拾骨師西行

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        (一)


 昔、後鳥羽院の御代のとき、藤原朝臣、佐藤兵衛義清といひし人、宿執により出家して、その名を西行法師と申すなり。然るに、西行の御弟子に西住と申す人、十三の年より師弟の契約をなし、ともに六十余州を巡り給ふが、すでに都へのぼり給ふ。
 頃は七月なかばの事なれば、都の貴賤上下、思ひ思ひに蓮台の墓へ参る。
 ややありて、御弟子西住を近づけ、「いかに西住うけたまはれ、いざや、我らも蓮台野に出て、先立ち給ふ人々の御あとを弔はん」とて、かの蓮台野の墓へ出て弔ひ給ふは誰々ぞ、宇治の中将、小中将に、左近の中将を様々に弔ひて、いかにこの野辺にに四位の少将の御廟所はいづくぞと人に問ひ給ふ。深草の少将と申すは、この世を去って久しくなりぬ。あとに格子もなければ、徴(しるし)もなしと申しける。

 西行、四位の少将の墓のうち繁りたる草うち払い、念仏申し、経を読み、さまざまに回向して、さて一首はかくこそ
 秋深き露のくさむら踏み分けて 問へど答へぬむかし人かな
かやうに詠じ給ひて、さて、かたはらを見給へば、すゝき一むらの陰より、迦陵頻伽(かりょうびんが)の声をあげ、やがて返歌と聞こえけり。
 くさむらの陰よりわれを問ひぬれど 姿を見れば恥ずかしのみや
 かやうに聞こえければ、西行これを聞き給ひて、不思議のことや、人も見えぬ方よりいまの詠歌の返歌とて、聞こえけるこそ不思議なれ。さて、あたりを見給へば、苔むしたるかうべ(頭)あり。右のまなこに雨つゆたまり、左のまなこに蔦生ひて、あさましき態なり。
 西住かくぞ。
 野を見れば白きかうべもつらからず つゐに我が身の果てと思へば
 世の中は咲き乱れたる花なれや 散り残るべき人しなければ
とかやうに詠じければ、西行も一首
 世の中は咲き乱れたる花なりと 色香を捨てて頼め実りを
と、かやうに詠じ給へば、くさむらの陰より、古きかうべ、転び出で、西行の座し給ふ膝のあたりへ近づく。

「蓮台野に年ふる頭は、定めて都のものと思し召すらん。そと語りて聞かせ申すべし。われは出羽の郡司、小野良真(よしざね)が娘、小野小町がかうべ(頭)なり。
(われ、その昔、われを思ひて息絶へた深草の少将のをんねんゆゑか、容色衰へ、まことに目も当てられぬ様となり、ふるさとで二十余年暮らせしが、うかりける都へまた上らんと思ふ。関寺の上人に会ひ、慈悲を受けて過ごせしが)
『とかく命のあればこそ、行き来の者に汚まれ、いつまで恥を晒すべし。それ、それ人間は夢の間の栄華といへども、夢のうちさへかかる病ひを受け、苦しむ事のあさましさや。命を捨てん』と思ひて、藁屋を立ち出でて、心のうちに思ふやう、『機根果つるまでも身をばわれこそ知れ。願はくは、弥陀如来、われを浄土へ向かひとらせたび給へ』とただ一筋に祈念して、かくこそ詠じけれ。
 鳥辺野にあらそふ犬の声聞けば かねてわが身の置き所なし
 鳥辺野に立て並べたる石の火は たが家々のしるし成るらん
とうち詠じて蓮台野に出て、七日の食餌を止どめて、七日といふあした、ばん風という風に吹かれて姿は恋慕の塵となる。かうべは白骨となりて、朽ちもせで、百二十年が間、このくさむら野辺に生い繁りたるひとむらすすきを宿として、雨露に打たれゐて、今宵御目にかゝり、御弔ひ受くるなり」とぞ語りたる。
 西行聞こしめして、「さては小野の小町のかうべかや」と、かの原野辺に取り寄せて、すすきを結びて、七日御経を読み、夜もすがら念仏申す。ざくをのべ、香を焚きて、
すなはち、「変成男子となって、往生したまへ」と回向し給ふ。七日と申すあした、紫雲たなびき、虚空に音楽聞こえ、玉の輿をかき下げて、すなはちねかうべを乗せて、雲に上がり給ふなり。有り難き御弔ひ、例し少なき次第なり。
 『新板小町のさうし』



 西行が弟子の西住と共に、洛北蓮台野に歌道の先達・僧正遍昭(深草の少将)の墓をもうでたとき、転び出た頭蓋骨と話をした。その頭蓋骨は深草の少将を袖にしたため、その怨念によって成仏できず地上をさまよっている小野小町のものであったが、西行が繊法を唱えて昇天させたという話である。
 伝承的西行奇譚の代表的なものの一つで、荒唐無稽な作り話の一つとされてきた。
 しかしなぜ西行には死人の骨の話が数多くつきまとってくるのか、その骨の話にはなぜいつも弟子西住がかかわっているのか、すべてのとっかかりはここにある。

 摂関政治爛熟を迎えた平安後期、京の都には特異な一地域があった。
 五条河原に架かる松の橋という小橋を東へ渡ると、六波羅密寺から珍皇寺をへて埋葬の地、鳥辺野にいたる。珍皇寺の門前、六道の辻は俗に「冥府(みょうふ)への通路(かよいじ)」と呼ばれていて、戸板に乗せた躯(むくろ)を運んできた遺族が、ここで葬送役の三昧聖(さんまいひじり)と散所非人に故人を引き渡す。
 平安の京は東の鴨川と西の桂川に挟まれて造営された。川を渡ることは京を出ることを意味していて、人々には現世から来世への渡りをも暗示するものとなっていた。
 必然的に人の弔いを業とする三昧聖(さんまいひじり)は京から川を隔てた洛外にその宿を設けることになった。そこは清水寺の直下であったので、「清水坂非人」と一括して呼ばれていたが、清水寺は創建時から一貫して埋葬に対しては無関心であり、また何より「野焼き」の技術に関して醍醐寺配下の三昧聖は洛内外で抜きん出ていたので、彼らは鳥辺野の葬送に関しては自然と他の者の上に立つことになっていった。
 山科醍醐寺配下の三昧聖はその多くが「通路」を見下ろす清水坂、つまり「冥府の一丁目」に宿を構えていた。
 五条河原から清水坂、鳥辺野にかけてには一体は非人・乞食など有象無象が住む小屋が立ち並んでいた。癩者やら不具者やらも多くいたし、放免(ほうめん)と呼ばれる犯罪者上がりの検非違使の手先も跋扈(ばっこ)していた。
 不思議なことだが、そこには殷々鬱々とした暗さはなかった。人の死にたずさわる活気とでもいおうか、地べたに這いつくばって世間を見上げるときの開き直りというような明るさがあった。仕事はひきもきらず、流入してくる人間も後を絶たなかった。
 清水坂非人の仕事は大きく二種類あった。
 一つは六道の辻で遺族から骸を受け取り、野焼きから納骨までの葬送の一切を取り扱うことである。
 洛中の人々は複雑な思いでこの辻にやってくる。故人との別れに耐え難い悲痛を感じながら、それと同時にそれ以上に死の穢れを気にしていた。「死穢」は最も恐ろしい祟りであり、最も強力な疫病である。肉親の死であっても、一刻も早く死体を放り出さなければならない。それゆえ遺体には過剰の供物を付ける。それは葬送を行う非人たちへの謝礼であると同時に、肉親の死体を放り出すことへの贖罪の意味も大きい。
 浄穢を行う清水坂非人たちはこの供物によって生活し、また付け火や穴掘りを行う犬神人やカタイをこれで雇うことができる。
 しかし多くの供物と共にこの辻へやって来れるのは貴族や裕福な商売人の骸(むくろ)だけである。洛中の大多数の死は二条、六条、七条の河原に転がっていた。それが清水坂非人のもう一つの、そしてこちらの方がより大きな収入源となる仕事である。
 宮中朱雀門では六月と十二月の晦日に大祓(おおはらえ)の儀式が行われるが、その直前には死体除去を中心とした大規模な鴨川の掃除、清目(きよめ)がある。そういう定期的な掃除以外にも、践祚(せんそ)式とか行幸の前には必ず清目の指示が出る。清目のあとには検非違使庁より濫僧供(ろうそうく)と呼ばれる非人施行があり、それが目当てでまた多くの非人たちが参加する。
 掃除とはもとは塵芥、糞尿の除去を指したが、特に天皇の清浄性が強調されてきた平安以後は鴨川を中心とする遺棄死体の除去を意味するようになった。この掃除を一手に差配していた官吏が検非違使である。検非違使は死穢と清目を統御することにおいて、平安の京の精神的中心にいた。
 とくに疫病のある年には、夜に日に洛中から死体が運び込まれてくる。死穢を恐れる気持ちは貴族も庶民も変わらない。その半ば白骨化した死体を河原の一箇所に集めるのが清水坂非人の仕事であり、荼毘に付し、経を読み、遺骨を集めて鳥辺野に埋めるのが三昧聖の仕事である。

 長承三年(一一三四年)も大規模な疾疫が起こった。五月の長雨で鴨川が堤を破って氾濫し、左京全体が水に漬かった。摂関家嫡流の屋敷であり、当時一大権勢の象徴であった東三条殿の広大な庭さえ、作り池が一体どこにあるのか判別できなくなったほどである。
 そのあとの夏は一転して日照りが続いて大凶作となった。大量の餓死者が出、そのうちお決まりのように疫病の大発生となった。内裏では北野船岡山や祇園社の御霊会から始まり、臨時の大祓、歴代天皇の御陵へ鎮謝を祈願する山陵使の派遣、大赦、伊勢神宮への奉幣など、あらゆる呪術を試みたが効験なく、鴨の河原は累々と連なる死体によって埋め尽くされていた。
 その年の十月、鳥羽上皇とその后・待賢門院璋子(たいけんもんいん・たまこ)がそろって熊野詣に出掛けることになり、検非違使庁の指示で「川掃除」のための非人が集められた。
 川掃除の命が出ると、火付けに当たる犬神人(いぬじにん)、納骨・埋葬に当たる穴掘り・カタイなど数名を集めて三昧講と呼ばれる組を作る。犬神人は鳥辺野の奥の阿弥陀ヶ峰から枯れ松を荷車に乗せて七条の河原にやってくる。夏の間から幾度となく川掃除を行ってきたが、疫病のあった年には少しの間に骸は腐乱し、野犬などに食いつつかれて散乱する。夏ほどではないにしろ、あたりには強い異臭が立ちこめている。
 枯れ松を井桁に組み、途中何層かの段を作って骸を並べる。骸といっても一様ではなく、すでに白骨化したものから、黒ずんで炭の棒のようになったもの、腐食し虫の湧いているもの、ついさっき運びこまれたような白衣をまとい、花や穀物の供え物の置かれた死体まで様々である。食いつつこうとする野犬や烏を錫杖(しゃくじょう)で追い払いながら、それらを集め、荼毘に付す。
 五月の大雨で、七条のあたりの鴨川は西岸の堤をえぐって流れを変え、古い流れとの間に大きな中洲を作る。中洲が出来ると、そこは庶民の絶好の葬地になる。
 醍醐寺理性院(りしょういん)配下、法眼房西住(俗名・源季正(すえまさ))の受け持つ三昧講の持分もその中洲の中にあった。
 十数体の骸を犬神人たちと集め、松やぐらの中に入れる。やぐらの前で香を焚き、鉦を渾身の力で叩く。遠く川岸に立って、物見気分で見ていた市中の人間たちも、この頃になるとひざまずいて念仏を唱え始める。「鉦叩き」だとか、「穴掘り聖」だとか、普段さげすんだ呼ばれ方をしていても、このときだけは葬送法師の気概が周囲を圧倒する。
 三昧講の見せ場でもある。醍醐寺理性院の名を高めるためにも、ここは一種の見栄を張らねばならない。
 犬神人が油を注ぎ、炎が立つと、法華懺法と呼ばれる罪障を清める法華読経を行う。全く自己流の法華懺法である。

 やぐらが焼け落ちて拾骨に入った時、一人の検非違使役人が浅瀬にひざを濡らしながらこっちにやって来た。
 行幸前の清目は、検非違使庁の長官である別当の命、すなわち「別当宣」によって行われる。内裏を上げての重い施行ではあるが、実際に河原で各三昧講を指揮するのは放免(ほうめん)と呼ばれる下部たちで、検非違使の役人が河原掃除の現場に直接やって来るのは珍しいことだ。検非違使の役人たちが一番「死穢」を恐れているからである。
 顔はまだあどけなさが残っているが、颯爽とした姿はあたりから浮き上がって見える。片手に檜扇(ひおうぎ)、もう一方の手には飾り立てた仕込め弓を持ち、紅の単衣(ひとえ)、白狩衣(しろかりぎぬ)に指貫(さしぬき)という正装である。
 西住は五、六人の犬神人たちと、思わず拾骨の手を休めて、何事かと注視する。
 若武者は中洲に上がると、自らの濡れた毛沓を脱ぎ、うらめしそうに絞ったり、さすったりしてそれを見ている。
「毛沓がずぶ濡れじゃ。大事な毛沓が」
 若武者はぶつぶつ言う。
 背中には切斑(きりふ)、二立羽(ふたたてば)の諸矢(もろや)の入った壷胡(つぼやな)ぐいが見える。これは衛門府の尉(じょう)の儀丈用の正装である。西住は犬神人たちと顔を見合わせて、その場違いな服装を訝しがる。
「衛門府の尉(じょう)は大方知っておるが、あのような武者は見たことがない」
 犬神人の一人が小声で隣りに話す。
 令外の官である検非違使は、名義上衛門府の官が兼帯することになっている。
 ずいぶん前から律令制は有名無実化してきていて、太政官の下の八省より摂政・関白が権勢を誇り、衛門府・兵衛府などの六府より検非違使などの令外の官が実際の権力を持つというように趨勢が流れてきている。それにしても大尉・少尉合わせても十名足らずであり、長年清目にたずさわる犬神人をしておれば、それらの顔は覚えてしまうものだ。
「それに検非違使の尉であれば、必ず火長を連れておる」
 犬神人は物知り顔にその若武者の不審を主張する。
 火長とは尉の配下の者を指すが、確かにいつも居丈高に振る舞う検非違使の役人が一人でうろうろしているというのは奇異な感じである。
 若武者はなおも毛沓が濡れたことを悔しがっている。川を渡ってくれば、沓が濡れるのは当たり前で、そんなこと分かっているはずなのに、その悔しがりようは少し異常に思えた。それに岸に置かれた檜扇と仕込め弓は何だろうか、一体何のために手にして来たのだろうか。
「何か変事でもございましたか」
 西住は犬神人の輪から近づいていってひざまずき、まだ毛沓を覗き込んでいる若武者に声を掛けてみる。
「ずぶ濡れじゃ」
 毛沓を覗いたまま若武者が答える。
「は?」
「毛沓がずぶ濡れじゃ。大事な毛沓が」若武者はなおも毛沓を覗き込んでいる。「来なければよかったかもしれぬ」
 若武者は沓を見たままぶつぶつ言っている。
「あの・・・」
 西住は恐る恐る若武者に近づいて訊いてみる。
「検非違使の判官殿がじきじきに河原清目の場に来られるというのは、何かございましたのでしょうか・・・」
 若武者はようやく諦めたのか、毛沓を地面に置いた。
「しかし、臭いな」
 西住の問いには答えず、顔をしかめて辺りを見回している。
「はあ、わたくしどもは慣れておりますし、それに夏の頃に比べれば匂いは大分おさまっておりますが・・」
 西住は恐縮して答えたが、若武者は西住の返事は聞こうともせず、地面に置いていた仕込め弓と檜扇を持ち上げた。
 足の位置、弓の位置、それに自分の胸の張り方を気にしている。足の幅を少し広めて体を安定させ、仕込め弓を足元に突き立て、右手に持った閉じた檜扇をぐいと突き出して威儀を正す。
 大罪人の処刑など、河原が「晴の場」となることはある。その場合、確かに検非違使の判官と言えば衆目の中心となるのだが、今は「河原掃除」の最中であるし、威儀を正しても無用な気もするが、どうにも不思議な振る舞いである。
 あごを引いて弓を持ち、川向こうを横目で見る。視線は明らかに岸に並んだ群衆を意識している。
「恐れながら、衛門府の判官様でいらっしゃいますか?」
「う?」
 威儀を正した若武者の顔がやっと遠くの群衆から西住の方に向き直った。
「わたくしは清水坂の三昧聖となりましてから日が浅いもので、失礼の段、お許しいただきたいのでございますが、衛門府の判官様でいらっしゃいますか」
「それがしに訊いておるのか?」
 若武者は白狩衣の胸のあたりのほこりをさすっている。他に人などいないのに、決まりきったことを訊き返す。
「ええ、そうでごさいますが・・・」
「言えないことはない」
「は?」
「ほとんど衛門府の尉と言ってもいいくらいの男だ、このわたしは」
 若武者は檜扇で自分を指し示す。
「・・・」
 西住は沈黙したまま若武者を見上げる。
「名か?わたしの名を聞きたいのか、その方」
「はあ、お差し支えなければ・・・」
「わたしは、かの天慶の乱の折、東国の暴れ牛・平将門を軍門に下らせた従四位・俵藤太秀郷が子孫、かつまた往(ゐ)んじ天仁元年(一一〇八)流人源義親の首をこの七条河原で受け取った衛門府大夫尉、検非違使・佐藤季清(すえきよ)、もちろん存じておろうな?」「あ、いえ、わたくし浅学にして・・・」
「何、知らぬ?・・・この七条河原であの狼藉者・源義親が首を万余の群衆の中で受け取り、白河院より特別の御感(ぎょかん)にあずかった、あの佐藤季清を知らぬと申すのか?」
「はあ・・・、そう言えばお聞きしたような気も・・・」
 いきがかり上、そう言わねばならない迫力であった。
「であろう。知っているはずだ。知らぬ訳がない。はじめから知っていると正直に申せばよいのに。これだから三昧坊主は回りくどくていかん。ええっと、どこまで話した?そうそう、その方も知っておる、佐藤季清が孫・佐藤義清(のりきよ)本人、その人自身が何と、このわたしであるのだ」
 若武者は一段と胸を張る。西住は少し疲れてきた。
「で、失礼ながら、あなた様、つまり義清は衛門府の尉でいらっしゃるのですね」
「父か?父のことを聞いておるのか、その方は」
「いえ、父上のことではなく、あなた様の・・・」
「どうしても知りたいなら教えてつかわそう。別に隠しておくつもりはない。今、祖父の名前だけを言って『その孫、義清である』と言ったものだから訝しく思ったのだな。ひょっとして、父のところに弱みがあるのではないかとな、な、そうであろう?」
 若武者は西住を睨んでそう言う。
「いえ、そのようなことは・・・」
「生憎だったな、別に父に弱みがあるという訳ではない。わたしに父のことを隠すいわれなど何もない。わたしは堂々と父の話ができる。・・・ただ父は早死にした。しかしそれは何も恥ずかしいことではない。それは自明のことだ。左兵衛少尉(さひょうえのしょうじょう)として院の北面にまで召し出されていながら、二二歳の若さで亡くなった。が、それは何も恥じることはない。それも自明のことだ。ただ、その院の北面も祖父季清の辞譲によるものだと吹聴してまわる人間たちがいて、それは悔しかった。・・・心底悔しかった。・・・五条堀川小路の屋敷にいた家人たちが手の平を返すように去っていき、翌年には新しい少尉(しょうじょう)のために屋敷を明け渡すよう兵衛府より達しが出て、祖父季清は烈火のごとく怒って自ら兵衛府に掛け合いに行ったが、その祖父が今から八年前、大治元年疱瘡に罹って俄かになくなり、母とそれがしの弟、仲清と、それは屈辱の日々を送ることになったのだ・・・」
 西住がひどく威張った人だなあと思って見ていると、自分でぺらぺら喋っているうちに何だか感極まってきて、言葉につまり、そのうち微かに涙ぐんでくる。でもしばらくすると、また気を取り直して、若武者は訊いていないことまでどんどん喋り始める。
「しかし一昨年の長承元年、臨時の内給があった。知っておるか、内給。内給というのは、内裏に臨時の出費があって、その出費を賄うために任料と引き換えに下級官職を斡旋する、平たく言うと売官だな。もちろんそんなものには見向きもしない。見向きもしないが、わが佐藤家には財力がある。父が早世し、祖父も亡くなったといえども、わが佐藤家を見くびってはいけない。紀伊国、紀ノ川中流に粉河寺(こがわでら)というのがあるな。あの付近の田はすべてわが佐藤家の荘園だ。いや、驚かずともよい。田仲庄と言ってな、大したことはない。大したことはないが、まあ二百町歩はある。ははは。先祖代々の預所(あずかりどころ)というやつだ。一度粉河寺に詣でたら『佐藤家の荘園はどこでしょうか』と尋ねてみるとよい。『何をおっしゃいますやら。この辺りで佐藤家の荘園でない所などございません』と答えられる。こんな返答聞くとびっくりする方かな、黒衣の君は、ははは」
 若武者はみるみる元気になっていき、手に持った仕込め弓を揺すって気持ち良さそうに笑う。しかし西住の表情が変化していないことに気づき、話をもとに戻そうとする。でも、もとの話が何だったか、すぐに思い出せない。これもたぶん若武者の癖だ。
「ええっと、何だった?」
「佐藤家には財力があるとか何とか・・・」
 西住は小さく吐き捨てるように言う。
「そう、佐藤家には財力がある。あ、しかし、その言い方、何だ?怒っておるのか?人が金を持っているということが許せない性格なのか、その方」
「いえ、そのようなことは・・・」
「あ、そうであった。内給の話だ。その一昨年の臨時の内給の折、売官に手を出すことなど思いもよらなかった。思いもよらなかったが、何といっても佐藤家にはカネがある。カネがあるから、『カネが出せなくて内給の応募をやめた』という風評がたつことは本意ではない。ゆえに絹二千疋(びき)、稲で言えば二十万束ぐらいだが、財力のある佐藤家にとってはそのくらいは何でもない。それをもって院の行幸などに随伴する内舎人(うどねり)を望んだが、何かの手違いで任官の通知が来なかった。もちろん財力のある佐藤家としては、内舎人になれなかったぐらいでどうこうするということはない。ほんとに、佐藤家には財力があるから、内舎人ごときになれようがなれまいが、ほんとに、そんなこと、どうでも・・・」
 若武者はここで急に絶句し、嗚咽し始めた。俯いて唇を噛みしめている。そのあと急に聞き取れないような小さな声になり、早口に喋り始めた。
「でも、もし、もし父上がご存命であったらと・・・、母上と二人、板場に手をついて泣いた。もし父上があのまま検非違使から院の北面として容儀頴脱(えいだつ)を謳われていたならば、内給の内舎人任官ごときに一喜一憂せずとも済んだものをと、それを思うと悔しくて、母上と二人で泣いた。しかし・・・」
 義清はここで傲然と顔を上げ、胸を張って続けた。
「しかし昨年から徳大寺家当主・権中納言実能(さねよし)殿の家人となった。実能殿は言うまでもなく、鳥羽上皇中宮・璋子(たまこ)様の御兄上で、先の検非違使別当であり、ただいまの右衛門府の督(かみ)である。また晴れて任官がなれば、葉室顕頼(あきより)殿の御娘子との婚礼という話もある。顕頼殿といえば、白河院の『夜の関白』として隆盛を極めた葉室顕隆(あきたか)殿の御長男であり、ただいまの検非違使別当である。つまり、この佐藤義清は『白河院政の三勢家』と謳われたうちの実に二家の庇護を受けることになる。さらに現在、鳥羽の離宮において、法皇の御願による勝光明院の造営が大規模に行われており、来年にはその費用のための成功徴募は必定と言われている。成功は絹一万疋が相場と言われているが、紀伊粉河の佐藤家田仲庄の力をもってすれば、それは何とでもなる。この義清が高級官吏として昇高していくこと、これはもう言うも愚かなことである。ははははは・・・」
 ほんとによく喋る武者である。西住も何人かの検非違使武者と話してきたが、こんなにぺらぺらと、しかも自らの言葉に激情を添えて話す武者は初めてである。
 このとき、この若武者はわずか十七才、眉のあたりにうぶ毛があり、笑うと白い歯がこぼれて、眩しそうな顔になった。
 三昧聖西住が若武者の激情口上にへとへとになったとき、その“まがい検非違使”はつかつかと荼毘跡へ近づいていき、「骨を見せてくれ」と犬神人に申し出た。
 不思議な申し出である。通常、七条河原の中州においては、人々はただ鴨川の向こうから遠目に「掃除」を眺めるだけである。それは何よりも死穢を恐れたからである。
 呆っ気に取られている犬神人たちを押し退けて、若武者はしゃがみ込み、まだ荼毘に付す前の頭蓋骨に触る。
 黒ずんだ頭皮の残り、髪の毛すら付いた頭蓋骨を、気味悪がるでもなく撫で回している。亡き父のことを思っているのか、あるいは死者の霊への哀切心なのか、とにかくそのひたむきな態度には胸打たれる思いがした。横に立った西住も思わず経を唱えた。
「霊魂はもう無いのかな?」
 若武者が脇の西住を見上げて訊く。真剣な表情である。
「霊魂はまだ浮遊しております。特に不本意な死に方をした者の霊魂はなかなか鎮まりません。そのために我々が経を唱え、荼毘に付し、埋葬を行うのです」
 西住も髑髏をさすっている若武者の隣にしゃがみ込んで答える。
「では、あれか?大規模な疾疫を撒き散らすというのも、その静まらない霊魂なのか?」
「それは違います。疾疫を撒き散らすのは死穢です。死の穢れです。死体を放置しておくと、その腐敗、変形していく死体から死穢が流れ出し、人の手から手へと蔓延して疾疫をはびこらせるのです。ゆえにその死穢の蔓延を防ぐために火葬しなければならないのです」
「うーん・・・」
 若武者は頭蓋骨を見たまま考えこんでいた。殿上人たちはひたすら自己の成仏のみを願い、庶民は庶民で死穢を遠ざけることばかりに思いをいたす中、見知らぬ骸に黙考する若武者は珍しい。
 しばらくすると若武者は髑髏を置き、「また来る」と言い残して帰っていった。
 毛沓に足を入れ、あれほど気にしていた濡れ具合にも頓着せず、浅瀬を渡っていった。

                  *


 大洪水に飢饉に疾疫、その長承三年(一一三四)、洛中の人々は「こんなひどい年は二度と来ないだろう」と溜息をついた。しかしそれは来るべき阿鼻叫喚地獄へのほんの入口でしかなかった。
 この年の春、権中納言・藤原長実(ながざね)の息女・得子(なりこ)が鳥羽上皇のもとへ入侍(にゅうじ・側妾としての入内)した。それは実にそののち五十年にわたる血で血を洗う政争の始まりであった。
「威は四海におよぶ」とまで評された一代の専制君主・白河法皇の強権政治は摂関家の安穏を次々とくつがえしていった。帝位を禅譲した第二子・堀河天皇が嘉承二年(一一〇七)に二十九歳の若さで早世すると、孫の鳥羽天皇をわずか五才で即位させ、政務全般にわたる白河法皇の力は不動のものとなった。
 法皇に諌言の出来る関白師通(もろみち)、さきの関白師実(もろざね)らの摂関家の側近たち、さらにご意見番、大納言・源俊明が相次いで亡くなり、公卿らはすべて、ただ“治天の君”白河法皇の前に慴伏するばかりの“口宣の臣下”と化した。
 白河法皇は五十才を越えた頃から、「祇園の女御」と呼ばれる女性に寵愛を注ぎ始めた。しかし女性たちを次々後宮に迎え、たくさんの子供をもうけた法皇だったが、この最愛の祇園の女御だけは不妊で、そのことを常に気に病んでいた。
 康和三年(一一〇一)、閑院流の権大納言・藤原公実(きんざね)に璋子(たまこ)というかわいらしい赤ん坊が生まれた。
 公実は家門・閑院流より摂関を出し、忠実(ただざね)・忠通(ただみち)と続く摂関家本流を見返したいという悲願を持っていた。また法皇にしても生母・茂子が閑院流の出であることから、公実が法皇に取り入る素地は充分あったといえる。幼少の璋子を、法皇と祇園の女御の二人が養女として所望され、また権大納言・公実もよろこんで応諾したことは自然の成り行きであった。ときに法皇五十才、利発で美しい養女・璋子はたちまち法皇の溺愛するところとなり、昼も夜も法皇は自らの懐に足を入れさせて添い寝していたと言われている。
 白河法皇は強力な意志と決断力で法皇親政を実現し、それまでの摂関中心の貴族政治をくつがえしたという点で画期的な君主であった訳ですが、反面、婦女子を仲立ちとした愛憎を露骨に政治人事の面に持ち込んだという点で、法皇亡き後に大きな禍根を残しました。その最大のものが、この璋子様です。
 永久五年(一一一七)、十七才の璋子は十五才の鳥羽天皇のもとへ女御として入内、翌年には正式に中宮となり、さらに翌元永二年(一一一九)には皇子・顕仁(あきひと)親王(後の崇徳天皇)をお産みになり、順風の船出のようでしたが、この顕仁親王の父が実は六七才の白河法皇であったのです。
 白河法皇と養女・璋子との肉体的な関係は入内前から入内後へと綿々と続いていて、さらに鳥羽天皇はそのことをよく知っており、この顕仁親王を自分の子でありながら、祖父の子すなわち叔父でもあるということで「叔父子」と皮肉を込めて呼んでいた。まったく異常な血脈の乱れであるが、それもこれも強力な白河法皇の威光ゆえに成り立った出来事であった。
 異常な事態はまだまだ続く。
 保安四年(一一二三)、二十一才の鳥羽天皇が俄かに譲位し、わずか五才の顕仁皇太子が帝位につく。崇徳天皇の誕生である。白河法皇(七十一才)、孫・鳥羽上皇(二十一才)、曾孫・崇徳天皇(五才)と、名目上は三人の最高権力者がいるということであり、さらに曾孫が実は自分の息子であるという狂態を呈していた。もちろんこれも白河法皇の意向によってなされた事態である。法皇は晩年にできた愛息(名目上は曾孫)顕仁親王に並々ならぬ愛情を持ち、また自分亡きあとの幼親王の行く末を焦慮した結果、自分に柔順な鳥羽天皇を動かすことを決意したのである。
 璋子は五才の崇徳天皇誕生の翌年の天治元年(一一二四)、国母(こくも・天皇の母)に与えられる女院の称号「待賢門院(たいけんもんいん)」を拝受した。わずか二十四才の若い国母である。それ以後、本院(白河法皇)、新院(鳥羽上皇)、女院(待賢門院)は「三院」と称された。大治四年(一一二九)白河法皇が崩御するまで、三方そろっての行幸は無慮数十回に及び、「三院行幸」は洛中の人々の語り草になっていった。
 たしかに鳥羽上皇は祖父のお手つき待賢門院璋子を愛していたのである。
 しかし白河法皇が亡くなってしばらくしてくると、目に見えて上皇の女院への嬌愛は冷めていく。それは璋子を押しつけた法皇の桎梏が取れたから、別の女性へ気が向いたということではない。逆である。法皇のいつくしみがなくなり、はっきり我がものとなった璋子に逆に愛情を感じなくなってしまったのだ。
 外見上の素直さ、体の頑健さとは裏腹に、鳥羽上皇はそうした屈折した好悪感情を持つ性格であった。
 一方わずか五才で即位した新帝・崇徳天皇は成長するにつれ、聡明、潔癖の性格を身につけ、母親璋子への思慕、自分をこよなく愛してくれた亡き曾祖父かつ実の父親・白河法皇への愛惜は日々強くなってゆく。
 西住が七条河原でのちの西行と不思議な出会いをした長承三年(一一三四)は、鳥羽上皇が璋子以外の女性に次々と手を付け始めた年であり、わずか十六才、潔癖かつ明晰な“叔父子”崇徳天皇との対立が明らかになった年である。
 誰が悪いという訳ではなかったであろう。祖父法皇の強大な権力の前にただ素直に従い、その現実の中でしなやかな喜びを見つけていった鳥羽上皇。その聡明さゆえにはっきりと意思表示することを覚えられた“叔父子”崇徳新帝。白河法皇にしたところで、もし最愛の子息堀河天皇が早世されることがなければ、孫へ、ひ孫へと歪んだ愛憎を与える孤独な専制者とならずに済んだことだろう。すべてはほんの少しずつの軋みだったのだ。
 しかしこのわずかな血の軋みは、ついに保元の大乱という平安の京始まって以来の悲劇を招いてしまう。

 西住が二度目に佐藤義清と会ったのは、七条河原の出会いから三年後、西住が二十五才、義清が二十才のときであった。
 白河法皇から鳥羽上皇の御世にかけて、平安京の南、鴨川と桂川の合流点には、「都遷りが如し」と形容されたほどの壮大な「鳥羽殿」が造営されていた。
 この地点はかねてから瀬戸内海から淀川をさかのぼる水運の終着点として西国、あるいは朝鮮、宋との交易の象徴の地であり、朝廷の威信を示すにはまたとない絶好の場所である。また水と緑の輻輳地として極楽浄土に擬せるのに適していた。往生を願う主上が、紫雲に乗ってやって来る阿弥陀如来来迎のため、極楽浄土を地上へ出現させることも意味していた。
 洛中の人々から「鳥羽水閣」と呼ばれたその地の造営は平安京以来最大の官業であり、もしその後の血で血で洗う骨肉の戦乱がなければ、新都となっていたはずの場所である。
 百余町に及ぶその規模は壮大で、中には南北八町、東西六町にわたる巨大な池を有し、上皇の念仏場である御堂だけでも、証金剛院、成菩提院、勝光明院、安楽寿院、金剛心院の六院が創建されつつあった。その中でも特に鳥羽上皇が鳥羽殿の中心の御堂として力を入れていたのが安楽寿院であり、のちに鳥羽上皇はここで院政を敷き、またここで葬られた。
 その安楽寿院の落慶供養を間近に控えた保延三年(一一三七)の夏、兵衛尉・佐藤義清は供と二人と、清水坂の西住の宿(しゅく)を突然訪ねた。
 狩衣(かりぎぬ)・指貫(さしぬき)の衣装に、二立羽(ふたたてば)の儀丈矢の入った靫(ゆき)を負い、仕込め弓を持つ格式ばったいで立ちは最初会ったときと変わらないが、儀礼服も随分着慣れた感じで、見違えるほどのめざましさであった。
「清目」や「川掃除」の手配のときには検非違使庁から下知があるが、それも多くの場合は尉役人配下の火長が代理でやって来る。とにかく彼ら、貴族・役人は死穢に触れることを極端に恐れていた。それは死穢の統括役であるはずの検非違使庁の役人においても同じである。“危ない”三昧聖の宿にはできるだけ近づきたくないのである。
 その危ない聖の宿に、時代の寵児である北面の武士がやってきたという噂は、すぐに“坂”全体に広まった。
 西住の小屋の周りには犬神人やカタイなどの非人が大勢集まり、ワイワイ騒いでいる。
「それがしは左兵衛府の少尉(しょうじょう)、従(じゅ)六位、佐藤義清、故あって昨年より鳥羽院の下北面警護の命を拝受しておる」
 西住が小屋の中の他の三昧聖たちを押し退けて慌てて場所を作り、招こうとしているとき、佐藤義清はそう口を開いた。敷居をまたいだところで両足を突っ張り、弓を傍らに突き立てて大きな声を出す。しかし顔は壁の方を向いていて、西住の方を見ていない。三年前、七条河原で初めて会ったときと同じである。
 そういう格式ばったところから、しかも相手を無視した形を取らないと話を始められない、これはたぶん佐藤義清の性格なのである。
 身の丈は常人なみであるが、しばらく会わぬ間に、義清は肩幅のある、胸板の厚い、しっかりとした武将の体になっていた。
「ご立派になられましたなあ」
 西住は土間に正座したまま、そう呟く。義清は西住の言葉を聞くと、一段と胸を反らせた。
「五徳と称されるものがある」
 義清はそう大きな声を出したあと、顎を引いて、戸口や格子から中を覗いている非人たちを横目で見ている。西住に言っているふりをして、実は外の人間を意識している。こういうところは「川掃除」に群がる土手の群衆を意識していた三年前と変わらない。いつも周りを意識して振る舞う、それがこの武者のやり方だ。
「知っておるか?」
 義清は初めて西住の方を注視する。
「何でございましょう?」
「何でございましょうなどと・・・、聞いておるのか、人の話を。五徳だ、五徳を知っているかと聞いておるのだ」
「申し訳ございません。このようなアバラ屋で暮らしておりまして、無学でありまして・・・」
「無学なのはよい」義清は焦れて、仕込め弓でトントン床を叩く。「で、その無学なことをどう思っているのだ」
「はあ・・・」
 西住は首をひねる。
「はあではない・・・、恥ずかしいであろう?」
 義清は一歩近づいて、西住の顔を覗き、「無学は恥ずかしいであろう?」と繰り返す。
「はあ・・・、そう言われれば恥ずかしいような・・・」
「そうであろう、恥ずかしいであろう」
 義清は「うんうん」と頷いたあと、「無学は恥ずかしいぞ。無学だと思ったら尋ね、おとなうことだ。尋ね、おとなえば、新たな世界が広がることは往々にしてある」と言って体勢を立て直し、両足で踏ん張る。
「北面のもののふの要件は五徳であると言われておる」と再び大きな声を出したあと、義清はまた西住の顔を覗き込む。
「恐れ入りますが、その五徳とおっしゃいますのはいかなるものでしょうか?」
 土間に手をついて義清を見上げる。これは一つの観念である。
「お、そうか、どうしても聞きたいか、五徳のことを。よかろう」
 義清は一歩下がってもとの位置に立ち、ゆっくり首を回して辺りを見回す。  
「五徳とは、容儀、才学、富貴、譜代、近習を言う。容儀とは礼にかなった身のこなし、才学は才能と学識、富貴は財力豊かであること、譜代は伝統ある家柄、近習は主上のお側近くに控えていること。この五つの徳を有する者のみが院北面に召し出される。そなた、法眼房西住に初めて会った翌年、兵衛尉(ひょうえのじょう)に任官を受け、望外の幸せを感じていたところ、昨、保延二年(一一三六)に、これまたまったく望外にも鳥羽院より院下北面近侍の宣旨を拝受した。まったく予期していなかったことだ。まったく予期していなかったことだが、北面のもののふには先ほど申したように五徳の備わった者しか召し出されないということだ。まったく望外だ。何かの間違いに相違ない。なにしろ五徳の備わっている者しか選ばれないのだから」
 義清はここでまた西住の顔を覗き込む。首を斜めにして、訴える表情で顔を近づけ、「間違いだと思っている」を繰り返す。
 致し方ないところである。これも一つの観念である。
「それは間違いではございませんでしょう。義清には立派に五徳が備わっていると拝察いたします」
 西住は両手を土間について、近づけてこられた義清の顔を見上げながらはっきり言う。
「あは、あはははは、何を言うか。わしのことなどよく知らぬくせに、あはははは・・・」
 西住と戸口の外の非人たちとを交互に見比べながら、義清は気持ち良さそうに顔をほころばせる。
 含み笑いしている義清のわきで、西住は部屋の隅から検非違使役人用の敷物・円座(わらうだ)を取り出し、板場に敷いて勧める。
 それからも一しきり「五徳」の話が続いたが、西住が「畏れながら御用の筋を・・・」と言うと、ようやく役目の話題になった。
「鳥羽殿・安楽寿院の落慶供養の前に、鳥羽上皇がお忍びで建造の様子をご覧になりたい意向を持っていらっしゃる。鳥羽殿はみなも知っている通り、鴨川、桂川の合流点という立地にある。いくらお忍びといっても、行幸の際、万が一にも触穢があってはあってはならない。来月望月の頃までに付近の“川掃除”をする必要がある。落慶供養の折の正式な行幸には、検非違使庁を通じて大規模な“清目”があるが、今回は忍びであるから、そういう訳にはいかぬ。院のお供を勤める権大納言・徳大寺実能(さねよし)様もそのことを心配なさっていて、家人のそれがしに相談なさったのだ」
 それが目的でやってきているはずなのに、義清は「五徳」のときとはうって変わって、きわめてつまらなそうに勤めの向きを述べた。
 三昧聖・非人の集団と一口にいっても、洛外にはいくつかの拠点があった。最も大きなものは西住のいた清水坂であるが、それ以外にも船岡山、安居院悲田院(ひでんいん)、東悲田院、獄舎(検非違使庁に付随する監獄)などに宿(しゅく)があり、また南都には奈良坂という清水坂に匹敵する本宿があって、それぞれに勢力争いを繰り返していた。
 その勢力争いの中で、非公式とはいえ上皇行幸のための川掃除を任せられるということは清水坂非人宿にとって最大の名誉である。
 また清水坂内部にもいくつかの派があった。清水坂の宿には、検非違使庁配下の放免・獄囚などを統括する本所長吏(ちょうり)、寺社の権門に属する最下級の職掌である清目・庭掃・散所などを統括する三昧長吏、葬送権・癩者取り締まり権を持つ犬神人・カタイなどを統括する坂長吏の三人の長吏がおり、またそれぞれの組は老衆・若衆、一臈・二臈などの臈次で秩序づけられていて、公式の清目の折などは各長吏は協力して事に当たるものの、各派の勢力争いという面での激しさもあった。
 この面でも行幸前の川掃除の話が来るというのは、その話を受けた者にとってこの上ない誇りとするところである。
 公式の清目のあとには賑給(しんごう)と呼ばれる大規模な非人施行があるが、こういう私的な川掃除にも濫僧供(ろうそうく)と呼ばれる施行が行われる。賑給ほど大規模でない代わりに、特定の非人集団に対してだけ行われるということで、濫僧供は他の非人宿から羨望を浴びるものとなる。
 しかし西住には、義清のその抑揚のない役目の伝達の仕方が気になった。
 いったい、佐藤義清という武者は感情の起伏の極端な性格である。それは七条河原の出会い以来、十分伝わってきた。何に高揚し何に消沈するのか、常軌では内面を推し量りがたい特異な性格である。
 ただ西住には、あの七条河原で、まだ羽虫のまとわりつき、頭髪の残った髑髏を手に、じっと俯いていた義清の姿が頭に残り離れないでいた。
「その方、歌は、やらぬか?」
 話が一区切りついたところで、義清はまた意外なことを言った。
 板場の上から土間に座っている西住に声を掛ける。五徳の話をしていたときとは違って、小さな声で、何か悪いことでも話しているような雰囲気である。
「歌と申しますと・・・、あの歌でございますか?」
「あの歌とは何だ、歌にあの歌とかこの歌とかあるのか、わたくしはこの歌をやっておりますが、そなたはこの歌をやっていたのかとか、そういうことがあるのか」
 佐藤義清は円座から腰を浮かせ、仕込め弓で板場を叩いて大声を出す。
「申し訳ございません。わたくしの考え違いでございました」と言って西住は土間の上で後ずさりする。
「・・・ですが判官殿、非人の宿で歌をたしなむ者はおりません、われわれ坂の者はみな才学のない者ばかりでありまして・・・」
「そうか・・・」
 義清はふっと息を吐き、しばらく俯いてじっとしていた。
 西住はその間にじりじりと横に這い、棚の下に置いてあった書き留めを引っ張り出す。自分の懐に押し当てると、義清の方にじりじり寄って、そっと脇に差し出す。
 西住が三昧講のつとめの合間を縫ってしたためた歌である。詠み聞かせる相手すらおらず、悶々と綴ったうちの一部である。しかし折あらば、都の歌の道に長じた人に見てもらいたいと願ってもいたものである。

 うしやげにたなかみ山の山さびて 法の道しば跡しなければ
 心からくらはし山の世をわたり 問はんともせず法の道をば
 まよひつる心の闇を照らしこし 月もあやなく雲がくれけり

 義清は膝ににじり寄ってきたそれらの書き留めを見て「う」と声を出し、取り上げた。西住は「畏れながら」と言いながら後ずさりし、ひれ伏す。
「そうか、清水の非人宿では歌はやらぬか、かりにも人の葬送をつとめとする者、歌をたしなむほどの情緒は求められているとわたしは思うが・・・」
 しばらくじっとしていたが、西住は義清の意外な言葉に顔を上げた。
 自分の書き留めは見あたらない。目をきょろきょろさせてみると、義清の狩衣の袖にちらっと白い物の端が見えた。きっと書き留めはあの袖の中だ。しかし西住はそのことを言い出すことは出来ない。
 義清は「そうか、清水坂では歌はやらぬか」と、なおも言いながら立ち上がると、「鳥辺野を案内してくれぬか」と意外な申し出をした。
 ただただ落胆していた西住はすぐには返事が出来ないでいた。


                 *


 鳥辺野は七条河原の東、清水寺へ向かう急坂の南一帯に広がっている。霊峰・阿弥陀ヶ峰の麓に位置し、古来より京の葬送の地として名が通っている。
 葬送の地とは墓所を意味する訳ではない。朝家やごく少数の公卿を除いて、庶民に墓所はない。
 わが国の葬法は古来自然葬(風葬)で、それは「放り」と人々が呼んでいた通り、葬法という名すら当たらない死体の廃棄であった。反面、人々は腐乱、変容してゆく死体に恐怖していた。奇妙なことではある。自分でそこに捨てておいて、その死体に怯えるのだから。
 仏の道では死んでから白骨化するまで九つの想があると教えている。
 脹想(ちょうそう・死体が膨張する)、青於想(しょうおそう・黒ずんでくる)、壊想(えそう・くずれている)、血塗想(けちずそう・膿や血肉が散乱する)、膿爛想(のうらんそう・膿に虫が湧く)、敢想(かんそう・鳥獣が食べる)、散想(さんそう・手足・骨も散乱する)、骨想(骨だけが残る)、焼想(しょうそう・骨も土と化す)という九想である。
 人々が肉体への執着を離れるように、あえて朽ち果てる醜悪諸相を伝えたのだと言われている。しかしこの九想の教えは、実のところ、僧侶の側が人々の間に残る“死穢”の考えに追随したものなのである。
 古来わが国の民衆は、腐乱、変容する死体には疫癘魂(えきれいこん)、すなわち邪鬼が付着していて、これが疫病や災害を引き起こすと信じていた。それは仏教が伝わるはるか以前からあった信仰だった。
 自分の敬慕する父母であれ、慈しんできた幼な子であれ、死体となれば疫癘魂を持つ。船岡山や祇園社の御霊会(ごりょうえ)が内裏の祭りから、洛中全体の祭りとなっていったのは、人々の間に死体に付着する疫癘魂への恐れが染み付いていたからである。
「七条河原や鳥辺野には鬼がいる」と人々は本気で信じていた。肉親を野犬の餌や“髪剥ぎ”の獲物にすることの辛さと、「自分たちもいずれああなるのだ」という恐怖と絶望を、洛中の人々は心の内に持ち続けていた。死者の魂とは荒魂(あらたま)であり、災害や疾疫をもたらす凶癘魂であるから、即、災厄をもたらさない離れた場所に遺棄しなければならないものである。その災厄をもたらさない場所が二条、六条、七条などの鴨の河原であり、鳥辺野であるわけだ。
 仏教伝来より六百年、国の治世や華やかな文化には、隅々まで仏の道が浸透していたが、人々のもっとも嘆き悲しむ葬送については、朝家から賎民まで、古来からの伝承・因習が連綿と続いていた。これは民衆にとっては大変辛い状況であった。
 例えば子を亡くした母親には、ついさっきまでほほ笑んでいた愛しい我が子が俄かに凶癘魂となることなど受け入れられない。しかしそれは周りが許さない。凶癘魂の信仰を否定できる術もない。泣く泣く我が子の骸を葬送の地まで運んで遺棄する。
 仏の道は長くこの庶民の嘆きに答えていなかった。朝家や公卿のための「国家安寧や息災招福を願う教え」はあっても、「死者のための教え」がなかった。
 その中で伏見醍醐寺だけは平安初期以来の御願寺として端厳たる格式を持ちながら、特異な発展をしてきた。
 醍醐寺は真言密教の寺でありながら、醍醐天皇の落胤と噂される空也上人とのゆかりが深い寺である。野辺の骸を見つけては火葬に付した上人の生き様を尊崇する僧綱は多く、理性院の開祖・賢覚(けんがく)はその最たる僧であった。長らく葬送派として真言密教としては異端とされてきた賢覚派であったが、覚鑁(かくばん)・心覚(しんがく)・重源(ちょうげん)など、高野山に入って納骨勧進の「死者のための教え」を広め、高野中興を成し遂げた僧たちによって、ついに真言密教の主流を拝することとなっていった。
 法眼房西住も理性院で賢覚の得度を受けた。覚鑁より五歳年下、心覚よりも三歳年上であったが、二人が朝廷、公卿の中で納骨・勧進を説いて、真言密教に現世的利益を吹き込もうとしていたのに対して、西住はただの三昧聖として活動する道を選んだ。特に高尚な理由があった訳ではない。あえていえば、西住には人々を説き伏せ、高邁な人たちと折衝するだけの度胸がなかったということだろうか。

 西住は義清と二人、清水寺に向かう急坂を上り、門前を右に折れて、葬送地鳥辺野に向かう。矢の入った靫(ゆき)と儀丈用の仕込め弓はさすがに供の者に持たせてきたものの、狩衣・指貫の際立った衣装は、清水への参詣人や、その参詣人に物を乞う坂非人たちを驚かせる。
 清水の本堂の下を、参詣人の群れから外れて、山を迂回するように南へ歩くと、まだ昼のさ中であるのに、清水山と阿弥陀ヶ峰との間、久久目路(くくめじ)という谷に向かう小道は異様に静寂で薄暗くなっている。
 遥か下に音羽川の小さなせせらぎの見える清水山の尾根に立つと、阿弥陀ヶ峰のなだらかな山麓から、その南の月輪山のふもとの泉涌寺・法性寺のあたりまで一望できる。
 羅城門のあたりの市街南部の賑わいの遥か向こう、小塩山にかかる傾きかけた日がその斜面全体を照らす。東山の小高い山々には楸や蝦手の木々が一面に緑を誇っているが、清水山の南面と阿弥陀ヶ峰の北面に挟まれたその谷だけは樹木が疎らになっている。
 目を凝らして見ると、その潅木と下草の生い茂る荒れた谷一面には、おびただしい数の古びた墓堂、卒搭婆、火葬塚、霊廟が見え隠れしているのが分かる。
 鳥辺野は鴨の河原と違い、種々の葬法が混じり合っている。河原が庶民、それも下層庶民の死体遺棄場であったのに対して、鳥辺野はやや豊かな商人から武士、貴族、朝家の人々まで、多くの階層の葬送を受け入れていた。朝家や貴族の間では、火葬と土葬が混在し、火葬の中でも荼毘所(火葬塚)と納骨所が違ったり、あるいは火葬塚に廟舎を建てる貴族の家門もあれば、火葬のあと別の場所に埋骨し、その埋骨場所に卒塔婆を立ててそちらを大事にする家門もあった。そういう種々雑多な死者の扱い方が鳥辺野には混在していた。
 義清は西住たち三昧聖でもめったに近づかない、その斜面の奥、清水山と阿弥陀ヶ峰の間の久久目路の谷の辺りまで歩く。
 白狩衣もあずき色の指貫も、草の汁や泥であちこち汚れてきていますが、まったく気にする素振りはない。鬢のあたりから汗がしたたり落ち、顔のまわりには薮蚊が飛び回っているが、それらを手で振り払いながら、谷に下りていく。人の恐れ嫌がる葬送の地に、これほど熱意を持って入っていく武士を西住は初めて見た。
 鳥辺野と一口にいっても、例えば一条天皇后・定子の陵墓のように、斜面の上段にはっきりとした区画をとった霊廟もあるし、「六灰塚」と呼ばれる歴代天皇女御の六つの火葬塚のように、清水山麓・清閑寺僧侶によって守られている塚もあった。しかし谷の奥に入っていくと、遺棄され、腐敗、変容し、烏につつきさいなまれている庶民の骸がそこかしこに転がっている。鴨の河原に比べれば、この谷の奥まで運ばれて来ただけでも幸せとも言えるが、定期的に「川掃除」のある河原に比べ、鳥辺野の谷は人目に触れない分だけ、野ざらしの状態は凄惨である。
 モンドリとか霊屋(たまや)とかと呼ばれる竹の囲いや板の屋根を、骸の回りに巡らせているものもあるが、雨風が吹けばそんなものは一たまりもなく、大多数の白骨化した骸は無残に斜面に転がっている。
 西住は懐から香を取り出して、それぞれの骸の前で炊き、自己流の法華纖法を唱える。常日頃、鳥辺野で繰り返している行為である。
 七条河原などと違い、腐敗の匂いより、草いきれの方がむっと鼻をついてくる。
 義清は西住のうしろでしゃがみ込み、じっと誦経を聞いていたが、経が途切れたところで、ふと「その方、偉いな」と漏らした。
 西住が驚いて振り向くと、義清は「いや、その方、偉い」と今度ははっきり言う。
 西住はその意外な誉め言葉に驚いて、しばらくじっと義清を見詰めた。
「名もない仏を供養するというのは、誰にでもできることではない。うん、その方、偉い。うん、偉い」とまるで自分に言い聞かせるように呟き続けた。
 それから誦経する西住から離れて斜面に腰を下ろし、懐から聞書帳と矢立墨筆を取り出して走り書きしていた。おそらく歌を書き付けていたのだろう。思えば西住が佐藤義清、のちの歌聖・西行の詠歌の姿を見たのはそれが最初だった。
 ブヨをはたき、蔦やいぬわらびの下草を掻き分け、阿弥陀ヶ峰の麓まできたときだった。白骨化した骸を見つけて、西住が纖法を終え、額の汗を袖で拭いながら立ち上がると、脇にいるはずの義清がいない。コナラの木々の陰を透かすように首を動かしてあちこち探してみると、義清は下草に隠れるように上体を沈めていた。ほんとに微妙な直感だったのだが、西住には瞬間、何やら尋常から外れた、見てはいけないものを見てしまったような、そんな後悔が襲ってきた。
 義清は立ち上がって振り向き、西住と目が合うと、一瞬戸惑い、それから何やら悲しそうな表情をした。西住も慌てて視線をそらした。
 多分それは人の大腿骨だった。ほんとに信じがたいことではあるが、義清は人の大腿骨を懐にしまったのだ。
 もちろんそれを確かめるという訳にもいかず、かといって何を言って話の接穂にしたらよいかも分からない。確かにそれはほんの一瞬ではあったとは思うが、薄日の差し込む鳥辺野のコナラの林の中で義清と西住の間には気まずい沈黙が流れた。
「わたしは小野小町と話したことがある」
 それは突然の大声だった。谷を方を向いてその大声を出したあと、顎を引き、首を少しひねって、義清は西住の方を見る。三年前、七条河原の野焼きの折、狩衣、指貫の正装で威を正しながら、実は土手の町民に見栄をはって視線を送っていたあの時と同じ体勢だ。
「聞こえなかったやもしれぬ。それはよくあることだ。この世というもの、まことの驚嘆事は人は往々にしてやり過ごしてしまうものだ。それは仕方のないことだ。心底思いがけないことなのであるから」
 義清はまたそう大声で言ったあと、谷の方を向いた。
「わたしは小野小町と話したことがある」
 大きな声を出したあと、またさきほどと同じように顎を引いて西住を見る。
「どうした西住、疲れたのかな?」
 西住は問い返す気になれず、いぬわらびの繁みの上に座り込んでいた。
 義清は首を傾けてこちらを覗き込み、そのあと体勢を立て直すと蟹の横這いで二、三歩にじり寄ってきます。
「わたしは小野小町と話したことがある」
 今度はこっちを覗いたまま、力なく言う。勢いが弱くなり、西住の助けを求めているのがよく分かる。
「小野小町といえば、今から三百年も前の清和朝の歌人ですが、一体どうしてそのような・・・」
 この問いかけはもちろん諦念のなせる業、西住と義清との会話でよく起こる、自ら承知で罠に飛び込む問いかけである。
 西住は膝を抱えたまま言い、義清を見上げていた。
「うん?何じゃ?何かこのわたしに聞きたいのか?」
 またぐいっと顔を寄せてきます。
「はい。小野小町の話をお聞かせ下さい。・・・しかし判官殿、まずお座り下さい。お疲れでしょう。それからその小野小町の話をお聞かせ下さい。わたくしも大いに興味があります」
 義清は「う、あ、そうか」などと訳の分からない声を発して、西住が馴らした下草の上に座った。
「やはり不思議であろうか?」
 顔をぐいと横に向けて義清が聞きます。
「何がでございましょうか」
「小野小町と話したということだが、・・・やはり不思議か」
「はあ・・・、それはもう・・・」
 その答えに義清は俄かに頬を緩め、満足気にゆっくり二度三度頷く。
 いつも自分勝手にわがままなことを言い出す性格で、西住はのちのちまでほんとに難儀をしたが、このささいな事に嬉しさを率直に表す気性には感心した。それは周りの者も何か知らないままに幸せな気分にさせる笑顔だった。
「迦陵頻伽(かりょうびんが)という鳥を知っておるか」
「は?」
「知らぬか。うん、知らなくてもよい。いや、むしろあえて言えば知っているかどうかさえ知らなくてもよいといってもいいぐらいだ。ははは、何だか分からぬ。はははは」
 義清は自分で言った言葉に勝手に満足して「うん、うん」と嬉しそうに頷く。
「秋深き つゆの草むら 踏み分けて 問へど答えぬ むかし人かな・・・」
 これはのちのちまで変わらずそうだった。佐藤義清はいつも突如歌を詠じ、詠じたあと“どうだ”と同行の西住の顔を覗き込む。“いいであろう、この歌”という顔だ。しかしそれが分かっていても、また心の響くところのある歌であっても、人間というのは即座に「よい歌ですね」とは言えないものだ。
 義清はもう一度「秋深き つゆの草むら・・・」と詠じる。詠じたあと、また西住の顔を覗くが、西住は困る。どう対応してよいものやらと、難渋する。
 義清はこちらの返事がないと分かると、なおも近づいて西住の顔を覗き込む。人が絶句するほど感動を呼ぶ歌ではないのかと期待している風である。
「小野小町を歌ったものでございますか?」
 仕方なく、西住はちらっと義清の方を見て訊く。
「何がだ?」
 分かり切っているのに、こういう場合義清は必ず念押しする。
「いまの歌、小野小町を歌ったものでございますか」
「それはわたしが洛北蓮台野の葬地を通りがかったときのことだ」
 義清は西住の問いには答えず話を進め始める。相手が己れの意の通り身を乗り出してきたと分かると、相手を無視して自分の世界を展開する。これもいつもの癖だ。
「わたしはな、西住、この鳥辺野もそうだが、葬地にいると心がやすまる。これはな、いかにわたしの阿弥陀仏への信が強いかということの現れだと思うのだ。いや自分で言うのもおこがましいことだ。笑われても仕方ない。しかしわたしは葬地にいると“十方の衆生、わが名号を称うること”という阿弥陀如来の声が耳に聞こえてくる気がする。西方浄土から金色の雲に乗ってやってくる如来来迎の姿が目に浮かんでくる。やはりわたしは葬地の鎮魂をするために生まれてきた男なのかもしれぬ、弥陀の座す蓮華の化身かもしれぬと、最近つくづくそう思うのだ」
 満足そうにこちらを見てほほ笑む義清の狩衣の懐から大腿骨の端が見え隠れしている。蓮華の化身が葬地の人骨を漁るという、何とも不可思議な取り合わせに西住はただ言葉をなくすばかりだった。
「ただ蓮台野についてはそういう信心からばかりではない欲求があった。歌人としての求道というか、そこはそれ、言の葉の道の探求心ということはつねに身から離れぬものなのだ、わたしの場合は。敬愛する六歌仙の一人、遍昭上人が蓮台野に眠っているという噂を聞いたのだ、ふとしたきっかけで。蓮台野を訪ね、その“秋深き”の歌を詠んだ時であった。突如、迦陵頻伽の鳥が飛び立った。それからその鳥が飛び立った所にいた髑髏が話し始めた。“われは出羽の国の郡司、小野義実が娘、小野小町が頭なり”」
 義清は突如、女の声色で小野小町を演じ始めた。“物の怪憑き”という言葉さえ思い起こす、異様な豹変ぶりであった。
「われ、いかなる罪の報いにや、七才にて父におくれ、頼む方なくして近江の国におば御前のもとに六年の春を送る。時の建中の帝“小町ほどの美しき女は世にあらじ”といそぎ玉の輿を仕立て、御寵愛、比翼連理のごとくなりにき。そのとき深草の少将、歌を読み、詩を作り、小町にならば千夜も二千夜も通うべきとて、月には行き、闇にも通いて九十九夜になりたまいにけり」
 ただ呆然と見上げる西住をよそに、蓮華の化身の“小町”は懐の大腿骨をちらつかせながら立ち上がり、あるいは袖で顔を覆い、あるいは下草を踏み下ろしながら嘆き続けた。

「わたしは幼い時から、人は死ぬとどうなるのかということばかり考えていた」
 帰り道、坂の下りを案内するように西住が少し前を歩いているとき、義清はぽつりと口にした。夕暮れの薄明かりの中、清水の急坂を足元を確かめるように下りていいたときで、西住は思わず義清の方を見ました。
 草の汁や泥で汚れたとはいえ、相変わらず、白狩衣(かりぎぬ)・指貫(さしぬき)の衣装はあたりに異彩を放っていて、参詣客に無遠慮に物乞いをする非人たちも、遠巻きにするだけで近寄って来ない。
「わたしの祖父、季清は白河法皇のもと、検非違使の尉(じょう)であった」
 非人宿に入ってきたときのあの虚勢を張った話し方はまったく姿を消していた。
「はい」
 西住は義清を見て答える。
「これは前に話したか?」
「はい、三年前、七条河原で初めてお会いしたとき、お聞きしました」
「そうか、・・・結構話すからな。・・・武士のくせに結構しゃべる方だからな、わたしは。・・・そうか、家門のことなど、しゃべっていたか」
 義清は自らのこめかみのあたりを拳で叩いて、自虐の呟きを漏らす。
「判官殿、検非違使と死後のこととは、何か関係がございますか?」
 何か話しかけねば気の毒な雰囲気だった。しかし義清は黙って坂を下っていく。
「わたくしもも理性院開祖、賢覚上人より“死者の救いなくして生者の救いはない”と繰り返し教えを受けてまいりました。死者のことだけを考えて修行をしてきた気がしております」
 並んで坂を下りながら、西住は独り言のように呟く。
「・・・うん。わたしもそうだ。検非違使の祖父を見ていて、自然と死ぬことを考えてきたきたように思う」
「それは、どのような・・・」
「母親に連れられて、河原での祖父の晴れの場をよく見に行っていた。晴れの場というのは罪人の処刑であったり、地方の反乱者の首引き渡しであったり、あるいは川掃除の総指揮であったりするのだが、考えてみれば検非違使の仕事というのは、いつも死人とかかわっている。そのせいかどうか、あの獄門の反乱者はどうなっていくのか、河原に放りだされている死人はどうなっていくのか、死ねば何も考えないのかというようなことをいつも思っていた。ただ不思議なことに、死人を怖いと思ったことがなかった。醍醐寺炎魔堂や蓮華蔵院に祖父に連れられていき、『地獄草紙』や『餓鬼草紙』の死人の腐敗・変容する様子を書いた六道絵を見たこともあるが、怖いとは思わなかった。見慣れていたせいだとも思うが、どんどん引き込まれて行く興味はもったが、それは怖いという感覚ではなかった」
 話しているうちに、義清の精神がどんどん高まっていくのが西住には分かった。西住はこういう高揚して話していく義清の姿を見るのが、のちのちまで好きだった。
「何か分かりましたでしょうか?」
 西住は義清を覗き込む。
「うん?」
「人は死ねばどうなるのかということについて、何かお分かりになりましたか?」
「骨だな」
「は?」
「死ねば骨になる」
「はあ・・・、しかしそれは当たり前のことのような・・・」
 西住は首を傾げて義清を見る。
「いや、当たり前ではない。わたしたちは生まれるときは骨ではない。しかし死ねばみな骨になる。わたしたちは骨になること向かって生きていると言ってもよい。しかし骨は生きている人間も持っている。そこが難しい。その生きている人間が持っている骨は死んでも残るから、つまりわたしたちは生きているところと生きていてもいなくてもどうでもいいところを合わせることによって生きていることになる」
 西住には何の話なのか、さっぱり分からなかったが、義清は前を見てゆっくり歩きながら話す。
「例えば野犬だ、西住。七条河原の中洲の死人に野犬が食らいつく。食らいついて、そのうち死人は骨だけになる。骨だけになった死人の横で野犬は満足そうに舌なめずりする。・・・これをどう思う?」
「はい・・・」
「世の人々はこれに現世の無常を感じるという。しかし無常を感じる前にもっと大事なことを忘れてはおらぬか、西住。もっと大事なことを」
「はあ・・・」
「骨のことだ」
「はあ・・・?」
「肉を食った野犬が幸せそうな顔をしているのに、残された骨は残骸として横に放り出されている。肉はよい。食われても野犬の幸せに変わったのだから。骨はどうなる。犬の幸せにも預かれないのか」
 興奮した口調の間、義清はそっと懐の骨を狩衣の上から撫でていた。
 気がつくと、美しい十六夜の月が出ていた。五条大橋あたりの賀茂の流れがきらきら輝いているのが坂の上から見えた。

 越えぬれば又もこの世にも帰りこぬ 死出の山こそ悲しかりけれ

 宿(しゅく)に帰ってから、義清は西住に詠歌を見せた。西住にはよく分からなかった。正直言えば、何やら拙い歌という気もしたが、もちろんそんなことは口に出せなかった。

 西住が北面の武士としての佐藤義清を見たのはそれが最後だった。
 その年の秋、川掃除のあと、上皇と徳大寺実能の忍びの鳥羽殿行幸は予定通り行われた。冬に入り、十月には正式な安楽寿院落慶供養が盛大に行われた。
 義清は院警護のもののふとしてどちらにも立派に供奉した。時代の花形、北面の武士としてはもちろん、歌人としての風評も西住のもとに届いてきたし、また馬上で弓を使う秀郷流矢馳馬の名手という話も聞こえてきた。武門の中での義清の栄達を西住は陰ながら祈っていたが、その三年後の保延六年(一一四〇)、義清は突然出家してしまった。


               *


 その日は朝から雨で、西住は犬神人(いぬじにん)たちが清水への参詣客に売り付ける緒太(おぶと)と呼ばれる草履作りを手伝っていた。
 昼過ぎのことだった。真新しい墨染の衣を雨に濡らし、髻を切った濡れたざんばら髪の異様な風体の男が戸口に現れた。
 男は戸口に一歩踏み込むなり、口を開いた。
「空になる心は春の霞にて 世にあらじとも思い立つかな」
 朗々と歌い上げる。
 小屋の中には西住たち三昧講の非人たちが五、六人いたが、何が何やら訳が分からず、作りかけの緒太を手に、みな呆然とその異様な男を見上げていた。
 男は「ぐほほん」とから咳をしたあと、
「おしなべて物を思わぬ人にさへ 心を付くる秋の初風」
 と、また朗々と歌ったあと、西住たちをチラッと見て、「まだかな」などと小声で言ったあと、懐から濡れた聞書帳を取り出して一瞥すると、「よし」と小さく気合を入れ、
「世の憂さに一方ならず浮かれ行く 心とどめよ秋の世の月」
「物思ひて眺むる頃の月の色に いかばかりなるあはれ添ふらむ」
 と、今度は続け様に歌いあげる。西住たちはただ何事かとあっけに取られる。しかし異様な男がざんばら髪をかきあげたとき、西住は思わず「あっ」と叫んだ。
 戸口の逆光と乱れた髪の陰で顔は薄暗く、また目元が落ち込んでギラギラしており、随分人相は変わっていたが、それは間違いなく佐藤義清だった。
「この黒衣の方は新しいし、濡れてもまだしっかりした襟ぐりなのだが、この直綴(じきとつ)とかいう下着はまったく失敗であった」
 義清は濡れた衣のまま、板場に腰を下ろすと、何やら訳のわからないことをまくし立て始めまた。義清はいつも唐突に現れ、いつも周りを呆然とさせる発言で驚かせる。
「上半身だけの偏衫(へんさん)という襦袢があって、で、下半身だけの裙子(くんす)という腰巻きもある。あるということであった。そういうふうに法輪寺の空仁が言っていたのだから。そういう上と下と別々の下着がある。あることはあるが、しかし『義清様、なにしろ一番着易いのは上下一つになった直綴です。そういえば下ろし立ての直綴がありますから、あれを差し上げましょう』と空仁が力を入れて言うものだから、『上下一つというのは、とにかく着るにも脱ぐにも手早いですし、それに洗うのが楽ですから。いえいえ、義清様、門出ですから、どうかご遠慮なさらずに』と空仁が繰り返し力説するものだから、それでは有り難く拝借しておこうかということになったが、たしかに脱着は楽だが、こう雨に降られてみると、背中の濡れが一気に下までおりて、腰から腿のあたりにまとわりついて、歩くのにも引きつってしまう」
「判官殿、判官殿」
 自分の腿のあたりの濡れた衣を引っ張りながら一気にまくし立てる義清を、西住はやっとの思いで制止した。
「判官殿、一体どうなさったのです」
 西住は義清の足下の土間に正座していた。
 義清はわれに返ったように、首を下げ、「ふうっ」と溜息をつく。
「いや、参った。この雨はまったく予想外だった・・・」
 義清の声は俄かに小さくなる。しかし考えてみれば、この起伏の大きさもいつものことであった。
「まあ、空仁も悪気があった訳ではないのだと思う。・・・わたしのことを心配してくれて、この直綴を与えてくれたのだと思うし、そこのところはわたしも配慮しなければならないのだと思う。わたしもそれぐらいのことを斟酌できない男ではない。しかし、参った。・・・ああ、大事にしていた聞書帳が、・・・つくづく参った、・・・ああ」
 義清は黒衣の懐から濡れた聞き書き帳を取り出して嘆息する。声は段々かすれていき、聞き取れなくなっていった。
「判官殿、そのお姿は・・・」
 義清はチラッと目を上げて西住を見る。
「出家した」
 ほとんど蚊の鳴くような声だ。
「・・・・・・」
 西住は両手を着き、ただ黙って見上げる。
「西へ行くと書いて“西行”だそうだ、法名が。そなたが西住だから、縁があるな、これは。・・・ははは」と顔を上げて、力弱く笑ったと思うと、すぐまたざんばら髪の首をガクッと落とす。
「・・・・・・」
「空仁がつけてくれたのだ、出家を決意してから。・・・空仁というのは、昔、祖父季清に仕えていた佐藤家の家人で、その後出家して、嵐山の法輪寺に庵を構えておる。・・・何かと助言をくれた。出家するなら、法名が要るでしょう。西行にしなさい、西行に。浄土を目指しているという趣がよく出ているし、簡素でいいでしょう。わたしも最近この名前に気づいて、もし付け変えられるものなら、わたし自身が名乗りたいぐらいだとか、・・・とにかく、空仁は押しの強い隠遁者だから。隠遁者がそんなに人に圧力をかけていいのかと思うぐらいだ。・・・正直言うと、この名前、あまり気に入ってない。わたしは、もし出家するなら、清の字か、浄の字を使いたいと前々から思っていた。何か、身が洗われるようなすがすがしさがあるだろう?清とか浄とかという字には。ほんとのことを言うと、あまり気に入ってないのだ、西行という法名は」
「何かございましたのですか?」
 俯いてブツブツ言い続ける義清を見上げて、西住が尋ねる。
「いや、知らぬ。とにかく空仁は西行がいいの一点張りだから」
 義清は俯いたまま答えます。
「いえ、法名のことではなくて・・・、いつのことでございます?」
「何だ?」
 義清はようやく頭をあげます。
「出家のことでございます」
「ああ。・・・昨日の晩」
「昨日の晩?・・・それはえらく急なことで」
「昨日の晩、髻(もとどり)を切って、庭の持仏堂に投げ入れ、それからとりあえず嵐山法輪寺の空仁を訪ねた。空仁には、前から出家のことなど相談にのって貰っていた。法輪寺の法主をもって得度してもらうつもりでいた。しかし空仁は、このざんばら髪を見て、えっ、こんなに早くと絶句するだけで、得度の話をしても、いま法輪寺には内紛があってとか、何分急なことだから、もう少し前もって知らせておいてくれればとか、不得要領のことばかり言って、そのくせ法名は西行にしろ、西行はよい名だとしつこく念押しをして、何か、法名で利益を得るようなことでもあるのかと思いたくなるぐらいだった、とにかく段々腹が立ってきて庵の戸を蹴って出て来た。それから、一晩中歩いた。嵐山から桂川沿いを下り、どこをどう歩いたかも分からぬが、羅城門のあたりをウロウロしているうちに夜が明け、激しい雨になった」
 一気に話し終わると、蓬髪の新僧はまた俯いて「ふうっ」と溜息をつき、それから唇を噛む。
「判官殿、いえ、西行様、よいことをされました」
「う・・・」
 義清は西住の言葉に顔を上げる。
「よくぞ、仏の道に入る決心をされました」
 外はまだ雨が激しく降っておりました。
 義清は西住の言葉の意味を解しかねたのか、「はあ・・・」という気の抜けたような声を上げた。
「西行様、よいことをなされました」
 土間に両手をつき、西住は義清を見上げてもう一度強く言った。
「そうであろうか・・・」
 義清は土間の地面を見つめたまま、そう呟き、しばらくすると、振り乱した髪の奥の充血した義清の目から涙が落ちてきた。

 世間では佐藤義清の突然の遁世についてあれこれと噂が飛び交った。
 何しろ時代の寵児、北面の武士、しかも歌人としの名も通い始めていた若武者の発心である。鳥羽上皇への忠義立てと徳大寺家家人としての崇徳天皇への思いとの板ばさみであるとか、待賢門院女房・堀河局への恋慕による正妻との三角関係であるとか、あるいは待賢門院様ご自身への懸想であるとか、また同い年の北面の武士・平清盛の出世を妬んでとか、とにかく様々なことが言われた。
 その後、西行が高野入山を決意するまでの約十年間、西住は西行のそばに付き添ったが、西行自身も出家の理由については一切話さないし、また西住の方からも聞かなかった。ただ一つ確かに言えることは、西行がのちのちまで出家について、得心と後悔との間で揺れ動いていたことである。

               *

 政(まつりごと)にも何やらきな臭い匂いがしていたが、当時、権勢を誇る大寺の間でも混乱が起こりつつあった。
 末法の世に入り、仏法による息災招福と国家安泰を願う天皇家や公卿たちによるの造寺・造仏は華々しいものとなっていた。例えば権勢を極めた白河法皇は六箇寺の創建、四〇万基の造塔、七千体の造仏を行った。鳥羽上皇の中宮であり、かつまた白河法皇の侍妾(じしょう)でもあった待賢門院璋子(たいけんもんいんたまこ)も女院の身としては前例のない造寺・造仏・熊野参詣を繰り返し、女院直属の院司別当・源師時(もろとき)より「(造進した)仏躰、群蝸のごとし」「国の弊れ(やぶれ)、世の損なひなり」と嘆きを受けたほどである。自分や親族の病気平癒、お産、供養など、とにかく何かのたびに仏の道への造進を繰り返した。
 白河院政期には鴨川の東、下粟田の地に、白河・法勝寺、堀河・尊勝寺、鳥羽・最勝寺、崇徳・成勝寺、近衛・延勝寺、待賢門院・円勝寺という、六つの「勝」の字のつく御願寺、即ち「六勝寺」が造営された。また鳥羽院政期には、広大な洛南鳥羽殿の地に、証金剛院、成菩提院、勝光明院、安楽寿院、金剛心院の五つの御願御堂を建立した。夥しい御願寺(天皇・上皇の発願による寺)の群れである。上皇・法皇という地位はいわば私的なものであるから、実質的には政治の中枢ではあっても、造寺・造仏するには自由な立場にあった訳である。院政期とはそういう公的な政治と私的な人事・信仰が一緒くたになった不思議な機構であった。
 この造寺・造仏の氾濫には「結縁(けちえん)」という意識が大きく原因していた。結縁とは来世での成仏の縁を作るという意味であるが、末法思想の普及や、浄土教や阿弥陀如来信仰の普及とともに、皇室・公卿たちはこぞって結縁成就を願った。その結縁成就とはすなわち自らの御願寺を作って仏に捧げることであり、もちろん、その御願寺は広大で絢爛であるほど来世での成仏が約束されることになっていた訳である。
 もちろんそれらの皇室・公卿の結縁には莫大な費用がかかる。造寺・造仏にかかる費用は殆ど成功(じょうごう)・内給(ないきゅう)の売官によって賄われたが、それによる官職腐敗、任免私物化は甚だしいものがあった。
 しかし権勢寺社の側から見ても、これは由々しき事態ともなっていた。それまで威勢を誇っていた有力寺院には、皇室の守り寺であった叡山・延暦寺、藤原氏の氏寺の南都・興福寺、それから学侶の寺として仏教界全体に君臨していた東大寺などがあったが、これら三寺に代表される権勢寺は、朝家をはじめとする有力者からの広い意味での喜捨(きしゃ)・勧進(かんじん)によって多くの荘園を持ち、また朝家や藤原一門の血族を法主(ほっす)や座主(ざす)として迎えることにより、政治の中枢にも介在していた。
 しかし、天皇・上皇・公卿の私的な寺であるとはいえ、夥しい御願寺の群れが出来るにつれ、次第にその御願寺が仏教界の中で発言権を持ってくるし、何より院・上皇と、その周囲の成功によってのし上がってきた受領(ずりょう)層の潤沢な資金が御願寺群に流れていくことになる。これは権勢寺にとっては不都合なことである。
 権勢寺の強訴請負人・僧兵は、こうして出来上がっていった。叡山の「山法師」、興福寺の「奈良法師」、近江園城寺の「寺法師」は特にその名を馳せ、院はそれに対抗して、強力な一族・郎等を持つ「北面の武士」を配置した訳である。
 こういう「権勢寺」対「御願寺」という仏教界の表立った対立とは別に、空也上人の頃から連綿と、しかしひっそりと続いていた信仰の流れがあった。それは寺の葬送への関与である。
 古来わが国では、寺が死者の弔いをするということは珍しいことであった。朝家の寺・叡山や藤原一門の寺・興福寺は、もちろん朝家や藤原一門の菩提は弔うが、あとはその人々の息災招福と国家安寧を祈願する寺である。つまり「生きる者の寺」である。それらの寺は、それゆえに喜捨による荘園の蓄えと僧兵強訴による圧力によって「生きる者」の中に地位を築いていかねばならなかった。しかし「生きる者の寺」の勢力争いとは別の所で、「死者の寺」の流れがあった。

 西住の父は洛東山科の醍醐寺で承仕(しょうじ)をしていた。承仕とは寺の雑役を扱う半僧半俗の寺男のことで、下醍醐の近く、日野の里に居を構え、幼少の西住たち家族はそこに住んでいた。
 醍醐寺というのは不思議な寺である。例えば叡山や南都東大寺になどに比べると、雑多なものを容認する寺風があった。弘法大師の孫弟子にあたる聖宝(しょうぼう)が清和天皇の代の貞観十六年(八七四)に、南都奈良から大津石山寺への途上の山道に草庵を建てたのが醍醐寺開山とされているから、石山寺と同じく真言密教の道を歩んだことは間違いないのであるが、顕教の代表東大寺との関係も深く、東大寺三論教学の京中への接点とも言われた。
 また延喜七年(九〇七)醍醐天皇の御願寺、続いて延喜十三年(九一七)には国家の庇護を受ける定額寺(じょうがくじ)となり、それ以降多くの子院が建てられて繁栄し、「洛西の仁和寺」に対して「洛東の醍醐寺」と並び称せられるほどの東密(真言密教)の拠点ともなった。
 寛仁二年(一〇一八)、一条天皇に召された仁海は雨乞いの修法(ずほう)を行って見事その験を現したので、一躍、醍醐寺は修験道の要として名をなした。仁海が醍醐寺隣接の小野の曼陀羅寺に住していたため、醍醐の真言修験道は「小野流」と称せられ、さらにその小野流は各子院により、三宝院流、勧修寺流、随心院流、安祥寺流、理性院流、金剛王院流という六つの呼び名を得て、「小野六流」として大いに隆盛した。
 御願寺、東密の拠点、修験道の本山、顕教東大寺教学の布教者、という表立った雑然さと共に、醍醐寺には隠れた大きな特徴があった。それは「葬送」を行ったことである。
 特に洛中の民衆を驚かせたのは延長八年(九三〇)の醍醐天皇の大葬であった。天皇の柩輿(こし)が醍醐寺北山陵に向かう折、鹵簿(ろぼ・天子の行列)の左右には緒寺の念仏聖が百箇所の幕舎を設け、鉦を打って念仏を奉じた。また醍醐天皇山陵には醍醐寺と隣接する勧修寺から沙弥二名を出して、一生を念仏三昧に捧げさせた。叡山で観想(思い浮かべること)の業として始まった「念仏」を、葬送・回向の行として広めていったのは醍醐寺であり、醍醐寺で育った上人空也であった。
 古来、骸(むくろ)は遺棄するものという風習であったわが国では、遺体を尊崇するという意識が低く、それは庶民だけでなく、例えば摂関家においても墓所が子孫たちに不明確であるというような有様であった。しかし火葬が貴族の間に浸透してきて以来、納骨の場所を大事にしようという意識が芽生えてきた。その第一の候補が醍醐寺であったわけだ。
 醍醐寺には代表的納骨が二つある。一つは開祖・聖宝の上醍醐・開山堂床下の納骨、もう一つは応徳元年(一〇八四)の白河天皇中宮・賢子(かたこ)の上醍醐・円光院仏檀下の納骨である。
 とりわけ中宮賢子の場合は破格であった。当時、朝家の火葬が行われた場合(醍醐天皇は代々土葬である)、その火葬地にそのまま山陵を立てるのが常識であった。鳥辺野で火葬し、拾骨し、また定額寺とはいえ既存寺の醍醐寺に納骨するのは希有のことである。寺とは「生きている人間」のものであり、死者は野辺に遺棄するものという意識が底流としては朝家にも貴族にもあったからである。
 中宮賢子のあとも 是子(やすこ)内親王、令子(よしこ)内親王も崩御のあと同じく上醍醐円光院の仏檀下に納骨された。共通することは開山堂も円光院も八角円堂の造りということだ。
 八角円堂とは法隆寺夢殿に代表される建立形式である。風葬した死者の疫癘魂が這い出してこないように周りを囲う殯の形である。山科醍醐寺に八角円堂の納骨堂を建てて納骨を受け入れていたということは、醍醐寺がすでに「生きる者」の寺とともに「死者の寺」の意味をも持っていたということを表す。
 醍醐寺は京の南東、鳥辺野、阿弥陀ヶ峰を越えた山科にある。ここは周りに「深草の山」、「小野の野辺」などを有する山城の国全体の広大な「放り」の地、すなわち葬地の中心であった。醍醐寺は創建当時から他の大寺に比べ「死者の寺」でもあったのも、ある意味自然であった。
 醍醐寺は死者の寺であったがゆえに、葬送にかかわる西住のような三昧聖・清目(きよめ)・餌取り(えとり)等、多くの非人を抱えていた。これも醍醐寺の大きな特徴である。これらの者が「河原掃除」や「納骨勧進」をし、それによって得る検非違使庁からの施米や、遺族からの供物の一部を寺に施入することによって醍醐寺の経済は支えられていた。
 造寺・造仏華やかな白河・鳥羽院政期、有力寺院には大きな三つの流れがあった。僧兵を傭して従来の荘園ならびに発言権を守るか、御願寺として院並びに近臣の受領層の経済力に頼るか、「死者の寺」として生きるかである。
 西行は「死者の聖」として醍醐寺で得度を受け、結果としてもう一つの大きな「死者の聖地」である高野入山を果たすことになる。

 永久三年(一一一五)、西住の父の仕えていた法眼房賢覚(けんかく)が下醍醐に理性院を開いた。その三年後の元永元年(一一一八)の年、西住の父は六才の西住をこの院に入山させた。
 賢覚は真言僧でありながら、市聖(いちひじり)空也に深く心酔していた。空也はもちろん念仏僧であるが、醍醐天皇第五皇子とも言われて真言宗醍醐寺とはゆかり深く、醍醐寺内にも空也を慕う一派が出来ていた。その代表が賢覚であり、西住はこの死者の回向のための真言念仏の確立に尽くした賢覚の下で三昧聖の道を選んだ。
 朝家や公卿たちには、造寺・造仏によって結縁往生を願うという道が開かれていた。しかし庶民はただ疫癘魂(えきれいこん)を恐れるだけで、死者を悼むすべすらない。これを何とかせずに何が仏の道かと、西住なりの自負を持っていた。そして、あの保延六年(一一四〇)の初冬の雨の日に、ざんばら髪の佐藤義清が現れたおり、この男と共に人々の往生の手助けをという意識が芽生えた。
 とりあえず、西住は義清を伴って山科醍醐寺の理性院を訪ね、賢覚に義清の得度を頼んだ。
 賢覚は弟子を育てるのを厭わない法主であった。
 当時、理性院(りしょういん)は新しい真言念仏を開基したところであり、その名を聞いて門を叩く下僧は跡を絶たなかった。のちに「賢覚条下、付法二七人衆」と言われ、門下の俊英を謳われたほどであるが、その中でも、のちに相次いで高野に入山し、聖として名をなす、正覚坊覚鑁(かくばん)、仏種房心覚(しんがく)、俊乗房重源(ちょうげん)の三人には西行も西住も大きな機縁を与えられた。

「しばらく、一緒に回ってくれぬか?」
 得度のあと理性院の縁のふちに腰掛け、西行は西住にふっと漏らした。

 世をすつる人はまことにすつるかは すてぬ人こそすつるなりけれ

 西行は意味不詳の判じ物のような歌をぶつぶつと呟いていた。
 大岩山の裾野を這うように流れる山科川が、小椋池に注ぐあたりできらきら光っているのが見えた。得度の日はほんとによい日和であった。

 それから約十年、高野に上がるまで、西行と西住の奇妙な同居草庵生活が続いた。
「五三昧」と呼ばれる洛外の葬地を見てみたいと西行が言い、それに従って順に庵を結んで行った。
「無常だ」「はかない」が西行の口癖だった。いつも嘆き、いつもうなだれ、歌にもそればかり書き付けていた。庵の地も、「蓮台野が寒々しくて空しいと聞いている」とか、「化野(あだしの)の念仏寺はまるで賽の河原だと聞いている」とか、人から聞いている無常の地ばかりを希望した。
 貴族ばかりでなく、武者でさえきわめて恐れていた「疫癘魂」とか「死穢」とかというものを全く気にしない、その強靭な精神は人の死を扱うのを業とする西住ら三昧聖の目から見ても敬服に値するものだった。
 しかし反面、気になることもあった。「どうして葬送の地ばかり選ばれるのですか?」と西住が尋ねるとき、西行の答えはいつでも「何を言うのだ。死者を供養するためではないか、無縁の仏を弔うためではないか、三昧聖のその方が、何のために行くなどと聞いてどうする」と決まっていた。しかしその口調は明るいものだった。
 考えてみれば、西住が初めて佐藤義清に会ったのも七条河原の川掃除、二度目のときも北面の用向きだと言いながら鳥辺野を見に来たような所があった。そしてあの阿弥陀ヶ峰の麓で、「わたしは小野小町の頭蓋骨と話した」と叫びながら、懐の中から見え隠れした屍の大腿骨・・・。
 しかし西住の中には、西行というのはほんとのところ「無常」が好きなのではないかと思えるときがあった。「はかない」と嘆きながら、心の中では「はかないのが嬉しい」と言って、それを楽しんでいるのではないかと、もっと正確に言えば、西行という出家者は死体が好きなのではないだろうかと、西住にはそう感じられるときがあった。

 しかしそんなことより、十年の同居草庵生活で西住を困らせたのは、西行が働らかなかったことであった。草庵の隠遁生活といっても、暮らしていかなければならない。洗濯もしなければならない。薪割りも炊事もしなければならない。しかし西住が何か「お願いします」と頼むと、「お、いま、いいのが浮かんだ」などと言って、こそこそ庵に入って何か書きつけているのである。
「せめて、セリでも摘んで下さい」
 洛北の葬地、蓮台野の一角に庵を結んだとき、西住は頼んだことがある。毎日の水くみ、洗濯、賄い事に疲れて、西住も少し気が立っていた。
 まだ早春の、吐く息が白く濁る朝であった。
 裏に清水の流れる小川があって、雪解け水にきれいなセリが出ていた。
 西住があまりしつこく言うので、西行は庵から不承不承出てきて、畦のところでしゃがんでいた。西行はおっかなびっくり、手を差し入れた。
「つめたい」
 西行はそう小さく叫んで、手を引っ込めた。
「つめたいところに生えるのがセリです」
 庭の竈で汁を炊いていた西住は大きな声を出して、畦にいる西行を睨んだ。
「ひょっとしたら、つめたいのが得意な人も世の中にはいるかもしれない。しかし残念ながらわたしは得意ではない。人には得手不得手というものがある」
 ブツブツと訳の分からない言葉を呟きながら、西行は引き上げようとする。
 西住はますます腹が立って、畦の手前で、とおせんぼした。凄い形相だった。
「あ、えっと」と西行は自分の額を押える。「えっと、いま、秀歌が浮かんだ。・・・頼むから、西住、ちょっと待ってくれ、ほんのちょっとだけでいい」
 そう言って、西行はお決まりの懐探りをする。
 ほんとに、この聞書帳だけはいつも肌身離さず持っていた。
 紙や墨が切れたときだけは、どこにそんなまめさがあったのか、どうしてそのまめさが洗濯・薪割りに生かされないのかと愚痴を言いたくなるほどの熱心さで、七条の市に買い求めに行く。
 さすが歌人だなと、西住もそのときだけは変な感心をする。
 うしろを向いて何かこそこそとその聞書帳に書き入れると、「このような・・・」ともごもご言いいながら、聞書帳を西住の方に差し出す。
 これもいつものことである。一首出来ると、西住に見せる。見せることは見せるが、いつも俯いて差し出す。気が弱いようにも思えるが、それにしては家事、賄い事の避けようは並ではない、それほどまで力を入れている詠歌なら堂々と見せればいいという気もするが、いつも怯えるように見せる。気が強いのか、弱いのか、まったく判断に苦しむ。
 その歌には珍しく、「若菜に寄せて恋を詠みける」という詞書があった。何なんだろうか。

 七草にせりありけりと見るからに 濡れけむ袖のつまれぬるかな

 濡れた袖というのは、恋の涙のことでしょうか。「つまれ」というのは「摘む」と「詰む」の掛言葉でしょうか。何のことか西住にはよく分からない。とにかく、歌の良しあしとは関係なく、西行は蓮台野では決してせりを摘まなかった。それは事実である。
 春とはいえ、肌寒い日が続いていた。
 西住はついに発熱し、咳が止まらず、それでも庵の前で薪を割っていた。ふと振り返ると、上人は板庇のところで横になっていた。
 西住は腹が立って、ことさら自分の病を誇示するように斧を下ろす時、よろけて見せました。手枕で寝そべっていた西行が、「おっ」と言って頭を起こした。
「西住、左手で斧を引くようにしないから」
 肘で頭を支えながら西行が言う。
 西住はなおも腹が立って、西行を無視したまま、もう一振りよろけて見せ、そのあとごほごほと苦しそうに咳き込んだ。
「それ、そこ、その斧を下ろすときに左手で、ぐっと、この脇の下に引き付けるようにしないから。・・・あーあ」
今度は西行は完全に上半身を起こし、身振りを入れて指導する。しかし、そこまでしてもまだ自分でやろうとはしない。
 西住は悔しくて、斧をその場に放り投げてしまった。そんなことは共に草庵生活をし初めて三年、初めのことであった。西住は二間ある庵の、自分の部屋の方へ入り込む。
 上人もさすがに驚いたようで、部屋を覗きに来た。
「少々言い方が難しかったか?難しかったかもしれないが、やってみると簡単なことだぞ、西住。こうやって、斧を下ろすであろう、そのときに、こう、左手を脇の下に引くのだ」
 西住の部屋の破れ襖の前で、斧を下ろす実践をしてみせる。その様子を見て、西住は余計に腹が立って、布団をかぶって寝返りを打ち、それから足でどんと壁を蹴った。
 西行もさすがに気づいたようで、うなだれた様子で静かに出て行った。
 その日の夜遅く、西行は砂金二斤という大金を持って、帰って来た。
「左大将頼長殿の所へ一品経(いっぽんきょう)和歌の勧進に行ってきた」
 西行はぽつりと漏らす。
 一品経和歌とは法華経二八品を一品ずつ分けて写経してもらい、そこへ勧進者が和歌を添えて供養するものである。写経者は巨額の供養料と共にそれを勧進者に奉納する。この写経帖を醍醐寺に奉納して、巨額の供養料の一部を西住たち勧進者が受け取るという仕組みのものである。
 和歌の世界でのある程度の名声と、天皇家や公卿という有力者への面識がなければできない大きな勧進である。まして左大将頼長といえば、当時の摂政忠通の弟で、十数年後には兄弟の間で骨肉の保元の大乱まで引き起こしすことになる実力者である。庶民に火葬と醍醐寺への納骨をすすめる、あるいは遺体を受け取ることによってその処理を請け負い、供物を手にする、そういう三昧聖が日々行っている勧進とは、はなから規模が違う。
「西住にも少し楽をしてもらわないと思って・・・」
 西行は臥せっている西住の脇に砂金袋と写経帳を置いて、苦笑する。
「いつもいつも職人や郎等の骸に添えられている貧しい供物では苦しいからな」
 西行はそう言って隣の部屋に戻って行った。



               (二)


 その昔、髪おろして貴き寺々参りありき侍りし中に、神無月上の弓張りのころ、長谷寺に参り侍りき。日暮れかかりて、入相の鐘のこゑばかりして、もの寂しきありさま、梢の紅葉、嵐にたぐう姿、何となく哀れれに侍りき。
 さて観音堂にまいりて、法施など手向け侍りてのち、あたりを見巡らすに、尼の念珠をする侍り。心を澄まして念珠をする侍り。哀れさに、かく、

  思ひ入りてする数珠音の声澄みて おぼえず溜まるわが涙かな

と詠みて侍るを聞きて、この尼声をあげて、「こはいかに」とて、袖にとりつきたるをみれば、年ごろ偕老同穴の契り浅かりざりし女の、さまを変へにけるなり。あさましく覚えて、「いかに」と言ふに、しばしは涙胸にせける気色にて、とにかく物言ふことなし。ややほど経て、涙をおさへて言ふやう、「きみ心を発して出給ひしのち、何となく住みうかれて、宵ごとの鐘もそゞろ涙をもよほし、暁の鳥の音もいたく身に染みて、哀れにのみなりまさり侍りしかば、過ぎぬる弥生のころ、かしらをおろして、かく尼になれり。一人の娘をば、母方のをばなる人のもとに預け置きて、高野の天野の別所に住み侍るなり。さてもまた、我をさけて、いかなる人にもなれ給はゞ、よしなき恨みも侍りなまし。これは実の道におもむき給ひぬれば、露ばかりの恨み侍らず。かへって智識となり給ひぬれば、嬉しくこそ。別れ奉りしときは、浄土の再会をとこそ期し侍りしに、思はざるに、夢とこそ覚ゆれ」とて、涙せきかね侍りしかば、さま変へける事の嬉しく、恨みを残さざりけん事の喜ばしさに、そぞろに涙を流し侍りき。
 さてあるべきならねば、さるべき法文なんど言ひ教へて、「高野の別所へ尋ね行かん」と契りて、別れ侍りき。
 年ごろもうるせかりし者とは思ひしかども、かくまであるべしとは思はざりき。女の心のうたてさは、かなはぬに付けても、よしなき恨みを含み、耐えぬ思ひに有りかねては、この世をいたづらになし果つるものなるぞかし。しかあるに、別れの思ひを智識として、実の道に思ひ入りて、かなしき独り娘を捨てけん、ありがたきには侍らずや。
 かやうの事、書きのせるもはばかりおほく、かたはらいたく侍れども、何となく見捨てがたきによりて、我をそばむ人の心をかへり見ざるべし。
 『撰集抄』巻第九


 昔、契りをかわした女と長谷寺で偶然再会したが、女というのは浅ましいもので、『もう浄土でしか会えないと思っていた方と再び会えてこんなに嬉しいことはございません。出来ればまたお会いできないでしょうか。高野へでもどこへでも行きます』と泣いてすがってきて、ほとほと参った。前からうるさい女だとは思っていたがこれほどとは思わなかったと、西行独白の体で書かれている。出家して八年後、西行が偶然、在俗時代の妻と再会したというのである。
 しかし問題なのは長谷寺で再会したという点である。なぜ長谷寺なのか。
「隠国(こもりく)の初瀬」と歌われている旧都飛鳥東部山あいのこの地だが、「こもりく」とはもともと死者の霊がこもるという意味で、古代よりの旧都飛鳥の「放り」、つまり死体遺棄の地を意味していた。十一面観音像を本尊とし、聖武天皇の頃よりの歴史を持つ真言密教の本山長谷寺であるが、山科醍醐寺と同じく、もともとは葬送の地に慰霊の意味で設営された三昧堂である。
 西行は葬送の地、こもりくの初瀬で何をしていたのか。


 婚姻当初より、性格的に不思議な所の多い殿であると、新妻蓮西は感じていた。
「わたしはいま、火のことを考えていました」
 檜扇でご自分の頬のあたりを叩きながら、佐藤義清が言う。
「は・・・」
 蓮西には義清が何を言ったのか分からなかった。
「火です」
 義清は檜扇でなおも頬を叩いている。
 なにやら尋常でない様子に見え、蓮西は侍女と二人顔を見合せた。
 この扇で頬を叩くのが、義清の考えているときのの癖だと分かったのは随分あとになってからのことだった。
 婚姻の折には「新枕の儀」が行われる。町尻小路の屋敷での簡略化されたものではあったが、「消息」という儀礼的な便りが届いたあと、婚家の下人である所従二人と紙燭(しそく)を灯して、新妻蓮西が新居にやって来る。
 門口で葉室家の火と佐藤家の火を一つにして、寝所の階(きざはし)の下に設けられた灯蘢に灯したあと、寝所の灯り御殿油にも、また枕上の香炉にもその火を灯す。二つの家門の火を合わせるということで、受け継いできた血脈を一つにするという意味の儀式である。
 その日は秋八月末の月の美しい夜だった。
 蓮西は侍女に付き添われて入室し、手をついて深々と頭を下げた。義清は位階を表す当色に従い、深い緑色の束帯で正装していた。黒い冠をつけ、馬の尾毛で編まれた綏(おいかけ)というかんざしを差し、冠の裾飾りの巻纓(けんえい)は薄紫色に染めてあり、蓮西はその凛々しさに思わず胸がときめいてしまった。素晴らしい武者姿だった。
 婚姻がまとまったのは保延元年(一一三五)、義清が十八才、蓮西が十六才のときだった。
 蓮西は保安元年(一一二〇)、権中納言・葉室顕頼(あきより)の娘として生まれた。当時まだ白河法皇が存命で、一大権勢を誇っていた時代であるが、祖父・葉室顕隆(あきたか)は法皇の近臣の中でも特に信任を得、摂関家の藤原忠実(ただざね)が保安二年(一一二一)に失脚してからは、「天下の政、此の人の一言にあり」と恐れられ、「夜の関白」との異名をとるほどの羽振りであった。
 蓮西が幼年の頃というのは、父顕頼が祖父・顕隆の権勢のもと、栄達の道を極めていた頃であった。ただ蓮西は側妾の娘として生まれ、ゆえに嫡子の光頼らの異母兄弟とは違い、ささやかに育った。顕頼の正妻、忠子は中納言・藤原俊忠の娘で、忠子は後に美福門院得子(びふくもんいん・なりこ)の宣旨(最高級女官)をもつとめ、白河法皇亡きあと、鳥羽上皇と葉室家とのつながりにも功績のあった女官であった。
 白河法皇が大治四年(一一二九)に亡くなり、鳥羽上皇の治世となってからは、特に忠子の子供たちと蓮西たち側妾の子たちの間には、はっきりとした扱いの違いがあった。
「火とおっしゃいますと・・・」
 十六才の蓮西には何のことか分からず、手をついたまま、声にならないような声しか出せなかった。
「人は生まれると産湯を使う。産湯は何で沸かすのかというと火です。火で沸かします」
 蓮西が小さく頷いたとき、驚いたことに義清は立ち上がった。
 義清は部屋の閾(しきみ)を越え、廂(ひさし)のところまで出たかと思うと、くるりと向き直り、こちらにゆっくり歩きながら話す。
「今日の新枕(にいまくら)の儀の中心も“火合わせ”の儀式が中心です。日々の調理は釜屋でなされる。これも火で行う。われわれが宮中各門の警備をするとき、あれも“火焚き屋”と呼ばれる場所で篝火を焚いて行う。・・・まだあります」
 義清は懐から矢立を取り出した。
「わたしがいつも肌から離さず持っている、この墨」と、義清は矢立の先の墨溜まりを開け、蓮西の顔の前に持ってくる。
「この墨はどうやって出来ると思いますか?」
「・・・」
 蓮西はただ見上げていた。
「分かりませんか?・・・いや、いいのです」
 義清は矢立を蓮西の方に開いたまま、ほほ笑えんで続ける。
「わたしも実は最近知ったのです。この墨というものも火を使って作るのだ。松を燃やすと煤が出るだろう」
 義清は蓮西の横に腰を下ろし、一生懸命説明する。
「その松煙煤というものを松やにで固めて作るのだ。松やには知っておるだろう。知らない?困った姫だなあ。松やにという松の樹液があるのだ。こう、ねばっとした樹液なのだけれど、煤をその松やにで固めるのだそうだ。どうです、驚いたでしょう?」
 義清は気持ちよさそうに笑うが、蓮西はただ黙って俯くばかりだ。
「え、驚かない?そなたは松煙煤の話に驚かないのか・・・、いやでも、まだある。火を使う大事なものはまだある。・・・分かりますか?」
 義清はしばらく黙って、「火合わせ」の儀式によって灯された階の下の灯蘢火を見る。
「いえ」
 蓮西は相変わらず首を振るばかりだ。
「火葬です」
「・・・」
「人は火とともに生まれてきて、火で終わります」
 義清はしんみりと言った。しかしそのしんみりさも何か芝居がかった勿体ぶりから出ているようなところがある。
「新枕」の夜に火葬の話をされても、蓮西には何と答えてよいのか分からない。
「・・いや、そんなことを言いたかったのではない」
 義清は蓮西の方を見てほほ笑む。
「わたしが言いたかったのは火付けの話だ。火付けには二種類あるのは知っていますね?」
「いえ・・・」
 蓮西は小さく首を振る。
「知らない?・・・ほんとに不思議な姫だ。でもまあ、いいでしょう。今晩は許しましょう。火付けには二種類あります。一つは火切り臼(うす)と火切り杵(きね)による火切り法。これは安全だが、手間がかかる。もう一つは火撃ち石、火撃ち金などによる火撃ち法です。この屋は火切り法ですか。それとも火撃ち法ですか?」
 蓮西が何のことなのか分からず、相変わらずただ首を振っていると、義清が「火撃ち法です」と怒ったように言った。
「火撃ち法です、いいですか、火撃ち法なんです、この度の婚儀により、火打ち替えを行い、新しい火撃ち金を使っているのです」
 怒りのためか、義清はまた立ち上がり、蓮西に背中を向けて言う。
「このところ洛中の里内裏(りだいり)や各第宅(ていたく)が多く焼亡(じょうもう)を蒙っている。その多くは紙燭(しそく)などの不始末による。なぜ不始末が起こるかと言えば、火付けが悪いからです。火付けが悪いからどうしても、紙燭などを不用意に長くつけておくことになる。火打ち替えをすることは非常に大切なことなのだ」
 ここで義清はくるりと振り向く。
「今日から、わたしも葉室家の一員である。当家はこの正月に正宅である二条烏丸第の焼亡という不幸にも見舞われておられる。いや、心配せずともよい。わたしも兵衛府の武士だ。宮中の不寝番の経験もあるのだ」
 そう言い残したかと思うと、義清は突然、廂から渡殿の方へどんどん歩んでいき、そして本殿に着くと「火危うし、火危うし」と、兵衛府の「火用心」の掛声を唱えて回った。
 葉室家周辺ではすぐに変わった婿だという風評が立った。
 翌朝、義清が所従二人と帰ったあと、後朝使(きぬぎぬのつかい)が訪れる。これも「露顕の儀」と呼ばれる婚儀の一つで、普通は形式的な文が多いが、その消息には、ぽつりと義清の歌が書かれていた。

 弓張の月に外れて見し影の 優しかりしはいつか忘れん

 家事のことも世間のことにもまるで疎かった蓮西だが、和歌は少し分かるところがあった。蓮西はその文をじっと胸に抱きしめた。
 しかし新婚生活らしい甘さを感じられたのは、それが最初で最後だった。
 当時、蓮西の父葉室顕頼は議政官として、右兵衛督(かみ・長官)、検非違使別当(長官)、皇后美福門院の宮大夫(みやのたいふ・侍従長)、大宰権帥(ごんのそち・長官)を兼帯しており、文字通り、飛ぶ鳥を落とす勢いであった。側妾の子とはいえ、自分の娘をめあわせるというのは、その年、成功(じょうごう)によって兵衛府に任官した義清の資質に見るべきものを感じ取っていたからである。
 顕頼は八条町尻小路に蓮西たちのために新居を用意し、また、その年の内に美福門院を通して、鳥羽院の北面に義清を推挙した。北面推挙の話を聞いたときの義清の嬉しそうな顔は、蓮西もはっきり覚えている。
 もとより蓮西自身が義清にひかれて婚儀となったわけではない。すべては父顕頼の配慮で進んだことではあるが、確かに兵衛督や検非違使別当を努め、多くの武士を見てきた顕頼の見立てだけのことはあった。義清の武者ぶりの成長は目を見張るべきものだった。

 義清が下北面に召し出されてからも平穏な日々が続いていた。
 院の北面といっても、当時、院の御所も主上の御所も一定していなかった。院も主上も相次ぐ火災で、里内裏(りだいり)と呼ばれる有力な公卿の私第(してい)に順次住んでいて、従来の大内(だいだい)は荒廃の一途となっていた。
 鳥羽上皇は早くから洛南・伏見の鳥羽殿で政務を取りたい意向であったが、広大な鳥羽殿は一朝一夕には完成せず、義清の北面伺候は当初、権中納言・藤原長実(ながざね)の私邸、二条万里小路第(までのこうじてい)で始まった。
 長実は美福門院得子(びふくもんいん・なりこ)の父で、鳥羽上皇はこの万里小路第をことのほか気に入っていた。それはこの里内がはじめて得子を見初めた場所であることも大きな要因となっていて、前年、白河北殿に入妾させた得子への深まっていく寵愛の度合を表すものであった。
 一方、待賢門院璋子(たいけんもんいん・たまこ)は三条京極殿に住んでいた。美貌と権勢を誇っていた亡き白河法皇の養女かつ愛妃も、三十五才の歳を数え、また前年には得子入侍(にゅうじ)という事態もあり、ようやくその御威光にも翳りが差してきていた。
 もう一人の摂関家から入内(じゅだい)した泰子皇后は四十一才という高齢であり、子供も授からないまま、寂しく一条土御門東洞院第に暮らしていた。
 二条万里小路第は長承三年(一一三七)に全焼し、鳥羽上皇は小六条殿に居を移すが、それと同時に得子のための八条第の修築にも取り掛り、その年以降、八条第は上皇の「夜の御座」となる。つまり里内裏とは「里住まい」というような質素な語感とは正反対に、左京全体を後宮としたということである。それは、じきにやってくる血で血を洗う戦乱の世もなるべくしてなったと首肯させるほど紊乱なものであった。

 義清たち北面の武士は、その繰り返される遷院・行幸・渡御に伴い、供奉・警護を洛中全体にわたって担当していた。
 義清は公務に関して、私邸ではほとんど何も言わなかった。院の趣味でたびたび催される競馬について、秀郷(ひでさと)流・矢馳馬(やばせうま)の恰好を得意になって披露していた程度である。
 相変わらず、胸にはいつも聞書帳と矢立をしのばせ、何かにつけて詠歌は行っていたが、何度か院や徳大寺実能の供奉で参上した歌会や歌合のことなども、家ではめったに口にしなかった。
 長承三年(一一三七)には女子が生まれ、長承五年(一一三九)には待望の男子も生まれ、家庭としては順調であるようだったが、やはり妙なところで激怒する癖は続いていた。
 ある日、夕飯にこんにゃくの煮付けを出した。
 温酒を少し飲んだこともあり、義清は皿のこんにゃくがうまく掴めない。がちがちと音をさせてやっと挟んだと思ったとき、箸の間からツルリと落とした。
 蓮西はそのとき乳飲み子の男の子を胸に抱えていたが、不覚にも袖で口を覆ってくすっと笑ってしまう。
 そのとき、蓮西を見ていた義清の顔が小倉山の紅葉のようにみるみる赤く燃え上がっていった。
「ぐぁっ」というような、よく聞き取れない呻き声(この意味不明の呻き声は激高するときのいつもの前触れであった)を発したかと思うと、むっくと立ち上がり、「おのれ、こんにゃくごときに北面の佐藤義清が凌辱されてたまるか」という叫びとともに膳を蹴飛ばす。
 子供は火の付いたように泣き出すし、座敷を片付けていると、「何でもかたづければ終わると思っているのではないか。この世の中に片づくものなど何もない」などと、何が何やら分からない激高の追い討ちが飛んでくるし、もう修羅場の様相であった。
 蓮西も婚儀当初はこの激高ぶりへの対処が分からなかった。何を怒っているのか訳が分からず、ただおろおろするばかりだった。しかしそのうち蓮西にも分かってきた。
 つまりこういうことなのだ。激高時は慌てず騒がず、しばらくじっと待っておればいい。しばらくすると、すっと静かになる。ほんとにもう、嘘のように静かになる。ただそういう時の義清は、激高する以前よりはるかに深く落ち込む。
「わたしは、何もこんにゃくが掴めなかったことを怒っていたのではない」
 このときも、こうブツブツ弁明を始める。ほとんど聞き取れないほどの小声である。
「こんにゃくに怒っていたのではない。こんにゃくを出したそなたに怒っていたのでもない。そんなことに立腹する男ではない。こんにゃくをしっかり掴めない自分に怒っていたとも言えるかもしれないが、多分そうでもない。そんなことで怒る男ではない。敢えていえば、何に怒っているか分からない自分に怒っていたというか・・・、ああ、何だか分からぬ・・・」
 こんにゃくを下げて、あらためて差しだした膳を前に、義清は首をうなだれ、ほとんど言葉にならない話を続ける。
 蓮西は「申し訳ございません。酒の肴にこんにゃくはいけませんでした」と丁寧に話して、柄杓の温酒をあらためて勧めるが、義清は静かに首を横に振る。
「出家する」
 ぽつりと漏らす。
 この「出家する」という言葉、初めて聞いたときは蓮西は大変驚いた。しかし実は義清の決まり文句だった。激高し、その反動で見ていて気の毒になるほど落ち込み、「出家する」と漏らす。その一連の所作はほとんど月に一度は繰り返された。それらは義清にとっては平生の振る舞いだった。
 そして、多くの場合、翌朝目覚めますと、美しい陸奥国紙(みちのくにがみ)に書かれた文がそっと置いてある。その、こんにゃくに激怒した翌朝もそうだった。

 身に積もる言葉の罪も洗われて 心澄みぬるみかさねのたき

 夜中に書いたのだろう。蓮西の文机の上に置かれた文には、その和歌一首のみがしるされている。「言わなければよかった」という反省だろうか。蓮西はふっと溜息をつく。

 あの晩もそんな普通の夜だと、蓮西は思っていた。
 保延六年(一一四〇)の初冬、十月の望月の夜のことだった。
 蓮西が義清の心中を案じていたのは、待賢門院と美福門院という鳥羽上皇の権勢を誇った二人の女院の板挟みになっていたのではないかということだった。
 北面の武士といっても、様々の家門から集められた寄せ集めであることは間違いない。三十名ほどの下北面の武者はみな背中に出身の家門を背負っていた。折あらば院の目にとまり、上北面から昇殿を許される身分へと上り、家門繁栄を勝ち取りたいという欲得が渦巻いていた。現に清盛様の父君、平忠盛様は武士でありながら、数々の功績により従四位を賜り、殿上人の中でも一際威を放つ存在となられております。北面は武門栄達の登竜門でございました。
 義清は鳥羽院政の最高実力者のお一人、権大納言・徳大寺実能様の家人であったが、実能は待賢門院璋子の兄である。また蓮西との婚儀により、葉室家ともつながった訳であるが、蓮西の父顕頼の正室・忠子は美福門院得子様の宣旨(最高女官)となっていたし、父顕頼自身も美福門院様の宮大夫(侍従長)を兼帯していた。
 婚儀当初はどうということもなかったが、鳥羽上皇の待賢門院から美福門院への心移りは年を経るにつれ、明確なものとなっていた。
 義清の出家前年の保延五年(一一三九)、美福門院に待望の男子・体仁(なりひと)親王が生まれると、鳥羽上皇は歓喜し、子供に恵まれなかった“叔父子”(名目上は自分と待賢門院との子・実質は祖父白河法皇と待賢門院様との子)崇徳天皇の皇太子として押し付け、皇位継承権を与えようとした。まったくもうこの頃になると、内裏のすることは民衆の理解を遥か越えて、泥まみれ、血まみれの権勢の構図であった。
 しかしとにかくこのことにより、待賢門院、崇徳天皇の人脈と、鳥羽上皇、美福門院、体仁親王(のちの近衛天皇)の人脈の亀裂は決定的なものとなった。
 義清の仕えていた徳大寺実能は目端の利く公卿で、早くも実妹・待賢門院から美福門院の方へ近づきつつあったが、義清ご自身はどうだったのか。
 それまで主君筋として慕っていたはずの待賢門院と、婚儀による縁の出来た美福門院との間で心が揺れていたのではないか、また、揺れるのが当たり前という気がしていて、蓮西は気を揉んでいた。
 しかし家内で見るかぎりそういう様子は見えない。相変わらず、端袖の縫い付けが悪いとか、ふいの出仕に六位の当色(とうじき)である深緑の褐衣(かちえ)の準備が出来ていないとか、鯖は土師器(はじき)の高坏(たかつき)だ、土師器の高坏で出さないと食べないと言って器を蹴飛ばしたり、相変わらず、そんなことで激高したり、落ち込んだり、「出家する」といつもの嘆息をしたりしていた。

「佐藤義清がおかしい」という噂を蓮西が耳にしたのはその頃だった。
 五条三位俊成、後に後白河院や後鳥羽院歌壇の重鎮として千載集や新古今集の編纂に当たり、名声を欲しいままにした公卿であるが、俊成は早くに父(俊忠)をなくし、葉室顕頼の養子となっていた。つまり蓮西にとっては義理の兄に当たるわけである。義清にとっては年齢も近く、また藤原顕輔(あきすけ)・清輔(きよすけ)父子という当時の歌壇一大勢力に批判的であるという立場も共通していて、義清は出家の数年前から四つ年上の三位俊成と急速に親しくなっていた。
 若い頃の俊成は破格の行動をすることで有名だった。前触れなしによく八条の葉室邸にやってきた。ある折、義清が院の渡御に随伴していたとき訪ねて来たことがあった。義清の不在を聞いて、しかし俊成は大して悔しがるでもなく立ち去ろうとした時、ふいに振り返った。
「・・・いや、おかしな話ではあるのだが」
 俊成は何やら言い出しにくそうにしている。
「何か・・・」
「義清殿は鳥辺野にはよく出掛けられるのか?」
 牛車の轅(くつわ)の前で蓮西の方を向き、不審そうな表情で訊く。
「鳥辺野といいますと、あの霊場の鳥辺野でございますか?」
「うん」と俊成は小さく頷く。「院近習の噂では義清殿が頻繁に鳥辺野に出掛けているということらしい」
 そう言って俊成は蓮西を見る。
「はあ・・・」
 蓮西には俊成が言うことも、院近習での噂という意味も分からず、不得要領の返事をした。
「義清殿本人は鳥辺野のことは口にはされないか」
「はあ、もう三年ほど前になりましょうか、鳥羽上皇がお忍びで安楽寿院に行幸された折、清水坂の宿に“清目”の宣旨を告げに行かれたことがございまして、その折、西住上人と申される三昧聖に鳥辺野の案内を頼んだという話でございました。しかしそれは詠歌のためと聞いておりますし、そのあとは別に・・・」
「そうか、しかし三年前にせよ、北面の武士が直々に非人の宿へ出かけるということ自体、あまり聞き覚えのないことだ」
 俊成は地面を見たまま、何事か考えているようだった。
「院近習で特段噂になるというのはどういうことでございますか」
「う?」と俊成が顔を上げる。
「噂になるというのはどういうことでしょうか」
「いや、鳥辺野に行くだけならどうということもないのだが、まことにもって奇怪な話なのだが、義清が人の骨を集めているという噂なのだ」
「・・・」
「骨を集めて人形(ひとがた)を作っていると言う者もいる。北面の武士としてはきわめて異様な噂ではある。陰陽頭(おんみょうのかみ)である安倍泰親(やすちか)という人が“反魂の秘術”を伝承しているという噂があり、義清もそこに通っていると言う者もいる」
 俊成はそう言って小さく溜息をついた。
“反魂の秘術”というのは、人骨に魂を蘇らせる鬼の秘法と言われているもので、代々天文陰陽の安部一族が奥義として秘匿伝承していると言われるものである。
 蓮西にはすべて雲をつかむような話であった。北面の武士として、あるいは歌人として、貴仕栄達を目指しているとばかり思っていた夫義清に、どうしてそのような噂がたつのか。蓮西の心底には、それ以来小さなしこりが出来ていた。

 保延六年(一一四〇)の十月、上の娘(後の禅妙)が四才、下の息子(後の隆聖)が二才になっていた。
 その夜は清和院(せがい)斎院の歌会があった。
 当時の斎院は、白河法皇の第六皇女・官子(きみこ)内親王がつとめていた。五十歳を越えていたが、七十歳になる母堂の頼子女院とお二人で、歌だけを楽しみにひっそりと暮らしていた。
 清和院は左京の東北の端、一条土御門大路の北にある。御堂関白道長が摂関家の絶頂を誇るように建てた広大な法成寺(ほうじょうじ)の裏手にあたる。義清の八条の屋敷からはかなりの距離になるが、いつも所従一人の引く馬に乗って参加していた。
 当時はまだ五条三位俊成やその子、京極中納言定家などのいわゆる冷泉家歌道が形を表す前で、藤原顕輔・清輔様らの六条歌壇が宮廷和歌の中心であったが、清和院の歌会はそれらの主流とは別派の小さな歌会であった。義清はこの歌会に好んで参加していたし、この清和院の歌会のことだけは、蓮西にもいつも楽しそうに話していた。
 歌会のあとにはささやかな酒宴が催されるようで、その日も夜遅く上機嫌で帰ってきた。母屋に入ってくるなり、狩衣(かりぎぬ)・立烏帽子(たてえぼし)・太刀はきの姿で、閾(しきみ)を越えた所で仁王立ちした。
「今日の清和院の歌会で満場の喝采を浴びた歌である。心して聞くように」と前置きし、咳払いしたかと思うと、

 山おろしの月に木の葉を吹きかけて 光にまがふ影を見るかな

 義清は朗々と歌い上げた。蓮西はちょうど上の娘を寝かせつけていたところで、申し訳無いとは思いながら紙燭のほの暗い明かりの中、黙っていた。
「おや、聞こえなかったのかな」
 義清は、酔って帰られたときはいつもそうするように、うす目で蓮西たちを探しているようである。
 その日は冬に入ってのはじめて冷え込みのきつい夜だった。義清たちの住んでいた八条町尻小路の屋敷は本格的な寝殿造りではなかったが、それでも中央の寝殿と東対(ひがしのたい)、西対(にしのたい)は備えていた。いつもはその寝殿の母屋を屏風で仕切って親子で眠るのだが、格子と几帳で囲まれた母屋は寒いので、冬になると、母屋の奥の壁で囲まれた塗籠(ぬりごめ)と呼ばれる納戸に炭櫃(すびつ)を入れて眠る。
 ちょうどその日は、その寝所替えの日に当たっていた。
「いや、あまりの歌に声も出ないのかもしれないな。うん、多分そうであろう」
 義清は閾のところから昨日まで寝ていた屏風の陰へ近づく。
「眠っているのか。うん、眠っておってもよい。何しろ、この歌は夢に出て来る物語のようでございますねえと、清和院の斎院様も感嘆なさったぐらいぐらいであるから、ははは」
 屏風の途中まで来て、座り込み、酔いにまかせて、色々と大声で話す。あまり気持ちよさそうに誰もいない屏風の陰に向かって話すので、蓮西は塗籠の寝所から母屋の方へ出て行くきっかけをなくしておりました。
「この歌はな、小六条殿の里内裏(りだいり)より、京極大路を一条の斎院まで馬で歩んでいた折に浮かんだ。ちょうど粟田山のあたりに望月が浮かび、その月影に比叡下ろしに舞う木の葉がかかるのだ。うん、一幅の絵のような歌であるな。たまにはこういう絵画的な歌もよいであろう。歌の幅も広げねばな、そうであろう・・・」
 義清の言葉が急に止まった。
 狩衣の擦れる音がした。おそらく屏風の内を覗いたのだ。
 蓮西は急いで塗籠から母屋の方へ這い出してきたが、遅かったようだ。すでに屏風は蹴破られていた。
 こうなると、もう何を言っても無駄である。
「いないなら、なぜ、いないと言わぬ」というような、よく意味の分からない叫びを上げながら、義清は屏風をずたずたに破っていた。
 蓮西はいつものように「申し訳ございません。お許しくださいませ」と謝ったあと、ひたすらじっとして、災難が通り過ぎるのを待っていた。
 そのとき、娘が寝ぼけまなこで寝床から這いだしてきた。
 いつもは父の激高に接すると、ただおびえて小さくなっている娘ですが、このときは半分眠っていたせいだろうか、屏風の横に立って父を見上げていた。
「父上、乱暴すると、ご主君様よりお咎めがありますよ」
 娘が父を見上げて言う。一瞬、屏風に憂さを晴らしていた義清の拳が止まった。
「父上、乱暴すると地獄に行くのですよ」
 娘がまた父を見上げて言いました。
 義清は一歩娘の方に近づきます。娘もその気配に後ずさりして、蓮西の背中に隠れる。
「その小生意気な言葉、一体どこで覚えた」
 義清は怒鳴りながら蓮西の背中から娘を引っ張り出して襟首を掴む。
 驚いて目を丸くしている娘を母屋から廂(ひさし)、廂から縁へと連れ出し、階(きざはし)の所から突き落としてしまった。
 蓮西はただ仰天する。いくら何でも年端もいかぬわが子に手を掛けるとは。目の前のこのことがとてもこの世のこととは思われず、庭に飛び下り、泣き叫んでいる娘におおいかぶさる。
「何をなさるのですか、いたいけな子供にむかって、何をなさるのですか」
 婚儀以来、蓮西は初めての夫義清に対して刃向かった。
 娘の前に立ち、義清を睨み、ほんとうにこのときだけは心底、許せないという態度だった。騒ぎに気づいた下人や侍女たちが、ぞろぞろ寝殿に集まってきて、寝殿の簀子の下に並んで遠巻きに見ている。
 しばらく肩で息をしていた義清だったが、ぐっと唇を噛んだあと、何かに耐えているように俯いていた。
「いないなら、いないとそう言えばよいのに・・・」
 呟くように先ほどの意味の分からない言葉を繰り返し、それから力なく階のふちに座った。義清の顔からみるみる血の気が引き、正気に戻っていくのが分かった。
「あまり評判はよくなかったのだ」
 ほとんど聞き取れないような小さな声だった。
「・・・」
「崇徳天皇より近々勅撰の宣旨があるそうだ。・・・六条顕輔の編纂になる。それが過ぎれば二十年は勅撰の沙汰はない。三位殿はそれでも清和院様の推挙を受けられ、六条歌檀編纂の勅撰集に入集されるそうだ。・・・わたしには推挙はないのだそうだ」
 ぽつりぽつり、絞り出すように声を出していた。
 ふっと静寂が訪れ、遣水(やりみず)の岸の虫の音や、微かな水の音が耳に届いてくる。
 蓮西は嗚咽を続ける娘を抱き上げ、泥を払ってやる。
 義清は狩衣・烏帽子姿のまま、縁に座り込んでいた。膝を抱え、ずっと顔を埋めていた。
 美しい望月が隠れ、初冬の夜風が庭の枯葉を舞わせる。みぞれのような冷たいものが、ときおり蓮西の頬に当たる。
 蓮西が娘を連れて階を上がろうとしたとき、義清が顔を上げた。
「武き者の歌か・・・」
 そう言いながら、自嘲の笑いを浮かべて蓮西を見上げる。
「武き者の歌」というのは、武門の自分を気に病んで、ときおり義清が口にしていた言葉である。その自嘲を浮かべた悲しそうな表情は蓮西の胸に深く刻まれた。
「出家する」
 ぽつりと漏らした。
 またいつもの決まり文句だと、蓮西が気にせず娘を抱いて義清の横を通りすぎようとしたとき、義清は再び「出家する」と繰り返した。
 人の一生を左右することも、その後、院や内裏でまで噂になった出来事でも、その場におればあっけなく済んでしまうものだ。
 蓮西が娘と二人、縁から廂の内に入ろうとしたとき、義清は腰の太刀を抜き、「むっ」と奇声を発して、ほんとに言葉通り、自らの髻(もとどり)を切ってしまった。あっと言う間の出来事だった。蓮西も下人たちも、何が起こったのか訳もわからず、ただ髻を持って立ち上がる義清を見詰めていた。
 その切り落とした髻を庭の持仏堂に投げ入れると、義清は夜の八条大路へ走って出ていった。

 *

 出家とはそもそもどういうものなのか。世間では「俄に発心し」「手づから髻を切り」という常套句によって簡単に片づけられるもののように思われている。また尊崇、高邁な精神の発露として、厳か冷徹になされるもののように言われているが、階の下でただ呆然とする蓮西には、ただ駄々っ子が奇声を発して走り出ただけのようにしか思えなかった。
 下人たちも、「すぐ帰ってこられますから」とか、「髻(もとどり)はすぐ伸びますから」とか、蓮西に対して変な力づけをしてくれた。
 あんな、一時の逸り気のようなことでする行動が噂に聞く発心なのかという疑念もあったが、下人たちの言うように、すぐ帰ってきたり、髪を伸ばして髻を元に戻すというような、それもまた怪しい行動のように思えた。

 おかしな話ではあるが、事実、義清はその夜のうちに一度帰って来た。
 北面の武士を家中の者が探しに行くというのもおかしなことだし、下人たちはそれとなくお付き合いのある第宅を外から覗きに行ったりしていたが、手掛かりはなく、蓮西も下人たちも何をしてよいやら、ただ眠れぬまま夜を過ごしていた。
 夜がうっすらと明けかけた寅の刻だった。廂(ひさし)の柱にもたれて、うつらうつらしていた蓮西は下人の声に目を覚ました。
 朝霧に煙る中門に、どこで着替えたのか、黒衣にざんばら髪の義清がふらりと姿を見せた。

 何處にか眠り眠りて仆れ伏さんと おもふ悲しき道芝の露
  
 いつも何か話を切り出しにくいとき、人を驚かせたいとき、義清は歌を詠じる。
「歌でこそ思いが通じるという信念の表れだ」、「それでこそ歌人なのだ」と褒める人間もいるが、蓮西にはそうとは思われない。義清が何かの口あけに歌を詠じる折は、必ず心の中が混乱し、困惑し、どうにもならず逆上されている時である。
 霧の中を、遣水の小さな流れの向こうで立ち止まり、義清は俯いていた。
 小さな声でさきほどの歌を繰り返す。

 何處にか眠り眠りて 仆れ伏さんと・・・

 同じ歌を俯いたまま念仏のように繰り返し唱える。
 蓮西は階を降り、遣水の方へ近づいた。
「さあ、もうどうぞ、お上がり下さい。・・・お疲れになったでしょう。・・・いま熱い粥でもお持ちいたします」
 義清は俯いたまま、首を振る。遣水から立ちのぼる朝霧が義清を包み、その後ろの深草の稲荷山には一面の碧空が広がっている。蓮西はふいに「美しい」と胸のふさがる思いがした。
「嵐山の空仁の所へ行った。空仁はもとは我が徳大寺家の家人であり、いつももし出家する決心がついたら真っ先にここへ来なさいと言ってくれていた。昨晩行くと、申し訳無いが今日はまずい、法輪寺に内紛があって、わたしもこの庵をたたまねばならぬやも知れぬと断られた。しかし法衣だけはくれた。その法衣に着替えて“すまぬ”と礼を言い、桂川の河原から右京の浅茅ヶ原を歩いた。暗くてよく見えず、道に迷ってしまった。しかし、よく考えるとそうではないことが分かった。わたしはどこへ行くという当てがないのだから、道に迷うことはないのだ。わたしは道などに迷うことはないのだと、そう思うと涙が出てきた。茅の草の間に膝間づいて泣いた」
 義清は一気に話したあと、やっと顔を上げ、それからふうっと大きな息を吐いた。
「みなでお帰りをお待ちしておりました。わたくしも、子供たちも、下人たちも、侍女たちも、皆あのように高欄の下にうずくまって一晩お帰りをお待ちしておりました。皆、義清様のお帰りを喜んでおります。さあ、もうどうぞお上がり下さい」
 蓮西の言葉にようやく顔を上げ、義清は微かにほほ笑んだ。しかしそのあとやはり静かに首を振る。
「その方の父上、葉室殿に申し訳無い。三位殿にも、主君・徳大寺殿にもすまぬ。紀伊の母上にも、弟仲清にもすまぬ。・・・しかしもう戻れない」
「なぜでございます」
「考えてみれば、わたしは小さい折から、人が生きることより、人が死ぬことを考えてきた。人が死ぬことや、自分が死ぬことを考えると、心が落ち着いてきた。永遠の中にいる気さえした。考えてみればおかしな子供であった」
 義清は心の整理がついたように、視線を静かに上げて屋敷全体を見回した。
「やはり遅かれ早かれこうなる宿世であったのだ。清水坂の西住の所へ行ってみる。鳥辺野の葬送法師と共に暮らしてみる」
 義清は西住に一つだけ願いがあると言って、矢立(筆入れ)と聞書帳を所望した。右京の浅茅ヶ原で落としたらしい。
 蓮西が涙を拭いながら、それを持ってくると、「出家する者が所望する品か?」と自嘲の照れ笑いを漏らした。
「子供たちを頼む」とだけ言い残して、義清はまた朝もやの中へ引き返して行った。

 *

「劣り腹」という言葉がある。蓮西は、父はなるほど当時の権勢家、正二位権中納言・葉室顕頼であったが、早くに亡くなった母はお側つきの女房であって、いわゆるお手付きの子、つまり劣り腹であった。
 待賢門院並びに徳大寺家との関係を持とうとしていた葉室顕頼は、その徳大寺家の家人であり、歌人としても才能を認められつつあった北面の武士を婿とすることは、劣り腹として望外の婚儀であったようだ。
 しかし長承六年(一一四〇)の義清の突然の出家遁世以後、蓮西は葉室家の荷(にな)い物となってしまった。八条町尻小路の屋敷からは侍女や下人が二条烏丸の本第の方へ呼び戻された。屋敷自体も明け渡して、「一時家門の氏寺、山科勧修寺に身を寄せるように」という内訓も届いた。暗に出家せよという沙汰である。
 蓮西には義清遁世の時から出家の覚悟はできていた。ただ何といっても幼な子二人のことが気にかかる。女一人の思慮には余る難問であった。

 義清が出て行ってからほぼ一年たった永治元年(一一四一)の秋の終わりであった。
 蓮西はあれやこれや悲嘆にくれながら、勧修寺庫裡堂(くりどう)裏の手水場(ちょうずば)で夕餉の用意をしていた。
 ふいに、蓮西のもとにただ一人残っていた下女が蓮西の背中をつつき、「おかた様」と声にならない悲鳴を上げた。蓮西が驚いて振り返ると、くたびれた黒衣をまとった怪しげな法師が門口に立っていた。
「大根を洗っておるのか?」
 口元に卑屈なはにかみを浮かべながら、その法師は話してきた。義清であった。蓮西が驚きのあまり睨みつけるような視線をしていたからかも分からない、義清はコソコソと柱の陰に隠れるように身を移動した。
 出家というものには色々な形式があるのだということは、蓮西も薄々知っていた。
 例えば白河上皇も、御孫の鳥羽上皇も出家なさって法皇となったが、なんら政務にも居住にも変化はなく、ただ来世への仏道結縁のためであるということは聞いていた。
 義清と同じく鳥羽院北面に詰めていた藤原通憲も、義清のあとすぐ出家したが、信西という法名を得てからかえって政治の中枢に入り込み、大乱に乗じて保元の新制の立役者となった。
 また義清と同い年で北面の朋友でもあった平清盛も後年出家したが、それは自分の病平癒のためだという噂で、入道相国という法名のまま、相変わらず権力をほしいままにしてしまった。
 しかし聖として庵に住み、諸国を勧進行脚して回ることを業とするための下々の者の出家は、家族にとっては今生の別れになるものだと思い込んでいた。蓮西は義清出奔以来一年の間に、義清への思いも、俗世への執着も断ち切る覚悟を自分に言い聞かせてきた。この世ではもう二度とめぐり逢うことはないのだという諦念を自ら心に植え付けてきた。
 しかしそんなことではなかった。義清は名を変え、様を変えてからも頻繁に、ほぼ半年に一度ぐらいは蓮西の前に現れた。
 それだけではない。何となく来訪を常住事として受け入れるようになった蓮西が悪かったのかも分からないが、義清は前触れなく現れるたびに、蓮西や子供たちの行く末について、あれこれと差配する。ほんとにうるさいぐらい差配する。
 最初のうちは、夢のような出来事と、蓮西は邂逅を嬉しく感じていたが、だんだん会うたびに「それが出家というものですか」と聞きたくなる衝動にかられた。蓮西の、これからたった一人仏の道にすがって生きていこうという張り詰めた気持ちにも何か水を差されるような気もして、蓮西は難渋するようになった。
「大根、・・・洗っておるのだな」
 庫裡の北の土門から顔だけ覗かせて、義清、法名西行が恥ずかしそうに繰り返す。
 蓮西はまだ状況がよく飲み込めず、黙っていた。
 義清は門から一歩横によって、再びくたびれた墨染の僧衣姿を見せる。
 にこにこ笑っていたが、蓮西がいつまでたっても何も言わず、じっと見ているだけなので、義清はうなだれてしまった。
「帰る。・・・忙しい所を邪魔した」
 西行は小さく呟いて後ろを向こうとした。蓮西には泣きそうな声に聞こえた。
「あ、義清様」
 蓮西は思わず呼び止めた。
「え」
 義清が振り向く。
「ご相談があります。子供たちのことでご相談があります」
「あ、子供たちのこと?・・・うん、わたしも心配しておった。子供たちのことをどうするか、仏道に励んでおっても、それがいつも気掛かりだった。何だ?子供たちがどうかしたか?」
 西行の顔がにわかに明るくなり、土門から手水場の方へ何やら一気に話しながら近付いてくる。汗と草いきれの匂いが黒衣から一気に匂ってきて、蓮西は一瞬顔をしかめた。
「すまん、臭いか?」
 西行は自分で衣の袖のあたりを嗅いでみる。
「いえ・・・」蓮西は俯いたまま首を振る。「懐かしい匂いがいたします」
 蓮西は自分の言葉に思わず顔を赤らめる。西行も照れ臭そうに俯く。
 縁に腰掛け、蓮西は残された者の状況を話し始めた。話したいことは山ほどあった。しかしうまく順序立てて言えない。言葉に詰まり、詰まり、それでも何とか伝えようと努力しているとき、西行が話を持っていってしまった。
「おお、子供のことか。それを実はわたしも心配しておった。そなたが出家の志を持ってくれていることはうれしい。出家はよいことだ。この末法の世、無常を悟るに早すぎるということはない。よくぞ決心した。出家はな、何と言っても言葉に出したその時に即断実行してしまうことが肝要だ。わたしも醍醐寺理性院で開祖賢覚上人より、特別に得度を受けたときの感激はいまだに忘れられない。理性院では私度を受けた度者は、剃髪したその頭で、居並ぶ僧綱・学侶・大衆を前に一言物を言うことになっている。正直、このわたしも迷った。言葉を使うこと業とするこのわたしが言葉に迷った。苦しまぎれに『実はわたくし遁世者であります』と言ったら、何か知らないが、喝采を浴びた。満場の拍手だった。何の意味の拍手なのか分からなかったが、とにかく何でもいい、みんなを盛り上げたんだと思うと、自信がもりもり沸いてきた。そなたも是非あの気分を味わうべきだ。人間の心は弱い。その方のいまの固き心といえども、何によって心変わりがあるやもしれぬ。早々に髪を下ろすに如くはない」
 何かと言えばすねたように「出家する」を繰り返していて、そのくせなかなか実行できなかった自分のことはさておいて、堰が切れたように一気にしゃべる。出家して無常を悟ったにしては、この他人への熱い助言、申し付けはどうしたことなのだろうか。
「それにしても気掛かりなのは子供たちであるというその方の気持ち、この西行には痛いほどわかる。しかし心配せずともよい。この西行、ちゃんと腹案は出来ておる。まず上の五才になる娘については、その方の父、権中納言顕頼様の正室の娘、すなわちその方の腹違いの姉の冷泉殿に預ける。実は出家後、一度お訪ねして、それとなくお聞きしたら、『わが家にはちょうど同じ年頃の娘もいるし、そういうことであるなら、わが子同様、大切にお育てしますよ』という答えであった。大丈夫、間違いない。また、下の三才になる息子については醍醐寺理性院法主・賢覚様にお預けする。もちろん、出家させるという意味ではない。しかし賢覚様はこの西行の得度を担っていただいた醍醐寺随一の人格者である。西住を通じて、そのお人柄、見識の高さも充分見知っておる。間違いない。うん、これはよい案だ。我ながら感心する」
 西行は自分の言葉に「うん、うん」と頷いて満悦する。
 蓮西は賢覚については知るところがなかったが、腹違いの姉、冷泉殿については不安を持った。何といっても冷泉殿は「むかい腹」、つまり正室の御娘である。「劣り腹」の子をはたして本当に大切に育てていただけるのかどうか、蓮西には疑問に思えた。
 しかし西行は歌の道を通じて、姉たちのなかでは特に冷泉殿と懇意であったようで、「心配ない」の一点張りであった。
 ともかくも子供たちとの辛い別れに耐えて、蓮西は髪を下ろした。

 山科勧修寺で得度をはたしたあと、蓮西は洛北大原来迎院で修行していたが、来迎院祖師・良忍上人の縁で大和の長谷寺に身を寄せることになった。久安四年(一一四八)の春、出家して八年が経っていた。三十を越えた西行と、その長谷寺の地で再会することになった。
 西行は飛鳥、初瀬の谷の奥で熱心に骨拾いをしていた。
 長谷寺の北の端、一切経堂の奥の杉木立の間を分け入り、巻向山(まくむきやま)の麓あたりまで来ると倒れかけた墓堂や卒搭婆、火葬塚跡や朽ちた殯幕(もがりまく)などが散乱し、そこかしこに野ざらしの骸も散見できる。
 巻向山の峰には山桜が点在し、綿帽子のような色を付けている。
 手向けの花と念珠を胸に蓮西が古い墓堂に向かおうとしたとき、ごそごそと下草を掻き分ける音がする。くすんだ黒衣を着た男が中腰になって、何かを熱心に物色している。「骸剥ぎか」と蓮西は棒立ちになっていた。
 そのとき気配に気づいた男が振り向く。西行であった。
 頬はこけ、あごのまわりは髭で黒く、頭髪もばさばさに伸びていた。
 蓮西は西行の秘密を垣間見てしまった気がして、うしろめたさにただじっとしていた。
「やあ・・・」
 西行はこちらを確認すると、意外にも黄色い歯を見せてほほ笑んだ。手には人間の大腿骨をぶらぶらさせている。実に奇妙な姿だった。
 蓮西の訝しげな表情に気付いた西行は「ああ」と自分の手に視線を落とす。
 西行は出家以来、西住と共に蓮台野や嵯峨野など五三昧(ごさんまい)と呼ばれる洛外の葬地に庵を構えていた。またこの数年後には高野入山を果し、三十年に渡って納骨勧進の業につくことになる。
 本人に言わせれば「出家者が葬送の地に赴くというは当然ではないか」ということかもしれない。しかしおかしな言い方ではあるが、蓮西には「西行は葬地が好きなのではないか」という疑念があった。勧進供養のためとか、霊を鎮めるというような仏道の上でのことではなく、単純に葬地が好きだったのではないかと思えた。
 西行は「しばらく待ってくれぬか」と言い、作業を続けた。
 念仏を唱えながら食い入るように散らばっている骨を見て回る。ときおり気にいった骨を見つけた時にはその前で膝を折り、袂から香を取り出して炊き、手を合わせて法華懺法を行じる。
 それだけを見れば死者を弔う在野の聖という図であった。しかしそのあとそこに散らばっている骨を取り上げ、明るい方へ向けてかざしてみたり、さすってみたり、何か分からないが、頷いてみたりもしていた。「義清がおかしい」と、かつて三位俊成が言っていたことは真実だったのかと、蓮西は足がすくんだ。
「“反魂の術”という秘伝があると漏刻博士の安倍泰親殿より聞いたことがあるのだ。もう十年も前になるが」
 西行は手頃な場所を見付けて蓮西に座るよう促すと、そう言った。あちこちに白骨化した骸のある「放り」の場の一角で、西行は熱心に“反魂の秘術”について話し始めた。
 初瀬の谷にもよい山桜がある。楢や楓の枝々の中に潜むように花を咲かせていて、ときおり熱っぽく反魂の話をする西行に花びらが降りかかる。懐にある黒ずんだ大腿骨や上腕骨の上に白い花びらがとどまる。
「義清様、なぜそのような・・・」
 蓮西は話の途中で小さく口を挟む。
「う?」
 西行は気付いて、骨をさすっていた手を止めて、蓮西の方を向く。
「なぜそのように・・・」
「なぜそのようにいい骨を見つけることが出来るのかということか?どういう訓練をすれば魂の入る骨を見つけられるのかということか?」
「いえ、そうではなく・・・」
 蓮西は“反魂の秘術”について訊くのをやめた。“反魂”について訊くことは尋常を外れた西行を目のあたりにするようで怖かったということもあった。でもそのとき、より強く蓮西に働いたのは「この人の思う壷にはまりたくない」という嫉妬のような感情だった。
「義清様、西住様はどうされておいでです?」
「うん?」
「いまはご一緒ではないのでございますか?」
「ああ、西住か。あれは死んだ」
「え?」
「うん、残念なことをした。先年、みちのくに旅した折、遠江の国の小夜の中山の峠で死んだ。犬に食われて死んだ」
 西行は吐き捨てるようにそう言った。
 蓮西は驚いたが、しかしこれはたぶん本当のことではないだろうとすぐに想像がついた。そのあまりのぶっきらぼうな言い方は、在俗の時代から、何か都合の悪いことを塗布するときの口調だったからである。
「そろそろおいとまを」と蓮西が立ち上がりかけたとき、山桜の花びらが目の前に舞い落ちてきて、思わず西行と顔を見合わせた。
 微かな照れ笑いを浮かべながら、西行は人骨を置いて薄汚れた墨染めの衣から聞書帳と矢立墨筆を取り出した。

 春ふかみ枝もゆるがで散る花は 風のとがにはあらぬなるべし

 和歌の記された一枚のみちのく紙と、散り落ちて来た二枚の花びらを蓮西に押し付けてられました。
「風のとがではございませんか」
 その歌を見て、蓮西は西行に尋ねた。
 しかし西行はただ俯いているだけだった。
 あるいは蓮西の問いを非難と誤解して、いくばくかの罪の意識を感じていたのかもしれない。



 その長谷寺での邂逅の五年後、三十歳の折、蓮西は紀伊の国、紀ノ川の南、険しい九度山の峠を越えて天野の里に入った。紀伊の国は紀ノ川沿いのなだらかな田園地帯を外れると、すぐに険しい山々が迫ってくる。初めて九度山慈尊院から天野の里に向けて歩いたとき、その厳しい勾配に思わず弱音を吐きそうになった。
 十六才になった娘・禅妙があとを追うように天野の里に入って来たのは、その三年後であった。
 入山後、禅妙は母と別れてからのことを訥々と語った。
 冷泉院はねんごろに育ててくれたのだが、天野入山の前年、冷泉院の妹の能子(よしこ・葉室顕頼と正室忠子の四女)と従三位藤原家明(いえあきら)との婚儀がととのった。
 この家明というのは武者嫌いで通っていた公卿で、天養元年(一一四四)には清水橋で騎馬武者との乱闘騒ぎなども起こしている。また摂関家の次男坊で、のちに兄忠通との間に保元の大乱を引き起こすことになる「悪左府」藤原頼長と男色の関係にあるとも噂されていた。とにかく問題の多い公卿であった。冷泉院は、その家明と能子の新第に、禅妙を「女の童(めのわらわ)」として下働きに出した。
 ある冬の朝、禅妙が門を掃いていると、痩せて色黒い聖が通りをこちらの方へ近づいてくる。禅妙の前で立ち止まると、自分の懐から聞書帳を取り出して眺め、「うん」と小さく頷き、朗々と詠いだした。

 ながれゆく水に玉なす泡沫の あはれ徒なるこの世なりけり

 箒を持って呆っ気にとられている禅妙に向かって、その薄汚れた黒衣の聖はにやっと笑う。
「意味が知りたいかな?」と聖が尋ねる。
 禅妙は慌てて首を振る。
「そうですか。では意味を言いましょう」
 聖は禅妙の返事をまるで気にせず、歌の説明を始める。
「流れ行く水面に玉となっている泡のように、あわれではかないこの世なのですよと、そういう意味です。おや、感心していますね。この薄汚い聖がどうしてこんな美しい歌が作れるのかと。ははは。いいですか、人は見かけで判断してはいけません。ははは」
 聖はそう笑って去って行った。
 次の日も聖はやって来て、同じように聞書帳を取り出し、指に唾をつけてめくり、「今日は、ひとつこれで」とか言いながら、詠じ始める。

  移りゆく色をばしらず言の葉の 名さへ徒なる露草の花

「今日のは昨日のより分かりやすいでしょう」
 薄汚い聖は顎を突き出し、禅妙の方をはすに見て言う。口元の端に笑みを浮かべ、「どうだ、この歌、きみに分かるかな」という得意な表情である。
 禅妙はまた帚を持ったまま、首を振る。
「なに?分からぬ?参りましたなあ、これは。変色するという色のことは知らないが、その名前からだけでも哀れを誘う露草であるという意味です」と付け加える。
 禅妙はただ唖然とするばかりである。
 そんなことが何日か続いたある日、聖がいつものように歌を詠じたあと、ふと、「辛いですか?」と訊いた。ただ奇妙だ、異様だと思っていても、変なもので、それが何日も続けば打ち解けてしまうというところがある。禅妙はその風変わりな聖に話してみる気になった。
「お仕えは辛いとは思いません。ただ、ご主人様の武者嫌いに悲しくなることがございます。何かにつけて『やはり武き者の筋というものは』と口にされます。わたくしの父は、今は亡くなりましたが、その昔、武者であったということです。その武者をご主人様が軽んじられるのが辛うございます」
 じっと俯いて聞いていた聖が、しばくすると顔を上げた。
「娘さん、出家なさい」
 聖は晴れ晴れとほほ笑んでいたそうです。
「は・・・」
「“は”ではありません。出家です、出家」
「はあ・・・」
「わたしはあなたの実の母上を知っている。髪を下ろされ、いま紀伊の国、天野の女人別所におられる。この現世、不易なものが一つでもありますか?この聖にはないと思えます。あなたも父上が亡くなられ、母上が出家され、もし現世の無常を悟っているのなら、即断なさい。出家して、紀ノ川を渡り、九度山の峠を越えて、天野の里に入りなさい。そこに母上がおられるから」
 聖は切々と諭し、最後に「乱暴すると地獄に行くのですよ」と意味の分からないことを言って笑った。

 禅妙は気づかなかったようだが、蓮西にはもちろん、その聖が義清であることは分かっていた。
 娘、禅妙が天野に入ったとほぼ同じ頃、西行も高野に入った。
 西行が都や西国へ勧進に向うとき、勧進から高野に戻られる折には、九度山の峠や梨子木(なしこぎ)の峠を越えて天野に立ち寄った。
 蓮西と禅妙とは同じ里でも、上天野と下天野の離れた別所に暮らしていた。もちろん行き来はあったが、西行はなぜか娘には最後まで名乗らずにいた。もちろん禅妙は父の顔を覚えていない。
 蓮西もついに最後まで西行のことを娘禅妙に知らせないでいた。禅妙に対して名乗らないことが、西行の遁世者としてのこだわりであるように感じたからである。

 春、木の芽がふく頃になると、天野の里では、山人の家でも、あちこちの女人別所でも晒葛(さらしくず)を作る。冬の間に掘っておいた葛の根を、春の日の中で乾燥させ、頃合を見計らって木槌で叩く。根が粉々になると、木綿袋に入れて水桶の中で揉み出して、澱粉の粒を沈澱させるのだが、これが女手にはなかなかの重労働である。
 この頃、西行は決まって高野からこっそり下りてくる。まるで芽吹きを狙う猪のようである。
 蓮西が水桶の中に上半身を全部突っ込むようにして木綿袋を絞り、「ふう」と息を吐いて起き上がると、義清が庵の陰からにっと笑って顔を出し、「花を見に行かぬか?」と言う。
 蓮西は黙っている。
 すると、西行は二、三歩近寄ってきて繰り返す。
「花を見に行かぬか?吉野の山桜」
 薄汚れた墨染の衣を着て、顔は痩せて浅黒いし、とても花の何のと言う風貌ではないのに、毎年しつこく誘って来る。
「参りません」
 蓮西はきっぱり断る。
「見ればお分かりでしょう、別所の方々がどんなに忙しくしておいでか。わたくし一人そんな所へ遊びに行く訳には参りません」
 きっと睨んで、再び強く言う。
 すると義清は深くうなだれて後ろを向く。
 とぼとぼ歩きかけた所で、何かに気づいたようにして立ち止まり、胸の中から聞書帳と矢立(筆入れ)を取り出し、それを庵の壁に押し付けるようにして、何か書き込む。
「あの、これ・・・」
 西行はその筆で書き込んだ聞書帳の一枚を破って、庵の縁に置く。
 蓮西が相変わらず無視しているのを確認すると、寂しそうに、また高野へ帰って行く。
 蓮西が気を取り直して、再び水桶に頭を突っ込んで木綿袋を絞りにかかると、その縁に置かれた和紙の紙切れが春風に吹かれて、桶の中に舞い下りてくる。

 花を見る心はよそに隔たりて 身につきたるは君がおもかげ

 一体、どこまで本気なのだろうと、蓮西はその歌の書かれた和紙を濡れた手で拾い上げて苦笑する。


                 (三)


 月の夜のころには或る友だちの聖と諸共に橋の上に行きあひ侍りて、ながめながめし侍りしに、この聖、京になすべきわざの侍るとて、ふり捨てて上りしかば、何となく恋しくおぼえ、鬼の、人の骨をとり集め侍りて人に作りなす様、信ずべき人のおろおろかたり侍りしかば広野にいでて、骨をあみつらねて作りて侍れば、人の姿には似侍りしかども、色もわろく、すべて心もなく侍りき。こゑはあれども絃管のこゑのごとし。げにも人は心がありてこそこゑはとにもかくにもつかはるれ。ただこゑの出づべき間の事ばかりしたれば、吹きそんじたる笛のごとし。

 大かたはこれほどに侍る、ふしぎなり。さてもこれをば何とかすべき。やぶらんとすれば、殺業にやならん。心のなければ、唯草木と同じ。思へば人の姿なり。しかじ、やぶれざらんにはと思ひて、高野の奥に人も通はぬ所におきぬ。もし、をのずから人の見るよし侍らば、ばけものなりと、おぢをそれむ。
 さてもこのこと不思議に覚へて、華洛に出でてかへりしとき、をしへさせ給へりし徳大寺へまいり侍りしかば、御参内の折節にて侍りしかば、むなしくまかりかへりて、伏見の前中納言師仲の卿の御許にまいりて、このことを問ひ奉りしかば、何としけるぞと仰せられしとき、そのことに侍り、広野に出でて、人も見ぬ所にて、死人骨を取り集めて、頭より手足の骨をたがへで続け置きて、ひさらと云ふ薬を骨に塗り、いちごとはこべの葉とを揉み合ひてのち、藤の若ばへなどにて骨をからげて、水にて洗ひ侍りて、頭とて髪の生ゆべき所には、西海枝(さいかち)の葉とむくげの葉とを灰に焼きて付け侍りて、土の上にたたみを敷きて、かの骨を伏せて置きて、風も透かずしたためて、二七日置きてのち、そこに行きて沈と香とを焼きて、反魂の秘術をおこなひ侍りしかば、大方はしかなり。
  『撰集抄』巻第五


 京へ上っていった友のことを思い寂しくなり、昔聞いた方法で、高野奥の院において散乱する人骨を集め、それに陰陽道“反魂(はんごん)の秘術”を施してみる。人形(ひとがた)に魂を吹き込んで、人として蘇らそうとしたが、どうにももう一歩のところでうまくいかない。
 都に出たおり、陰陽師として有名な前(さき)の中納言藤原師仲を訪ねて教えを乞うと、丁寧にその方法を伝授してもらった。
 これも西行伝承奇譚として有名なものの一つである。西行は遁世者としてのイメージとは異なり、高野に居を構えて三十年あまり過ごしている。何のための高野住まいであったか。
 当時、覚鑁(かくばん)、重源、明遍らの高野聖によって、古来よりの「放り」の地、高野は日本一の葬送の地へと変貌を遂げている時期であった。


 笠取の森も蝉しぐれに埋もれる季節となった。
 西住の住むあたり一帯は醍醐寺の杣(そま)として寺の用材を切り出す場所である。
 醍醐寺は白河院政時、第十二代座主覚源僧上の時以来、「山階(やましな)散所」と呼ばれる多くの非人法師を抱えていた。それら非人法師の多くは、もちろん西住もその一人であったが、「三昧聖」とも異称される葬送勧進を業とする者であった。しかし時に応じ、掃除、道路普請、造庭、うらなし(草履)作りなど多くの雑役に従事する。
 醍醐寺は内裏との血脈という表の華やかな流れとは別に、京の雑役の元締めという裏の流れにより強い基盤を持っていた。
 今年もその山階散所たちにより杉の植林が始められている。
 醍醐寺はこの度、三宝院阿闍梨・勝賢僧上を第十八代座主として迎えた。まことに不思議な縁である。勝賢僧上は信西の子息である。かつて西行と共に鳥羽院北面に侍し、出家後、保元の大乱とその後の混乱期の首謀者となり、逆賊の汚名を着て討たれた信西の子息である。かつまた高野蓮花谷において高野聖の象徴となり、その崇高性ゆえにかえって西行上人高野下山の因となった明遍の兄に当たる。西行に近侍していた西住としては、いわば信西、明遍と二代にわたる宿敵方に属することになる。
 戦乱の地獄絵図は本当に終わったのだろうか。白河院、鳥羽院、崇徳院、後白河院、それらの御世をつぶさに思い起こす。その血脈ゆえに溺愛し、憎悪し、阿り、謗り、父を殺し、弟を殺し、その醜悪な世を嘆息のうちに眺めて後鳥羽天皇はひたすら歌を論じているのであろうか。
 西住は崇徳新院宣による『詞花和歌集』に漏れたときの上人の落胆ぶりをいまさらのように思い起こす。顕輔・清輔様の主導する宮廷六条歌壇への不満を折にふれて漏らしていた西行の姿もいまさらのように思い起こす。
「清輔、さすがにふるめかしき事時々見ゆ」という後鳥羽天皇の言葉は、西住にとってもまことに胸のすく思いであった。

 西行には歌の才能と、その歌の道を通しての多くの高貴な人たちとのつながりがあった。遁世者西行には、遁世してなお、二つの選択肢があった。歌の道と仏道勧進者の道である。
 この時期、畿内で聖による勧進を積極的に行っていた寺は二つあった。醍醐寺と高野山である。高野山に聖勧進を広めたのは、醍醐寺で修行を積んだ僧侶たちだった。「賢覚(けんがく)条下二十七人衆」のうちの三人、覚鑁(かくばん)、心覚(しんがく)、重源(ちょうげん)は相次いで高野入山をはたし、真言密教の聖地に浄土教に基づく念仏を広め、火葬・納骨・勧進によって、凋落しつつあった高野を「死者の山」として再興させた。
 西行は歌の才能により、多くの京の有力者とつながりを持っていた。そして、それと並んで人の死と死後の骸について鋭敏な感覚を持っていた。この二つは、聖勧進を進める者たちにとってはまたとない財産である。
 西行は勧進という言葉を聞けば苦労を厭わず応じた。奥州に二度、西国にも一度大勧進に出た。そしてほとんどのものに成果を上げたので、高野は西行にとつて居心地のよいところとなったのかもしれない。それは西住が傍で見て痛々しく感じるのとは逆に、西行には喜びとするところであったかもしれない。
 これは、鴨の七条の中州でまだ十代の上人と出会って以来、四十年付き添ってきてもついに分からずに終わった西行の性格の不可解さでもある。
 鳥羽院北面に仕える、しかも巨額の費用を使って内給やら成功という売官に応募するといういわば最も世俗的意味での栄達を果した上で、その栄達を捨てる。この出家遁世は俗世との因縁を一切断つという意味に見える。しかしたぶんそうではない。
 西行は醍醐寺配下の勧進としては鳥羽院中宮待賢門院璋子(たいけんもんいん・たまこ)が主君筋徳大寺家出身であったことを利用して時の内大臣・権大納言頼長に一品経和歌勧進という大業を行った。また高野入山後も久安の大塔炎上の復興、治承の蓮花乗院の移建造営などに当たっては清盛とその父忠盛に対し、主君徳大寺家と対峙筋にもかかわらず盛んに北面近侍以来の同輩という人脈を利用した。
 世間では西行の人の良さゆえに、醍醐寺や高野山の勧進にその歌道や北面近侍の人脈が使われた、西行は自らの意にそまないまま世俗の力を利用されたのだとも言われている。しかし西住がそばで見るかぎり、それは違っていた。
 西行は久安の炎上の折も、治承の造営の折も、自分の方から高野の勧進座主に進言している。
「播磨(西行は他の人に清盛のことを話題にするときはいつもこう呼び捨てにした)に話してみましょうか?え、播磨ですか?世間では平相国とか呼んでいるのですか?わたくしはは幼い時より慣れ親しみ、播磨に歌の道などを教えてきましたから、いまさら相国などとは呼ぶのは面はゆいです。困りましたな、これは。ははは。いや、播磨は無骨一途の男ですから、一般の人はなかなか近づき難いなどという話も聞きますが、いや播磨でよければいつでも援助させますが・・・、外に適当な勧進者がおれば、もちろんそれはそれで結構ですが、はははは」
 後白河法皇まで足下にひれ伏させた平相国にまさる勧進者などいる訳がない。それを重々承知で、西行はもったいをつけて進言する。
 西行は世俗を捨てて出家したことは間違いないが、他の出家人との関係においては世俗時の地位や歌道における名声を指摘されるのを嫌わなかった。嫌わないというよりは周りがそれを言わないと、自ら策略を巡らせて言い出させようとする。
 北面武士としての俊英と、有力な勧進聖としての才能と、歌道における名声。西行は結局その三つのうちのどれをも捨てようとせず、出家遁世の身でありながら、自ら好んでその三つの危うい綱引の中で生きようとしていた。
 しかしそのことがのちに蓮花乗院明遍との微妙な軋轢となり、失意のうちの高野下山につながっていった。

               *

 康治元年(一一四二)、鳥羽院の恣意により、わずか三才の体仁(なりひと)親王が受禅した。この近衛天皇の即位により、二十三才の崇徳天皇は屈辱の内に退位し、十数年後に起こる保元の動乱の因を静かに孕んだ。
 院の寵愛が西行の主君筋の待賢門院から美福門院様に移っていることはもはや明白となった。一月には待賢門院が新帝の即位を呪詛したという嫌疑がかけられ、判官代・源盛行夫妻の土佐配流をはじめ、美福門院方による待賢門院方粛正が一斉に行われた。二月にはついに待賢門院は失意のうちの出家となった。
 西行は表立って悲嘆にくれるというような態度は見せなかった。むしろ「待賢門院様はよいことをなさった。出家はよいことだ。よいことだな、そうであろう、西住」と西住の方を見て笑わっていたりした。
 しかし金の工面は必要だったようだ。
 待賢門院は洛西双ヶ岡(ならびがおか)法金剛院に隠棲していたが、待賢門院自身からそのような依頼があったわけではないだろう。しかし待賢門院は幼い折より白河院の養女かつ内妾(ないしょう)、長じては鳥羽院中宮という内裏の爛熟を一身に纏ってきており、特に結縁作善としての造寺・造仏には人並み外れた執着を持った女院であった。まだ建設途上であった御願寺・法金剛院の整備は悲願であったようである。
 清和院(せがい)の歌会を通じて頻繁に交際のあった女院の女房、堀河局や中納言局を通して、それらの話は西行の耳にも入った。
 嵯峨の庵に西行、西住と二人で生活していた折、当時の最高実力者、内大臣頼長への「一品経和歌勧進」を行った、あの大業にはそういう側面があったのだと、のちのち大原寂光院の中納言局が言っていた。
 あの日、西住がした上人の怠惰への抗議は、迷っていた上人を頼長邸へ向かわせるきっかけになったのである。あの頃、西行はとにかく金が必要だった。

 西行は徳大寺家に仕えていた頃からの知己の貴人たちを訪ね、世の無常を嘆き、来世への祈りを説いて涙を誘い、結縁作善を乞うた。しかしこういう貴人たちに対する巨額の作善以外に相手を特定しない町民相手の辻勧進も西行は行った。嫌々ではない。西住の見る限り、西行の勧進作善は庶民の小銭や穀物を集めるときの方がその特異な才能を発揮した。まったく西行は辻勧進に関して天賦の才能を持っていた。
「かつて鳥羽院下北面にまで近侍した元左兵衛少尉佐藤義清が、まさか市井で勧進はないだろう」
 化野念仏寺の二十五三昧会(にじゅうごさんまいえ)の帰り、初めて西住が辻勧進を勧めた折、西行はまずそう答えた。
「いや体裁を言っているのではない。似合わないだろうと言っているのだ」
 西行のその言葉に、西住はやはり言い出したことがいけなかったかと黙った。
 しかし違った。“辻勧進”と言われて憤然としているはずの西行は猛烈に“辻勧進”についての考えを話し始めた。
「祖父佐藤季清(すえきよ)は検非違使として大夫尉(たいふのじょう)までいった男だと、これは話したか?そうか、話したか、しかしこれは言ってなかったと思う、実はわが佐藤家は代々の預所(あずかりどころ)なのだ。うん?話したか、これも?」
 西行は西住を見て小首を傾げる。
「しかし、まあ、詳しくは言っていなかったはずだ。実は紀伊国田仲荘には二千町歩の所領があるのだ、いやいや、大したことはない、別に自慢しようというのでもない。わたしは仏に身を委ねた者だ、そんなことを自慢するわけがない、自慢するわけはないが、しかし二千町歩の領主の辻勧進はいくら何でもおかしいであろう?辻勧進というのは何といっても市井の人間のすることであろう?いや、わたしは何も市井の人間のすることを二千町歩の預所であり、元鳥羽院北面近侍のわたしが出来る訳がないと言っているのではない、そういうことではない、似合わないであろうと言っているのだ、この違いは大きいぞ、西住、であろう?西住」
「その二千町歩のこともよく存じております、存じてはおりますが、上人、わたくし西住はこうも思います。富貴と教養をひた隠しにして身をやつす、貴種流離という言葉を聞いて知っております。上人のような方の辻勧進こそ、西住には特に意味のあるものだと推察いたします」
「何だ?」
 西行は西住の顔を覗き込む。
 西行は自分に都合のよい言葉、自分に心地よい言葉を耳にすると、必ず問い返す。それは聞こえなかったからではない。その心地よい言葉を拡声して反復させるための策略なのである。
「何がでございます?」
「何がといって、いま何か耳新しい言葉を聞いたように思ったが、それは何かと思ったのだ」
「耳新しい・・・、はて」
「貴種何とかという・・・」
「ああ、貴種流離でございますか」
「貴種流離?」
「はい。貴く品高いお人が身をやつして市井を流離するという意味でございます。これはひたすら御仏にすがる“厭離穢土(おんりえど)・欣求浄土(ごんぐじょうど)”という弥陀の本願とも一致するものでございます」
「・・・いやいや、西住、貴種流離などと、そんなことを言われても、わたしには無理だ。ははは。わたしは宮仕えで育った者だ。雅の世界に親しんできた者だ。市井の人たちに勧進する能力などない」
 そう言いながら、西行の視線はすでに化野の風葬地に転がった人骨の方に向かっている。
「そうか、“身をやつす”か?・・・わたしはそんな身をやつすほどの貴人ではないぞ、西住、ふふふ、そんな、貴種流離などと、そんな、ははは」
 照れ笑いを浮かべながら、西行は化野で物色した中で適当な骨を拾い、そっと懐に包み込みんだ。

 西住はいつも感心していたが、西行の市井勧進には独特の吸引力があった。勧進の天才だったといって間違いない。
 西住に命じて鉦鼓によって周りに人を集めさせ、ある程度人垣が出来た頃合を見て大声で念仏を唱える。声明道(しょうみょうどう)からみれば決して熟達しているとは言えない西行の念仏だったが、人が集まれば集まるほど声に張りが出て周りを引き付けるものがあった。まったく不思議な念仏である。
「おお、ここでお会いできたか、将門殿。さぞや冥土のふちで迷われたことであろう。ご無念、この西行、痛いほど推察いたします」
 念仏が一段落すると、懐から頭蓋骨を取り出し、慟哭が始まる。そのあちこち欠けた頭蓋骨がどうして将門のものだと言えるだろう。しかし西行の愁嘆哀惜は鬼気迫り、余人の疑いまで飲み込んでしまう。
「昔、東国に相馬小次郎将門と申せしが、三つに京を立て、世を保つこと八カ年なり」 目を閉じて魂が乗り移ったように話しだす。その言葉は次第に抑揚が付き、催馬楽(さいばら)のようになっていく。
「俵藤太秀郷(たわらのとうたひでさと)の追討にて相模の国、猿島に討ち取られ、首をば京にのぼせ、獄門にぞ掛けられたる。七日の日数をおくれども少しも色は損ぜずして、夜々物言う声ぞ聞こえける。きえーい。人々不思議に思い、忍び寄りて聞く。そのとき将門の首、八寸五分の釘をきりきりとひっしめ、きえーい、大眼を見いだし、獄門の木を引き動かして喚いたり、きえーい」
 合間合間に“きえーい”という訳の分からない奇声を発しながら、ここから西行は目を閉じたまま髑髏を持って立ち上がる。将門の独白である。
「あら、無念なや。きえーい。無念なやー。駿河なる骸が京へ上りしが、首うちすわって京の鬼門に立ちたまう。いかに天竺、唐土、わが朝にても、この将門を討たんとせし者はいづくまでも逃すまいぞ。きえーい。きえーい」
 西行誦“将門物語り”は延々と続く。周りも訳が分からないまま引きずり込まれ、その訳の分からないまま結縁勧進に入り込む。みな自分でも不思議な涙をながしながら勧進帳に一行の写経と名前を記し、銭や穀物を喜捨する。
 この手腕は何年も勧進をおこなってきた西住などでもまったく及びもつかないものであった。それともう一つ「小町殿よ、将門殿よ」と声を詰まらせている憑依状態の西行は、おかしな言い方ですが、楽しそうに見えた。
 出家してほぼ十年、西行と西住は鳥辺野、大原野、蓮台野、化野と葬地を回り、醍醐理性院(りしょういん)を主な起縁とする結縁勧進を行ってきた。西住の目からみると、西行は勧進行を嫌がっているようではなかった。むしろ自分の創意を入れて積極的に参加しているようにさえ見えた。
 西住としては、理性院に対してはこんなに鼻の高いことはない。当時気鋭の歌人として名をなしてきた西行が巨額の勧進をなし、その西行を理性院に結縁させたのはこの西住であるのだから。
 ですが、反面、西住は心配していた。西行は何といっても勧進聖である前に歌人である。歌人であってもらわなくては西住が困る。
 もちろんその間も西行は詠歌を怠ることはなく、清和院の歌会へはかかさず出ていたし、三位俊成をはじめとして、寂然など歌の友への交わりも絶ってはいなかった。しかし崇徳新院の勅、六条顕輔様撰進による『詞花和歌集』にほとんど入集しないだろうという噂は西行の大きな落胆を呼んでいたようだった。

               *

 久安五年(一一四九)、高野山では雷火により大塔、金堂、灌頂堂を焼失するという大事件があった。この災難の復興勧進に最も気を揉んだのは覚法法親王(かくぼうほっしんのう)であった。
 法親王(出家した皇子の呼称)は白河法皇と源師子(もろこ)との間の子であり、堀河天皇の異母弟、鳥羽天皇の叔父、崇徳天皇の実質上の異母兄(名目上は大叔父)にあたる。
 この源師子は白河法皇の恣意によって時の関白藤原忠実様に“下賜”され、のちに父忠実との間で骨肉の保元の乱を引き起こす関白忠通を生んだ女院である。つまり法親王は時代の紊乱と退廃をその一身の血に引き受けていた皇族であるが、早くから出家灌頂を遂げていたおかげで、政争からは一定の距離をおき、真言仁和寺御室(おむろ・真言最高位)となっていた。
 声明道や孔雀経法に優れ、父白河法皇をはじめとして朝家の崇敬を集め、皇室修法の大阿闍梨の地位にあった。また弘法大師への崇敬の念より高野参籠が毎年におよび、高野御室とも尊称され、久安の大塔焼失も目の当りにしていた。
 久安五年(一一四九)の夏、覚法法親王は高野復興奉行の平忠盛を通して西行を仁和寺黒書院に招いた。
 西住は庭下に控えていたが、黒書院には覚法法親王、刑部卿平忠盛のほかに、陰陽頭(おんみょうのかみ)安倍泰親がいて、何やら不安が募っていた。
 覚法法親王は五十八歳、僧綱の緋衣を纏い、細い体で静かに話す。
 刑部卿忠盛は、以前西行の一品経和歌の勧進に付随して六波羅の屋敷を訪問したおり、西住も会っている。五十四歳のいまでも武将らしい剛健に体つきで、立派な髭を蓄えている。
 子息清盛が西行と同い年で、鳥羽院北面においても同時に召し抱えられたということもあり、西行に対しては特別好意をもっていた。
 世間では佐藤義清は同い年の清盛様の出世を妬んで出家したとの噂もあるようだが、それは違う。西行と清盛は違いに特別親近感を持っていた。逆に言えば西行が出家したことが、政敵ではなく友人であるという関係を持続させたとも言えるのであろうが。
 西住がこの黒書院の賜餐で一番危惧していたのは陰陽頭安倍泰親のことである。泰親はこの時三十九才、陰陽師としてめきめき頭角を表していた時で、内裏では「村上朝の安倍晴明の再来」とさえ謳われ、その予言の正確さから“指御子(さしのみこ)”との尊称も出来ていたほどだ。
 今回の高野落雷の災事も彗星の流れから予知していたというのだ。それだけでも西住たち仏の道を信じる者からは何かうさん臭いという気がするのだが、一番嫌悪感を持つのはそのでっぷりとした体つきと、どこを見ているのか分からない細い目である。
 他人の容姿をあれこれ品評するのはよくないが、西住には何か狡猾な人物に思えて仕方なかった。
 しかし西行は清和院の歌会の折に一度顔を合わせて以来、この安部泰親のことを褒めちぎる。「世の中には博学の人というものがいるものだ」と賛辞を惜しまない。
 賛辞だけならよいのだが、「よいか西住、人は生まれながらにして北斗七星のいずれかが属星となる」と聞きかじってきた陰陽道の知識をひけらかすのには閉口した。
「西住、その方は生まれ暦は何だ?え?乙未(きのとひつじ)か?・・・えっと貪狼、巨門、禄存とくるから、・・・ええっと武曲星だな、うん、多分そうだ」
 西行は何やら書き付けたものを盗み見しては勝手に頷く。
「よいか、これから毎朝起床後この属星の武曲の名を七編唱えるのだ。な、簡単なことであろう。そのまことに簡単な七編の名号唱誦するだけで富貴延命を得、罪業を除き、一切の願望が成就されるのだ。嬉しいことではないか、西住。・・・何だ、不服か?・・・これは確かに陰陽の教えではあるが仏の道に決して反するものではない。いや、むしろ積極的に御仏の教えに叶うものだ。この北斗七星の名号のことは弘法大師様が入唐して灌頂をいただいた恵果阿闍梨の師にあたる不空上人が広められたものだ。天竺より上人が持ち帰った『北斗七星護摩秘要儀軌』にしっかり出ておるのだ。むしろ密教の秘伝に属する有り難い行いなのだ」
 ひとしきり講義が終わると、西行は秘蔵の書き付けをそそくさと懐にしまい、満足そうに笑みを浮かべる。西住はただ唖然としてその様子を眺めるだけであった。
 ただ後に西住が最も気にした“反魂の秘術”については、この頃はあまり口にはしなかった。ただ時折「陰陽道では人の魂を呼び起こせる秘術があるらしい」とじっと考えるように話すことがあった程度だった。
 西住は三位俊成からも、「内裏においても歌人西行の葬地での奇怪な行動が話題になっている」と聞いていたし、「“骨拾い西行”という噂が立っております」と忠告したことがあったが、「ふふふ、西住、嫉妬か?」と何を勘違いしたのか、西行は顔をぐっとこちらに近づけて含み笑いした。ほんとに薄気味悪い笑顔だった。
 思えば西行は数々の人間から影響を受けてきた。
 北面近侍の栄誉を捨てて出家遁世を決意したのは、元徳大寺家家人で嵐山法輪寺に身を寄せていた空仁の影響が大だった。後には理性院賢覚付法門下で西住の後輩にあたる重源にも傾倒する。
 しかしこの頃の陰陽頭泰親に一途に心酔していた様子だけは何とも不可解だった。空仁も重源ももちろん聖人と言えるような僧侶ではないが、反面人を引きつける灰汁の強さを持っていた。その二人に比べれば遥かに高貴な身分である泰親だが、今をときめく羽振りの良さが西住にはどうも鼻についた。
 おかしな言い方だが、元来、西行は、西行が傾倒しなくてもどうということのない人には傾倒しない性格なのである。変な言い回しだが、そうなのだ。
 空仁にも重源にもほんとに有頂天になるほどの心酔ぶりだったが、冷静に観察してみると、それは「わたしがいないと駄目になる」という心酔ぶりなのである。
 つまり有態に言えば、西行は有頂天になっていても自分のことを考えているのだった。自分をいかに売り込むかというようなことではない。そういうこととは逆だ。空仁にも重源にも結果的にはひどく裏切られたのだが、それは西行にとって大した関心事ではないのだ。
 西行自身は意識してはいなかったが、西行は世俗を捨てるために逆に人に擦り寄っていっていた。少なくとも西住にはそう見えた。
 西住は、西行からたった一つのことだけは確実に学ぶことができた。「滅私」には「対象が要る」のだということだ。

 西行出家以来、西行と西住はは多くの遁世者と邂逅してきた。
 粟田口庵居の瞻西(たんぜい)上人。この聖は女乞食に二度乞われて小袖・帷を与えたが、三度目には与えるものがなく物乞いを断った。自分の着るものがなくなるのだから至極当然のことなのだが、その事を終生後悔しているという聖人でした。
 みちのく行脚の途中には、二十九の歳から六十年間刈萱の庵に独居し、七万余回経典を読誦したという武蔵野の隠者に出会った。
 三輪隠棲の行賀僧都。この聖は疱瘡を患った法師に近寄り、「聖の耳を縫い付ければ治るのだが」と法師から言われたので、その場で自分の耳を切り落として法師に与えた。“切耳行賀”という蔑みに耐えながら山中独居を続けていた。
「仮の宿りとはいえ、偉い人が大勢いるものだなあ」と、そういう邂逅のたびに、西行は西住の方を見て溜息を漏らした。しかしそういう遁世者には感心はしても、心酔し身も心も投げ出すということはない。山中に独居し、一心に法華経を誦ずという生活には「偉い」と頷くだけで傾倒しないのである。
 そういう意味で、出家遁世を説く空仁の大風呂敷、東大寺再建勧進について「十方一切の同心合力を伏して乞う」などと大仰な立ち振る舞いする重源に利用されていくのは、西住には納得できるところがあったし、西行自身としても本望というところがあったように思う。
 しかし陰陽頭泰親への傾倒は西住には分からなかった。

 覚法法親王の話は、大塔、金堂の焼失復興はもちろんだが、高野伝法院と密言院の危機を救って貰えないかということだった。実はあとの件が親王の年来の悩みとなっていた。伝法院は高野に浄土教念仏と勧進聖を持ち込んだ正覚房覚鑁(かくばん)が、二十年ほど前に親王の助力を得て建立したものである。
 覚鑁は西住と同じ醍醐理性院賢覚付法二十七人衆の一人であり、一番上の兄弟子に当たる。沈滞していた高野の活動に渇を入れた風雲児であったが、保守的な高野の学侶方(学僧の集団)、行人方(寺院の経営・雑役者の集団)の反発を受けて錐鑽(すいさん)事件という騒動に発展し、ちょうど西行が出家した十年前に下山している。
 そのあと仏厳房聖心が覚鑁の創立した伝法院流を受け継いでいたが、かなり厳しい状況にあったようです。
 西行はしかし、高野に行ってくれという親王の懇請になかなか応諾しなかった。
 西行が京周辺に執着するのは二つの理由があった。
 一つは歌の道である。詞花和歌集の撰に漏れたとはいえ、三位俊成はじめ清和院、寂超、寂然などの歌の友との別れは西行にとって歌檀からの疎遠を意味するという危惧があった。
 もう一つは京周辺の葬地への執着だった。十年にわたる「五三昧」巡りによって、西行は京周辺の無常の在り方を我物としてきた。西行は無常、それも確固とした無常が好きなのだ。おかしな言い方だが、西住は西行を見てずっとそう思ってきた。別の地にいけば確固とした無常があるかどうか分からない。そんな訳の分からないことを思って、西行は京から離れることを逡巡していた。

 西行が庭の苔を見て「黒こんにゃくのようですな。食べられそうですな。しかし、こんにゃくは高坏で食べないと駄目です。こんにゃくは高坏です」などと、いつもの支離滅裂なことをぶつぶつ言いはじめ、庭にひかえた西住がひやひやし始めた時であった。
「西行上人は殯宮(もがりのみや)というのをご存じだろうか」
 泰親が静かに問うた。
「は・・・」
 西行が庭から向き直って、気の抜けた声を出した。
「ご存じないか。古来、わが国の大王(おおきみ)は息を引き取ると、ご遺体は必ずこの殯宮に安置された。疫癘魂を封印するためである。その殯宮は必ず八角形で出来ていた。これは陰陽道で言う八卦、すなわち天、澤、火、雷、風、水、山、地の八卦から来ている。法隆寺夢殿、興福寺南北円堂、法成寺八角九重塔などすべて八角形で出来ている。西行殿、つまりこれらはすべて遺体安置、また時代が下っては納骨を司る御堂なのです」
 泰親はさらに西行の方へにじり寄ってくる。
「西行殿、覚鑁殿の建てた密言院、これは覚鑁上人個人の念仏堂であったのだけれど、これは八角形の御堂なのだ。お分かりかな、西行殿」
 泰親はそれからそっと西行に耳打ちした。
 西住にはでっぷり太った泰親の薄い髭の下の唇の動きでその言葉が判別できた。
 泰親は「いい人形(ひとがた)が出来ますぞ」と言ったのだ。

 西行は黒書院から勅使門に至る長い廊下を大股で歩いてゆく。
 「西住、わたしは高野へ上ることに決めた」
 前を向いたままそうはっきり言って、西行はどんどん廊下を渡って行った。

                *

 久安五年(一一四九)、西行と西住は高野伝法院・仏厳房聖心様のもとに宿坊を得た。西行三十一才、西住三十六才の年であった。
 西住は相変わらず醍醐寺理性院の勧進行を続けねばならず、また西行は西行で大塔・金堂の復興勧進という大仕事のため、京との間を幾度も往復していた。またそれらの復興供養を成し遂げてからも、自撰集を携えて清和院官子(きみこ)内親王や三位俊成などのいわゆる崇徳院歌壇を訪ねることも度々であり、また五条高辻通りの安部泰親の屋敷にも相変わらずよく出入りしていたようで、西住とは何となく別々に過ごす日も多くなっていた。
 しかしたまに会う西行は、西住にはいきいきとしているように見えた。胸に鉦鼓(しょうこ)を掛け、檜笠をかぶり、米や銭の喜捨を受けるための勧進杓(かんじんしゃく)を腰に差し、のちに“高野聖はたがめ虫”と蔑称されるもとになる笈(おい)を背中に下げて、聖の準備を万端怠りなく整えた様子だった。その表情は子供のように喜々としたものだった。
「汝、極楽に往生せんと欲すれば、汝の骨、高野に住すべし」
 西住に成長を見せてやると言って、西行は鉦鼓を打ち鳴らし、抑揚を付けて高らかに唱導句を唱える。
「西住、わたしはしばらく高野を離れぬ。高野を納骨の霊地、国の総菩提寺とすることに骨身を捧げてみたいと思っている」
 唱導が一段落したところで、胸の鉦鼓を慈しむようにさすりながら漏らす。
 高野伝法院の縁から向かいの笠松山の杉木立をしばらく見上げているその様子だけは、ほんとに幸せそうだった。
 人間誰しも全身を賭けて仏道に励むとか、あるいは全身を賭けて歌道を究めるというようなことは本当は不可能なのかもしれない。西住の三昧業にしたところで、死者の霊魂を鎮めると言いながら、その実、生業としてのしがらみを抜けきれていない。例えば「これならば余人は真似しにくいだろう」という打算がないかと言えば嘘になる。しかし西住を含めて普通の人間はそういう心の内面の揺れを「仏道に全霊を捧げる」というような強い言葉で塗布する。自分を律し、鼓舞させ、逆にそういう言葉を敢えて吐くうちに自分自身「全霊を捧げた人間なのだ」と納得させていくところがある。西住は「言霊」とはそういうことなのだと理解していた。
 しかし西行の言葉というのは独特のものがあった。
 例えば桜を称えた歌を詠む。花が愛しい、待ち遠しい、花を思えば胸苦しいと、桜への思いを読む。世の人々は「ああ西行は花を愛しているのだな」と感服する。西住のように揺れ動く凡夫の推量でも「西行は花を愛する人間になりたいのだ。そのために花を称える歌を詠んで自分を叱咤しようとしている」とそこまでの穿った見方しかできない。
 しかし一度だけ吉野の山桜探索に供した折、西住は驚いた。
“奥の千本”に位置する金峰神社の下の窪地に座って、折り重なる稜線を眺めていた時だ。
「西住、その方、この満開の山桜をどう見る」
 藍色の山並みが遠ざかって行くに従って白濁しており、斑模様の山桜の群れもその意に添って白く溶けている。ふっと冷たい風が吹くたびに周りの樹木がなびき、わたしたちの上に乳白色の花びらを落としていく。
「ただ素晴らしいとしか・・・、歌心のない者ゆえ、このような拙い言葉でしか・・・、申し訳ございません」
「わたしはな、西住、この吉野の満開の山桜を見るたび、いつも悔しさを感じている」 眼下の稜線を見ながら西行は淡々と話します。
「悔しい・・・、花が散るという、そういう悔しさでございますか」
「いやそうではない。花は来年も咲く。その次の年も、またその次の年も咲く。しかしわたしはいつか死ぬ。それが悔しい」
「・・・」
「どうしてわたしが死なねばならぬのだ。他人がみな死んでもわたしだけ生き残るということはないのか。絶対にないのか。花は毎年毎年咲くというのに、どうだ西住、悔しくないか」
 わたしの方を見てそう憤然と言ったあと、西行は急に首を折り、自分の膝の間に顔を埋めた。
 その不思議な行動に言葉をなくしてじっとしていると、西行は不意に顔を上げ、いままでの慟哭が嘘だとでもいうように西住を見てにっと笑う。
「しかしな、西住、言っておくが、わたしは並の歌詠みではない、それは知っておるな」
 西行がぐいと顔を近づけてきたので、西住は慌てて「ええ、それはもう」と相槌を打つ。
「悔しい時の歌の作法をしっかりと心得ておる。そういう屈辱をこそ名歌に仕上げるから世間から歌聖などと呼ばれているのだ。わたしは別に歌聖などと呼ばれたくはない。西住、その方、まさか勘違いしているのではないであろうな。わたしは自分では歌聖などとは呼ばれたくはない。呼ばれたくはないがしかし、世間で敢えてそう呼ばせて欲しいと言われれば、わたしは歌聖ではありませんというのは本意ではない。わたしは歌聖と呼ばれようとは思わないと同時に嘘つきではない。分かるか、西住」
「はあ、それはよく分かりますが、・・・その作法というのは」
「何だ、嘘つきでない作法か?」
「いえ、その悔しい時の歌の作法というのは・・・」
「ああ、それか、それはいいところを聞いてきた。さすが長年生活を供にしてきた男だ。それはな、西住、誉めることだ」
「誉める?」
「そう、誉める。悔しいと思ったら誉めるのだ。花は毎年咲くのに自分はいつか死んで悔しいと思ったら、花を誉める。けなしては駄目だ。けなせば悔しさは倍加される。悔しいと思ったら誉める。誉めれば相手の上にゆける。死ぬのが怖いと思えば阿弥陀仏の名号をとなえて如来の慈悲を称える。南無阿弥陀仏とすがれば死後の世界を差配する阿弥陀如来をたなごころの内にすることができる。悔しいと思えば誉めるのだ」
 吉野の山桜を舞わせる風を感じながら、その時西住は、西行という歌詠みは言葉を諦めているのではないかと思った。
 どう歌を詠んでも伝わらないことをすでに悟っているのではないか。「花が愛しい」という時すでに「愛しい」と思う自分はそこにはいない、「南無阿弥陀仏」ととなえる時すでに「阿弥陀仏」にすがる自分はそこにはいない、そういう言葉の諦念をすでに知ってしまっている人なのではないかと、そう思った。

               *

 西行が高野に入山して七年後の保元元年(一一五六)の初秋、鳥羽法皇がなくなった。こののち三十年間にも及ぶ血で血を洗う地獄絵図の始まりであった。
 鳥羽法皇には三人の有力な皇子がいた。亡くなった待賢門院璋子との間に崇徳院、後白河院の二人、美福門院得子との間に近衛天皇である。さらに問題なのは、この中で崇徳院は実は鳥羽法皇の祖父白河法皇の子であったということだ。鳥羽法皇は血の恨みと寵愛から崇徳天皇を押し退け、長幼を無視して近衛皇子をわずか三才で天皇としたが、この幼年天皇は生来の病弱から久寿二年(一一五五)わずか十七才で逝去した。「嫡々相承」の原則から言えば、崇徳上皇の皇子重仁(しげひと)親王の皇位継承となるところを、またしても血の恨みから後白河天皇への継承とした。
 その異例継承の翌年の鳥羽法皇の死であったわけで、崇徳院にすれば積年の恨みを晴らす千載一遇の機会となった。これに摂関家の藤原忠実(父)・頼長(弟)と忠通(兄)との骨肉の確執も付随して、動乱は一挙に洛中全体に広がった。

 西住は西行に事のあらましを伝えるため高野へ上った。
 西行は在俗時代は権大納言・徳大寺実能様の家人だったが、待賢門院は実能の妹であり、そういう意味では西行は崇徳院側に縁がある。しかし反面かつては鳥羽院の下北面に召し出される栄誉を受け、その意味では鳥羽院の流れの後白河天皇側にも恩がある訳である。この争乱を聞き、西行の胸の内は複雑ではないかと西住は心配したが、西行は伝法院の御堂でひたすら念仏を唱えているばかりだった。
「西住、見せたいものがある」
 西行は西住の顔を見ると、急いでどこかへ連れて行こうとする。西住が京の異変の詳細をつたえようとしても「あとで聞く」とだけ答えて、ぐいぐい引っ張っていく。
 それはまるで幼な子が自分の手習いを親に見せようとしているようだった。
 西行の、何か日常的な行動を起こす時の高揚ぶりには、しばし唖然とさせられた。「不可説の上手」と帝にまで言わしめた歌の達人には似合わないことだが、そういう周りの躍動にすぐ同調し、またその輪の中心に入っていきたがる所があった。その性格が結果的には、伝法院の聖心上人はじめ重源や心覚といった醍醐寺「散所聖」から高野「勧進聖」の元締めへと昇進してきた僧侶たちに大いに利用されることになったのだ。西行が納骨勧進の霊地、高野の山中を三十年間もすみかとしたのは、単に世俗を絶ち、出家遁世するためではなかった。
 しかしたとえ上っ面にせよ、西行が張りのある生活をしていることもまた疑いがない。勧進聖の生活というのは好む好まざるにかかわらず旅の連続である。それは歌人西行として、歌道精進への良いきっかけでもあった。その意味では歌人西行にとって、高野入山は好転機だったとも言えたようだ。そういう利用される(当人はそうは感じませんでしたが)痛々しさと、「漂泊の歌人」という名声を得られる好機という二つの背反する面を抱きながら、西行は高野聖としての生活を続けていった。
 奥の院・弘法大師御廟の脇を抜け、転軸山と摩尼山の間の杉木立の谷に入る。昼間にもかかわらず薄暗く、聖地特有の霊気に身が引き締まってくる。
 制度として整った高野の納骨勧進はまだ歴史が浅いのだが、大師の卜定(ぼくてい)以前からこの地は霊山とされていて、遺体を遺棄する「放り」は行われていた。そして大師の遺徳と相まって、正式な納骨勧進でない遺骨の「放り」は無名の庶民信者によってひそかに続いていた。その中心がこの通称極楽谷と言われる薄暗い谷である。
「泰親様には陰陽家の秘伝であるから詳しいことは言えないと断られた」
 下草の笹や葛を錫杖(しゃくじょう)でなぎ払って進みながら、西行は息せききって話す。
 なぎ払われた下草の下から時々人骨とおぼしき物が見え隠れする。
「が、わたしは色々と試みた。泰親様の切れ切れの話から、人骨を集めて人形(ひとがた)を作るところまでは出来た」
 小さな窪地にたどりついた時、西行はそう言って「ふうっ」と大きな溜息をつき、それから下を見て微かにほほ笑んだ。錫杖を置いて膝で座り、手で注意深く笹を払うと、そこには髑髏から背骨、手足の骨まで一人の人間が寝そべっている形できれいに並んでいる。
 西住はそれを目にした瞬間、全身からへなへなと力が抜けていき、その場に座り込んでしまった。
「なかなかいい骨というのはないのだ。泰親様の話では白く艶のある骨でないと駄目なのだそうだ。しかしたまにそういう骨が見つかっても、脚の一部分だったり、背骨の一部分だったりする。そういう骨を寄せ集めてきても、一つ一つの骨の大きさが違えば人体とはなれない。わたしは大いに困った。困っていたのだが、西住」
 その完成した一体の人骨から目を離して、座り込んでいる西住の方にぐいっと首を回して、そしてにんまりする。
「さすが高野だ。高野は凄いぞ、西住。わたしは高野に来てほんとうによかった。さすが納骨の霊地だ。転がっている骨たちがみな、わたしに魂をと叫んでいる」
 興奮した時の癖で西行は西住に顔を近づけて話すが、西住は言葉を失ってただじっとその一体の人骨を見るだけだった。
「もう、いま一歩のところまで来ている。骨を取り集め、頭から手、足と順序を違えずに並べ、砒霜(ひそう)という薬を骨に塗り、苺とはこべの葉を揉み合わせた汁をかける。そのあと藤の蔓で骨をつづり合わせ、また西海枝(さいかち)の葉と槿(むくげ)の葉を灰にして塗り付ける。水でよく骨を洗ったのち、うん、ここが大事だということが何回か試みるうちに分かった、やはり習うより慣れろだ」
 そう言って西行は西住を見て頷く。
「よく洗わないと汚れを含んだ骨というのはすぐに変色する、微妙なものだ、それがやっと分かった。で、土の上に敷いた筵の上に、そのよく洗った骨を包み込んで二週間寝かせる。それから沈と乳木をたいて反魂の秘術を施すのだが、この魂を招き入れる“反魂”がどうしてもうまくいかない。色々試みたがうまくいかない。やり方自体は間違っていないと思うのだが、どうも肌の色も悪いし、声も吹き損じた笛のようなものしか出ない」
 大腿骨のあたりを触りながら、西行は一心に話す。
「義清、なぜそのような・・・」
 西住は話の途中に小さく口を挟みました。
「う?」
 西行は気付いて西住の方を向く。
「何だ?何か聞きたいことがあるのか?大概のことは答えられるから聞いてみなさい。わたしは何も隠しておくつもりはない。陰陽家では秘中の秘だとか言っているが、わたしはよいことは人に喧伝すべきだと思っている。遠慮は要らないから聞いてみなさい。ただ最後の詰めの“反魂”のところはいまも言ったようにまだ未完成だ。しかし未完成だからといってもかなりのことは分かっているはずだ。いいから聞いてみなさい」
「京では“骨拾い西行”という呼び名が流行っております」
 西住は自分でも驚くほど強い調子で声を出した。
 西行は不意を突かれたように黙って西住を見ていたが、西住は静かに続けた。
「かつて下北面に召し出され、その武勇栄達を謳われた佐藤義清は骨欲しさに出家した、気が狂って出家したと噂されております」
 話しているうちに、だんだん気持ちを押えることが出来なくなっていく自分に気づく。
「そのうしろめたさ、骨拾いのうしろめたさを隠すために、あいつは時折作った歌を懐に京に出てくるのだ。骨拾いの気狂い歌だ、あれは野に朽ちた無縁骨が作った歌だというまことしやかな噂が立っております。このままでは歌人西行の行く末が案じられます。いつも西行が乞い願っていた勅撰集への入集などおぼつかなくなります」
 話しているうちにとめどがなくなり、西住は一気にまくしたててしまった。こんなことは西行と暮らしだしてから初めてのことだった。膝立ちしていた西行も、いつしか草の上に腰を下ろしていた。
「上人、いま京は大変な騒乱に巻き込まれております。いつも上人のことを気に掛けてくださっていた待賢門院様の遺児、崇徳新院はわずかの手勢で蜂起されましたが、軍運つたなくすでに捕えられ、仁和寺に捕えられていらっしゃいます。幼い頃より聡明であった新院は血の宿世の中でもて遊ばれ、いまや鬼神のごとく扱われております。執政内覧の地位まで上り詰め“悪左府”とまで恐れられた頼長様も南都まで敗走し、地中に隠れていたところを引きずり出され、獄門にかけられました。帝をも意のままに操るとまで言われた強権の宇治左大臣“悪左府”が百姓の槍にかかって地中の穴から引きずり出されたのです。時を得て勲功華々しかった平清盛様は騒乱の中で叔父上を討ち、源義朝様は自ら父君為義様の首をはね、葬地船岡山の露としてしまいました。上人、このようなことがこのまま済む訳がございません。必ず因果は巡ります。しっかり時勢をお見据え下さい。賀茂の河原は三条も六条も七条も死人で溢れております」
 西行はじっと俯いていた。膝に置いた拳はじっと握られていました。
「上人、安倍泰親様はこの大異変に際し、三月前から太白(金星)が獅子座の西端の星垣・太微に入っており、政変断行の時期であると予言していた。この予言を聞き入れた清盛殿は見事に勲功を立て、軽んじた為義殿は哀れな敗残を喫した、とそればかり吹聴しております。わたくしにはこの男は許せません。いつも大勢を上から眺め、卜占と称して、予言と称して、自らを喧伝し、権力の中枢にいる立場は少しも傷つかない。狡猾ではないですか。わたくしには上人がこの男に傾倒していらっしゃることが悔しくてなりません。なぜでございますか」
 しばらく回りの杉木立の方に目をやっていた西行は、ふっと西住を見て、全く関係のないことを口にした。
「この一体の人骨、その方の怒りもよく分かるが、わたしはよく出来ていると思う。よくこれだけ艶のある大きさのそろった人骨がよく集まったと思う・・・」
 またさきほどの繰り返しである。しかし直前のはしゃぎぶりが嘘のような静かな語り口だった。
「ほんとに・・・、よく出来ていると、わたしは思う」
 また細々と続ける。
「この人骨が西住だと言ったら、西住、その方・・・怒るか?」
 そう言って西住の方を眩しそうに見ます。
「は・・・」
「その方はわたしより五つ年上だから、わたしより先に死ぬ。体もわたしの方が大きく頑健であるし、それに何といっても、わたしは元北面の武士だ、いざとなればわたしが強い。わたしの方が長く生きる。西住が先に死んでしまう。それが寂しい」
 西行はまた人骨を触りながらぶつぶつと続ける。何を言っているのか分からない。聞き様によっては西住に咒いをかけているようにさえ取れる。
 西住は言葉をなくしていたが、西行は静かに続けた。
「わたしはそれをいつも辛いと思っていた。このところ、離れていることも多いし、離れたまま西住が死んでしまうのは辛い。・・・わたしは別に陰陽道に興味があったわけではない。泰親様を特別崇敬していたわけでもない。ただ反魂の秘術だけは陰陽道にもしそういうものが伝わっているのなら知りたいと思った。骨を集めて西住の魂を吹き込めるなら、西住が死んでも寂しくないような気がした。・・・でも骨を集めたのはよかったが、やっぱり魂を吹き込むのはうまくいかない。・・・残念だ。・・・しかし、もし西住が死ねばうまくいくかもしれないと思っている。生きている人間の魂を骨に吹き込むのはやはり変なのだろう。だから西住が死ねば反魂もうまくいきそうな気がしている」
 西行はとうとうと喋り続けたが、西住はどう答えていいものか分からなかった。
「わたしは野ざらしの骸を荼毘にふし、法華経を唱えて回る空也上人や、それを教え、得度くださった理性院賢覚上人の生き方に感銘を受けた。それは嘘ではない。おかしな言い方だが、タガメを背中に負い、鉦鼓を首に下げると、何やら気分がうきうきしてくる。擦り切れた黒衣を着て、“弥陀の本願だけを信じ、弥陀の名号だけを唱え、ひたすら極楽往生を願うのだ”と衆生に説いて回ることは気分が高揚するものだ。・・・しかし西住、わたしはときどき、違うのではないか、わたしの勧進は違うのではないかという疑念が沸いてくる。こんな風に高揚はしているが、この高揚はおかしい、院の北面に仕える武勇の男でありながら京の風雅にも親しむなよかさを持ち、騎馬に優れ、歌の道の栄達を極めた男が勧進聖に身をやつす、そのことへの世間の賛美と“流離の貴人”という言葉がわたしを走らせているのではないかという疑念が沸いてくる。・・・西住、正直言えばわたしは浄土を信じていないのだ」
 杉木立の間を風が抜けていった。西住がふと上を見上げると、その時までまったく気づかずにいたが、見事な杉の大輪が遥か向こうまで続いているのが分かった。これが高野の閑けさなのかと、西住はその時思った。
 西行特有の偏屈な物言いだった。西住は顔をそむけたまま、初秋の風にそよぐ杉の枝葉を見詰め、涙を落とした。

 後年、自撰の『山家集』の中に西住への歌が入っているのを知ったのは、西行が亡くなった後でした。西住は西行よりしっかり長く生きている。

 高野の奥の院の橋の上にて、月明かりければ、諸共に眺め明かして、その頃西住西行京へ出でにけり。その夜の月忘れ難くて、又同じ橋の月の頃、西住西行の許へ言ひ遣はしける 

 事となく 君恋ひ渡る 橋の上に 争う物は 月の影のみ

 西住はこの歌をいただいた記憶はありません。しかしこの一首は生涯の思い出として来世で西行とお会いするまで懐にしまっておくつもりでおります。


               (四)


 すでに東の方へくだるに、日かず積もれば、遠江国、天中(てんなか)の渡りといふところにて、武士の乗りたりける船に便船をしたりけるほどに、人おほく乗りて、舟や危ふかりけん、「あの法師、降りよ降りよ」と言ひけれども、渡しのならひと思ひて、聞き入れぬさまにてありけるに、情けなく鞭をもちて西行を打ちけり。血なんど頭より出でて、よにあへなく見へけれども、西行少しも恨みたる色なくして、手を合はせ、舟より降りにけり。
 これを見て、共なりける入道、泣き悲しみければ、西行、つくづくと見守(まぼ)り、
「都を出し時、路のあひだにていかにも心苦しきことあるべしと言ひしはこれぞかし。たとひ足手を切られ、命を失ふとも、それ全く恨みにあらず。もしいにしへの心をも持つべくは、髪を切り衣を染めでこそあらめ、仏の御心は、みな慈悲を先として、われらがごとくの造悪不善の者を救ひ給ふ。されば『仇を以て仇を報ずれば、その恨みやまず。忍を以て敵を報ずれば、仇すなはち滅す』と言へり。経の中には、『無量劫(むりゃうごふ)の間、修したる善根も、一念の悪を起こせば、みな消え失す』とも言へり。また不軽菩薩は、打たるる杖を痛まず、
 我深敬汝等(がちんきゃうにょとう) 不敢軽慢(ふかんきゃうまん) 所以者可(しょいしゃか) 汝等皆行菩薩道(にょとうかいぎょうぼさつだう)
 とて、なほ礼拝恭敬(くきゃう)し給ひき。これみな利他を旨とし、仏道修行の姿なり。自今以後もかかる事はあるべし。たがひに心苦しかるべければ、汝は都へ帰れ」
とて、東西へぞ別れける。

 西行、心強くも同行の入道をばおひ捨てたりけれども、年ごろあひ馴れし者なれば、さすが名残は惜しかれども、ただ一人、小夜の中山を越へて、かくなん、
  としたけて また越ゆべしと思ひきや いのちなりけり さよの中山

 ただ一人、嵐の風の身に染みて、憂き事いとど大井川、四海の浪を分け、涙も露も置きまがふ、墨染の袖しぼりもあへず行くほどに、駿河国岡部の宿(しゅく)といふ所に着きて、荒れたる御堂に立ち寄り休みゐたりけるに、何となく後戸(うしろと)の方を見やりたりけるに、古き檜笠(ひがさ)懸けられたるを、あやしと見るに、過ぎにし春の頃、都にてたがひに、さき立ちた還来穢国(けんらいえこく)、最初引摂(さいしょいんぜふ)の契りを結びし同行の、東の方へ修行に出でし時、あながちに別れを悲しみしかば、「これを形見に」とて、
 我不愛身命(がふあいしんみゃう) 但惜無上道(たんしゃくむじゃうだう)
と書きたりしが、笠はありながら主は見えざりしかば、「遅れさき立つ習ひ、はや本の雫となりにけるやらむ」とあはれにおぼえて、涙を押さへて宿の者に問ひければ、「京よりこの春、修行者の下りてありしが、この御堂にて労(いたは)りをして失せ侍りしを、犬の食ひ乱して侍りき。屍(かばね)は近きあたりに侍るらむ」と言ひけれど、尋ぬるに見えざりければ、
  笠はあり その身はいかになりぬらむ あはれはかなき あめの下かな
 かくうち眺めて行くほどに、初秋風も身にしみ、いつしか野辺の気色もものあはれに、虫の声々おとづれたり。
 『西行物語絵巻・詞書』第八段



 東国へ出向いた折、遠江(とおとうみ)の国天竜川の渡しで、西行は荒武者に鞭打たれる。頭から血を流しながら、それでも合掌して西行は舟ら降りる。これを見て泣き悲しむ供の僧(西住)を見て、西行が説教する。
「仇を仇で報じようとすれば、その恨みは消えることなく延々続く。忍の心で敵に対すれば、仇はただちに消え失せるとお釈迦さまも仰っているではないか。こんなことで動揺するお前のようなものはもう都へ帰れ」
 強い言葉で西住を追いやったけれど、寂しい思いもして、小夜の中山(静岡県掛川市)で歌を詠んで寂しさをまぎらわせる。
 さてその東北勧進の帰り、大井川岡部宿のお堂に立ち寄ると、西行が以前共に者に渡した笠が掛けてある。不審に思って尋ねると「京からやってきた修行僧が病気になり、このお堂で亡くなった。死体は犬が食い散らかした」と言われた。
「そうか、西住は犬に食われて死んだか、ああ無常な世の中だ」と西行は嘆息し、歌を詠んだ。
 問題なのは、「犬に食われて死んだ」という部分だ。西行は「西住か、あれは犬に食われて死んだ」と言いふらしている痕跡がある。なぜ「死体が犬に食われる」という誇張を楽しんだか。
 高野の奥で「西住いなくて寂しい」という歌を詠んでいながら、「あれは犬に食われて死んだ、ああ無常だ」と吹聴する。ここに西行たるゆえんがある。


 案の定、戦乱は一度では終わらなかった。保元の乱で功績のあった源義朝、藤原信頼と平清盛、信西がそれぞれ二条天皇側、後白河上皇側に分かれて睨み合いが始まった。それぞれに一族、一門の勢力争いと積年の怨念を背負い、平治元年(一一五九)の冬には戦端が開かれるのは不可避の様相になってきていた。
「西住、京はまだきな臭いそうだな」
 高野伝法院で西行が西住に聞いた。西行も四十才を越え、髪にもちらほらと白いものが見え始めているが、京の情勢を尋ねる時の声は若々しさがみなぎっていた。
「はい、特に義朝殿と清盛殿との間の遺恨は火花が散らずには終わらぬ有り様です」
 西行のうしろから答えた。
「また京に騒乱が起きるか」
「必定に思えます」
 西行と清盛は同い年であり、幼い頃からの知り合いであった。鳥羽北面では同時に召し出された好敵手だった。また高野入山も亡くなった父君平忠盛の機縁だつたし、平家の動向は気になっていたはずだ。主君筋徳大寺家の家門の人々、特に待賢門院お付きの女房たちの消息にも胸を痛めていたはずである。
「行ってみるか・・・、京に」
 西行は伝法院の降り積もった雪を見詰めて呟いた。
 保元の乱の折の西住の意見が少しは効いたのだろうか。とにかく多くの縁故者のことを考えれば、西行が京へ出向くのはゆえある事と思えた。
「また多くの死人が出るかもしれんな、鳥辺野や加茂の中洲に」
 黒衣の懐に両手を入れて、俯いたまま西行が言う。
「はい・・・」
「いい骨が見つかるかもしれぬ・・・」
 西行は地面を見詰めて呟きました。
 冗談と聞いてよいものかどうか、一体どこまで本気の言葉なのか、西住はいつものように判断に迷った。

 檜笠に錫杖(しゃくじょう)を持ち、勧進杓(しゃく)に、鉦鼓に、笈(おい)という定まった高野聖のいで立ちである。西行は高野に機縁を持つ人間だし、それにこの衣装がことのほか気に入っているようだったのでいいとしても、西住には多少抵抗があった。特にこの背中に背負う笈は、他所の聖は用いないもので、何となく気恥ずかしいものがあった。
 脇の下に抱えて持って行こうとすると、西行がそれをしっかり見咎めて西住をいじめる。
「京に着いた時のために、道々、納骨勧進の稽古をして行こう。いやいや、慌てずともこの寒さなら死人もすぐには骨にはならぬ。大丈夫、賀茂の死人はちゃんと待っていてくれる。さあ、西住、鉦鼓を精一杯叩き、笈を背負ってこの近辺の村々を走り回って来い。・・・唱導句は分かっておるな」
「はあ・・・」
 西住がとぼけると、西行はことさら大きな声で唱える。
「汝、極楽に往生せんと欲すれば、汝の骨、高野に住すべし」
 西住が稽古と称して村の辻で唱導句を唱えると、すぐ脇にいる西行から、声が小さい、鉦の響きが弱いと、ここぞとばかりの叱責を受ける。西住は恥ずかしそうに唱導句を口ずさむ半人前の高野聖として西行につき従っていった。
 この時の京における西行の納骨勧進は、西住は終生忘れることが出来ない。
 まず十二月一七日に西獄門にて信西の首、同二十七日に六条河原で信頼の斬首、明くる正月九日には東獄門にて義朝の首を逐一見て回った。じっと見据えて、その様子を聞書帳に書き込み、詠歌をし、その見たことを粉飾して辻勧進に使う。初めて辻勧進に立った頃の恥じらいはどこへやら、手慣れたもので、すでに初手から馮依状態だ。
 いつものように鳥辺野で拾ってきた髑髏を前に慟哭する。
「われは六位対馬守源義親が四男、陸奥判官為義が頭なり。いんじ保元元年武運つたなく敗走し、嫡男義朝を頼り自ら名乗り出でしが、あわれ、憎き義朝の保身に会い、斬首の憂き目、船岡山の露と消えし、為義が頭なり」
 いつどこでその唱導を考えつくのか、西住はただ横で鉦を叩きながら唖然とするばかりだった。延々と続く源氏の父と子の悲劇に衆人はみな涙し、喜捨の銭や穀物を勧進杓の中に差し入れてくる。
 しかし、この年の勧進で西住を最も驚かせたのは鳥羽院皇后・美福門院の納骨のことだった。美福門院は鳥羽院が亡くなられてから四年間、政務には口を挟まず鳥羽安楽寿院において念仏三昧の日々をおくっていたが、近衛天皇の国母であり、鳥羽法皇の寵愛を一身に受けて保元の大乱の因とまでなった大きな存在である。
 その納骨はやはり平治新政権の一大事だった。
 西行はもとを正せば徳大寺家の家人であり、美福門院とは敵対する待賢門院側に属する人間であった。しかしたった四年とはいえ、婚儀を結んだ蓮西が美福門院の血脈であったこと、またそれより何より、こと納骨に関してはそんなことはおかまいなく西行は猛烈に意欲を見せる聖だったので、勢い、この納骨勧進作善は苛烈なものになった。
 この意欲は何なのだろうと、西住はよく考えた。高野への忠誠や朝廷への名誉欲だけではどうも説明しきれないものがある。おかしな言い方だが、西住にはやはり、西行は根本的に骨への執着を持っていたとしか思えないのである。
 鳥羽法皇は賀茂川と桂川の合流地点、小椋池の北岸に広大な鳥羽水閣を造営した。これは極楽浄土の現世への出現を意図したわけだが、もう少しありていに言えば、自分の墓所を極楽浄土としようということ、つまり鳥羽水閣は広大な鳥羽法皇の墓であることを意味していた。
 とすれば、法皇の最愛の后であった美福門院は法皇と同じく鳥羽水閣安楽寿院に眠るのが自然というのは、衆目の一致するところだった。鳥羽水閣東殿の御塔(墓)と鳥羽法皇塔(墓)を管理する天台僧たちは早くも準備にとりかかっていた。
 この年、平清盛はまだ正三位参議だった。武家として初めて公卿の地位に上ったとはいえ、まだ正三位であり、位階としては低いものである。しかし保元・平治の戦乱を通して彼我の実力を突き付けられた貴族の中で、清盛に意見できるものはもはや一人もいなかった。すべての最高権限はこの一武者の手にあった。
 美福門院が亡くなった翌日の夕刻、篝火の炊かれ始めた六波羅の清盛第に高野聖西行は乗り込んだ。
 当然のごとく門番は制止するが、この高野聖は突如懐から髑髏を取り出し、門番に突き付る。
「この里近く白峰という所に崇徳新院のみささぎ有りと聞きて参上つかまつる。新院のみささぎはいづれなり。みささぎはいづれにあるや」
 それは西住の想像に反して静かな口調だつた。しかし目を据え、相手を無視した裏声は何かに取り憑かれたものであることはすぐに分かる。門番は驚き慌てて屋敷に飛び込み、異常を報告する。
 西住には篝火に映される西行の横顔しか見えなかったが、目をじっと閉じ、微かに震えているその姿は本当に崇徳新院の霊が乗り移っているようだった。いや、いまにして思えば、あれは本当に崇徳新院の霊が喋らせていたのかもしれない。いつも唱導勧進の折は、どこでその唱導句を覚えたのかとか、その群衆に動じない態度はどこで会得したのかと、西住は感心していたが、そうではなく、本当に平将門や小野小町や崇徳新院の霊を呼び寄せていたのかもしれない。陰陽師安倍泰親から直伝を受けた“反魂の秘術”はついに未完成に終わったが、口寄せの技術だけは体得したのかもしれない。だてに死者の骨を漁っていたのでなかったのかもしれないのだ。
 すぐに屈強の武者が何事かと屋敷から飛び出してきたが、髑髏をもって中庭に入り込み目を閉じてじりじり進む聖に、武者たちは恐れをなす。
「月は出でしかど、茂きがもとは影を漏らさねば、あやなき闇にうらぶれて、まさしく西行よ、西行よと呼ぶ声す。目を見開きて透かし見れば、そのさま異なる人の衰えたるがこなたに向かいて立つ」
 薄目を開けて、髑髏を篝火にかざしながらそろりそろり進み、西行は階の手前で立ち止まった。
「ここに来るは誰ぞと問えば、きえーい」
 周りをぬうっと見回して突如大声を出す。
「汝ら知らずや、われは紫宸清涼のみくらに大まつりごときこしめさせたまう崇徳新院なり。ぎえー。宿世の業知らしめんがために髑髏になりて洛中に現れ出でたり。きえーい。汝ら知らずや。近ごろの世の乱れはわがなす業なり。生きてありし日より魔道に志しを傾けて、平治の乱れをおこさしめ、死してなお、朝家に祟りをなす。われ崇徳、もはや往生は願わぬ。五部大乗経を血書すること三年。ここに得た功力を地獄・餓鬼・畜生の三悪道に投げ込み、その力で我は日本国の大魔縁になって遺恨を晴らしてくれよう。ぎえー。いままた憎き美福門院を洛南に眠らせると聞く。見よ、やがて天が下に大乱を生ぜしめんぞ。かならずや生ぜしめずやあらん。ぎえー」
 笈を背負った薄汚い高野聖と、髑髏の崇徳新院に、屈強の平家武者たちも立ち往生していた。
 あとで聞いた話だが、ただ一人平相国清盛だけが、廂の縁からこの様子、旧知西行の高野聖としての奮闘を苦笑しながら見ていたそうだ。
 とにかく永暦元年の冬、さきの皇后・美福門院様の遺骨は高野聖西行ら一行に守られて、九度山の険しい峠を越え、高野に入った。その時の西行の満足そうな顔は、いまだに西住の胸に深く刻まれている。

                *

 俊乗房重源(ちょうげん)は保安二年(一一二一)の生まれ、西住より九才、西行よりも三才年下だった。醍醐賢覚門下の最後の俊英と言われ、特に寺院の再興・修理という大勧進に手腕を発揮する山師のような僧侶だった。西行はまるで見入られたように、この男の勧進事業に手を貸していた。「なぜ、この男にそこまで」と、見ていて不思議なほどだった。
 京では保元・平治の大乱を経て、平氏全盛を迎えていた時期であった。治承元年(一一七七)の高野蓮花乗院の移建・造営の件、治承四年(一一八〇)の日前宮(ひのくまのみや)造営費用免除の件など、すべて実質的には西行の人脈と交渉によって成り立ったものだったが、名を上げたのは重源ばかりであった。
 同じ治承四年(一一八〇)の冬、平清盛様の五男、重衡(しげひら)が東大寺を焼き払うという大事件が起こった。翌、養和元年(一一八一)、この東大寺再建のための諸国大勧進の宣旨が後白河法皇より重源に下ったのである。
 勧進を業とする重源にとっても、これは一世一代の請け負いだった。
 重源はすぐさま高野の西行の所へやってきた。俵藤太秀郷以来、西行とは遠縁に当たる奥州藤原氏への勧進を哀願した。西行はその年すでに六十四才だったが、しばらく考えたあと要請に応じた。たぶん、最後のお勤めと感じたのだろう。いつになく張り詰めた顔で庵に帰ってきた。
 西住は問い詰めた。西行の勧進行脚の決心に対してこのように反対したことは以前には一度もなかった。
「西住、その方、なぜそのように反対する」
「西行、体をおいとい下さい。昨年来の跛はまたいつ発作が起こるやもしれません。この騷擾な世相の中、奥州平泉までの行脚など無謀でございます。もはや三十数年前、落飾された待賢門院様のために奥州勧進に出向かれた、あの頃のお体ではございません。どうかご自重下さい」
 高野は紀の国北部“たかの”と呼ばれる山上一帯の盆地に広がる霊場だが、付近一帯の山々から入り込む谷に沿って各僧が念仏堂を建立したため、その谷の名前を取って各集団の聖が呼ばれるようになっていた。西行は伝法院に根拠を置いていたのでその地の名前から千手院谷聖に属し、重源は新しく自分が開いた蓮花谷聖の開祖となっていた。
 その蓮花谷三昧院から伝法院へ帰る道々、西住は西行にまとわりつくようにして諌めた。
「西住」
 西行はふいに立ち止まって、西住の顔を困ったように見た。
「重源か?」
 西行の言葉の意味が分からず、西住が黙っていると、「重源のことでそのようにいらだっているのか」と重ねて聞いた。
 重源は西住と同じ醍醐理性院・賢覚西行条下の修行僧、つまり西住の弟弟子に当たる。早くから寺院の再興・再建に俊腕をふるっていたし、高野蓮花谷聖の創出によって高野聖の名を全国に広めたし、いままた東大寺大勧進という要職についた。同じ門下に育った者であるがゆえに、かえって嫉妬のような浅はかな感情が西住になかったと言えば嘘になる。
 内心西住は痛いところを突かれたという気がした。
「わたしは今度の勧進のあとは、高野へは戻らないつもりでいる」
 黙っている西住に西行は静かに続けた。
 煎じつめれば、西行の言う通り嫉妬であったかもしれない。
 しかしその奥州平泉への勧進には西住は随行して行かなかった。無遠慮な重源の無理難題に素直に従われる西行が理解できなかったのだ。
 西行の高野入山のきっかけとなった安倍泰親といい、四十年後の高野下山のきっかけとなった重源といい、考えてみれば西住は西行の心酔した人間に嫉妬し、つまらない中傷をしてきたとも言える。しかし出家の本当の意味が分からないのと同じく、四十年間も居続けた高野をあの六十才を過ぎた齢になってからなぜ急に下りる気になったのか、その意味も本当のところは分からないでいた。
 ただ、ごく最近、西住は醍醐寺第十八代座主・勝賢より少し話を聞いた。当時西住は気づかずにいたのだが、西行下山には明遍が大きくかかわっていたようだった。
 西行が高野下山を決心した養和元年(一一八一)頃、東大寺に詰めた重源のあとを受けて蓮花谷聖を統括したのは三十代半ばの若い明遍だった。明遍は平治の乱で非業の死をとげた藤原通憲信西の子息であり、勝賢の弟であるが、父と違って政治的野心はまったくもたず、仏道に深く帰依していた。
 当時、念仏往生を旨とする浄土門において、学問もあり道心もある「有智の道心者」として名前を上げていたのは、のちの浄土宗開祖法然房源空とこの明遍の二人だった。真言密教の聖地である高野に専修念仏を持ち込み、高野の教義に新風を吹き込んだのも明遍だった。念仏三昧を意味する蓮花三昧院という院名も、重源の弟子となっていた頃の明遍がつけたものだ。
「他のためには人ののぞみにしたがひて、顕密の法門を談ぜられけれども、自行には一向称名の外、他事をまじへず、長斎持戒にして草庵を出づることなし」と法然に言わせた通り、朝の勤行には自誓戒と舎利講をおこない、夕べには臨終の行儀としての迎講をおこなって、同志と一日六時の合唱念仏をしていた。
 当時、高野は学侶方(従来の教義を守る学識僧)・行人方(寺院の財と雑役担当)・聖方に分かれて内紛があったが、信西の子息であるという名声とその学識と道心により、明遍は入山直後より聖方の象徴となった。
 しかし、それだけなら西行下山の理由とはならない。西行というのは不思議な人で、歌の道以外では他人が人々の羨望を集めるということには頓着しないのだ。
 その頃も「明遍というのはそれほど見識が高いのか」と自ら興味半分で覗きに行くほどだった。明遍がもし重源ほど人に対して押しの強い人物であったなら、西行は高野を下りなかったかもしれない。もし重源のようであったなら、西行はかえって明遍につき従い、尊崇の情を表していたはずだ。 
 西行がいつ蓮花谷を訪ねても、明遍は自身が名づけた修懺堂という小さな念仏堂で勤行を行っていた。
「西行上人でございますか」
 明遍は西行の姿に気づいてそう言い、勤行を中断する。
 西行は静かにほほ笑む明遍の穏やかさに驚く。
「西行上人には大塔再興をはじめ日前宮造営賦役免除など、高野聖方隆盛のため一方ならぬお世話になっている由、聖方の一人として心よりお礼申し上げます」
 明遍は深々と頭を下げた。
「浄菩提心は一切法に於てすべて染着なし。即ち蓮花三昧と名づく。この三昧に住すれば、緒法の空相また不可得なり」
 何を思ったか、その時西行は大声を出して『大日経疏』の一説を唱える。「わたしもこれぐらいは知っている」という見栄だったのだろうか。あるいは相手を驚かそうとしたのだろうか。それともやはり西行に若い頃からよくある、あの単なる逆上だったのだろうか。
 しかし明遍は驚かなかった。自分の深く帰依する『大日経疏』の一説と分かってかえって深く頭を下げた。
「わたくしはその『大日経疏』に心酔し、高野に専修念仏を広めにきました」
 そう言って明遍は静かに西行を見詰める。
「もしよろしければ、西行上人の高野入山の目的をお教えいただきたく思います。歌の道において確かな名を確立された西行上人がこの雪深い高野を四十年間も住まいとされ、そのうえ勧進聖として幾多の成果を上げられてきたのは、深い道心以外に何か訳があるのでございましょうか」
 明遍の眼差しは真剣だった。
 西行はすっと立ち上がり「骨だ」と叫んだ。
「・・・」
 明遍は意味が分からず絶句した。
「目的は骨だ。・・・骨を探しにきた。最初はさすがにいい骨があって、なるほど高野だと思ったが、四十年も拾っていると、最近は屑ばかりだ。・・・参っている。少しもいい骨がない。ほんとに参っている」
 西行はそう言い放つと、念仏堂の小さな妻戸を押し明けて、雪の積もった蓮華谷へ出て行った。

 明遍はその後、蓮華谷に念仏集団をつくりあげた。その道心に根ざした若い聖たちの熱心な納骨勧進行脚によって高野は見事に中興をなした。「高野聖」という呼び名は明遍によって確立されたと言っても過言ではない。
 父信西の三十三回忌法要に、すでに高僧となっている兄弟たちから招かれたとき「世事を離れ、吏務に預からざる隠遁者を聖とは呼ぶ」と言ってついに下山しなかったという逸話も残っている。
 ほんとに微かなすれ違いのような西行と明遍の出会いだつたが、西行は四十年高野にいて、ついに「聖」となりえなかった自らを悟ったのかもしれない。何かにつけて京に思いの残る自らを恥じたのかもしれない。しかしそういう落胆は西行は決しておもてに表さないし、むしろそういう時の方が周りへの軋轢はきつくなる。
 西住が下山準備をしている西行に、今回の勧進に同行しないことを告げて暇乞いをし、そして初めて西行より平手打ちを食らったあと、西行は最後で最大の東大寺再建奥州勧進に向かった。
「何、西住か。西住は死んだ。惜しいことをした。小夜の中山で犬に食われて死んでしまった」
 奥州への道々、そう苦虫を噛みつぶしたように話していたと聞いたのは、しばらく経ってからのことだった。


                               (了)


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