顔を上げます)、胸にただ一つの大望あればこそでございました。大師匠、もうよろしいのではありませんか。大師匠、植木先生にだけは本当のことをお話ししましょう」
 雪蛍の十八番、腹の底から絞り上げるような声です。
 さっきまでエヘラエヘラ笑っていた大師匠の頬はもうすでにこわばっています。
 雪蛍の下げられた頭にウンウン頷き、ゆっくり正座に座り直します。それから教授の方にゆっくり正対し直して両手をつきます。
 「植木教授とやら、先ほどからの無礼の数々、さぞかしご不快、ご不審に思われたことでしょう」
 “ミタラソンの飛行機”ワナ成功のときのハシャギようとはうってかわって、押し殺すような声。はっきり“入って”います。
 「われわれ天神斎一門六名、今日ほど胸打たれたことはございません。驚き入ったるご心底、泥中の蓮、いさごの中の黄金とは植木先生のことでございます。ご子息・由松どのの喉元に短刀を突きつけられても“ハハハ、女わらべを責めるように人質取ってのご詮議か。天野屋植木は男でござる”と片肌脱いでの胸のすくような啖呵・・・」
 「大師匠」
 後ろから雪蛍が袖を引っ張ります。
 「違います、大師匠。息子は出てきません。『天野屋利兵衛』ではありません」
 ひきつるような声を出します。
 「おお、そうでした。息子は出てきませんな。これはしたり。お忘れ下され、植木先生、座興が過ぎた。・・・植木先生とやら、無骨の段々、平にご容赦下され。東大まで出た大学の先生、よもや間違いはあるまいとわたくしは固く信じておりましたが、一門の中にはまあこれが色々な者がおりましてな、格別のご無礼、どうぞお許し下され。・・・試したのです。申し訳ございません。いくら大学の先生といえども所詮は町人、万一にも捕らえられ、詮議に会わばどうだろうか、ことにも寵愛の一子の命にかかわることなどあれば、子に迷うは親心の常、たちどころに心変わりするやもしれぬと、あえて“ミタラソン攻撃”をしかけたのでございます。・・・いやはや驚きました。花は桜木、人は武士などまったくの粗忽の言い合わせ、いっかな武士といえども及ばぬ御所存、百万騎の強敵は防げども、先生ほどの性根は座らぬもの。先生の一心を借り受け、われらが手本とし、仇・上野介を討つならば、たとえ岩石の中に籠もり、鉄洞の内に隠るるともめったに仕損じするものではございません。まことに感服いたしました」
 大師匠はそれだけ言うと、大見得を切るように両手を広げたあと、畳に擦りつけるように頭を下げました。
 何が何やら話が分かりません。分からないまま、しかし「いやあ、感服いたしましたぞ、植木先生」などとムニャムニャ言いながら、大師匠は雪蛍に連れていかれました。

 「植木先生、大変失礼しました。まま、験直しに一杯」
 師匠が植木教授に卑屈な笑いを浮かべて酌をします。
 大師匠と師匠の関係には独特のものがあります。酒好きで遊び好きで、いわば天才肌の大師匠と、大学出のインテリ芸を標榜する師匠は芸の道としてはまるっきり合いません。特に最近は大師匠の言うことに翻弄されて師匠は苦虫噛みつぶすことが多いです。でも不思議と師匠は面と向かって大師匠に反抗したり、たしなめたりはしません。
 それは単に自分の師匠だから長幼の序を重んじているということではなく、わたしの見る限り、やはり大師匠へは芸の力として引け目を感じているのだと思います。所詮自分は天神斎雪中にはかなわないのではないかという、その引け目の裏返しが芸人としては異様な学歴偏重主義になっているのだと思います。
 「先生、どうか先ほどの話の続きを」
 どうも師匠の様子は自分への強力なお墨付きを植木教授に求めているような、そんな感じが見てとれます。
 師匠は酒を注ぎながら、植木教授の話を引き出そうとしています。
 「何を話していたかなあ・・・」
 植木教授は酒を飲み干しながら空とぼけています。教授は大師匠の“ミタラソン暴行”に臍を曲げているようで、つまるところ何か話の継続の誘い水が欲しいようです。
 「わたしも先ほどの話の続き、聞きたいです。ユングとかいう、何やら輪廻転生の心理学的分析とかいう・・・」
 わたしは二、三回膝を教授の方へにじり寄せて聞きます。師匠もわたしの問いかけに珍しく顔を輝かせて肩叩き器のように急激に頷きます。
 「え、ユングの話なんかしてました、わたし?」
 「ええ。先生、ユングという学者が何やら含蓄のあることを言っているとか。先生、ユングという人とわれわれの講釈、何か関係がありますか」
 師匠が重ねて問います。
 「いや、ユングという心理学者はですね」
 教授は咳払い一つし、座り直します。俄然話す気になったようです。
 「心というものは人間世界の中でもっとも強い力を持った事実だ。実に心こそはあらゆる人間的事象の・文化の・人間を殺す戦争の・母であると、そう言っています。これはユングの言葉の中で最も激しく、最も美しい言葉です。どうです?師匠」
 「はあ・・・、美しいようではありますが」
 師匠はひきつったニワトリのように首を傾げます。
 「だめですか?」と言いながら教授は余裕の笑みを浮かべます。「つまりですね、師匠。わたしたちはみな現実にある形を持って生きてますね。例えばわたしなら東大を出て阪西大学の教授という形、例えば師匠なら講釈師としての形・・・」
 「あ、あのそこへ摂中大学を卒業してというの、入れてもらえますか、摂中大学を卒業して講釈師というふうに・・・」
 師匠はニコリともせず訂正します。
 「あ、こりゃ失礼」と教授は苦笑します。「つまり、その摂中大学を卒業して講釈師としての形がありますよね」
 「はい」
 「つまり、その各自が持ってる社会の一員の形というのをユングはペルソナと呼んだ訳ですが、それはまあ世を忍ぶ仮の姿だと言って、例えば個々人が寝て見るときの夢とか、あるいは狐憑きとか、あるいは神懸かりとか、そういう何か熱情に促されてるようなときというのは、それは各人の社会的ペルソナとは別の民族のペルソナと言いますか、大勢で共通に持っている集団的無意識というのが発露してくるって言うんです」
 「はあ・・・」
 「いや、師匠、実はわたしもあまり信じてなかったんですよ。よく神懸かりとか、託宣なんていって、民俗学者とか心理学者は学問的検討課題だとかってことさら大仰に取り扱うけども、わたしなんか科学としての心理学に憧れてやってきたものですから、どうせあんなもん巫女とか呪術者とかいうペテン師のやるハッタリだという意識があって、だからユングの集団的無意識も民族としてのペルソナという言葉もあまりピンと来なかったんですよ」
 教授はそこまで言って座り直して正座しました。コップに残ったビールを飲み干して師匠の方に正対します。
 「民族のペルソナです。師匠の忠臣蔵は」
 そう大きな声を出して、教授は突然師匠の手を握りました。
 「今日みなさんの忠臣蔵聞いてると、何か突き動かされるものがあるんですよ。ユングのマユツバであろうと、原始的であろうと、非科学的であろうと、心は最も強い事実なんだというユングの言葉を思い出したんですよ。民族的ペルソナを身につけるということが輪廻転生だというユングの言葉を思い出したんですよ」
 「はあ・・・」
 「輪廻転生ですよ、師匠。赤穂義士の輪廻転生ですよ、みなさんは」
 教授は膝で師匠の方ににじり寄り、固く手を握ります。何が何やら訳が分からず放心している師匠はただ「はあ、はあ」と吐息のような呻きを繰り返すばかりでした。

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