なにわ忠臣蔵伝説

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  三章  

 阪急西宮北口からすぐの西宮球場は昔は確かに野球をやっていました。
 昭和四十六年の日本シリーズで山田久志が王貞治に逆転ホームラン打たれました。当時小学生ながら生まれ故郷の姫路で“アンチ巨人・少年決死隊”に入っていたわたしは、マウンド上で片膝つき、土を投げつけた悲劇の山田久志をテレビで見て泣きました。あれは確かにこの球場でした。
 いまでも外観は野球やるところです。でも野球はしません。阪急ブレーブスはオリックス・ブルーウエーブと名前を変えて神戸に行ってしまい、もう野球なんてやらないのです。
 いまは競輪をやります。
 人工芝のグラウンドに板張りの傾斜のついたトラック(競輪ではこれをバンクと言うらしい)を作り、外野フェンスの穴からカートに乗ったリリーフピッチャーではなく、自転車に乗った赤や黄色の原色ユニフォームを着た選手が出てきます。
 もともと西宮球場は野球場としても破格の三階立てスタンドを有しています。それを競輪場として使うのですから、当然のこと全国一の収容能力を持っています。
 かつて競輪が“ギャンブルの王様”と言われていた頃(そう言われていた頃があったそうです)は、それでもこの収容能力とと立地条件の良さから競輪入場者記録を作ったこともあるそうです。でも今はその巨大なスタンドがあだになっています。周囲にそびえ立つ観客席、コンクリートがあちこちではがれてアバタのようになり、くすんだ色の椅子がただ寒々と並びます。
 競輪はギャンブルです。車券を買ってそれが当たればいくらかの儲けになります。だから自分の買っている選手が出てきたら大声で声援する、と思っていたのですが、違いました。
 わたしも何度か大師匠に連れて来られましたが、ここにタムロしているオッチャンたちはまず人を誉めません。
 選手が出てきたらダダッと入場口に近い外野フェンスに駆け寄り「おいボケ、こっち向かんかい、アホ、カス、今日負けたら承知せえへんぞ」と叫ぶのです。自分たちが車券買っている選手で、これからしっかり走って欲しいと思っているはずなのだから「ガンバレ」とか「応援してるぞ」とか声かけてもいいと思うのですが、ここの人間たちは決してそんな生ぬるい言葉は掛けません。
 ことによると、ここのオッチャンたちは冷徹なリアリストで、「心温まる言葉」というものの嘘っぱちを見抜いているのかもしれません。そういう意味では虚飾を排する話芸を目指すわが一門の範たる人たちかもしれません。
 事実オッチャンたちの喚きを聞いていると寒々として、現実に引き戻され、思わず俯きます。自分たちの一門会のまばらで冷え切った客席のことが思い出されたりして、胸が締めつけられ、外野スタンド(競輪ではここが特等席です)にしゃがみこんでしまいます。

 大師匠は甲東園のマンションから自転車でやってきます。
 七年前におかみさんを亡くして、それまでの宝塚の家を売り払って一人住まいを始めました。普段は弟子たちに付き添われてやっと歩ける状態なので、「大師匠、危ないから自転車はやめて下さい」とぼくらはよく注進しますが、どういう訳か競輪の時だけはシャキッと自転車に乗れます。
 競輪のときのしっかりした大師匠を見ると、普段のあのヨボヨボは周りの同情買うための演技なのではないかという気さえしてきます。
 「あ、う、雪だるまか。ワ、ワシや」
 今朝も住吉のわたしの文化住宅に電話がかかってきました。この時間に大師匠から電話があるというのは競輪の介添えの誘いしかありません。瞬間イヤーな感情が沸き上がってきます。
 大師匠の甲東園というのは西宮球場から歩いても20分ぐらいの距離なのですが、わたしの住んでいる大阪市の南の端からは電車乗り継いで1時間半はかかります。毎度毎度ですから電車賃もバカにはなりません。
 でも痩せても枯れても一門の総帥の頼みですから断る訳にはいきません。
 わたしが待ち合わせの自転車置き場で待っていると、八十才の老人がママチャリのハンドルにほんの少し身をかがめ(本人は目一杯の“モガキ・スタイル”だと思っているようです)、口で「ジャーン、ジャン、ジャン、ジャン、ジャジャジャ」と、競輪のゴール一周半前に鳴らすジャンの音を真似ながらやってきます。いつものことです。競輪選手になりきっています。
 力を入れてよろけそうになるところをわたしが危うく止めます。
 「やー、やりました。高原英伍、渾身のまーくり炸裂でーす」
 大師匠は遥か昔の好きな選手の名前を言いながら、両手を上げます。わたしはよろける自転車と師匠を支えなければならず、ヒヤヒヤしますが師匠の頭の中はもう既にウイニングランです。
 「ま、満場のヒュタンドに高原永伍、手を振って答えていまーひゅ」
 入れ歯の具合が悪いのか、いつも以上に言葉が判別しにくくなっています。でも大師匠はそんなこと全然気にしていません。
 「大師匠、危ないです。大師匠、頼みますから降りて下さい。大師匠」
 わたしはすでに遠くへ行っている大師匠の頭に向かって絶叫します。
 「おっと、何やら声が聞こえまヒュ。栄光の日本選ヒュ権をヘいした高原永伍に自転ヒャを降りて近寄ってきて欲ヒいというファンの要望でヒュな、これは。これには高原英伍、苦ヒョーひながらも応じざるを得まヒェん」
 必死になって支える孫弟子の肩に手を掛けてオロオロしながら競輪老人が自転車から降ります。
 降りて、じっとこっちの顔を見て、それからニッと笑います。
 「お、雪だるまやないか。なんでこんなとこにおるんや」
 自分で強制的に誘い出しておきながら、もう忘れています。
 「お前も好きやのお。・・・けど修行中の身なんやから、賭事はな、こりゃたいがいにしとかなアカンぞ」
 そう言いながら大師匠はフニャフニャ笑っています。
 「まあ今日は大目に見といたるけどな。・・・酒ないか。え、酒の用意してへんのかいな。アホか。酒で体でもあっためながらやらな、こんな薄ら寒いバクチできるかいな。なんぼ忍耐力が売りのこの雪中でも、ええ加減怒って帰るで。え、ワシ帰ってええんか。機嫌損ねて帰って、それでも弟子といえるんか。どっかで酒探して来い。熱燗やぞ。冷やなんか、ワシャ飲まん方がマシなんやからな」
 わたしに自転車片づけさすなり、とにかく好き放題、言いたい放題です。どうしてこんなわがままな老人に付き合って好きでもない競輪のエスコートまでしなきゃいけないのかと泣きたくなります。

 競輪というのは九人でレースするのですが、最後の二周ぐらい、勝負どころになると三人ずつぐらいのグループを組んで戦います。徒党なんか組んで卑怯な、一人で戦わんかという気もするのですが、「風圧避けるために大切なことだ」と選手も言い、口の悪いファンたちも「徒党組むな」とはヤジらないところをみると、まあ仕方ないことなのかもしれません。
 大師匠に言わせると、競輪というのはこの「徒党を読む」のが最も大事なのだそうです。
 その三人の徒党が単に知り合いだからなのか、恩と義理によって出来たのか、金の貸し借りによって出来たのか、女をめぐる骨肉と愛憎によって出来たのか、それを読むのが真の競輪車券師なのだそうです。
 「でも、そんなこと分からないでしょう」
 外野スタンドのスコアボード(このスコアボードは野球に使われることはなく、競輪のビジョンとしてだけ使われます)のすぐ下で膝を抱えながら大師匠に聞きます。
 大師匠は熱心に競輪新聞に赤線を引いています。徒党の人間関係を読んでいるのでしょう。
 「雪だるま、お前、大石内蔵助の“山科閑居”の話、知っとるな」
 「あ、はい」
 「まあ、知っとるわな、ウチの一門の一つ覚えのネタなんやからな」
 わが天神斎一門というのは『忠臣蔵』がお家芸、『忠臣蔵』で食べさせてもらってるというのは一門代々の常套句で、それは一種の宗教のようになって『忠臣蔵』の悪口とか、デフォルメとかは許されないような雰囲気があるのですが、大師匠というのは師匠などと違って、どこか『忠臣蔵』を諦めているようなところがみえるのです。「しょせんダメだよな、嘘の世界だよな」みたいな雰囲気を感じるところがあるのです。他の一門の人間はみな、それは老衰とボケのせいだということで片づけていますが、わたしには案外大師匠の本心ではないかと思えるのです。
 「雪だるま、あの“山科閑居”どう思う?」
 「どうというのは・・・」
 「内蔵助が毎夜毎夜伏見の遊郭へ出向いて遊び呆けて、周りからは故殿の無念も忘れて、うつけ者よ、浮かれ侍よと悪口雑言の限りを言われ続けたが、それもこれも吉良方の目を欺くため、わしも好きで飲んでいる酒ではない、好きで遊女と遊んでいるのではないという、あれ、どう思う」
 「はあ・・・、内蔵助も辛かったのかなあと、そう思いますが」
 「辛いこと、したいやろ?」
 「は?」
 「辛いことしたないか?辛い酒とか、辛い女遊びしたくないか?」
 「はあ・・・」
 「つまりな、雪だるま、そういうことや」
 「は?どういうことですか」
 「分からんか。お前、何のために忠臣蔵講釈やってきたんや。みーんな、人間読むためやないか。ええか、わしらの一門がこんだけ売れへん講釈にしがみついてきたのは、みーんな、人間読むためや。何のために人間読んできたんや。競輪のためやないか。車券取るためやないか。この競輪の人間関係読むために講釈やってきたんやないか。お前、十年も講釈やってきて、まだ気づかんかったんか」
 「はあ・・・、わたしらの講釈は競輪のためですか?」
 「当たり前やないか。競輪選手いうたって、所詮は他人や。外へ出る情報いうたら、出身地やとか、誰と同期やとか、誰と師弟関係やとか、そんなもんや。いくら選手の性格読め、人間関係読めいうたって一般人には限界がある。その点、講釈師、特に忠臣蔵講釈師は違う。毎夜毎夜山科から伏見の遊郭へ遊びに行って、亡君の恨みすら忘れて遊び呆けるウツケよ、昼行灯よ、赤穂のあほう侍よと、罵詈雑言の限りを浴びせられても遊女遊びをやめん、一般人どころか同志の者すら頭領を疑い始める。しかしみーんな敵を欺く策略、俺が好きで酒飲んでると思う?道楽で女抱いてると思う?辛いよ、ほんとに、という苦しーい、切なーい大石内蔵助の胸の内が分かる訳やないか、われわれ講釈師には。な?分かるやろ、辛い大石の気持ちが」
 「はあ・・・」
 「これを競輪に生かさんでどうする。真の競輪を読み切れるのは忠臣蔵講釈師しかない。競輪も読めへんとしたら、何が悲しゅうて客が飛び石みたいなまばらな小屋で講釈やらなあかんねん。竜安寺の石庭の岩でももうちよっと密度が高いで、ほんまに。その上、竜安寺の岩はおとなしいけどシャキッとしてる。・・・ウチの小屋の岩はまばらな上に寝よるがな。寝るなっちゅうねん、八人しかおらん客が、ほんまに。八人しかおらん客が居眠りしたら、わしらは一体誰に向かって講釈したらええねん、ほんまに」
 大師匠の話は方向を違えてどんどんエスカレートしていきます。
 「大師匠、分かりました。競輪というのは要は人間関係ですね」
 大師匠を沈静化させないといけません。血圧上がって発作が起きたら大変です。
 「そうや、人間関係や。お前、初心者やのによう分かったな。なかなか勉強しとるやないか。そうや、お前の言う通り、競輪いうのは人間関係や。競輪といえば人間関係、これはホットケーキといえばハチミツみたいなもんや」
 大師匠は酒が好きな割に甘いもの、特にホットケーキが大好きで、大師匠のマンションに行くと必ずホットケーキを作らされ、それをつまみに大師匠はよく酒を飲みます。
 「ホットケーキですか、競輪は」
 「そうや、雪だるま、お前初心者やのによう分かったな、・・・ええか、例えば今日の8レースに出とる京都の八黒という選手やけどな、これがホットケーキや」
 「はあ、この選手がホットケーキですか」
 「そうや」
 大師匠はここで辺りをはばかるようにチラチラ見て、それからぐっと顔を寄せて囁きます。
 「ええか、誰にも言うなよ。八黒は大阪の高瀬いう選手に父親殺されとる」
 「はあ?」
 わたしは素っ頓狂な声を出します。
 「しっ。声が高い、雪だるま。周りに聞こえたらどうすんねん」
 大師匠はわたしを叱責して、それからチラチラ周りに目を配ります。
 「ええか、雪だるま、競輪いうのはな、秘密を保持することが第一なんや。米屋の前原伊作は上杉手配の護衛隊に吊され、むち打たれ、半殺しになっても赤穂浪士であることを口割らんかったやろ。ええか、雪だるま、競輪は命がけのバクチや。赤穂浪士の義挙と同じや。義士たちが旨とした“黙し(もだし)心”、絶対秘密を守るぞという鉄の意志、それこそ競輪の極意なんや。・・・ええか、聞くだけ聞いとけ。メモ取ったらあかん、証拠が残る。口で繰り返してもあかん、周りのもんに気づかれるからな」
 大師匠はまたぐっと顔を近づけ、ほとんどわたしの膝の上に猫のようにすりつきます。まるで接吻でもするような体勢です。
 「ええか、この8レースの3番の八黒な、先月オヤジが死んどるんやけどな、それがちょっと変な死に方やったんや」
 話の合間合間にチラッとわたしを見、それから周りの気配を伺い、大変な機密暴露が続きます。
 「腐った牛乳飲んだんや」
 「は?」
 「腐った牛乳飲んだんや」
 言ったあと、顔をはなして「どうや」という雰囲気でわたしを見ます。
 「はあ・・・」
 「どや、おかしいやろ」
 「腐った牛乳って・・・、それで死んだんですか?」
 「な。・・・おかしいやろ。不審な死に方やろ」
 大師匠は人差し指でわたしの肩をつついて「な」と相づちを求めます。
 「はあ・・・」
 頷かざるをえません。
 「そこで浮かんだのが他殺説。ここだけの話やけどな(大師匠はまたぐっと顔を近づけます)大阪の高瀬の実家ちゅうのは泉南地区で乳牛飼うてる。・・・さらにや、ええか、その一月前の岸和田のA級優勝戦で、この二人が猛烈な競り、競りっちゅうのはいい位置を巡って二人が当たり合うっていうことなんやけどな、その競りをやって、高瀬が八黒にこかされてるんや。そのことを根に持った高瀬が腐った牛乳を八黒の実家の前、配達された牛乳の代わりに置いておいたんや」
 「はあ・・・」
 「はあって、お前、ええかここが今日の8レースのポイントや」
 またぐっと顔を近づけてきます。
 「八黒はな、このことを薄々感づいてるんや。先月の『月刊・銀輪』ていう競輪専門紙の中で“誰よりも競輪を愛していた父の死はショックでした。今は父の死を無駄にしないよう、日々練習に励んで必ずバンクで大輪を咲かせます”と牛乳のことはひた隠しに隠しとる」
 「それって・・・、隠してるんですか」
 「な、おかしいやろ。見え透いとるやろ。でも本人は隠してるつもりなんや。牛乳ってことを言うてしまうと、どうしても高瀬のとこへ行きついてしまう。何せ、競輪選手2000人の中で実家で乳牛飼うてるのは高瀬だけやからな。それであえて牛乳のことは伏せたんや。高瀬を警察の手で捕まえてしまわれては仇討ちが出来ない。仇討ちは自分の手でやりたい、それも父の愛したバンクの上でやりたいというのが八黒の切なる願いなんや」
 「はあ・・・」
 「ええか、そこでや」
 大師匠はまた8レースの出走表を取り出します。
 「この8レースは命を賭けた、父の仇討ちが行われる。5番の中立という大阪選手の後ろで八黒と高瀬が競輪そっちのけでぶつかり合い、そして両方とも落車や。何せ父の仇討ちやからな。本所吉良邸の修羅場がこの西宮で再現される訳や。落車必定や。このデカい二人が落車したら、その後ろも当然巻き込まれる。だから最後方をついて回っている、ただ出走手当だけもらって今晩の焼酎二杯飲もうという、それだけのために走ってる4番の池田哲二っていうのが自分でもビックリの2着に突っ込んで大万車券の大穴が出る。DC、これ1点、騙されたと思って買うてみ」
 「DCですか・・・、大師匠、300倍もつきますよ」
 わたしは背後のオッズ板を見て声を出します。
 「いや、ええ。気にせんでええ。・・・ワシな、雪だるま、正直いつも心苦しく思っとるんや。弟子やいいながら充分なギャラが渡せん。仕事も紹介できん。ほんま一門の責任者として心苦しい。こんなことででもせめてお前に幸せになって欲しい。いや、一緒に幸せになろう。な、雪だるま」

 競輪というのは最後の一周半前になると「ジャーン、ジャーン、ジャンジャンジャン」と鐘が打たれ(これを“ジャン”と言うそうです)、これから勝負所ということを選手にも客にも知らせます。
 予想通り5番の中立が前を走り、9番の高瀬と3番の八黒がこれに続きます。
 大師匠の確信情報によると、これからこの2人の命がけのぶつかり合いがあるはずです。わたしも半信半疑ながら自分の買っている二千円の車券が六十万になるという甘い夢だけを見ていました。でもぶつかり合いなどという、そんな過激なことはカケラも起こりません。5番が逃げ切り、その後ろの高瀬が入ってDHの一番人気ですんなり決着しました。
 大師匠の方を見ると「八黒も父の仇を討とうという気はないのか。武士の魂、ドブに捨てたか」などと競輪新聞見ながらブツブツ言っています。
 選手がわたしたちのいる外野スタンドの下の通用門に引き揚げてきます。
 それを見ると大師匠はドドドドと金網に寄っていきます。普段は膝がいうことをきかないとか言って、誰かの肩につかまらないと歩かない人が、どうしたのでしょう、まるで三段飛びの選手のように飛び跳ねて金網まで行きます。
 「八黒、そんなことでオヤジが浮かばれるんか。・・・高瀬、腐った牛乳飲ませたこと、ネタはあがってんぞ」
 目一杯声を張り上げてガナリます。さすが講釈師、八十歳の老人には思えない声の張りです。
 わたしは周りに気恥ずかしくて思わず目を伏せました。もちろん当の八黒も高瀬も見向きもしません。
 「へへ、一発かましといたった。安心せえ、雪だるまの車券の仇はちゃんととったったぞ」
 意気揚々と、でも今度はちゃんと膝を引きずりながら戻ってきました。
 「まあ、いまのキツーい野次で、あいつらも目が覚めるやろ、ハッハッハッハ」
 大師匠は周りを見回して意気揚々です。
 「今日は今月の水道代を持ってここへ来ました」
 わたしは大師匠の方に近寄ってボソボソ呟きます。
 「6レースも大師匠の言う通り買いました。全然でした。7レースも大師匠の自信ありという言葉を信じました。見事に裏切られました。人殺しがあったといういまの8レース、他人に人殺しの汚名まで着せるんだから、よっぽどのことだろうと信じました。水道代の残りを全部つぎ込みました。・・・水道が止まると、結構辛いです」
 下を向いてブツブツ言います。
 「水道止まると、結構命にかかわります」
 なおも俯いてブツブツ言います。
 「上野介どの動転して思わず、これはーと叫び、その方を振り向く途端、颯ッと振り下ろす二の太刀が、頭上をかすめて烏帽子は飛び、血汐に染まりし額を押え、き、吉良さまには二、三間桜の間をさして遁げ出されました。(ドドドドとフェンスを叩いて襖を叩く音を出します)触穢でございます。(ドドドド)御座敷御番の衆、御作事の方々、殿中触穢にございます」
 大師匠の癖です。窮地に立つとこの訳の分からない『松の廊下』が出てきます。
 「大師匠・・・」
 「う?」
 「ここは競輪場です。高座じゃありません」
 大師匠の袖を引っ張りながらわたしは不覚にもフッと涙を落としてしまいました。
 「雪だるま」
 大師匠が不意に静かな声を出します。正気に戻ったのでしょうか。わたしは涙を拭って顔を上げます。
 「競輪なんかで儲けようなんて思ったらあかん。これは芸の勉強や。・・・人の親を腐った牛乳で殺しておいても平気な顔で走れる、素知らぬ顔でレースに出られる、それはな、雪だるま、人生の縮図や。講釈がその目的とするところの究極の神経戦や。それ味わあせてもらえる、それだけでも幸せなことや」
 わたしはまだ俯いて黙っていました。

 「でも雪だるま、ええ天気やなあ」
 「はあ・・・」
 わたしも空を見上げます。競輪場に不似合いの大きなバックネットとスタンドの後ろを走る名神高速道路の間に真っ青な五月の空が広がっています。
 「雪だるま」
 「はい」
 大師匠はスタンドをグルッと見回します。
 「競輪は講釈みたいやなあ」
 「は?」
 「競輪は講釈みたいや。だんだん客が減っとる」
 「はあ・・・」
 「みんな一生懸命やっとんのになあ・・・。寂しいのう」
 「あ、はい」
 大師匠の横顔を見ます。
 皺の入った頬がたるんで福助の置き人形のようです。競輪新聞を見るために掛けた老眼鏡の奥の大きなギョロ目にスタンドの景色が映っています。
 「でも競輪場のこのスエた感じいいですよね、何か惹かれますよね、大師匠言うみたいに“とんぼりホール講釈会”のうら寂しい感じと似てますよね」
 「・・・」
 大師匠はしばらく黙って競輪新聞に目を落としています。落としていますが、何か考えているようでした。
 「わしな、時々無性に喋りたくなるときがあるねん。夜中でも朝起きたときでもお前らにな、無性に喋りたくなるときがあるねん」
 大師匠は下を向いたまま、珍しくボソリボソリ喋り始めました。
 「イヤがられてもな、嫌われてもな、お前らにな、無性に喋りたいんや。そういう時があるんや」
 大師匠が何を言いたいのかよく分かりませんでした。
 大師匠は球場のちょうど反対側、今は無用になっているバックネットの方を見ます。三階まであるくすんだ巨大なスタンドにまるでゴマ塩のように所々人が動いています。灰色のスタンドの壁に黒っぽい人間がへばりついて、寒々とした光景です。
 「イヤがれてもな、嫌われても喋っとくとな、お前ら覚えといてくれるやろ。わしが死んでも少しでも頭に残しといてくれるやろ。イヤやなあとか言いながら頭に残ってるやろ。そやからな、わし今のうちにお前らに喋っておくんや、喋れるだけ喋っとくんや」
 大師匠は言い終わると、また競輪新聞に目を落とします。
 「・・・さ、雪だるま、体暖まったやろ、そろそろ本番のレースや。騙していて悪かった。謝る。お前が心底ワシの言葉についてくるかどうか試しておった。昼行灯よ、腑抜け侍よという、悪口雑言に耐えられるか、ワシと心を一にして耐えられる男かどうかを試しておったんや。いや、騙して悪かった。さあ、いよいよ頃は極月中の頃や、折しも本所回向院裏、吉良邸長屋門は雪をいただき、月に照らされておる。さあ、雪だるま、9レースこそ勝負や・・・」
 
 当然のごとく、9レースも10レースも11レースもかすりもせず、わたしはほんとに200円しか残っておらず、梅田から難波、難波から住吉大社まで20キロはあろうかという道のりを歩いて帰らねばならなくなりました。
 前途の暗澹を思い、首うなだれて出口に向かっているところでした。
 「おい、雪だるま、お前なあ、ここで競輪講釈やれ」
 ジャンバーに作業ズボンの暗い灰色のオヤジたちと一緒に競輪場を出ているとき、わたしに支えられてヨタヨタ歩いていた大師匠が突然大声を出しました。
 土手焼きと一緒にすでにかなりの焼酎を飲んでいて、もうロレツが回っていません。
 「は?」
 「競輪講釈やれっちゅうんや」
 「ここでですか」
 「ここ以外のどこでやるんや」
 「今ですか」
 「いまや。たったいま。ジャストナウや。分かったか。やれ」
 大師匠は聞きかじりの英語まで入れて命令してきます。
 「やれって言われても・・・。わたし競輪よく分かりませんし・・・」
 「今日の競輪見てたやろ。あれやれ。見てた通り、父の仇を討つべき八黒と討たれて果てるべき高瀬がなぜ小競り合いすら起こさなかったか、大きな敵の目を気にしていたからや。元禄十五年師走の十三日は黄昏どきから空を斑にする牡丹雪が降っていた。南部坂で暇乞いをする内蔵助がなぜ瑶泉院に責められても討ち入りを口にしなかったか、なぜただ一人番傘を立てて亡君霊牌への焼香も許されず寂しく帰っていったか。それはひとえに瑶泉院の腰元になりすました女間者おうめの目をごまかすためであった。辛い暇乞いであった。・・・雪だるま、ワシには分かった。8レースには間者・池田哲二郎がおった。いつもドンジリへらへら追走してやる気あるのかと思っておったが、吉良方の間者だったのだ。これをみんなに知らせろ。それが競輪やる講釈師の使命や」
 「はあ・・・」
 「ええか、雪だるま、ただ単に競輪ファンに真実を知らせるためだけではない。これはお前のためでもある。お前、今日帰って水道止まったらどうするんや。水道止まったら、お前死ぬぞ。ええか、ここでの辻競輪講釈が終わったら、もしろんワシが責任もって帽子回す。おひねりもろうたる。いや、ええ。結果として今日はお前に損させたからな、それぐらいのことはしてやりたい。心おきなくやれ」
 「はあ・・・」
 「“はあ”やない。すぐやれ。“はあ”言うてる間にすぐやれ」
 競輪はやっても、西宮球場というのはもともとプロ野球の本拠地ですから、スタンドを出ると入場券券売所や売店や団体集合所のようなスペースがあります。そこをゾロゾロとオジサンちがグチやぼやきを呟きながら帰っています。
 たった六人の一門といっても、大師匠はやはり総帥、わたしは仕方なくそのグチ集団の真ん中に立ちます。
 「という訳でございまして、えー、わたくしが“喋る野ざらし”天神斎雪だるまでございまして、本日は競輪講釈と題しましてみなさんのご機嫌を伺うという、こういう趣向でございます」
 「声が小さい」
 後ろの塀にもたれて、しかも競輪新聞を読むふりをして顔を隠した大師匠が低い声で命令します。いい気なものです。
 「えー、わたくしが“喋る野ざらし”天神斎雪だるまでございます」
 やけくそで大声を出します。グチ・オヤジ集団がパラパラと振り返ります。
 「大多数の負けた方、はたまた少数の勝った方、ちよっとばかりお待ちいただきましょうか。わたくし身なりはごく普通のうだつ上がらぬ小市民のようではございますが、みなさんに一つだけ、真実をお知らせいたしましょう。あ、申し遅れましたが、わたくし“喋る野ざらし”と異名を取る競輪講釈師・天神斎雪だるまでございます」
 チラッと後ろを振り返ると、大師匠が競輪新聞を半分ずらして「ウン、ヨシ」と頷いています。
 チンタラ帰っていた帽子かぶった歯の欠けたオヤジたちが十人ほど足を止めてこっちを見ています。少し調子が出てきました。
 「みなさんは今日の遺恨レースをご存じか。何と申しましても、本日の8レース、西宮競輪松の廊下の遺恨試合、クロい競輪ファンならもうすでにご存じでしょう、京都・八黒伊蔵と大阪・高瀬市松、父の恨みを晴らす“西宮球場、血しぶき十八人切り”レースでございました。おお高瀬市松、おぬしこそは探しあぐねた父の仇、ここで会ったは優曇華の花、盲亀の浮木、ああ、運命のジャンが鳴る」
 驚きました。五十人ほど集まりだしています。これは凄いことです。過去十年の講釈会でもこれほど人の集まったのを見たことはありません。これは俄然張り切ります。
 「ジャーン、ジャーン、ジャーン、ジャン、ジャン、ジャン、ジャ、ジャ、ジャ、ジャジャジャジャジャ、さあラスト一周、各車一斉にホームストレッチ勝負所にかかります。さあ、八黒伊蔵、渾身の力で父の仇・高瀬市松に襲いかかろうというその時でございました。最後尾につけていた池田哲二郎がニヤッと笑います。この男、いつもチンタラ九着取るのが仕事のようにしていたのには、実は訳がありました。某国諜報機関員として最も戦闘的な男を競輪界からつり上げようと狙っていたのであります。かねて狙っていた八黒伊蔵と高瀬市松の世紀の激突、これこそ諜報員・池田哲二郎の待ち望んでいたものでした。シャッ、シャッ、シャッ、シャッ、シャッ、車輪の音がクライマックスを呼ぶそのとき・・・」
 「おい、ちょっと来い」と両脇からコートを着た屈強な男に脇を挟まれました。
 「え、何?」
 わたしは暴漢でも襲ってきたのかとびっくりしましたが、周りを見ると青い制服を着たガードマンも多数いて、つまりわたしの両脇を押さえているのは私服の場内警備員のようです。
 「何やってんだよお、人の敷地でよお」
 何やら“ショバ荒らし”へのヤクザのリンチのような光景です。警備員というのはマネキンのようにいつも静かに立っていて、競輪場のただの雰囲気作りなのかと思っていましたが、柄悪いです。結構怖いです。
 「ちょっと警備本部まで来い。八百長叫んで、騒乱でも企んでんのか、おー」
 どういうわけか、ここの私服警備員というのはみな関東弁です。
 わたしは両脇を抱えられひきずられていきます。
 「わわわわ」
 何か言おうとしますが、言葉になりません。
 「大師匠、大師匠」
 わたしは私服警備員の脇の下から必死に大師匠を呼びます。そのとき競輪新聞でしっかり顔を隠している大師匠の姿を目の端に止めました。
 「大師匠」と悲しい声で再び呼びかけたとき、大師匠の持つ競輪新聞にマジックで「試練じゃ」と大書してあるのが見えました。
 「大師匠」
 十人ほどの私服・制服の警備員に引きずられながら泣きそうな声が出ました。競輪新聞で顔を隠し、悪い膝を必死に伸ばして駆け足で帰ろうとする大師匠の姿はきっちり脳裏に収めました。
 わが一門の誇る“義士魂”というのを初めて目の当たりにした気がしました。

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