なにわ忠臣蔵伝説
二章
年が明け、阪急豊中の師匠のうちで初稽古がありました。
月二回の定例の稽古もあまり気合いが入りません。十年一日のごとく『南部坂雪の別れ』や『笹売り源五』や『名残りの永代橋』など定番の義士物を稽古するのですが、ふとした拍子に「名人なっても客十人」とかいう言葉が耳元で聞こえたりします。
もはや話芸云々ではないと、弟子のわたしたちも教える師匠自身も薄々そうは思っているのです。でも口には出せません。口に出せば一門はすぐにも瓦解します。口に出さない、ひたすらの話芸精進のジェスチャーだけが、かろうじて一門を持ちこたえさせているような、そんな気がします。
雪合戦と二人、梅田から地下鉄御堂筋線に乗ります。ちょうど勤め帰りのラッシュに重なってすし詰めです。二人肩を並べて吊革につかまりますが、別に喋ることもありません。
「今月の手持ちがあと1万3000円で」とやはりすぐ頭に浮かんでくるのはカネのことです。
コンビニのバイトの給料が出るのが25日だから、あと12日これでやっていかなきゃいけない。1万3000÷12は1が立って、引くと1000やから、それをまた12で割ると0が立って、こんど100やから、8か、12掛ける8はニハチの16のハチイチが8だから、えっとなんぼや、とにかく一日千円ちょっとか、きついなあ・・・。でも九九ってのは凄いもんやな、外人はどうしてんのかなあ、トゥートゥーフォーなんてやるんかな、トゥトゥフォなんて省略したりするんやろな、多分。“ニニンがシ”って言うぐらいやから、アメリカでも“トゥトゥンがフォ”ぐらい言うんかな・・・。でもそれにしても一日千円はキツいなあ、コンビニのフランクフルトが実は鍵を握ってたりするんやな、残ると持って帰れるからな、でも・・・。
「おい、雪合戦、フランクフルトって地名やな」
地下鉄に乗ってはじめて雪合戦に声をかけます。
「何ですか」
雪合戦は読んでいる夕刊紙から目を離してこっちを向きます。
「フランクフルトって、そういう都市あるよな」
「ああ・・・、ドイツですか」
「でも食べ物のことも言うよな、ソーセージのでかいやつ」
「はあ・・・」
「なんでや」
どうもこの前の“カレイ事件”以来、雪合戦に対する言葉はどこか棘を含んでしまいます。
「なんでやって・・・、何ですか」
雪合戦の口調にもつっかかってくるようなものがあります。
「なんで都市名が食べ物の名前になるねん」
「はあ・・・」
「“わたしフランクフルト好きなの”とか言ったら“ぼくはベルリンの方が好きだ”“いや、ぼくはホットドッグの方が好きだ”とかって会話が訳が分からなくなるやないか」
「なんでそんなこと言うんですか」
「なんでって・・・、なんでそんなこと言うんや」
「そんなことがどうして気になるんですか」
「どうしてって・・・、変やないか。なんで都市名と食い物が同じ名前やねん」
「それは、そこで有名だからじゃないんですか。日本でもあるじゃないですか。“安倍川”とか、あれも安倍川で作られて有名になったから、ああいうモチを“安倍川”って言うんでしょ」
「でもお前、フランクフルトって言うたら、あのブットいソーセージのことだと日本人の7割は思ってるぞ。ドイツの都市名のことを日本人がソーセージだと思ってる。世界的だぞ。例えば住吉の駅前で作ってるイカ煎餅あるけど、あのイカ煎餅が世界に蔓延して、アメリカ人でもロシア人でも、こんな赤ら顔のデップリ太ったオジサンなんかが駅の売店でもスーパーでも“オー、ギブ・ミー・スミヨシ”とか言うんやで。えらいことやないか、これ」
「はあ・・・」
「ほら本町に着いた。ホンマチー、ホンマチーっていう車内アナウンスなんか、ホンマチー、ホンマチー、食べられないホンマチです、なんてなるやないか」
「はあ・・・」
雪合戦が乗ってくる乗客に押されてわたしの背後に回ったので、それきり話題がとぎれてしまう。わたしはまたポケットまさぐりながら“日割り計算”を始めなければならなくなりました。
「兄さん、これ、エグいですね」
背後の雪合戦が突然自分の読んでいる夕刊紙を差し出してきます。
「ボスニア情勢か、これはエグいな。昨日までの隣人が突然殺し合うんやから、これは確かにエグい」
「兄さん、そこじゃありません。これです」
片手で吊革を持っているので、雪合戦はアゴで示します。
「え、詰め将棋か、詰め将棋はそんなにエグくないやろ」
「詰め将棋じゃありません。その横です」
雪合戦はムッとして言います。
もちろんはじめから分かっていました。
何がどうしてそうなっているのか分かりません。白い足袋に白の長襦袢を着た女が真っ赤なロープでぐるぐるに縛られて、黒い目隠しまでさせられて、しかも上を向いて口を半開きにしています。
“奥さん、そんなことまで”
写真の脇にそういう言葉が書いてあります。わたしは無言のまま写真から目をそらします。
「エグいでしょう」
雪合戦はなおも夕刊紙を押しつけて追求してきます。
「ね、兄さん、エグいでしょう、これ」
顔をそむけているわたしに雪合戦はその広告ページを押しつけてきます。わたしは横のOLが気になって赤面してしまいます。
「やめろ、公共の場で」
小声だけれど、厳しい叱責の言葉を弟弟子に与えました。
一番基本的なところで、彼はまだわれわれの置かれた危機的状況を理解していません。そんなエロ広告などに気を奪われているときではないのです。三百年の伝統を持つ上方講釈の伝統が途絶えようとしている、どうやってこの危機を乗り越えるか、一門の者ならそのことで頭が一杯のはずなのです。
雪合戦は人を食ったようなところがあり、それはこの弟弟子の舞台度胸にもつながる長所なのですが、しかしノーテンキなのもいいかげんにしないといけません。
わたしは十年の芸人生活、何も自慢できることはありませんが、ただメリハリということの大切さだけは学んだ気がします。浮かれていい我々の状況なのかどうかを考えないといけません。
わたしの思わぬ強い言葉に雪合戦もわれに返ったようで、それきりその夕刊紙を畳んで静かになりました。少しほっとしました。
難波駅に着いて雪合戦と分かれると、わたしはキヨスクに急ぎました。その夕刊紙を買わない訳にはいきません。
“奥さん、そんなことまで”
どうしてこんなこと書くのかと、それが知りたかったのです。
“あなたのしたいこと、させてもらいます”
何なんでしょうか、これは。どうして今時の女が長襦袢姿でしかもグルグル巻きで目隠しされて、一体どういうシチュエーションなのでしょうか。
“人妻専用のSMクラブ”
どうしてこんなものを作るのでしょう。単に寂しい独り者を挑発して楽しんでいるとしか思えません。
部屋に帰り、わたしは3日間その夕刊紙を眺めました。嘆き、憤慨し、そして熟慮に熟慮を重ねて一度挑発に乗ってみることを決心しました。
70分3万円というコース、確かに高いです。高いですが、どういう訳かわたしの手元にはカネがあります。
年間50万の府からの賛助金の半年分を師匠から預かっていました。“とんぼりホール”貸借料など諸費用なのですが、大丈夫です。客を30人入れればSMクラブ代ぐらいすぐ捻出できます。
わたしが入門して以来、例会で30人入ったことはただの一度もありません。でもいままで入ったことがないからといって、これからもないとどうして断言できるでしょう。
そんなことウジウジ考えるより、いまはこの挑発を受けてたつことです。万が一、例会が潰れたとしても、それはそれで仕方ないのです。この挑発を見逃すことこそ講釈師としての一生の恥辱です。これを逃したら、何のためにこれまで武士道をやってきたのだという気がします。
わたしは押入の布団の下から賛助金半年分25万の入った封筒を取り出し、それと夕刊紙の切り抜き“奥さん、そんなことまで”をコタツ板の上に並べました。
数分間ジッと眺め、スックと立ち上がります。身支度を整えたあと、切り抜き“奥さん、そんなことまで”をポケットにねじこみ、早業で封筒から3万円抜き取ります。
「この間の遺恨、覚えたるか」
コタツ板の上に残された茶封筒に向かって、腹の底から声を浴びせます。
「殿中でござる。御座が近い」
梶川与惣兵衛になったわたしが内匠頭のわたしを背後から抱えて止めます。訳が分かりません。
「お離し下され、梶川殿。で、で、殿中は承知、意趣あってのことじゃ」
「浅野殿、乱心めされたか」
(「城中御書院番組頭・梶川与惣兵衛、内匠頭より二十も年上でありましたが、城中に知れ渡った怪力無双、ガッシと組みしだかれれば容易なことで動けません」とト書きまで入れます)
「もののふの大義が許さぬ。拙者も五万石の城主、触穢を知らぬ者ではない。しかし行かねばならぬ。最後の一太刀与えたい。武士の情けじゃ、お離し下され、お離し下され、梶川どのー」
少し空しくなって、浅野事件実演をやめ、そそくさ出掛けて行きました。
たった三万円じゃないか、どうなろうと知れたことです。
所在地の十三(じゅうそう)まで行くと、まず駅前をうろつきます。「電話乞う」などと書いてあるけど、簡単に電話してはいけません。なぜなら、わたしの場合、何も一目散に“奥様の部屋”に行こうという、そういうせっぱ詰まった状況ではないのです。わたしの場合は飢え死に寸前のルワンダ難民ではありません。目の前にコッペパンがぶら下がっていても「これはワナではないか」と反芻する余裕があれます。わたしは志ある浪士です。偶然、十三に来て何気なく駅前を歩いていると、偶然何だかよく分からない店があり、まあ気分転換にでも入ってみる?ってなことで入ったという、そういうことだからです。
駅前って書いてあるんだから、駅前うろついていれば店があるだろうと思ったがさっぱり分かりません。
「このまま帰れば何事もなかったというようなことで終われるぞ、いや十三の駅前もなかなか興味深いところだったよてなことを心豊かに反芻できるかもしれないぞ」
浪士の頭にはやや後ろ向きの存念も沸き上がり、電話ボックスの中で葛藤が起きたりします。
「番号をプッシュし呼び出し音が鳴るまでに切るという予行演習をやってみよう」
聡明な浪士の頭に葛藤の間を取り持つ画期的折衷案が浮かびます。
「番号の押し方を練習しとかなきゃね」
浪士は一人だけの電話ボックスでもちゃんと提案理由を説明します。
番号をプッシュして、呼び出し音が鳴るまでに浪士が素早く切ろうとしたら、ツルルルルと鳴り出して、火急事態じゃと受話器切ろうとしたら「はい」と男の声がした。
どうしてそんなにすぐに出るの。
「あれ?」
「は?」
「間違ったかな・・・」
浪士は小さな声を出します。
「は?」
「あのう“奥様の・・・”」
「はい。“奥様の部屋”ですが」
「よかった・・・」
何やら訳の分からない会話をして、こちらの「義憤」という真の意図を悟られないようにして、道順を聞きます。
駅前をうろついてもわからないはずです。“奥様の部屋”はただのワンルーム・マンションの数部屋を使っていました。看板も何も出ていないのです。
恐る恐るチャイムを押すして中に入ると、髪を後ろに束ね、ちょっと怖そうだけど、やたらに言葉遣いの丁寧なお兄さんがアルバムを出しながら言います。
「SコースとMコースがありますが」
アルバムはこちらには見えないように半分表紙を立てています。どういう重要なことが書いてあるのでしょうか。
「あのう、“奥さん、そんなことまで”というやつ・・・」
浪士は語尾のはっきりしない声を出します。
「は?」
「あの、長襦袢の上に紐巻いて、そんなことまでというやつ・・・」
「はあ・・・(お兄さんはちらっと首を傾げます)じゃあ、とりあえずSとM両方のコースでいきますか。ではですね、現在可能な子を紹介します」
お兄さんは机の中から写真の束を取り出し、「えー、この子と、次にこの子と、それからこの子ですね・・・」などと言いながら、まるでトランプを配るように机の上に写真を散乱させていきます。
浪士は“神経衰弱ゲーム”の札探りのように一枚一枚に顔を近づけて見ていきます。みんなスーツ着てきれいに化粧しているし、どれを見ても同じように見えます。
「どの女の人がいいかなあ」と浪士がなかば期待、なかばドキドキしながらしかし全エネルギーを集中して検索していると、「この子なんかいいですよ。胸は大きいし、テクニックもありますしね、歳は三十二で熟れ盛り、この子、絶対おすすめですよ」と言いながら、すでに髪くくり兄ちゃんは他の写真を片づけにかかっているのです。
「ほんとにいいですか」
やや不安になった浪士は念を押します。この浪士はここぞというとき念を押します。
「いや、もう絶対」
髪くくり兄ちゃんは手を上げて強調し、あっと言う間にそのキョウコという女の人以外の写真はなくなってしまいました。
「はい、では料金三万円になります」
「あ、はい」
大望ある浪士はポケットから封筒に入った三万円を取り出して渡します。師匠から預かった賛助金の一部、とんぼりホールの事務所の金庫に入る予定の三万円はどこでどう間違ったか、十三のとあるワンルーム・マンションの一室でやたらに髪の長い、得体の知れないニイチャンの手から手提げ金庫の中に入ってしまいました。
一度部屋を出て、指定された別の部屋で待っていると、「キョウコです。よろしく」などといいながら黒いセーターを着た“奥さん”が入ってきました。
奥さんはアイスホッケーの選手のような大きなスポーツバッグをズルズルと部屋の中に運び入れています。まるで宅配便のアルバイトねえさんのようです。
「何か設定があればお聞きしますけど」
極めて事務的にそのバッグの中からタオルやらを出し始めながら、チラッとこっちを見て聞きます。しっかり化粧はしているけど、何やら目の周りが黒ずんで見えます。こういうところで苦労を積み重ねたからでしょうか。
「は?」
「お客さん、こういうところ初めて?」
「うん・・・」
「あのね、ウチはね、色々設定が出来るのよ」
奥さんはバッグを開け、男性器の形をした色々な道具や洗面器やら注射器やらヒモやらをきわめて事務的に並べます。
「設定?」
「あ」スポーツバッグ奥さんは突然思い出したように両手を広げます。「あ、洗面器とポリ袋忘れた。今日、浣腸はどうします?」
「は?」
「浣腸。・・・します?」
「浣腸って・・・、あの?」
「ええ、こっちにさせるのが希望のお客さんと自分の方がされたいという希望のお客さんといますけどね・・・。どうします?浣腸」」
「い、いや今日は浣腸はいいです」
慌てて首を振ります。
「あ、そう。それなら洗面器はいいね。・・・何か希望があったら言ってみて」
「あの、ほんとに人妻なの?」
「何?」
「いや新聞広告には人妻専門とかって書いてあったけど、ほんと?」
「そうよ。ウチはね、人妻ばかりなの」
セミロングのウエーブのかかった髪を掻き上げながら、奥さんはフフフと笑います。濃い化粧の目尻にパウダーがよっていて笑うと皺にパウダーがめり込んでいっています。ほんとに人妻なんだろうか。
「じゃあ、普通のバイブ・プレーでいいかしら」
「バイブ・プレー?」
「ええ、バイブ。・・・使ったことあるでしょ。ここにウタマロからローターまで5種類あるからね、ウチはね、使うときはスキンつけるの。ウチはそういう衛生面しっかりしてるからね、安心してね」
ズラリ並べたバイブレーターの上に手を置いてこっちを見ます。
「はあ・・・」
「あと、ゴムパンティとか、ムチとかどうしますか。ピンピアスもありますけど・・・」
「はあ・・・」
「まあ、最初はノーマルなSMでいきますか」
“ノーマルなSM”か。でもちょっと変な言葉やなあと考えていると、奥さんは勢いよくセーターを脱ぎ始めました。
胸は確かに大きいけど、下腹も少し膨らんでさすが年輪を感じさせます。黒いストッキングのふくらはぎのあたりにほころびがあって、下の地肌が薄紫の部屋の照明で白く浮き上がって見えます。ストッキングぐらいぴっちりしたの履いといて欲しかったと少し残念な気がしました。
「あのう、着物来て欲しいんやけど・・・」
「着物?」
「うん」
「ああ、あの新聞広告の長襦袢ね、そういうお客さん多いのよ、うん、分かった。何色がいい?白と赤とあるけど」
奥さんはこっちを見てニッコリします。
「いや、長襦袢じゃなくて、火消し羽織なんだけど・・・」
「は?」
「実は持ってきてる」
わたしは自分の紙袋を開けて、用意してきた袖に白い入山形の入った紺の火消し羽織を取り出します。
三年ほど前、赤穂の義士祭に一門で参加したとき貸与された火消し羽織です。赤穂では毎年暮れの討ち入りの日に義士行列が行われますが、前夜祭でわれわれがやった忠臣蔵講釈が思いのほか好評で、翌日の行列にもぜひ参加欲しいと招待されました。そのとき実行委員会から貸与されたものです。わたしはどうしてもこれが欲しくて欲しくて、祭りのあとのドサクサにまぎれて持ち帰ってきました。
自分で言うのも変ですが、どうもわたしはおかしいです。
“忠臣蔵の天神斎一門”と知って、それに憧れて入門しました。もちろん『忠臣蔵』には師匠や兄弟子と同じくくらい心酔しているつもりですが、どうも心酔の仕方が師匠や兄弟子とは違う気がします。言ってみればエロチックな心酔のような気がします。わたしの場合は忠臣蔵のあのストイックな忍従、艱難辛苦に耐える浪士の姿、そして本懐を遂げるべく進行していくときのあの高揚を意識するとモヤモヤしてきます。
はっきり言います。股間をこすりたくなります。
特にあの討ち入りの衣装がたまらなく好きです。頬ずりしたくなります。
こういうの、世間ではフェティシズムと言うらしいです。変態の一種らしいです。でもそんなことどうでもいいです。わたしは変態です。わたしは『忠臣蔵』はメチャクチャいやらしいと思っています。
奥さんはまだバイブレーターの列の上に手を置いたまま、目を開いてこっちを見ています。
「これは赤穂の義士伝保存会が当時の伝承に基づいて厳密に再現した火事羽織です。生地は京の絹商・菊屋弥兵衛のあつらえた最高級黒ラシャ。背中にはくっきり浅野家家紋“鷹の羽ぶっ違え”」
わたしは義士羽織をバイブレーターの列の横に広げ、手でなぞりながら説明していきます。
「袖と裾には丹頂白の大胆な入山形。衿付け止まりから衽(おくみ)の褄先までの“縫いつけ雪晒し”には浪士一の美男“片岡源五衛門”、この人は内匠頭最愛のお側衆と言われた義士で内匠頭の最後を唯一看取った家来です。その“源五右衛門”の墨痕。・・・奥さん、これは厳密に再現された討ち入り火事羽織です」
ブラジャーとパンティーの姿になっていた奥さんは不審気に手を出して火事羽織を手にします。
「これ、着るの?」
「はい」
わたしはこっくり頷きます。
「ここに鎖帷子(くさりかたびら)もあります。これも浪士たちが討ち入り時に羽織の下に着ていたものです。これを素肌に付けてくれ」
わたしは究極の衣装を手渡しして感極まるものが出てきました。何やら命令口調になってきました。普段大師匠だ、師匠だ、兄弟子だと、貧しい中で序列だけ重んじようとする鬱屈した小集団の中にいる反動かもしれません。どんどん高揚していきます。
鎖帷子も赤穂の義士祭からかすめてきたものです。この日のために大切に押し入れにしまっておきました。
「あと、これは畳頭巾(たたみずきん)。額の部分が黒ハガネで、そこから紫の綸子(りんず)の頭巾が頭部と顎を覆う。それから白ダスキに黒繻子の細帯。これを着けてくれ」
奥さんの並べたバイブレーターと紐ムチとゴムパンティーとコンドームの陳列のこちら側に、鎖帷子に畳頭巾と白ダスキと細帯が並びます。不思議な取り合わせです。
「実はわたしは忠臣蔵を専門にやる講釈師です」
火事羽織を手に呆然としている奥さんを見上げて言います。
「どうか、助けると思って着てみて欲しい。わたしは前からこんな忠臣蔵を夢見ていたんです」
わたしはカーペットの上に両手を着いて頼みます。
「まあ、商売だから、何でもするけどね・・・」
奥さんは諦めたように頷き、わたしの揃えた“忠臣蔵衣装”を持ってカーテンのうしろのシャワールームに入ります。
「え、下はどうするの?足の方は?」
カーテンの後ろから首を出して訊きます。
「下はこの網タイツを履いて欲しい」
わたしはこれもかねて準備していた網タイツ、通信販売で買った黒の網タイツを差し出します。
「上が羽織で下がタイツ?・・・これも討ち入りと関係あるの?」
「いや、ない。これは単にわたしの趣味です。はっきり言います。わたしの趣味です。前から網タイツが好きでした。忠臣蔵とは関係ない。単にわたしの趣味です」
わたしは急に感極まってきて、床に置いた網タイツを両手で握りしめ、同じことを繰り返し呟き始めました。
「あ、ごめんなさい。・・・分かった。あなたの趣味ね。うん、分かった。そういう趣味の人多いから安心して。・・・網タイツ履くからこっち出して」
奥さんは硬直した客を慰めるように取りなします。
「・・・あと、この脇差し、オモチャで短いけど、これも差してくれ」
「あ、はあ・・・」
奥さんがカーテンの後ろで着替えている最中に、わたしは急いで浴衣に着替えます。吉良上野介にならねばなりません。上野介がいてこその討ち入りです。
「できたわよ。どう」
十畳ほどのフローリングのワンルーム・マンションに白い布団が一式敷いてあります。。昼間だけど窓に暗幕を張り、部屋には青いムード照明がついて、そこへカーテンの後ろから女義士が現れました。
漆黒の地に丹頂白の入山形の入った大名火事羽織、かしらには精悍な紫の畳頭巾、はだけた胸には鎖帷子、乳房の膨らみや乳暈が見え隠れします。
わたしは見惚れてしまいました。美しいです。間違いなく美しいです。
奥さんも壁一面に張られた悦楽鏡に自分の姿を映してまんざらでもないような表情をしています。
「あの、もう一度隠れて欲しい。いまから“出”の講釈やるから、それから出てきて欲しい」
わたしは一つ咳払いして座り直します。浴衣姿で講釈するのは初めてです。
そこにあった特大のバイブレーターでバシッと一度床を打ちます。拍子木の代わりです。
「今を去ること二百有余年の話でございます。太平を謳歌する江戸の人々の眠りをさました赤穂事件が起こりましたのは元禄十五年極月十五日のことでございました。江戸竪川、前々日の雪なお残る未明の道を闇にまみれ、隊伍を組んで歩を進める一団がおりました。目指すは本所回向院裏、吉良上野介ただ一人(いちにん)、吉良邸長屋門は雪をいただき、月に照らされておりました。われら旧播州赤穂藩城代家老・大石内蔵助以下四十七名、亡き主君の恨み晴らさんがため、ただいま推参つかまつった。ひとえに亡主の意趣を継ぎし志に御座候・・・」
「もういい?」
カーテンのうしろから女義士が覗きます。
「あ、おのれ、赤穂の浪人か、さもしい根性に脆弱な魂で逆恨みなどしおって・・・」
「ジャーン、お前が吉良か」
奥さんも結構楽しんできたようです。火事羽織の下の網タイツが照明に照らされて青く光っています。
「きさま、さては女か。赤穂の忠臣も人不足でついに女を雇ったか、クッハッハッハ、片腹痛いわ」
「おのれ吉良上野介、亡君の恨み晴らすぞ、ヤーッ」
奥さんはオモチャの刀を抜いてかかってきます。それを浴衣姿の上野介がさっと払って、足払いをかけ、組み伏せます。上野介は気合いが入ってきました。
「ウフフフ、口ほどにもないものじゃ。おのれ、女浪士、どうじゃ、憎き吉良の膝の上で組みしだかれる感想は、ウン?どうじゃ、ホレホレ、仇の手が胸を這っておるぞ。どうじゃ気持ちは。辛かろう、苦しかろう、ほれ喚け、喚かぬか、吠えぬか、おのれの不憫を嘆かぬか」
上野介は女浪士の細帯を解き、火消し羽織の前をはだけさせて素肌に着けた鎖帷子の上に手を這わせます。
「ほう、鎖帷子の隙間から乳首が見えておるぞ、どれどれ、細帯を解いてやろう、こんなものしておいては思う存分仇討ちが出来まい、フフフ、しかし赤穂の家臣というのは討ち入りに網タイツを履くのか、これが山鹿流の兵法か、なかなか粋なものよのう、フフフフフ」
「ああ、やめろ、上野介、む、む、無念じゃ、亡き殿に続いて拙者までもこのような辱めを受けようとは、む、無念じゃ」
「ほ、ほう、無念とは汁を垂れ流すことか。ほれ、タイツの隙間からもうこのようにお湿りが・・・」
「あ、あ、あーあ、無念じゃ、ヒヒじじい上野介、く、く、くやしーい、おのれ、上野介、あ、あーん」
「ほれ、タイツの隙間からバイブとかいうものを入れてやろう。悔しかろう、無念じゃろう、ほれほれ、仇の上野がバイブを突っ込むぞ、ほーれ」
佳境の悦楽に入ろうとしたとき、部屋の電話がツルルルルと音を立てました。
「あ、ちょっとごめんなさい」
ついいままで「あーあ、あ、あ」などとあられもない声を出していた女浪士が胸をはだけ、タイツを下ろした姿勢のまま、モゾモゾ電話のところまで這っていきます。
「あ、はい、分かりました」
女浪士はそれだけ言って電話を切りました。電話は床に置いてあるので四つん這いの格好です。上半身にはめくり上げられた鎖帷子、下半身には半分擦り下ろされた網タイツがまとわりついていて、股間から濡れた陰毛や性器が見え隠れして、とてもいやらしいです。 「あ、時間なの。延長もできるけど、どうする?」
女浪士は振り返って上野介に訊いてきました。
「何?」
上野介はまだフーフー興奮の息を吐きながら訊き返します。
「70分コースの時間がきちゃったの。延長する?するでしょ?ここままじゃ終われないものね」
「いくら?」
「30分で一万円だけど・・・」
女浪士は乱れた髪を掻き上げながら答えます。床に転がったバイブレーターがまだウイーンウイーンと音を立てています。
「帰る」
「へ?」
女浪士はあっさりした答えに拍子抜けしたように訊き返します。
「帰る」
上野介は立ち上がって浴衣を脱ぎ、パンツとズボンを履きます。浪士衣装のセットを掻き集めて紙袋に詰めます。何だか涙が出てきそうでした。
「ごめんね」
すっかり衣装を脱いだ女浪士が片づけを手伝いながらポツリ漏らしました。
その言葉に顔を上げると、横座りした女がむき出しの乳房も陰毛も隠そうとせず両手を着いてこっちを覗き込んでいます。
「いまだ本懐ならず。無念じゃ」
わたしはそう言って、膨れ上がった紙袋を抱えて部屋を出ました。
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