拾骨師西行

 西行伝承の中には取るに足らない「奇譚」として捨てられている三つの話がある。

 @高野奥の院において人骨を集め、それに陰陽道“反魂の秘術”を施して、人形
(ひとがた)に魂を吹き込んで、人として蘇らそうとしたが、もう一歩のところ
で試みが成功せず難渋するという話(撰集抄)
 A洛北蓮台野に歌道の先達・僧正遍昭(深草の少将)の墓をもうでたとき、転
び出た頭蓋骨と話をした。その頭蓋骨は深草の少将を袖にしたため、その怨念に
よって成仏できず地上をさまよっている小野小町のものであったが、西行が繊法
を唱えて昇天させたという話(御伽草子・小町ものがたり)
 B東北勧進のために小夜の中山を通ったとき、往路で一緒だった供の西住の姿
が復路で見えない。訝しがって、そのことを村人から聞かれたとき「西住か、あ
れは死んだ、犬に食われて死んだ」と吐き捨てたという話(西行物語)

 しかしこの三つからはある共通したものが窺える。
 西住は醍醐寺理性院(りしょういん)配下の三昧聖(さんまいひじり)であったと
言われる。三昧聖とは庶民の葬送を請け負う下級僧侶であるが、平安末期の当
時、積極的に葬送に関わった寺社は山科醍醐寺と高野山であったと言われる。
 西行は時代の寵児・北面の武士から突如出家して、花鳥風月を詠じる風流人と
なったというのが定説であるが、実際には納骨勧進作善を行う高野聖として三十
余年を過ごしている。
 また西行と西住はまるで夫婦のごとく長く共に草庵生活を送っている。
 さらに当時の庶民葬送は「放(はふ)り」と呼ばれる風葬から、火葬納骨への過
渡期であって、この強力な推進寺が醍醐寺と高野であり、さらに高野聖を配し
て、高野再興を果たした僧侶たちは多く醍醐寺理性院出身の聖であった。
 これからのことから、@ABの奇譚は、単に荒唐無稽の話なのではなくして、
「放り」の場面に踏み込んで、その骸たちを相手にして納骨を勧めるという、一
種異様な高野聖の姿を象徴している考えられるのではないか。西行の「隠遁」を
支えたのは、死者と骸(むくろ)への執着だったのではないか。
 鎮護国家・生者安寧の仏道から、死せる者を鎮める仏道を西行の出家生活は意
味していた。それまで社会を動かしてきたのは「死穢(しえ)」だった。上から下
まで死穢に怯え、最大権力の検非違使庁まで出来たが、死穢に踏み込んで魂の安
寧を図る仏道の流れの中に西行もいた。「骨拾い西行」と呼ばれる出家生活を送
りながら、西行は死者たちと格闘したのではないか。


 個人的なことを書くと、「拾骨師西行」は、92年「奈良林さんのアドバイ
ス」で小説新潮新人賞佳作をもらった(スポニチ競馬コラムもこの年らだった)あ
と、仏教民俗学者・五来重の著作に出会った頃から着想し始めた。98年、朝日
新人文学賞もらった「なにわ忠臣蔵伝説」より、一回目の完成は早かった。
 様々に書き直し、色々なところに持っていったが、あまり評価する人はいな
かった。同じ頃に出版されて、色々な賞をもらった辻邦生の「西行花伝」より、
何度読んでも、自分ではレベルが高いと思っていたのだが。

 しかし、この「拾骨師西行」のときに調べた平安末期から鎌倉にかけての動
乱、末法思想の流布、新仏教の萌芽というのは、いま着想している法然・親鸞を
中心とする生と死の対称性の作品(対称性に関する数学者ガロアの着想もぜひ盛
り込みたい)に寄与していてくれると、自分では信じている。

2011年 乗峯栄一

拾骨師西行 全文

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