フンボルトの母

目次

  フンボルトの母  

 夕方の鳥舎の掃除は何となくせつないところがある。園内に「遠き山に日は落ちて」が流れ、スピーカーから閉門のお知らせが続き、親子連れの来園者が慌ててオヤツをベビーカーの袋の中に片づけ、子供を叱りながら帰って行く。
 プールの水を落とし、ホースの水を全開にして糞を流し、長ブラシで床を擦り、またホースで流す。十五度前後で一定にしてある冷房舎だけど、汗が滲んでくる。
 六羽のキングペンギンはホースの水を出し始めると、ツツツと鳥舎の端に寄って、壁の方を見上げてクチバシを上げてじっとする。放っておくと十分でも二十分でもそのままにしている。ああやって壁を見ていて何が面白いんだろう。
 ツッパリにいちゃんのように黄色の眉毛がふんぞり返っているイワトビペンギン三羽も、客窓近くに置かれた縁石の所でお互い見つめ合ってじっとしている。
 いつもエサをくれている人が汗流して自分たちの小屋をきれいにしてくれているというのに、こいつらは知らん顔だ。ほんとにこいつらはゲンキンだ。朝と昼のエサやりのときはモゾモゾモゾと寄ってくるけど、掃除のときはまったく知らん顔をしている。頭にきて、たまにホースで水をかけてやると、そのときだけ首をこっち向けて「何?」という顔をする。でもすぐまた「壁見上げ」だ。壁見続けて何が面白いんだ、お前らは達磨大師かと一人ツッコみながら掃除する。
 不思議な縁でペンギン担当になった。
 わたしは紀伊半島の一番南の、かつてはクジラ漁で有名だった街の水産高校を卒業した。特に漁業に興味があったわけではないけど、わたしの地元の街にはこの高校しかないので、漁業が好きだろうと好きでなかろうと、ほとんどの地元中学生はここの高校に進学する。そこで魚のことを色々勉強して、でも女漁師なんかなりたくないから、水族館でも就職できたらいいなあって漠然と思うようになった。
 いま、須磨でも鳥羽でも大阪南港海遊館でも、最近の関西の水族館というのはどこもすごく近代化していて、小綺麗で、それはいいんだけど、逆にいうと就職の人気が凄く高なっている。どこの水族館も、募集といっても年に一人か二人の欠員補充しかやっていなし、とても水産高校出の女子なんか採用してくれません。
 仕方なく大阪のペット・トリマーの専門学校なんかに行き始めた。水産高校からペット・トリマーなら動物つながりかというようなよく分からない理由を考えて行ってたんだけど、あるとき市の広報誌で「新世界動物園・ペンギン舎増設に伴う飼育スタッフ募集」という記事を見た。いっぺん行ってみるかと軽い気持ちで面接に行ったら「水産高校なら魚の知識がある。女性飼育係も欲しかったところだ。今度の新設ペンギン舎にちょうどいいかもしれない」とか言われてそのまま長居することになった。ペンギンは魚じゃなくて鳥なんだけど。
 この動物園に就職してもう十二年、予定外に長い間ペンギンの世話をすることになったけど、でもペンギンというのはいまだに何でなんだろうと首を傾げることが多い。
 まず人間というのを全然警戒しない。ほんとにバカじゃないかと思うぐらい逃げない。たまに入園客から小石投げられたり、棒で突かれたりするようなことがあって、そのときはさすがにギェーンみたいな声出して逃げるんだけど、翌日にはまたヨタヨタ人間に寄っていく。そんなことだから、南氷洋に出掛けた捕鯨船団員が「帰りのお土産にしようかなあ」てなことで簡単に一網打尽にされ、絶滅の危機に瀕したりするのだ。
 あと、歩くのが下手だ。そんなこと当たり前だろうって言われるかもしれないけど、毎日見ている分だけ、余計これに呆れる。
 ペンギンは飛ぶことを捨てて泳ぐことを手に入れた鳥だから、歩くのは元々ペンギンの本業じゃないから、と言われるけど、だけど歩き出してもう二千万年とも三千万年とも言われているのだ。右足を前に出したら右手(右羽)を後ろ、左手(左羽)を前に出す、腰を使え、腰を。バランス的にそれが理にかなっているだろって、そんなこと三日も歩いたら分かりそうなものじゃないか。いつも両羽そろえて体につけたまま、右足、左足と出していくから、そりゃ倒れるわって思う。三千万年も何考えてきたんだと言いたくなる。
 それにその下手くそな歩き方をこっちが溜息つきながら見ていると、必ずフッと顔を上げる。
「だってオレたち鳥だから。鳥って歩かないでしょ、基本的に」
 そんなことを言う。もちろん声には出さないけど、十二年も付き合っていれば分かる。やつらは確かにそう言っている。こっちを見上げたときのあの顔がどうにもしゃくに障る。
 歩くのが苦手だったらオットセイやアザラシなんかの海獣目のようにいつも腹這いでモソモゾすればいいと思うんだけど、「歩く、オレ歩いちゃう」と言いながら立ち上がる。「歩けないだろ、お前」と頭小突きたくなるけど、ペンギンは変に余裕かましてあちこちよそ見したりしながら歩き出す。あれが分からない。
 冷房舎の清掃を終え、照明をスモールに落として外に出ると、夏の西日をまともに受けて、いっぺんに額に汗が浮かぶ。ゾウやキリンの「アフリカ・サバンナ舎」の樹木の向こうに通天閣が見えるけど、塔の途中の鉄骨からカゲロウが立ち上っている。
 もう周りには誰も客がいなくなった。人気のカバ舎の池の周りにも、爬虫類館の出入り口にももう人影は見えなくなっている。
 キングペンギンの冷房舎の掃除を終えると、今度は裏のフンボルトペンギン舎に回る。
 うちのペンギン舎は東側がキングペンギンのための冷房舎で、ここはガラス張りになっていて、客の通路のうしろは日光を遮るためのコンクリート塀もあるし、全体として室内展示のようになっているけど、背中合わせの西側に回ると土の部分と池の部分があって、ちょうどアシカ舎のようにオリだけで囲まれただけの屋外展示になっている。
 わたしもここに来て初めて知ったのだけど、この屋外鳥舎にいるフンボルトペンギンというのは南米の亜熱帯から温帯の部分の海岸線に住んでいて、南極やそれに近い亜寒帯の寒い気候では逆に住めないらしい。氷山よりもジャングルが好きという変なペンギンだ。
 ジャングル好きのフンボルトのために土の部分には数十本のヒイラギを植え、その木の下にコンクリート製の小さな小屋をいくつも作っている。雪の降るような寒い時期になると、この小屋の中に毛布を入れてペンギンに暖を取らせる。フンボルトは暖房の必要なペンギンだ。
 フンボルトペンギンというのは体長四十センチぐらい、この小さくてチョコチョコしたのがうちには十三羽いる。南極などと違って温帯に住むペンギンだから人間の目によく触れる。それでいて人間を恐れないのは南極ペンギンと同じだから、十八種いるとか言われているペンギンの中でも乱獲の被害を一番受けてきて、国際的にも絶滅危惧種に指定されている。その貴重なフンボルトが十三羽もいて、うちのペンギン舎自体は最近のシャレた水族館などと比べると小さなものだけど、世界的にも結構貴重な財産といえるらしい。
 でもこの貴重なフンボルトがこれまた不可解だ。
 キングペンギンと違ってエサの解凍アジを手渡しでは食べない。小さいくせにとにかくこっちのペースになじまない。色々試行錯誤した結果、朝の給餌の時間にプールの中に一日分のアジを投げ込んでおくようにした。こうしておくと、好きなときに飛び込んで食べてきっちり一日分のアジがなくなる。アライグマのエサを洗う行為と同じで、水に潜って捕食するという儀式がフンボルトには欠かせないということなのだろう。
 これが分かってからフンボルトへの給餌は楽になったけど、いまだにイライラするところがある。特にこの夕方の掃除の時間はこいつらの食事時間にあたっていて、三々五々飛び込んで潜り、底に沈んだアジを取って食べるのだけど、フンボルトの連中はこの飛び込みに躊躇する。これが分からん。
「ええっと、腹減ったし、そろそろゴハンの時間だなあ、お、あそこにアジがいるな」
 そんな感じでよたよたとプールの縁に寄ってくる。フンボルト舎のプールは一メートルほどの深さしかないから水底のアジはよく見える。でもここからプール縁で躊躇するんだ。「ええっと、どうしようかなあ、ここちょっと足場悪いなあ、もうちよっと横に寄ってみようか、何か飛び込みやりにくいなあ、どうしようかなあ」
 さっさと飛び込まんかいと後ろから足蹴にしてやりたくなる。だいたい海でこそ実力発揮するのがペンギンという生き物じゃないか。事実水に入ったあとは両羽(フリッパー)を体の後ろにたたみ、魚雷のように一直線にアジのある池底まで進んで、これはさすがだと思うけど、そんなに潜りがうまいのなら飛び込み前に躊躇するんじゃねえと言いたい。
 それに飛び込みもけっこう腹ボテだ。体型からかもしれないけど、バシャと言う感じで腹を叩きつけて入る。「どうしようかなあ、どうしようかなあ、まあいいや、頑張って行こう、エイヤ」と言って飛び込んだあと、バシャ、ドテ、ハラ痛えという感じになって、それからようやく潜水名人になる。
 ほんとに不可解な生き物だ。
 さっきの長タワシを竹製のクマデに持ち替えて、フンボルトたちの糞を掻き集める。いまの時期、西日を受けるこの屋外舎の掃除は一分もすれば作業着が汗ばんでくる。
 うす緑色の作業着を着て、髪はショートカットだし、わたしは客のいる昼間に掃除していても女だと分かる人はめったにいない。いつもペンギンのエサの解凍アジを持ってウロウロしているから魚臭いし、もちろん化粧はしないし、特にこの夕暮れ時は「これでいいのかなあ」と考えながら作業したりする。
 正面に見える通天閣に灯りが入った。頂上の二段に別れた帯灯が白く輝いている。これは上の帯が明日の午前中、下の帯が午後の天気予報を表すことになっている。両方とも白色ということは明日もまたギンギラの晴れのようだ。うんざりしてくる。

                    *

 数年前から動物園中央売店の中田さんというおばちゃんに誘われて、仕事のあと、新世界の大衆演劇場で芝居を見るようになった。最初は半信半疑だったんだけど、これがいい。いまのわたしの最大の趣味だ。
 入場料わずか千五百円、映画観るより安い。ガラガラの客席で煎餅ポリポリやりながらギンギラ化粧の女形役者たちのあて振りを観ていると何だかスカッとする。ペンギンのフラストレーションを忘れられる。今では中田のおばちゃんをしのぐ新世界動物園きっての大衆演劇ファンだ。
 一番のお気に入りは一年に一度の割で九州竹田からやってくるカラタチ一座という劇団で、ここ三年ほど色んな劇団を見たけど、ここの劇団の役者がやっぱり一番品がある。今日はそのカラタチ一座「八月新世界公演」の初日だ。ぐずぐずしている訳にはいかない。ウロウロしているフンボルトたちを竹ボウキで追い立てる。
 大衆演劇は午後五時半というとんでもなく早い時間に幕が開き、芝居、口上・グッズ販売、祝儀受け容れのための歌謡ショウと延々三時間も舞台が続く。きっと暇なおばちゃん連中が相手だから早めから客を集めようということなんだろうけど、この開演時間はきつい。でも初日から遅れる訳にはいかない。
「とっとと歩かんか」とまるで奴隷商人のように怖い顔でフンボルトたちを小屋の中に押し込み、飼育係詰め所に戻って大急ぎでシュワーを浴びる。タイムカードを押すと、洗い髪のまま、昨日から買っていた「祝新世界公演」という札を付けたガーベラの鉢植えをまるで出前持ちのように抱えて新世界朝日劇場まで突っ走る。
 受付に鉢植えをほとんど投げ捨てて渡し、ふーふー言って席に着く。ようやく定刻前に入ることができた。案の定、中はガラガラ、客は十人もいない。旧式クーラーのゴーという音が低周波のように響いている。
 カラタチ一座は長谷川伸という人の股旅ものばかりを専門にやる。「一本刀土俵入り」「鯉名の銀平」「雪の渡り鳥」「沓掛時次郎」「関の弥太っぺ」、でもわたしが一番好きなのは何と言っても「瞼の母」だなあ。
「厭だ、厭だ、おいら、おっかさんに会いたくなったら、上の瞼と下の瞼を合わせてじっと目をつぶろうよ、それでいいんだ、それでおいら、いつでもおっかさんに会えるんだ」
 ああ、あれ聞くといつでも何度でもジワッと涙が溢れてくる。
「ゼニかえ?」
「は?」
「お前さん、ゼニが欲しくてそんなことわたしに言いよってくるんだね」
 ここも何だか知らないけど、グッとくる。離れられない。「おっかさん」と言いよってくる生き別れの息子に対して「ゼニかえ?」と問い返すあの強突張りのお浜という女、どうも胸にぐさっとくる。
 実はこれ、わたし、色んなところでこっそり使ってみている。
「お客さん、続いてご乗車下さい」と言ってくるホームの駅員に対して「ゼニかえ?」と言ってみる。
 居酒屋で「ラスト・オーダーになります」と言ってくる店員に対しても「ゼニかえ?」と言ってみる。怪訝な顔をする店員に下向いてブツブツと「あんたゼニが欲しくて、わたしにそんなこと言ってくるんだ」と呟いてみる。店員は訳が分からずポカンとしてるけど、この瞬間が何だか気持ちいい。
 タクシーに乗って「一万円かあ、お客さん、細かいのない?」と運転手が言ってきたときも「ゼニかえ?運転手さん」と言ってみる。それから「そりゃゼニやわなあ」と一人でツッコむ。運転手は何か分からずきょとんとしている。長谷川伸、勉強して来いっちゅうんじゃ。
 でもカラタチ一座に限らず、大衆演劇というのはほんとに客が入らない。座席が空いているというのは観る方からすれば楽なんだけど、何しろ一人千五百円の低料金だ、経営大丈夫なのかなあとちょっと心配になる。
 カラタチ一座のひと月公演の初め一週間は「瞼の母」と出し物が決まってるんだけど、今日のもいい芝居だった。去年の「瞼の母」より凄みが出ていた。
 大音量の歌謡ショーのころになるとさすがに少し客席が埋まってきていて、その客席のおばちゃんたちが女装役者の襟元にどんどん一万円札を押し込む。わたしにはそんなこと出来ないから、座長・舘雪之丞が客席脇を通ったとき、千円札一枚の祝儀袋をそっと襟元に入れる。
 ごめんなさい、少なくて。でもこの一ヶ月、二日に一回は見に来るからね。ちゃんとそれだけの分、前売り券も買ってるからね。
 芝居がはねると、出口の前に座員が全員出て来て客の見送りをする。カラタチ一座のいつもの“出送り”だ。「お浜」をやっていた座長や、座長の息子の新之介や、今日初舞台というお浜の娘「お登世」をやっていた座長の甥、十六歳の舘松造やらが、みんな和服女装のまま、客と握手して挨拶する。
 わたしを見て座長が「おお」と言ってくれる。カラタチ一座「新世界公演」を見始めて今年で三年目、もうわたしの顔もすっかり憶えてもらっている。嬉しい。座長に肩抱かれると舞台衣装の着物のちょっとカビのついたような匂いや、甘いドーランの匂いがまぜこぜになって感じられる。いつもペンギンのエサの冷凍アジ握っているから、わたし魚臭いんじゃないかと心配になるけど、座長はそんなこと気にせず肩叩いてくれて「ありがとうね」って言ってくれる。何だかジーンとくる。
 わたしのデシカメを新人の松造くんが持って、座長とのツーショットを撮ってくれた。明日からまた一生懸命通おう。鳥舎のフンボルトたちは「何ごと?」と面食らうだろうけど、いいか、今月ひと月は“追い込み”キツいからな。何せ五時半開演だからな。ボヤボヤしてるフンボルトは後ろから跳び蹴り食らわすぞ。

                  *

 昼過ぎのことだった。ペンギン舎のもう一人の担当、橋本先輩がキングペンギンに給餌しているわたしのところに来て肩を叩く。
「フンボルトの前に変なヤツ来てるぞ」
 先輩がボソッと耳打ちする。
 橋本先輩というのは、このペンギン舎が出来る前は十五年間爬虫類館にいた男の人で、それが理由という訳ではないんだろうけど、どうもヌルッとした感じがする。仕事は真面目でコツコツやるんだけど、寡黙でめったに表情を変えない。それに変な話だけど、よく舌を出す。たぶん唇の乾きを癒す舌なめずりだと思うけど、舌が唇に向かうというより前方に出てピョロピョロしている。普通の人より舌が長いんだ、たぶん。でもその舌を出しているときも、橋本先輩は笑うでもなく、照れるでもなく、まったく表情を変えず鳥舎の掃除したりしながらピョロピョロやる。ほんとに爬虫類のようだ。個人的には密かに「ヘビ本先輩」と呼んでいる。
 エサの冷凍アジのバケツをドアの後ろに置いて、先輩と一緒にフンボルト舎の方に回る。エサをもらえると思って寄ってきていたキングペンギンが後ろから押されてつんのめっている。ちょっと待っとけ、一大事があった。
「ご免こうむりますでござんす」
「あれだ」と先輩がフンボルト舎スタッフ出入り口の陰からオリの向こうを指差す。「何かブツブツ言うてるやろ?」
「ご免こうむりますでござんす」
 四十過ぎぐらいの男が腰を少し曲げ、腿のあたりに両こぶしを置いて、オリ越しにフンボルト・ペンギンに向かって話しかけている。
 うちの動物園の周りは美術館や博物館もある広い公園になっているんだけど、日雇い労働者のための斡旋センターが近くにあることもあって、仕事にあぶれたホームレスたちの溜まり場にもなっている。動物園入園料が五百円と安いことも理由だろうけど、カップ酒片手に日中の時間つぶしにやってくるホームレスおじさんも結構いる。クマやライオンに向かって「勝負したろかい」と唸る者や、ラクダやサイに向かって「わしが何か悪いことしたんかい」と泣き出す者とか、意味不明の人間もよく出没する。
 でも男は薄汚れた感じのグレーのシャツを着ているが、頭は短髪にしてヒゲも剃っているし、ホームレス定番のカップ酒も持っていない。
 脇を通る家族連れや男女カップルがいぶかしそうに見ている。男の子供だろうか、五歳ぐらいの男の子が喚き続ける男の二メートルぐらい横で、やはりオリを握ってじっとフンボルトを見ている。
 先輩と二人、竹製クマデを持ち、何気ないふりをして男の方に近づいていく。急激に職務意識が芽生えてきた。フンボルトに危害がかからないように気をつけないといけない。
「おかみさん、当たって砕ける心持ちで、失礼なことをお尋ねしとうござんす。おかみさんはもしや、あっしぐらいの年頃の男の子を持った憶えはござんせんか」
 聞き耳を立てた先輩が「こいつぐらいの年の子供を持ったら母親は何歳や」とブツブツ言う。
「ぶしつけとは重々存じながら、それがうけたまわりてえのでござんす。あっ、おかみさんは憶えがあるんだ、顔に出たそのおどろきが何よりの証拠じゃござんせんか」
 男はフンボルト十三羽の中でも一番背の高い(高いといっても身長五十センチほどだけど)チヨコと我々が呼んでいるペンギンに手を差し出して言う。チヨコはうちのフンボルトの中で一番年長のメスだけど、何かといえば首を傾げ目をパチクリさせて涙を流しそうになる。「お前は島倉千代子か」とわたしがいつもツッコむので、ヘビ本先輩とわたしの間ではチヨコで通っている。
「おかしいやろ?」と先輩はわたしに耳打ちする。でもわたしはびっくりしていた。ほとんど感動していた。「番場の忠太郎だ」と思わず呟きが出る。
「え?」と今度は先輩が驚いてわたしの方を見る。
「ところは江州(ごうしゅう)阪田の郡(こおり)、醒が井(さめがい)から南へ一里、磨針(すりはり)峠の山の宿場で番場というところがござんす。そこのおきなが屋忠兵衛という、六代つづいた旅籠(はたご)屋をご存知でござんすか」
 男の調子は段々上がってくるが、チヨコはじめフンボルト・ペンギンたちは知らん顔で横を向いている。
 思い出した。この親子、カラタチ一座の公演に来ていた。父親と子供の組み合わせは珍しいけど、この子供が隅の方で菓子を食べながら静かに芝居を観ているものだから、あまり目立たずにいた。芝居がはねたあとも父親は座員みんなと握手して帰っていたが、子供はただ眠そうに目を擦って突っ立っているだけで、その姿だけは印象に残っている。
 実は去年のカラタチ一座公演のときもこの父子を見かけた記憶がある。この男、確か子供に弁当食べさせながら観ていた。
「おっかさん、忠太郎でござんす。えっ、ねえ?ねえのでござんすか。・・・・・・五つのときに縁が切れて二十余年、その間音信不通で互いに生き死にさえ知らずにいた仲だから、そんな子はねえという気になっているのでござんすか。縁は切れても血はつながる。切って切れねえ親子の間は、眼に見えねえが結びついて、互いの一生を離れやしねえ、あっしは江州番場宿のおきなが屋のせがれ、忠太郎でござんす、おっかさん」
 フンボルトのチヨコは急に大きくなった男の声に驚き、ヒョイと横に飛び退く。
「五つといえばちったあ物も分かろうに、生みの母の面影を思い出そうと気ばかりはやるが、顔にとんと憶えがねえ。何て馬鹿な生まれつきだと、自分を悔やんで長い間、雲をつかむと同じように、手がかりなしで探している中に、おっかさん、あっしも三十を越えましてござんす。・・・・・・違う違う、違います。おっかさん、そんな顔であっしを見るのはなしにしてくだせえ、銭金づくで来たのじゃござんせん。シガねえ姿はしていても、忠太郎は不自由はしてねえのでござんす」
 男は不意に自分の脇においていた布袋を開け、そこからザルに入った小魚の山を取り出し、覆っているラップをはがす。
「顔も知らねえ母親に、縁があってめぐりあい、ゆたかに暮らしていればいいが、もしひょっとして苦しんででもいるのだったらと、手土産代わりと心がけ、何があっても手を付けず、この小魚たちを長えこと抱いてぬくめて来たのでござんす」
 あんな小魚の山、抱いてぬくめて持ってきたのか。そんなことしたらすぐに腐って困る思うけど、男はお構いなしに金網に向けて小魚の山を差し出す。
「見れば立派な大世帯、使っている人の数もおびただしい。料理茶屋の女主人におっかさんはなっているのかと、さっきからあっしは安心していたが、金が溜まっているだけに、何かにつけて用心深く、現在の子をつかまえても疑ってみる気になりてえのか、おっかさん、そりゃあ怨みだ、あっしは怨みますよ」
 いままで全然見向きもしなかったフンボルトのチヨコがチラッとその小魚の方を見る。
「おかみさん、素直に受け取る気にはならねえみたいだから、この肌身離さず温めてきたこの黄金の小魚たちはここへ置いておかあ。え、おかみさん、何ですって?いま、あっしのヤクザ姿に嫌気が差したと言いんなすったんですね、・・・・・・おかみさん、そのお指図ばかりは辞退させてもらいますぜ。親に離れた小僧っ子がグレたを叱るは少し無理だ。堅気になるのは遅まきでござんす」
「ああ、番場の忠太郎だ、ここも好きなところだ」って、わたしクマデを顎の下にしたまま放心して聞いていた。
 ヘビ本先輩はわたしのその様子を不審がって、オリの前の男と交互に見ながら首をひねる。
「長え間のお邪魔でござんした。それじゃ、おかみさん、ご機嫌よう。二度と忠太郎は参りゃしません。・・・・・・グチを言うじゃねえけれど、夫婦は二世、親子は一世と、誰が言い出したか、身に染みらあ。自分ばかりが勝手次第に、ああかこうかと夢をかいて、母や妹を恋しがっても、そっちとこっちは立つ瀬がべつっこ、考えてみりゃ俺も馬鹿よ、幼いときに別れた生みの母は、こう瞼の上下ぴったり合わせ、思い出しゃあ絵で描くように見えてたものをわざわざ骨を折って消してしまった。おかみさん、ごめんなさんせ」
 男はそう言ってから、横の子供に向かって「帰ろう、こんなおっかさんにもう用はねえ」と告げる。「こんなおっかさん」と言われたフンボルトのチヨコも災難だ。
 男は差し出した小魚のザルもさっさとカバンにしまう。
「おい、しまうんかい!」というわたしのツッコみはもちろん届かず、男はその小魚を入れた布袋を、まるで忠太郎が道中ガッパを肩に振り掛けるように上に回して去っていく。
 オリの前の「ペンギンのお話」という自動解説機に三十円入れてもらい、ヘッドホンを耳にして喜んでいた子供も、父親の合図で不承不承そのヘッドホンを外して付いていく。
 フンボルトのチヨコは少し小魚が名残惜しそうに見送り、わたしと先輩はクマデ持ったまま言葉をなくす。
「まあ、あれだ」と先輩がそのへんを所在なく掃きながら言う。「うちの動物園の繁殖センターなんかではそういうことはないけど、ペンギンというのは本来群生動物で、卵からかえったわが子を見失うこともよくあるらしいからな」
「はあ」
 わたしも訳もなくそのへんを掃く。
「大コロニーを作るペンギンの母親と子は互いの鳴き声でわが子・わが親を確認するらしいんだけど、キングでもアデリーでもフンボルトでも南極やパタゴニア海岸やフォークランドの繁殖地では何万羽もの大コロニーを作るから、子供が親からはぐれることはよくあるらしい」
「はあ・・・・・・」
「おっかさん?」
 ヘビ本先輩が遠くの方を見て、不意に感極まった声を出す。
「うん、何?」
「おっかさんでしょ?ぼくのおっかさんでしょ?」
 ヘビ本先輩が二人一役で声音を変えて、セリフを言い出した。
「何言うてんの、この子?」
「そんなこと言ってあなた、ぼくのおっかさんでしょ?」
「エサかえ?」
「え?」
「エサのセグロイワシが欲しくてそんなこと言ってるんだろ?」
「え?」
「この口かい、そんな小芝居を憶えた口は? ええ?」
「痛いよお、おっかさん、口ひねっちゃ」
「まだ言うか、この生意気な口なんか、えーい、こうしてやる」
 ヘビ本先輩は母ペンギンと子ペンギンの声色を使い、自分の口を自分の指でひねり、しかもその間も間隙をぬって長い舌をペロペロ出さないといけないし、何だか訳の分からない身悶えをしている。
「番場の忠太郎」と爬虫類飼育係、疲れる鳥舎だ。

                    *

 カラタチ一座今年三回目の観劇は売店の中田のおばちゃんと一緒に行った。いつもと同じように座長や新之介と抱擁を交わし、いい気分でおばちゃんと帰る。
 通天閣から地下鉄動物園前に向かう道は通称「串カツ通り」と呼ばれ、最近は新規出店も多く、串カツ屋以外店がないぐらいの賑わいになっている。出来上がりが早いし、安いし、ビールや酒には持ってこい、最近は観光ガイドにも取り上げられるようになって、「るるぶ」持った遠来のOLたちですら労務者の街を恐れず、串カツ目当てにやってくるようになっている。
 何度か来た「大盛屋」という店に中田のおばちゃんと一緒に入る。ジャンパーの前をはだけたおっさんや、歯の抜けたじいさんがコップ酒をなめながらこっちを見る。でも平気だ。わたしたちは番場の忠太郎だからだ。
「とりあえずビールね」と中田のおばちゃんが言い、「ええっとねえ、串カツとウインナとイカとアスパラと玉ネギと、あとドテ焼き、全部二つずつね」とメニューを見ながらわたしが追加する。もう慣れたものだ。
 おっさんたちの皿の上には串カツが一本乗り、その手前に百円玉が何枚か置かれている。たぶん串カツ一本でコップ酒三杯ほど飲む魂胆に違いない。
 わたしたちは豪華だ。昼間ちゃんと仕事しているからだ。
「すいません、ビールください。あと串カツ二本とシシトウもらえますか」
 カウンターの向こうから、こういう所では聞き慣れない丁寧な注文の声が聞こえる。
「それとタマゴ」
 そう言いながら子供が丸椅子から伸び上がるようにしてカウンターの中のネタを見る。
 あ、この前の子供だ。
 店主の陰に隠れてよく見えなかったが、体をひねって見てみると、丁寧注文の男は、やっぱりあの男だ、フンボルトの忠太郎だ。この前とはうってかわって隅の方でこそこそしている。テーブルの前に百円玉三枚置いてチビチビ飲んでいる歯の抜けたじいさんより、よっぽどオドオドしている。
 中田のおばちゃんにそのことを耳打ちすると、おばちゃん串カツぐいぐい頬張りながら「ほお、ほお」と相づちを打って男の方を無遠慮に見る。
「あの、ビールもう一本もらえますか?」
 男は中田のおばちゃんの強烈な視線には気づかず、店主に向かってこっそり言う。
「あとねえ、それ」と子供がまたカウンターに伸び上がって品皿の一つを指差す。「トリ肉か?」と店主に聞かれて「うん」と大きくうなずく。
「あ、ペンギンのおばちゃんや」
 子供がわたしに気づいて、小さく指差して父親に知らせる。あのクソガキ、“おばちゃん”じゃねえ。
 父親はわたしの方をチラッと見たあと、すぐに自分の皿の串カツの方に視線を戻す。子供にも細かく首を振って「見るな」という指示を与える。
 おい、おっさん、それは子供を犯罪者から遠ざけるときにする仕草だろう。わたしは子供さらいか。頭にきた。
 間にいたグループが帰ると同時に、中田のおばちゃん(このおばちゃんはもちろんおばちゃんでいい)と二人、ビール瓶と取り皿を持って男の方に近づいていく。
 男は「あ」と声にならない声を発する。
「今日はずいぶん大人しいんじゃないですか」
 男に向けて精一杯の皮肉を言う。
「ペンギンのねえちゃんか」
 男はちらっとこちらを見たあと、悪いことでもしたように俯いてボソッと言う。
「言葉使いも丁寧だし」とわたしは皮肉を続ける。
「こういうところに来ても、オレはちゃんと丁寧語を使う。それが生来の育ちのよさというものだ」
 男は小さい声でそう言い、ビールを一口飲んだあと急に首を振る。
「いや、でもほんとはそうじゃないかもしれない。ほんとはどうも横柄な口をきくと、厄災がかかるかもしれないと思うからだ。そんなんだったら厄災かかりそうな新世界の一杯飲み屋なんか来なきゃいいじゃないかと思うかもしれない。確かにそうだ。つまりオレは修行好きの雲水だ。わたしに一層の苦難辛苦をお与えくださいだ」
 男は早口にブツブツ言って勝手に頭を抱える。何を言っているか分からん。やっぱり気持ち悪いおっさんだ。近づかなきゃよかったかもしれない。
「番場の忠太郎・・・・・・」
 それでも気になっていたこれだけは聞いてみないといけない。
「え?」
「番場の忠太郎、好きなの?」
「ヤクザ渡世の古沼へ足もすねまで突っ込んで、洗ったってもう落ちっこねえ旅人グセがついちまって」
 男はわたしの問いかけがきっかけになったように、小皿の串カツの串をいじくりながらボソボソ言い始める。
「何のいまさら堅気になれよう。よし、堅気で辛抱したとて、喜んでくれる人でもあることか、裸一貫、たった一人じゃござせんか。ハハハハ、ままよ、身の置き所は六十余州、どこといって決まりのねえ空の下を飛んで歩く旅にんに逆戻りするだけ、また長え股旅草鞋を履こうよ」
 不覚にも途中からわたしも一緒にせりふをハモッてしまった。
「この氷屋さん、知ってんの?」
 顔なじみの店の奥さんがわたしたちに聞く。
「氷屋さん?このおじさん、氷屋なんですか?」
 わたしは奥さんと男を交互に見る。男はチラッと顔を上げて様子を窺うが、その気まずさを打ち消すようにボソボソと“忠太郎ぜりふ”を続けている。
「住之江の方の氷屋さんでね、おたくの動物園にも営業に行ったって言ってたよ」
「え?氷の営業?」
 動物園というのは氷とは縁の深いところで、特に夏場は解凍エサの保存や動物の飲み水にも使うし、シロクマやアザラシや、もちろんペンギンにも氷塊を与えたりする。これは極地系動物には遊びと体温引き下げという二つの効果をもたらし、とてもいいリフレッシュになっている。
「なんか、ペンギン舎に氷の噴霧器ができるんだって?それの営業に何度も行ったらしいよ」
 うちのペンギン舎ももう築後十二年になるので、最近改装計画が持ち上がっている。氷霧自動降下装置もその改装計画の一つなんだけど、でもそれは早くても来年のことだと聞いているし、第一そんなことどこで聞きつけたのだろう。
「ぼく、お母さんは?」
 父親の“忠太郎”にはお構いなく伸び上がり「串カツもう一つちょうだい」と言っている子供に、中田のおばちゃんが聞く。
「男の人と手つないでどっか行った」
 自分の取り皿のタマゴの揚げ物を頬張り、そのへんにボロボロ黄身をこぼしながら、子供は素早く答える。
 中田のおばちゃんはじめ、全員が瞬時凍り付く。男の“忠太郎”も急にストップする。聞いてはいけないことを聞いてしまった。
「焼酎ロック、きっついやつね」とわたしが場をつくろうように注文する。
 わたしはこれでも酒が強い。特に夏場は焼酎ロックが好きだ。ここ「大盛屋」の焼酎ロックは、ちゃんと面取りした丸氷を使う。串カツ屋なのに大したものだと、いつも感心する。
「あんた、いまそのグラスの中のロックの氷がいいって言ったよな」
 わたしが「いいなあ、この氷」と呟きながら一口飲むと、男が言ってきた。さっきまでのオドオドした口調からみると、かなりぞんざいな口の利き方になっている。ビールが回ってきたんだ、きっと。
「日本の製氷業っていうのは大正時代に製氷技法を獲得してから、ずっとそれに苦労してきた。堅くて溶けにくい氷を作るために、どうやって水の中の不純物と空気を抜くかってことにな。でも日本のほんとの氷はそうじゃなかった。氷室っていって山間部の土中に穴を掘り、ワラを束ねて屋根を作り、その中で真冬に取り出した氷を約半年保存して夏に使っていた。半年の間には土の中の微生物が侵入するし、ワラは発酵して氷に有機物を付着させる。それをかえって有益なものとして利用していたんだ、日本人は」
 男は一気に話す。
「あんた、流氷って知ってるよな」
「流氷って、あの網走の?」
「あの網走の流氷もいい例だ。シベリア黒竜江は膨大な量の栄養水をオホーツク海に注ぐ。でも世界一凄いのはパタゴニアの流氷だ。世界中であれにかなう氷はない」
 男はカウンターに両こぶしを着いて上体を反らす。もうわたしたちがこの店に入ってきた頃のオドオドした様子はかけらも見られない。酒の力は恐ろしい。
「南米パタゴニアは南に南極から突き出たグレイアム半島、西にイースト、ウエスト二つのフォークランド大島、西にドレーク海流によって隔絶されたマゼラン海峡とグランデ湾、そして北には豊潤な栄養素を注ぐ大河ラプラタ川がある。その栄養素あふれるラプラタの水が外洋に逃げにくく、海水の表面にとどまって凍っていく。そして南極からの氷の大群が世界最大のカタバ風によって打ち寄せ、このラプラタの水とあいまって世界一のコクを持つパタゴニア氷を作り出す。そう、あんたがが今扱っているフンボルトペンギンが育まれるあのフォークランド・コロニーの流氷だ」
 ヒゲが濃いのだろう、頬からあごにかけて黒ずんだように見える顔で、背筋を伸ばして蕩々としゃべる。一度しゃべり出したら止まらない性格のようだ。
「ただこの流氷は塩分や不純物を含んでいるから食用には使えない。凝結は緩いから冷却用にも使えない。でもパタゴニア氷にはケイソウなんかの植物性プランクトン、ミジンコ、オキアミ、クリオネなんかの動物性プランクトンが多く含まれていて、それを食べるセグロイワシなどの魚やイカなどの甲殻類、さらにそれを食べるアザラシやオオワシ、さらにフォークランド・コロニーをふるさととするフンボルトペンギンやマゼランペンギンの大群生、それら全体がとても豊かな食性を作っている。オレはこの“食性の氷”を作りたかった。“発酵する氷”を作りたかった。住之江の倉庫でひっそり作ってきて、屋号も亡くなったおやじの代の住之江製氷から『パタゴニア・アイス』に変えた。でもダメだった。スナックや飲み屋じゃ売れないし、カキ氷や甲子園のカチ割り氷にもならない、凝結も緩いから魚市場の冷却用としても使えない。呆れた嫁はこの健太が生まれたあと、出入りのトラック運転手と出来て帰って来ない。もうそろそろ店じまいしかないと思ってる」
 男はそこまで言って急に嗚咽して俯く。
 また急に店全体が湿っぽくなる。健太と呼ばれる子供は隅の長いすの上でうたた寝し始めて、店の奥さんが気をきかして割烹着をかけてやっている。
「わたしも男が出て行った」
 焼酎ロック飲み干して、わたしが言う。
「え?」
「わたしも三年一緒に暮らしてた男が出て行った、去年。お前の体はアジの匂いがするって捨てぜりふ吐いて。わたしはもう十二年ペンギンに解凍アジやってるんだよ、アジの匂いなんて、そんなもん十二年前から知ってただろうがって追いかけて行って喚いたんだけど、もう男はどこか行ったあとだった」
 言ったあと、わたしはフウと溜息をつく。
「何のいまさら堅気になれよう」とヒゲ黒の氷屋おじさんが呟く。わたしだって番場の忠太郎なら自信がある。一緒になって続ける。
「よし、堅気で辛抱したとて、喜んでくれる人でもあることか、裸一貫、たった一人じゃござせんか。ハハハハ、ままよ、身の置き所は六十余州、どこといって決まりのねえ空の下を飛んで歩く旅にんに逆戻りするだけ、また長え股旅草鞋を履こうよ」
 おじさんは苦笑したあと、「あんたとこ行ってみたけど、だめだった」とボソリと言う。
「は?」
「新世界動物園のペンギン舎新施設、氷霧降下施設だ、あれの氷にうちのパタゴニア氷使ってくれないかって、資材搬入課に掛け合いに行ったけど、ダメだった、ペンギンならパタゴニアじゃないですかって何度も言ったんだけど、ダメだった」
 男はそう言いながら、ついにカウンターに突っ伏してしまった。
「これでも元自衛隊員だっていうからね、びっくりするよ」と酔いつぶれた氷屋おじさんを見ながらが顔をしかめる。
「自衛隊?このおじさん元自衛隊員?へえ、自衛隊って、どこの基地?」
 わたしは酔いつぶれたおじさんに聞いてみる。
「え?」と男が首だけ上げる。
「どこの基地にいたの?」
「新田原(にゅうたばる)、宮崎の、第四空挺師団であります」
 氷屋は一瞬首を起こし敬礼しようとしたけど、指先が伸びず、そのまま寝息を立てだした。
 このおじさんが空挺師団にいた?どうも嘘っぽい話だ。
「空挺師団とか、そんないいもんじゃないと思うよ、ただ初年兵のとき、国際援助隊としてフォークランド紛争のあと始末に行ったことがあるとかで、そこでパタゴニア氷とペンギンの大繁殖地を見たとか言ってた、・・・・・・まあどこまでが本当か分からないけどね」
 大盛屋の奥さんはそう言って苦笑した。

                  *

 月に一回、ペンギンたちを健康診断のために動物園診療所へ移動させる。
 キングペンギンたちは冷房車で移動させるのだが、暑さに強いフンボルトたちは歩いて移動させる。最初は大丈夫かと心配したが、フンボルトたちにはこれがいい気分転換になるようで、移動のあとはいつも以上に動きの量も食欲も高まる。また人を恐れないペンギンの移動は来園客にとって大きな評判になり、いまでは日にちを告示までして、うちの園の呼び物の一つになっている。
 わたしが七羽担当で先に行き、ヘビ本先輩が六羽担当であとに続く。何で後輩のわたしの方が担当が多いんだ、えぇ? おとりのエサをバケツに入れたり、糞掃除のためのモップを持ったりと移動の準備をしていると、声が聞こえた。
「あなた、いつもおっかさんが話していた人じゃないの?江州の忠太郎兄さんじゃないの?」
 オリを出ようとするフンボルトに向けて片手を出して問いかける。氷屋の男だ。今日は妹のお登世かい。
「あ、やっぱり兄さん、忠太郎兄さんだ」
 忠太郎兄さんな訳がないだろうが。びっくりしてるだろ、フンボルトたちが。どけ。
「パタゴニア氷、使ってみてくれることになった、さっき管理課行ったらそう言われた、まだ試験的にだけど」
 男はわたしの方に向き直って言い、嬉しそうに笑う。
「自動噴霧機の前に試験的にプールの中に入れてみてくれるらしい。キングだけじゃなくて、オレは特にこのフンボルトたちにやってみたい。暑さに強いって言われてるこいつらだってきっと氷が好きなはずだ。何せフォークランド生まれなんだから。きっと故郷のパタゴニアを思い出すはずなんだ」
「ふーん」とわたしはうなずく。
「おばちゃん、アイスやっていい?ペンギン・アイス、ほら」
 健太がペンギンの絵の袋に入ったアイスをわたしの方に突き出す。
「だめだ、うちのフンボルトは生涯アジ一本、貧しい食生活だ、それになあ健太、大事なこと言っとく。おばちゃんじゃない、おねえちゃんだ」
 わたしは自分の胸を指差して健太を睨む。
「おらあ、こうして上と下の瞼を合わせ、じいっと考えてりゃあ、逢わねえ昔のおっかさんのおもかげが出てくるんだ、おっかさんのパタゴニアを思い出すんだ、逢いたくなったら、おらあ目をつぶろうよ」
 氷屋のおじさんは歩き出したフンボルトについてきて、そう言って目を閉じる。それから四天王寺坂をのぼって動物園診療所に向かう十三羽のフンボルト・ペンギンに対して敬礼し、見送っていた。

     (了)
※「小説トリッパー」2005年冬号掲載・元原稿
目次
Copyright (c) 2005 乗峯栄一 All rights reserved.
 

-Powered by 小説HTMLの小人さん-

inserted by FC2 system