ちゃりんこダビデ

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  第10章  


 阪神電車には「尼崎センタープール前」という駅がある。西宮の阪神甲子園駅からわずか三駅大阪方面に寄ったところだが、雰囲気は大いに違う。
 甲子園駅は目の前に甲子園球場の大銀傘がある。甲子園競輪場も歩いて五分ほどの所にあるが、競輪場のスタンドは野球場の広大な屋根に隠れてまったく見えない。阪神甲子園駅はあくまで青春スポーツのメッカであり、阪神タイガースという関西人唯一の救いを拝む場所だ。
 尼崎センタープール前駅は目の前のセンタープールに行くために出来た駅だ。しかし浮き輪やビーチボール持った子供がホームに下りてはしゃぐことはない。「わあ、お父ちゃん、センタープールって広いなあ、いっぺん来てみたかったんだ、ぼく、今日はめちゃくちゃ泳ぐからね」と嬉々とする姿はない。子供はセンタープールには来ない。センタープールに来るのは新聞見て首ひねりながら歩くおじさんばかりだ。
 高架ホームから見下ろせるセンタープールはケイソウの繁殖で一面腐食の緑色をしている。でも誰も「きたない」とは嘆かない。そんなことを嘆く暇があったら新聞読まんかいと怒られる。センタープールに来る客はみんな新聞が好きだ。赤線引いたり、書き込みしたりしながら隅から隅まで繰り返し読む。日本ジャーナリズム協会から表彰されてもいいぐらいだ。
 プールのそばでもおじさんたちはまだ新聞を読む。読み疲れてふと顔を上げると、プールは相変わらずどす黒い緑色だ。ごくたまにそれでも水質が気になる客がいて「きたないなあ」としつこく嘆いていると、「きたないぐらい何じゃ」と言いながら、今度は超高速小型モーターボートが爆音轟かせて走り抜けていく。センタープールは人が泳がずモーターボートが走るプールだ。
 センタープールというから、ライトプールやレフトプールがあるんだろうと思ってはいけない。前座プールやお子様プールがある訳でもない。ただセンタープールが一個あるだけだ。昔は周りに色々プールがあったが、いまはなくなっているという訳でもない。昔から一個だけだ。尼崎の中央にある訳でもない。尼崎の西の端にある。なぜセンタープールなのか、いまとなっては誰にも分からない。
「アマ(尼崎競艇場)はな、センター(六艇競走の三、四コース)が強いんや、そやさけセンタープール言うんやないかい」と知ったかぶりして教えるおじさんはいるが、そんなことで名前が付く訳がない。センタープールの客は新聞はよく読むが、悲しいことに常識に欠ける。
 しかし阪神電鉄はその競艇場のために駅を作り、競艇開催中は大阪梅田と神戸三宮発の急行電車もちゃんと臨時停車させる。阪神電鉄は競艇客を厚く保護している。

「全員整列!」とあたりに響く号令がかかる。
 全員といっても三人しかいないのだ。そんなに大きな声を出さなくても十分聞こえるのに、自らに気合いを入れるように軍隊みたいな声を出す。
 阪神センタープール前駅の改札を出ると乗車券発売機などのあるスペースがあり、その先、左側がセンタープールに通じる専用通路で、右側が駅下に出る階段になっている。その階段の下、自転車などがまばらに置かれた空き地にわれわれ三人が立つ。
 階段は競艇と関係ない一般客が降りるためのものだが、センタープール前駅をなめてはいけない。競艇開催中の昼ひなかは一般客など一電車に二、三人もいればいい方だ。競艇関係以外の一般家庭がほとんどない場所だからだ。改装されてまだ四、五年しか経ってない駅なのに、使用頻度の少なさから、その一般客用階段の手摺りは錆びつき、階段の割れ目からはペンペン草が生えいる。セータープール駅の右側通路は「荒野の用心棒」に出てくるゴーストタウンのようだ。砂塵を上げる荒(すさ)んだ風が吹く。
 われわれはその荒んだ階段の下に立つ。ゴーストタウンのとば口に立つ三人のクリント・イーストウッドだ。どこからか「さすらいの口笛」が聞こえる。
「ただいまよりミッションを行う」
 ぼくと珠樹の前を、両手を後ろに組んだテツが大声を出しながら歩く。後ろ手に組んだ手にはザラ紙の冊子の束が握られている。
 いや、それにしても誰も通らないところだ。空き地には自転車が十数台放置してあるから、朝夕の通勤時には人通りもあるんだろうけど、競艇をやっているこの時間には誰も来ない。クリント・イーストウッドだってきっと「寂しい」と呟く。
 こんな、誰もいない空き地で口上やって何か得るところがあるのか?階段上がったところの券売機前広場が人通りが多くて一番いいのは分かっているが、でもこんな戦国時代のバテレンの出来損ないや、幕下相撲取りのような浴衣着流しという異様な格好をした三人組を阪神電鉄が許してくれる訳がない。われわれは自主規制する三人組だ。
 このゴーストタウンの階段下、しかしわずかに救いもある。見上げると競艇場直通通路の窓が見える。さっきからセンタープールへの行き帰りのおっさんたちが、一瞬新聞から目を離して「何や、あいつら」とその窓からチラチラ見下ろしている。
 われわれは必然的にその通路の窓に向けて口上を言うことになる。ほとんど夜空の花火に向かって遠吠えするビーグル犬のような趣だ。空しい。空しいけど、もうやるしかない。首の筋をつらしながら顎を上げて怒鳴る。
「♪♪オレたち、隠ーれキリシターン」
 テツは両側の珠樹とぼくの手を取り、リズムをつけて歌い出す。歌ったあと手を離してぼくら二人を見返し、“ほら一緒に”という雰囲気を顎で示す。
 成り行きなので、ぼくも一応合わせて歌わねばならない。
「♪♪オレたち、隠ーれキリシターン」
「恥ずかしいか、お前たち」
 自分に続いて大きく唱和しないこっちを見て、テツがぼくの顎の下から見上げる。
「少し」
 ぼくが言い、珠樹もそれにうなずく。
「少し、何だ?」
「少し恥ずかしいです」
「恥ずかしい?恥ずかしいなら、なぜ、お前たちはエルサレムに来た」
 訳の分からないことを言いながら、テツが怖い目で睨む。

 何の因縁か分からないが、ぼくも予想冊子売りに参加することになった。
「黄檗山と懲罰謹慎、ご苦労さまでした」
 謹慎明け和歌山開催をまたまた悲惨な成績で終えて帰ってくると、いつもの十三ワニさん公園でテツが迎えた。和歌山に出掛けるときには、テツは日銭かせぎに燃えてパンク修理巡回に出ていたから、帰ってきたときに挨拶はあってもいいかもしれない。しかしペナルティーのための黄檗山修養と、ブラブラしていたのをテツも見ているはずの三ヶ月謹慎に対してわざわざ「ご苦労さま」と言うのはどういうことだ。聞きようによってはこっちを挑発しているようにも思える。
 テツは中腰で両手を膝に置いてさらにこっちを見上げる。
「ほんとにご苦労さまでした」
「おいテツ、それはヤクザの出所祝いのときの態度やろ」
「え?」
「刑期を終えた親分を子分が迎えるときの“おつとめご苦労さまでした”というやつやろ」
「あ、なるほど。・・・え?でも、それいいじゃないですか、川瀬さん。菅原文太迎える渡瀬恒彦ですね。見ましたよね、一緒に、十三ロマン座で“仁義なき戦い”。分かりました、川瀬さん」
 何が分かったのかしらないが、テツはあらためて膝を曲げる。
「おやっさん、おつとめご苦労さまでしたけえ、呉の広能組の留守はしっかり守らせてもろちょりましたけえ」
 テツはこっちを見上げ、嬉々として言う。
 話にならん。ぼくはテツの脇を黙ってすり抜け、バラック小屋の奥でキャリーケースを開ける。
「おやっさん、それでおつとめの成果の方は」
 テツはそう言いながら、畳をドドドと両手で小刻みに叩き、まるでカメレオンのように這い寄ってくる。
「おやっさん、おつとめの成果は?」
 テツはなおもしつこく聞いてくる。
「どんなあこんなあ言うちゃって、どねえもこねえも、なりゃせんじゃあねえの」
 ぼくはキャリーケースからピスト・レーサーの部品を出しながら、意味のない広島弁を呟く。
「は?」
「わしゃのお、昌三、こっから先も悪いことはしちょりゃあせんのんじゃけえ。・・・・・・これ、山守組の組長、金子信夫な。・・・・・・ほんまにおめこの毛ほども悪うないんで、のお、昌三」
「駄目だったんですか」
 ぼくは小指の先を見せて渾身の“金子信夫”をやっているのに、テツはそれは無視して両手を着く。腕立て伏せのように頭をがっくり落としたまま呟く。
「今回はB級戦ですよね。・・・・・・そうですか、B級戦でもダメでしたか」
 テツは同じ体勢のまま、なおもしつこく言う。
 ぼくはピストレーサーの部品を一つ一つ出して、それぞれの水分を拭き取り、それからプラスチックの差し器で一個一個油を差していく。
「で、川瀬さん、これからどうするんですか」
 テツが聞いてくる。顔を上げると、テツは既に元の位置に戻り、背中を向けている。後ろ向きにチャリンコ部品をいじっているようだ。
「B級だと、またしばらく斡旋ないですよね」
 ぼくが黙っていると、テツは振り向いてそう言う。
「筋トレとヘーゲル・・・・・・」
「は?」
「筋トレとヘーゲル、頑張る」ぼくはぼそっと言う。
「筋トレって?」
 テツのその質問を聞いて、ぼくは黙って小屋の隅に行く。ジャージとTシャツを脱いでテツに背中を見せ、そこに置いてある鉄アレイ二つを両手に持って静かに上腕屈曲をやる。三回やったあと両拳を脇腹に当て、背中越しに首だけ動かしてテツを見る。これはボディビルではダブル・バイセップスと呼ばれ、背中と上腕筋を強調する、ポージングの中でも基本中の基本の一つだ。首をさらに後ろに伸ばしてテツを見ると、テツは背中を見せて下を向き、部品磨きを再開している。さてはぼくの上腕二頭筋と後背筋に当てられて正視できなくなったか?
「ヘーゲルって・・・・・・」
 テツは下を向いたまま次の質問を発する。単に義理のように発した質問のようにも思える。しかし聞かれた以上、応えなければならない。ぼくは急いで鉄アレイを置き、Tシャツを着込む。キャリーバッグの小物入れの中をごそごそして『ポケット精神現象学』を取り出す。
「このゆえに精神は知識が人倫の区別を越えながらも、なお区別につきまとわれているのであり、知識の中に自ら人倫を形成する全運動を含めるに至ったのである」
 ぼくは立ったまま、背中向けているテツの方を見下ろし、『ポケット精神現象学』の最後の部分を蕩々と読み上げる。
「つきまとわれてんだよ、やっぱり精神は。テツ、そういうことなんだ。全運動を含めるのに至ったってことがそもそも間違いだったんだよ。え?間違ってるって言ってんだよな、これ?」
 ぼくは慌てて『ポケット精神現象学』を二、三頁めくり返して読み直す。
「いくらかになりますか?」
「は?」
「その筋トレとヘーゲルって、それいくらかになりますか?」
「ほら、あの、いつも言ってるけど、哲学競輪選手って言われてるから、オレ、へへへ、全国五千人の選手中ただ一人だから、哲学競輪選手は。ダビデとも言われてるし、ダビデは筋肉と哲学やから。ダビデの哲学競輪、オレはこれをやる。あははははは、でもあいつら低教養のチャリンコ漕ぎには分からんやろな。“ダビデってビデの一種ですか?”とかって聞くんや、きっとあいつらは。下品なことしか頭にないからな。一発やったあと女が股ぐら広げてゴシゴシ洗うやつですよね、ビシューって吹き出すやつですよねとか言うんや。♪♪淋しげな 雨に濡れた君の くちびるが 忘れられなくてーって、そりゃあんた、ビデとロザンナやないかいなとかって、あはははは、ほんま、無知蒙昧ほど怖いもんはない、あははははは」
 手元のポケット本を前に突き出して示し、ダビデのポーズもとって、態度付きで説明する。
「いくらかになりますか」
 テツが低い声を出す。
「うん?」
「いくらかになりますか、その筋トレとヘーゲルって?」
 テツはイライラしてこっちを向き、大きな、ほとんど泣きそうな声を出す。
「・・・・・・」
 ぼくは静かに『ポケット精神現象学』を棚に置き、鉄アレイを部屋の隅に戻す。
「川瀬さん、ジェロニモ四郎の予想屋、一緒にやって下さいよ」
「うん?」
「ね、川瀬さん」
テツはチャリンコ部品を自分の腿のあたりに置き、上半身だけひねってこっちを見る。
「ジェロニモ四郎の予想屋、一緒にやってくださいよ、ぼく前から思ってたんです」
「ジェロニモ四郎の予想屋?ジェロニモ四郎って、競輪場の前でお前らがやってたインチキ予想か、あほ、あんなこと出来るか」
 ぼくはまたピストの部品を手にとり、タオルで拭きながら、そう言って吐き捨てる。
「でも斡旋ないんでしょ、川瀬さん、またしばらく。B級は月一回ぐらいしか斡旋がないって言ってたじゃないですか」
「まあ、それはそうやけど・・・・・・」
「じゃあまた暇じゃないですか、心入れ替えたような、人が変わったような猛練習やる気もないんでしょ?」
「人なんか変わらんでも、猛練習なんかやらんでもなあ、B級戦ぐらいいつでも勝てるんじゃ。今回はたまたま巡り合わせが悪かっただけや。オレを誰やと思ってる、ダビデ王の川瀬やぞ」
 そう言いながら、知らず知らずのうちに両拳を握って体をぐいとひねる。大胸筋と背中の僧帽筋を誇示するサイドチェストのポーズだ。仕方ない。これは“ダビデ”という言葉とワンセットの条件反射だ。
「じゃあ暇じゃないですか。一緒にやってくださいよ、やりましょうよ、予想屋」
 テツはぼくのサイドチェストの僧帽筋は見ようともせず、こっちの頭の方だけ見上げて言う。
「しかし、お前・・・・・・」
 ぼくは所在なくサイドチェストを解いて座る。
「あ、川瀬さんにはまずいでしょうから、競輪場はやめますよ。競輪選手が競輪場で予想屋っちゅうのはまずいですもんね。そこは配慮します。いや、あんなもの、競輪場じゃなくたって、競艇場でも競馬場でも全然大丈夫なんです。@からHの競輪用の番号をちよちょっと競艇用や競馬用に変えればいいだけなんですから。ね、だからやりましょうよ。・・・・・・これ、きっと競輪のためにもなりますって」
 どこがどう競輪のために役立つのか分からなかったが、テツはそう自信を持ってぼくを誘った。
「どこがどう競輪に役立つんや」
「度胸がつきます」
「つくか?度胸が?」
「つきますよ、それに」
「それに、何や」
「おカネになります」
「カネ?」
「おカネが必要なんですよ、川瀬さん、ETプロムナード作るために」
「またETプロムナードか」
「いや、ほんとなんです、今度こそいけそうなんです」
 そのときテツの手の乾布の中からキンキラに輝くチェーンホイールが何枚か見えた。
「おい、テツ、それ何や」
「何って、チェーンホイールじゃないですか・・・・・・」
 そう言いながら、テツは素早くチェーンホイールを黄色の乾布の中に隠す。
「ちょっと見せてみろ」
「ダメです」
「いいから、見せてみろ」
「あ」
 ぼくはテツの叫びを無視して手を払いのけ、メタリックホワイトのチェーンホイール、大・中・小の三枚を掴み取る。
「これって・・・・・・、テツ、これってひょっとしてプラチナ・ナノコロイドと違うんか」
 ぼくは蛍光灯にチェーンホイールをかざして、おもて裏をじろじろ見る。
 競輪場選手宿舎に置いてあるサイクル情報誌で見た。プラチナ・ナノコロイドは極限までの軽量化の追求によって出来た、主にツール・ド・フランスなどを走るトップクラスのロード自転車のために開発された合金だ。フレームの軽量化はカーボン素材やクロム・モリブデン合金の開発によって極限まで来たと言われているが、ギア部分についてはそれらの素材では長距離使用による摩耗が避けられず、依然として鉄や亜鉛の高比重金属を使うしかなかった。プラチナ・ナノコロイドはそんな長年の課題を克服した軽量かつ強靱な合金で、プラチナを分子レベルで高圧縮し、カーボンファイバーを溶融させて作るらしい。とにかくぼくも実物を見るのは初めてだ。
「高いやろ、これ?」ぼくはまだチェーンホイールをかざしながら聞く。
「一枚五万です」
「一枚五万?」ぼくは驚いて甲高い声を出す。
「はい、一枚五万です」
「テツ、お前、いつの間にそんな小ガネ溜め込んでたんや。オレに内緒で。最近パンク修理熱心にやってると思ったら、小ガネ溜めてこんなもの買ってたんか・・・・・・」
 ぼくはまたチェーンホイール見ながらぶつぶつ言う。
「川瀬さん、返して下さい。これ、絶対要るんです、ETプロムナードに」
 テツはぼくの手からひったくるように白光りするチェーホイールを取り、懐に抱くように隠す。
「どうするんや、そんな高いもん買って。そんなカネがあるんやったらオレのピスト・レーサーのフレーム替えてくれや。もう五年も同じフレーム使ってるんやぞ。オレのフレーム見て若いやつが“へえ、川瀬さんてアンティークが趣味なんですね、競輪界の中島誠之助ですね、いい仕事してますねえって、あはははは”とか笑いやがるんや、クソー。雨用ウインドブレーカーもアディダスのやつ買ってくれや、競輪選手やぞ、イオンのバーゲンの真っ黄カッパなんか着て、ランドセル背負った小学生やないぞ、あんなの着てロード練習するのはオレだけや。たまには上ロース食わせろや、いっつもホルモンとミノばっかりやないか。ああトロ食いてえ、ウニ食いてえ、競輪選手は体が資本なんや、毎日アジとモヤシばっかりはいやや。ああ、松茸食いてえ、マスクメロン食いてえ、毛ガニ食いてえ、伊勢エビ食いてえ、フォアグラっちゅうもんもいっぺん食いてえ、イクラ食いてえ、アワビ食いてえ、何でもええから高いもん食いてえ!」
 ぼくは興奮し過ぎて、ほんと食い物のことになると自分でも訳も分からず高揚してしまう、途中からふらっとしてきて、ヘナヘナ座り込んだ。「ああ、松阪牛食いてえ」と溜息まじりの弱々しい声が出る。
 高架の上を新幹線がドォーッ、ドドドドという低い振動を出して通り過ぎ、それにつれて棚の古い自転車部品や工具やぼくのヘルメットやヘーゲル語録が、タタタタと小刻みな音を立てる。
「ぼくね、川瀬さん、力学、特に空力学と熱力学を本気で勉強してみたんです」
「・・・・・・」
 テツの方を見ると、ぼくの高揚とは関係なく、テツは自分の膝の上のホイールと乾布を静かにいじくっている。
「終戦直後ぐらいに活躍したアメリカの理論数学者でノーバート・ウィーナーという人がいるんです。この人、サイバネティクスということを言い出したんです」
「はあ?」
「ノーバート・ウィーナーという科学者がいるんです」
 テツはそう言って急に立ち上がり、棚の所に行って工具の下からノートのようなもの取り出す。そのノートをめくりながらぼくの前まで持ってくる。
「ぼくね、ほんとに、結構本気で力学勉強してみたんです」
 テツはそう言ってノートのページを何枚か行きつ戻りつする。
「ええっと、ウィーナーはですね、一般的調和解析の実函数x(t,α)が、−∞から∞までの値をとる変数tと、0から1までの値をとる変数αによって定まるものとすると、一般的調和解析とは時間tと統計分布のパラメーターαで指定されるブラウン運動の一つの空間的変数と考えられるって、そう言ってるんです」
「・・・・・・」
「それでですね、このことによって、−∞から∞までの定積分∫(インテグラル)φ(ファイ)(t)dt(t,α)は、−∞から∞の空間に属するすべての函数φ(t)について定義されるって、そういうことを言ってるんです」
 テツはノートを読みながら言う。
「はあ?」
「分かりませんか、川瀬さん、そうですか」
 テツはぼくを見てそう小さくうなずくと、またぺらぺらとページをめくる。
「・・・・・・あとですね、同じ頃のロシアの熱力学者にイリア・プリゴジンという人がいるんです。この人は散逸構造ということを言い出したんです。平衡状態から遠く離れた熱力学的分岐近傍では散逸構造が起こるって言うんです。プリゴジンはですね、系が臨界安定点に近づいて定常的空間的散逸構造や時間周期解が発生するようになる場合の相関関数G(r1,r2)には空間的に一様な定常解Xι,0=A,Yι,0=B/Aを用いてもいい。しかもですよ、その際の線形安定性は線形化された発展方程式に現れる演算子の固有値の実数部の符号で決定されるって言うんです。熱力学第二法則、いわゆるエントロピー増大則は非平衡分岐近傍では局所的に散逸の自己組織化を図ると、そこまで言ってるんです」
「そこまでって・・・・・・、どこまでよ」
「さらに驚くべきことに、プリゴジンが提唱する散逸構造の典型的モデルにモルコフ・サイクルというのがあるんですけどね、川瀬さん、これは奇しくもウィーナーの言うラゲール関数の係数をエルミート多項式に代入したものに一致しているんです。数理解析者の言うサイバネティクスと熱力学者の言う散逸構造が開放系多項式として一元化されてるんです」
 テツはそう大きな声を出したあと、まるで取り憑かれたようにノートに釘付けになって動かない。
「テツ!」
 ぼくは気付けのつもりで激しい声を出す。
「あ、はい」
 テツは慌ててこっちを見る。
「お前、分かってんのか」
「何がですか?」
「そのウィンナーとプリンよ」
「ウィンナーとプリンじゃありません、川瀬さん。ウィーナーとプリゴジンです。ええっと(とまたノートをめくる)ウィーナーという人はサイバネティクスというのを提唱した人で、このサイバネティクスによれば、気体粒子のブラウン運動の任意に定めた一定方向の運動の成分の二乗平均はその時間の長さに比例し、かつ互いに重なり合わない時間間隔内に行う運動は確率論的に独立だと、そこまで言ってるんです」
「だから、そこまでって、どこまでよ」
「プリゴジンというのは散逸構造ってのを言い出した人で(とまたページをめくる)、要するに平衡からの距離と非線形という二つの要素が系全体を秩序状態に導いていく源泉であって、熱力学的分岐近傍の不安定性によって発現する秩序状態を散逸構造と呼ぶと宣言してるんです。そして、秩序、安定性、および散逸の間の隠された関係を明らかにすることが、熱力学に残された最大の課題であると、そこまで言ってるんです」
「そこまで、そこまでって、お前は底まで潜るジャック・マイヨールか」
「何ですか?」
「何でもええ。テツ、お前、それ分かって言ってんのか」
「・・・・・・分かりません」勢いよかったテツの声が急に小さくなる。
「な、そうやろ。そうならそうとはっきり言わんかい」
 ぼくは得意になって足を組み直す。
「正直言うと、何言ってんのか、さっぱり分かりません。・・・・・・でもですね、川瀬さん、何となく助け船じゃないかって気がするじゃないですか」
「何が?」
「“それよ、オレが言いたかったのは。よくぞ言ってくれた”って、そういう感じがするじゃないですか」
「するか?」
「川瀬さん、ウィーナーという人は神童と言われて早くからちやほやされたらしいんですが、でも数学者自体としてはあんまり専門的なところに入らず、何か周辺をウロウロしてたみたいなところがあるんです。細胞のことや、高射砲のことや、補聴器のことや、あとヘビとマングースの戦いのことを言ったりして、まあ数学者の露天商みたいなんです。数学専門家の間でもあいつは仲間じゃないみたいな言われ方をしてます。プリゴジンというロシア人もブリュッセルで研究し、ノーベル化学賞貰ったりしてるんだけど、あまりにも言っていることが突飛だって、みんなに理解されずに死んでるんです。そこがいいじゃないですか」
「いいかもしれんが、何言ってるか分からんかったら話にならんやろ」
「何かねえ、何か分かるんですよ、川瀬さん。確かに言ってることは分からないけど、でも言いたいことは分かるんですよ」
「何言うとんねん、お前の言ってることこそ意味不明や」
「伝わるものがあるんですよ。・・・・・・きっとこの二人、言いたいことが伝わらずに死んだんです。“きみらの見てる常識世界にはとんでもないまやかしがあるんだよ、それ教えてあげたいんだけど、またきみら、それ聞かないしなあ、ああ、もうオレ死んじゃう、ほんとに死んじゃうよお、きみらの世界、そうじゃないんだよお”って叫びながら死んだんです、きっと。川瀬さん、このウィーとプリの二人は“お前、それ出来るかもしれんよ、諦めることないよ”って言ってるんです。“空飛ぶETチャリンコ?ああ、オッケー、オッケー、それあるよ、全然大丈夫”って、そこまで言ってるんですよ」
「またそこまでか、そこまでってどこまでや」
「ほんとですよ、川瀬さん。この二人、死ぬとき指で丸つくって“OK,OK”て言いながら息絶えてるんですよ」
「見たんか」
「へ?」
「指で丸つくって死ぬとこ、見たんか?」
「いや、きっとそうだったと思うんです」
「テツ、お前はほんとに人に影響されやすいやつやなあ」
 ぼくは意気込むテツを見上げて呆れたように言う。
「何ですか?それどういうことですか?」
「わたしETを救うエリオット少年を見たんです、えっ、ほんとですか、じゃ一緒に探しやしょう。ETのチャリンコ作って下さらない?そうでがすか、分かりゃんした、作りやしょう。この人のバンク最上段からの“山おろし”カッコいいなあと思ったら、そうだ、メカニックやろうって自転車の知識もないくせにそう決心するし、敬遠ピッチャーが甲子園で必要やと言われりゃホイホイ出て行くし・・・・・・」
「え、どうして、なんで川瀬さんが、そのこと知ってるんですか」
「聞いた、あのおんぼろアンパイヤセンターのヨレヨレ審判から」
「・・・・・・」
「もうええ加減目覚めたらどうや、テツ。お前に助けられてるオレが言うのも変やけど、テツ、お前、ほんとに大丈夫か?」
 ぼくの言葉にテツはじっと下を向いていた。何か感じるところがあったんだろう。反省しているのかもしれない。
「たとえばシャーレの中のシリコン油を下から猛烈に熱するとします」
「うん?」
「シャーレってありますよね、こう、カビなんか生やしたりする、理科実験室によくあるガラス皿、あのシャーレにシリコン油を入れて熱するんです」
 ノートを見て言っていたテツが顔を上げる。嬉々とした表情だ。反省なんかしてなかったんだ。
「ああ・・・・・・」
「シリコンてありますよね、胸大きくしたりするときに入れるやつ。シリコンはわたしの胸の一部よ、どうなのよ、文句あるんなら触ってごらんなさいよ、ほらって、キャバクラのおねえちゃんがこうやってグイグイ胸押しつけてくるやつ、あれあるでしょ、シリコン?」
「何や、それがどうしたんや」
「あのシリコンから出来るシリコン油ってのがあるんです」と言ってテツはまたノートを見る。「物体の温度を一定に保つ熱媒体としてよく使われるんですけど、このシリコン油、急激に熱したときには不思議な現象を起こすんです。・・・・・・こう、上は氷の袋みたいなもので冷やしといて、下からバーナーで熱するんです。そうしたらある時点でベナール対流というのが起こるんです。ベナール対流という流れが起きて、こう、ちっちゃな亀の甲みいな結晶のような渦が出来るんです。このベナール渦がエントロピー増大の法則に逆らう散逸構造の自己組織化なんです」
「・・・・・・」
「あのね、川瀬さん。要はこのベナール渦なんです。チャリンコが空飛ぶなんてありえない、地面にべたっと着いてるのがチャリンコや、もし万が一、空飛んでるチャリンコがあったとしてもオレが地面に打ち落としてやるってのがエントロピー増大則なんです。でも熱の分岐点ではそういうエントロピーの破れ目、散逸構造が出現するんです。・・・・・・川瀬さん、ぼく思うんです。みんなが安穏としているところではチャリンコが空飛ぶなんてことは決してない。でも平衡状態から遠く離れて、嵐のバンクとか、騒乱のスタンドとかになると分からない。“あのクソ女、よその男の所に走ったくせに、養育費よこせとか言いやがって、ぶち殺したるわ”と思って選手が走っているとか、客がみんなこめかみにピストル当てて“オレの車券はお遊びやないぞ、横領捜査の刑事が門まで来てるんや、この車券外れたら死ぬんじゃあ!”とスタンドのファンが全員横領犯で断末魔の叫びを上げてるとか、そういう、とてもここは平衡状態じゃないぞみたいなところだと“飛んだ方が自然だな”みたいな状況があるっていう、そういうことなんです。チャリンコが空飛ぶっていうことはそういうことなんです。プリゴジンとウィーナーっていう二人の科学者はきっとそのことを言ってるんです」
「そんなこと言ってんのか?」
「言ってるんです」
「はあ・・・・・・」
「バンクの二センターでカントの上に向けて踏み上げ、方向転換して下向きに下降しようとするとき、空に出るんです。でもそれはクロム・モリブデン合金のナノコロイド鋳造されたPWフレームでないとだめなんです」
「何?」
「チャリンコの非日常を引き起こすのはETプロムナード全体のシルエット、そして不自然に付いている前カゴとギア、この三つの非線形散逸構造だったんです。ETプロムナードのキーポイントはそこにあるんです。平衡状態から遠く離れたところでの非線形運動、プリゴジンの言う散逸構造とウィーナーの言うサイバネティクスを引き起こすとすれば、そのフレームのしかないんですよ。新幹線七〇〇系の設計のとき、騒音対策が一番の課題だったんですけど、そのときもパンタグラフにこのベナール対流を使うことによって解決したんです。このプリゴジン=ウィーナーの企図を実現した散逸構造フレーム、通称PWフレームっていうのが開発されたですよ、ニュージャージー・プリンストンのUSスチール研究所で。売り出し価格五十万です」
「・・・・・・」
「つまりですね、チャリンコが飛ぶって言うんじゃなくて、チャリンコを地面に落とす抵抗力をなくすんです。慣性力が最大まで来たときにそれを妨げる摩擦抵抗と空気抵抗を極限まで減らすんです。ペダルによる推進力が最大になったときに、瞬間、真空の氷の上を滑るようにするんです。最初から真空の氷の上じゃだめなんです。惰力がつかなくて進めないんです。推進力が最大になったときに、その瞬間に突然真空の氷の上になることなんです、肝心なのは。五十万です、川瀬さん」
「は?」
「とにかく五十万あれば出来るんです。五十万必要なんです」
「そんなもん、嘘っぱちやろ」
「何言うんですか、サイバネティックス化された散逸構造ですよ、ウィーナーとプリゴジンですよ、そんなこと言ったら二人に怒られますよ。五十万です、とにかく川瀬さん」
「何言うとるんや、そんなカネあるか」
「予想屋やりましょ」
「は?」
「結構儲かるんですよ、あのジェロニモ四郎」
「出来るか、あんなこと」
「やりましょう。もう一人、川瀬さんのような屈強な男が入れば、ジェロニモ四郎、めちゃくちゃ迫力出るんです」
「やらん」
「やりましょうって」
「やらんて」
「やりましょうって」
 けっこう拒否し続けたんだけど、テツはしつこく誘ってきた。

「綾錦(あやにしき)はなかったので、古着屋で一番派手なマントを買ってきました。ラフ・カラーというギャザーの襟もなかったので、これも手作りです。それに一番大事なクルス。これは教会秘蔵の一番デカい金ピカのやつを用意しました」
 まだ周りに客は誰もいなかったが、テツはぼくに向かって小声で、しかしはっきり周囲を意識した発言をする。すでに興行に入っているのだ。
 テツはスポーツバッグの中から、一つ一つ大げさな動作を付けて衣装を出す。珠樹と二人でやっていたときは「恥ずかしい、恥ずかしい」とばかり言っていたテツが、ぼくが参加することによって俄然張り切りだした。ひょっとしたら、テツの中には、ぼくに珠樹と一緒のアクションをさせたかったというのがあるのかもしれない。
 白い、一面フリルの、ちょうどシャンプーハットのような付け襟も取り出す。日本史教科書なんかの天草四郎の絵で必ず出てくる襟だ。でも天草四郎というのはほんとにこんな大道芸のピエロのような襟を付けていたんだろうか。
 尼崎競艇場の前、末広通りを挟んで向かいの阪神電車高架下で、競艇場への専用通路を見上げて客の動静に注意しながら準備する。
「じゃあ、試しに参加してみるけど、でも競輪場だけはダメだ、誰が見るか分からん」とぼくが強硬に主張したので、今回は初めて競艇場での興行になった。
「競艇は一から六まででやればいいのよね。うん、競艇場でも大丈夫、九までの数字を六までに書き直せばいいだけだから、簡単、簡単」とテツと一緒に聞いていた珠樹は意に介さなかった。
 最終レースにはまだ間があるようだが、そろそろ競艇場から引き上げてくる人間もいるようだ。専用通路から、奇天烈な格好をしているぼくら三人をチラチラ見下ろしている。特にガタイのでかいぼくは注目の的のようで、急激に恥ずかしさがこみあげてくる。
 テツは一、二歩前へ出ると突然大声を出す。
「つらーいハクガーイ、受けてまーす」
 テツは両腕を抱え、二の腕を“おお、つらーい”という感じでさすりながら、か細い声を出す。それからチラッとこっちを見る。
 え?とまたうろたえる。これもぼくたちにリフレインしろって言うのか。細かい打ち合わせなんかしていない。「とにかく天草ジェロニモ四郎が火付けのお七と隠れキリシタンのまきに憐れみをほどこせばいいんです」とそれしか言われていない。
 でも辛い迫害って何だ?
「つらーいハクガーイ」と、ここでテツはぼくと珠樹の顔を交互に覗く。「受けてまーす」
 しょうがないので、下の句は一緒に歌わねばならない。「受けてまーす」というところはテツと同じく二の腕をさすりながら一緒に唱和する。
「ばってん、ハクガイ、ハクガイいうても大したことなかかもしれん」
 テツは手を後ろで組んで、棒立ちしているぼくと珠樹の前を通る。何なんだ、自分で言わせておいて大したことがないとは。
 テツの視線は、何事かとこっちを不審そうに見下ろしている競艇帰りの客たちに向いている。
「どげんハクガイね」と、テツはここで帰り客の方に向いて大きな声を出す。「言うてみんね」
 テツがこっちを振り返ると、珠樹は手を上げて一歩前へ出る。どうも、こういうテツの誘いの状況に慣れているようだ。
「はーい、わたしは“お前は淫売か”と言われました」
 珠樹が明るい声を出す。
「う?」
 テツがことさら不審そうに珠樹の方にアゴを突き出す。
「甲子園球場の脇でノースリーブ着てずっと立ってたら、“お前は淫売か”って言われました」
「淫売やなかとやのにか」
「はーい。パンツ触らせたり、オッパイ吸わせたりして、二万円取ってました。ちょっと高いとは思いましたけど、昔の先生がヘブライの頃からパンツ触らせたり、オッパイ吸わせたら二万円と相場が決まっておる、聖書に出ておる、モーゼの十戒の中にも入っていると強引に説教したので、そんなものかなと、わたし思いました。でもやらせてはいませーん。ボッタクッただけです。淫売じゃありましぇーん。でも“お前は淫売か”と言われました。これは深く傷つきました。ツラーイ迫害でした」
「うーん、それは辛い仕打ちば受けたとよのお」
 テツがさも気の毒そうに珠樹を見て同情の言葉を吐く。
「はーい」
 珠樹が満足そうにうなずく。
「あ、そんなの、全然甘いです。ぼくなんか、もっともっと辛いハクガイ受けてます」
 ぼくも何だか条件反射のように言ってしまう。テツの問いに珠樹が答えると、負けてたまるかという気分になる。何なんだろう。テツの術中にはまっているようで悔しいけど、でもついつい言ってしまう。
「おや、こっちのガタイのいい兄さんが甘いと言う。“淫売呼ばわり”など甘いと、そこまで断言する辛いハクガイを受けたと?そりゃ、聞いてみにゃならんばい。一体どんなハクガイね」
「ぼくなんか、いつもカネ返せって言われます。別にそいつらにカネを借りた覚えなんかないのに、金網の向こうからいつもカネ返せって言われてます。死んでまえとか言われることだってあります。転んでケガして骨折してても、ボケ、アホ、カス、カネ返せと言われることもあります」
「それは辛かことね?」テツは首を傾げて聞く。
「辛いですよ」
「うーん」テツは首をひねる。
「おや、あなたは、もしや四郎さまでは?」珠樹が急にぼくの顔を覗き込んでくる。
「え、あ?」
「思いおこせや、二十六年(にじゅうとむとせ)の昔、とうとき伴天連さまが申さるるには、いまに、おなごのように美しい善かお人があらわるる。そしてわれらが難儀をお助けくださると、そう言いなはったとじゃ。・・・・・・その善か人、四郎様とは、どげん、あーたはんに違いなか」珠樹が畳みかけてくる。
「なんばしとると。島原の百姓どもがこげん集まりよって。おまいら、ひょっとして、デウスでんみなで祈っとるとでなかか」
 テツがまた別人になる。いつの間に着替えたか、岡っ引きのような汚い着物の裾を腰にからげた格好をしている。どこで調達したのか、十手の代わりに、明治の警官が持つような太い棍棒を持っている。
「あなたは一体?」
「その昔、島原半島の最南端には岸壁に這いつくばる老松のような城があったとじゃ。北に絶壁、西はマムシの群れる竹林、東と南は天草列島までの海ヘビと人喰いザメのウヨウヨしている島原湾たい。大名すらもセチかあ、ヒジかあちゃうて放り出した城ばい。島原大江名の原城たい」
 テツは「尼崎競艇場」と書かれたハッピを来ている。その背中を見せながら、思い出に浸るような声を出す。
「寛永十五年の正月、隠れキリシタン二万五千が、その置いちかれた大江名の城に立てこもったとじゃ。信仰という名の幻想に踊らされた百姓ども二万五千人ばい。おのが身の浅はかさに気づかぬ者どもを、草と壁土しか食べられんとこまでじりっと追い込んだ“知恵伊豆”じゃ。火と水で攻め抜き、クルスの旗印をチリヂリに断ち切った“知恵伊豆”じゃ。おまいら、もう忘れたとか。エルサレム審院でデウスに磔刑(たっけい)を言い渡した大祭司カイヤペ、その生まれ変わりと恐れられた松平伊豆守(いずのかみ)信綱を、おまいら島原の百姓どもはもう忘れたとか」
 テツは片手の平を棍棒でバシバシ叩いて威嚇しながら、ぼくと珠樹の周りをゆっくり回る。突如、テツは袋から一枚の銅板を取り出し、三人の前の地面に放り出す。
「伊豆守さま、一体これは何ですたい」ぼくが銅板とテツを交互に見て聞く。
「山善右衛門、せからしかものよのお、隠れキリシタンというものは。いまさら何ば言うとる。踏み絵だろうが、踏み絵」
 テツは棍棒で自分の肩を叩きながら、憎々しげに言う。
「ばってん、お奉行さま、わしら宗門人別帳にもちゅんと名前ば入っとりますし、壇那寺の月並の念仏講にもちゃんと参加しとりますし、万が一にもデウスなど信じとる訳がなかですたい」
「何でんよかけん、とにかく踏まんね」
「それに伊豆守様、これは踏み絵いうたっちゃ、えろう字や数字が多かばってん。それに◎や△も入っとって・・・」
「新種の踏み絵ばい。最近は耶蘇の連中も賢かことば考えよるようになってきよっての、今までのデウスやマリアの絵では効果が薄かことば分かってきたとよ。せからしかものよ。まあ何でんよか、何ちゅうことはなかけん、チョロッと踏めばそいでんよか。さあ転ばんね。転んで楽にならんね」
 テツは現代にも江戸時代にもそぐわない明治の警官のような棍棒で“新種”の踏み絵をバンバン叩く。
「ふ、ふ、踏めんばってん、ワシには。この新種の踏み絵はあまりに畏れおおて、踏めんとよ」
 ぼくは突然泣きそうな声を出してうずくまる。
「そうね、おまいは踏めんとか、雲仙岳の噴火口は怖うなかと言うとるとやね、大江名から普賢岳の頂上まで腰蓑に火ば点けて蓑踊りばして登って、火口に向けて逆さ吊り、ああ、言うも辛かぞ、おまいも、ちったあ仕置きする側のことば考えてくれてもよかやなかか、“島原のポンティオ・ピラト”も辛かとぞ」
 うずくまるぼくの肩に手を置き、ハッピ姿のテツが諭すように言う。
「そっちの女、天草のマグダラ・マリア。デウスの頭に香油を注いだとか言われて有頂天になっとるばってん、その実、ただの娼婦に過ぎんおなご、“知恵伊豆”にはすべてお見通しばい。おい、天草のマグダラ・マリア、今度はおまいの番たい」
「わたしには踏めまっしぇん」
「何とね、よお聞こえんかったばい」
「わたしも山善右衛門(やまぜんえもん)様と同じでございます。・・・踏めまっしぇん」
「よお聞け、マグダラのマリア。おまいは売春婦たい。そうじゃなかか?」
 テツがアゴを出して珠樹に迫る。
「えーい、そこまでしらをきるとなら全部言ってしまうとよ。マグダラのマリア、またの名を“風別の八百屋お七”、おまいは紀伊山脈のまっただ中、その泉の沼という清らかな湧き水のほとりで男を手招きしとったとよ。“寒いときゃ休んでいくんやしよ、心温まる泉を飲んでいくんやしよ”てな紀州弁ばつこうてな。そのあとは尼崎に流れ着いて、コペンハーゲンの“マッチ売りの少女”ばい。“ああ、コペンハーゲンの冬はさむーい。ああ誰か不幸なマリアを暖めてえな”なんぞと、訳ば分からん大阪弁のごと使いよって客引きばやっとったとよ。甘かとぞ、マグダラのマリア、風別の八百屋お七、この松平伊豆守信綱にはぜーんぶお見通したい」
 珠樹はただ俯いてじっと聞いている。
「そこなおなご、正体明かされたら踏むしかなかろう」
 テツはなおも詰め寄る。
「ばってん、踏めんとよ。うちには踏めんとよ」
 珠樹は呻くように呟く。
「おまいら、どげんしても踏まんごたるなら、蓑踊りばしてもらわにゃならんぞ。腰にワラ蓑付けてな、ちょっと湿っとるごたるなら、また六年前のごと、ジッポのライターの出番たい。なあ、珠樹、またお前愛用のタイガー印徳用マッチなら、どんなせからしか腰蓑でん、普賢岳の噴煙のごと、見事に燃え上がるとやもんね。残ったマッチは五本だけたい。さあ、マリア様のもとに昇天したいのは誰と誰ね。コペンハーゲンのマッチ売りの少女が見事天国に送り届けますたい」
 テツは憎々しげに二人を順に見る。
「おう、そっちの競輪選手、何ね、その襟のフリルは。それにそのキンキラキンのバテレン服は。いまどきピエロでもそげん服は着んごたるぞ。せからしかのお。胸のクルスだけでは飽きたらんとか。情けなか。まるでおなごのごたる。そいでん、まるで天草四郎やなかとか。年くって筋肉つけた紅顔の美少年か」
「おいは競輪界の天草四郎と言われとっと」ぼくは小さく呟く。仕方なく呟く。
「ぐっはっはっは。えろう天草四郎とはイメージが違うばってん、こんなプロレスラーのごたる天草四郎がおるとは、ぐっはっはっは」
 テツは顔を近づけてぼくをジロジロ見て笑う。
「まあええわい。おまいは転ぶので有名な競輪選手らしかのお。“甲子園競輪場のコロ造”と言われとるそうやなかね。さあ、おまいたちの大好きなマリア様ば踏んでさっさと転ばんね」
「四郎様は若くてもわしらの総大将たい。転ぶわけはなか。たとえ島原大江名に立てこもった二万五千人の隠れキリシタンがすべて転んだにしても、四郎さまは転ばんとよ」
 珠樹が叫ぶ。
「おーい、蓑ば用意せんね」
 テツは誰もいない工事用トタンの裏側に向かって声を出す。
「ほんにヒジかものよ、キリシタンちゅうもんは。んにゃ、火はいらんばってん。火はこの女が持っとると。なんせ、紀ノ川の八百屋お七と言われた火付けの名手じゃけんね。蓑踊りに穴吊りか、辛うてたまらんとよ。もうワシも手荒なことはしとうなかよ。ああ、ほんに辛かあ。誰か一人、誰かこの中の一人があえて、あえて“転び”の汚名を着れば、ほかの二人は助かるでなかか、ワシも民百姓はイジメたくはなかぞ」
 テツはほんとに辛そうな声を出す。
「お許し下され、デウス様、マリア様。お許し下さい。長老・山善右衛門どの、愛しき山田ロザリオまきどの、おいはもう転びますけん」
 ぼくは急に前に出て踏み絵を前にしてブツブツ言う。よく見ると、それは踏み絵ではなくて、今日の尼崎競艇の出走表である。
「おい踏みますけん。おいは島原耶蘇教一揆の総大将などと呼ばれとるばってん、実はデウスなどこっから先も信じとらんばってん、なんぼでん踏めるとです」
「よお言うた。さすが“転びのタツ”と競輪場で名を馳せた男だけのことはある。外の者を率先して助けようというその心意気ば、見事ぞ。さ、さ、思い切り踏まんね」
 ぼくはこっそり後ろを振り返る。
「情けなかです。人間は弱かとです。ああ、おいは自由にデウス様を信じられる時代に生まれたかったとです」
 珠樹は黙って瞼を閉じる。ぼくは両手を組んで踏み絵に脚を掛けようとした。しかし強力な磁気に会い、脚を下ろせない。無理に下ろそうとしたとき「ああ」と声が出る。
「う、何ばしたとか」テツと珠樹はぼくの周りに駆け寄る。
「踏めんとよ、踏もうとしても足ば下ろせんとよ。ほんなこつ、足ば下ろせんとよー。うわー、体ば舞い上がるとよ。こうなれば体ごと下ろしますけん。そいでん許してもらえんとですか?」ぼくはテツに聞く。
「しょうのなか。この際、そいでん、よかばい」
「そいでん、これでん、脚組んでアグラかいて尻から落とすとです。エイ、ヤーッ」
「おお、翔んだ」テツと珠樹が一斉に声を出す。
 翔んではいない。腹筋には自信があったが、どうにも八十キロの体重が邪魔している。ドスンという感じで落ちただけだ。
「ああ、翔んだ、デウス様のお力で翔んだ」二人はまだ言っている。
「ほれ、ドライ・アイスたかんか。ここがクライマックスや。ドアルテ=コレアの予言した“白い霞”の出番や」
 テツが小声で珠樹に言い、珠樹は慌ててドライ・アイスの入ったポリ袋に水を入れて工事用トタン板の後ろから煙を出す。
「あれえ、皆の衆、ごらんなせえ。白い霞がたったとじゃ。この転び競輪選手、ロス五輪でまで転んだ銅メダレストが、デウスのご加護を得て、ETの自転車のごとく、空中ば舞っとるとぞ」
 テツはそのへんを跳ね回ったり、頭を抱えたりして驚いた様子を見せる。
「え、舞っとるって、ちょっとジャンプしただけと違うか?」
 何事かと寄ってきた客数人がテツの言葉に首をひねる。
「あ、飛び上がって降りたところが、何とまあ、今日のレース出走表じゃなかと。あ、神の啓示が降りたとじゃ。あ、六レースは大穴Bと@の二つの欄に足の親指と人差し指がかかりなさっとるとやなかか。こりゃえらかことぞ。マタイによる福音書にもちゃんと出とる。連勝単式の場合は左足または左ケツが一着、右足または右ケツが二着とそう出とる。デウス様が尼崎グローリーカップ三日目六レースはB−@一本でええと、こう預言なさっとるとじゃ」
「ほんと。六レースの大穴に脚の指がかかっとる。・・・・・・ひょっとして最終レースの予想も聞けるんですか?」珠樹がわざとらしく聞く。
「せからしか。おまいらはデウス様のお加護を競艇の予想なんぞに使うことば考えよっとか、天罰ば下るとぞ」
 テツが珠樹とその後ろの興味を示し始めた客に向かって怒鳴る。
「かまわんとよ」とぼくは小さく言う。「かまわんとよ、伊豆守様、おいはどうせ一度“転ぼう”とした男たい。・・・・・・かまわんとよ」
「な、聖人さまもこう言いんしゃっとるとよ。さ、さ、最終レースの出走表ば、ここば置くけん、一発やってくれんね」
 テツはいつのまにか鉢巻きをして、耳には赤鉛筆を挟んでいる。その伊豆守から予想屋に素早く変身したテツが手際よく最終レースの出走表兼踏み絵を差し出す。
「一人五百円、たった五百円たい」
 マグダラのマリア兼山田ロザリオまき兼紀ノ川の八百屋お七の珠樹が不意に顔を上げ、大声出して周囲を周り始める。両手を広げてカネを払うかどうかの“線引き垣根”を作るのだ。
「五百円は高いがな、普通の予想屋は百円やぞ」客の文句がブツクサ聞こえてくる。
「ああ、あれー!」
 ぼくのケツをどかせるようにして予想紙の踏み絵を覗き込みながら、テツは何かが乗り移ったような甲高い声を出す。
「最終レースの託宣が出なはったとじゃあ」
 予想屋に変貌した伊豆守は予想紙を見ながらさらに大きな声を出す。
「五百円持ってきたオッチャンだけ、二十分後の神の託宣が聞けるとぞ。これは二度とない託宣じゃ。おお、何のことばい、白鳩が出走表の上に舞い降りとるとぞ。えらかことばい。島原大江名の原城に舞い降りた鳳凰が指し示した神の国の啓示と同じとぞー!」
 予想紙とそれにケツを落とした筋肉質の天草四郎を隠すように珠樹が両手を広げる。珠樹もまたいつのまにか黒のドレープを身にまとっている。
「川瀬さん、逃げる用意しといて下さい。最終レースが、このおっさんどもに渡す紙に書いてあるA−C以外やったら、やつらすぐに血相変えてスタンドから飛び出してきますから、その前に逃げましょう」
 テツは獲得した十枚ほどの五百円玉を入れた袋をブラブラさせながら、小声でぼくに話しかける。
「チャリンコだけ車から下ろしておきました」
 テツは鉢巻き姿のまま、通りの向こうの高架下、百メートルほど先を指さす。コンクリートの柱の陰から、ぼくのロードレーサーの薄汚れたシルバーの頭だけちょろっと見えている。
「え、お前らは?」
「ぼくらはママ屋のバンで逃げます」
「バンて、だったらオレもバンで逃げるがな」
「何言ってるんですか、川瀬さん。川瀬さんのチャリンコはママ屋のバンよりよっぽど速いじゃないですか。本来なら、ぼくらも川瀬さんのチャリに乗っかって逃げたいんですよ、ねえ、珠樹さん」
 鉢巻き赤エンピツのテツが、黒いドレープをまとった珠樹に問いかける。
「ほんと、わたしも川瀬さんのチャリンコに乗って逃げたい、でもテツさんに怒られたんです、ロードレーサーは人乗せて走る構造になってない、お前は川瀬さんに負担かけて足引っ張りたいのかって」
 珠樹は走り寄ってきて、そう言いながら目頭を押さえる。
「・・・・・・オレもバンで逃げたい」
 小さい声で繰り返すが、テツも珠樹もそんな呟きは意に介さない。
「川瀬さんはチャリンコでおっさんどもを引きつけておいて下さい。引きつけて逃げる、これ、あのロス五輪以来の川瀬さんの得意技ですもんね。ぼくらも川瀬さんのようなチャリンコの力があれば、こんな、逃げるのにビクビクしないでも済むのに。・・・・・・ほんと残念です」
 数人の客たちが最終レースを買いにその場を去るやいなや、テツと珠樹は強烈な撤収スピード、ほんとに“予想屋四郎”を開帳するまでの、あのおっかなびっくりの雰囲気は何だったんだと言いたくなるような、まるでオオワシに狙われたプレーリードッグの巣穴避難のような素早さで荷物やノボリを片付ける。
「そげん危なかこつは、総大将にはお頼みできゃせんと、おいはみなに言うとりましたです。ばってんジェロニモ四郎様がどげんしてもやりたかちゅうて聞きなはらんとったじゃ。さすが天童と言われたお方だけのことはあるばい。島原の百姓二万五千を約束の地カナンへ連れていくと仰ったことは、どげん嘘ではなか」
 テツはぼくの横を荷物をひっ抱えて通り過ぎながらぶつぶつ言う。
「四郎様は群衆の追撃を、見事チャリンコで振り払われると言いなはったとじゃ。危なかことばってん、これは群衆の度肝を抜くに決まっとる。これでん手を伸ばせばデウス様の鳩を舞い降りさせる四郎様の神通力じゃ」
 珠樹も荷物を抱えて通り過ぎながら、何にうなずいているのか分からないが、ウンウンうなずきながら言う。このフリルの襟やキンキラのバテレン服着せたまま、ぼくにチャリンコを漕がせようというのか。
 そのとき生活に疲れたギャンブルおやじたちが最終レースを終えて、専用通路からこっちに出てきた。気のせいか、みんな血相が変わっているように見える。
 テツと珠樹は「そいじゃ」などと言って、急いでバンに向かった。ちょっと待て、その「そいじゃ」という、その冷淡さは何だ。
 しかし立ち止まって不満を言っている場合ではない。おやじたちは小走りで階段を下りてきている。危うい。ぼくはキンキラのバテレン衣装のまま、通りの反対側の高架下まで走りロードレーサーに飛び乗った。チャリンコ天草四郎だ。
 チャリンコ四郎は崇徳院通りを北に向けて一キロほど漕ぎまくる。国道二号線との交差点、尼崎西署前で待ち合わせて、ようやくロードレーサーをバンに積み込む。
「さすがですね、元オリンピック選手のモガキの前に、強突張りオヤジたちもなすすべなし、誰も追いかけて来れなかったですね」
 バテレン姿のまま後部座席に乗り込むと、テツが満面の笑みで振り返ってきた。
 ぼくの額から汗が噴き出す。こんなに必死でチャリを漕いだのはいつ以来か。
「いやあ、でも、川瀬さんが派手なバテレン姿で客を引きつけてくれたおかげで、ぼくらも安全に逃げられました。ほんと助かりました」テツはまた話しかける。
「テツ、お前なあ、人に客を引きつけさせて、そんなこと許されると思ってんのか」
 汗まみれの天草四郎が後部座席から運転席のテツの首を絞めにかかる。
「で、でも、川瀬さん、練習になったでしょ、最近こんな真剣なロード練習やってなかったんじゃないですか」
「何が練習じゃ!」ぼくはなおも首絞めにかかる。
「あ、や、やめてくださーい、ぼ、暴力は・・・」テツが喘ぐ。
「あ、いまラジオで尼崎ボートの結果言ってる。え?いま、最終レースA−Cて言わなかった?」
 カーラジオのつまみをいじくっていた珠樹が助手席で大きな声を出す。ぼくとテツは首絞め体勢のまま瞬間ストップモーションになる。
「珠樹さん、嘘はやめて下さい」
 テツが後ろから二本の手を首に受けたまま、珠樹をたしなめる。予想屋が「あんたの予想当たった」と言われて「嘘言うな」とたしなめるという、これは不思議な会話だ。
 珠樹がラジオのボリュームを上げる。
「あ!ほら!一三〇〇円の配当だって言ってる。A−Cで一三〇〇円だって言ってる。“スイチ”で一三〇〇円よ、これ凄いんじゃないの」
 珠樹が嬉々とした声を上げる。ぼくもテツの首から腕を離してラジオに聞き入る。
 テツは「珠樹さん、よかった」と珠樹と手を握り合う。
「川瀬さん、やりましたね。川瀬さんて、ひょっとしたら、ほんとに預言者なのかもしれない。いやあ、きっとそうですよ、神のケツですよ、川瀬さんのケツは。聖母マリアのヒップドロップですよ」
 テツは後部席を見て握手を求めてくる。ぼくも無意識にその握手を受け入れる。
「そうよ、わたしもいま思い出した。昔イタリアにそういう人がいたんだって。何か、こう興奮すると、体が浮き上がるんだって。それでみんなから奇跡の人だ、イエスの再来だってあがめられたんだって。・・・・・・普通はあれよね、興奮すると体が浮かずに勃起するもんね。でも勃起しても奇跡の人とは言われないのよね。このエロおやじがとか言われるのよね」
「珠樹さん、何言ってるんですか」テツがたしなめる。
「そうそう、フランチェスコって言ってたと思う。・・・・・・その、勃起じゃなくて、興奮すると体が浮き上がる人」
 テツの首から手を離したぼくも、テツと一緒に珠樹を見る。珠樹は両手を挙げ、フロントグラスから中空を見上げながら言う。
「イタリア・アッシジの聖フランチェスコなのよ、川瀬さんは。空中浮遊の聖者よ。小鳥とも話し、手足と脇腹にイエス磔刑(たっけい)の傷跡を持つという、アッシジの聖人フランチェスコの生まれ変わりなのよ。・・・・・・“師、空高く浮かび上がり、光をまといたれば、しかと見ること能わざりき”」
 珠樹は両手を掲げたまま、不意にぼくの方を振り返る。
「な、なんや」
「アッシジの信者たちはみな、ブナの木の高さまで浮遊する聖人を見て、そう声を上げたらしいの。・・・・・・“師、空高く浮かび上がり、光をまといたれば、しかと見ること能わざりき”」珠樹がまた下からこっちを見上げて祈りのような声を出す。
「チャリンコに乗るフランチェスコなのか・・・・・・」
 テツもこっちを見て感心したような声を出す。
「聖人て、まあ、そう言いたければそう言えないこともない・・・・・、人間鍛えに鍛えれば、それは必然的に聖なる領域に至るという、そういうことはある」
 ぼくは天草四郎のキラキラした前掛けを脇に寄せ、さりげなくサイドチェストのポーズを取って大胸筋をピクピクさせてみる。
「よーし、あしたもセンタープールの階段下に行くぞ、ねえ、珠樹さん」
 テツはこの大胸筋を見てないのだ。テツは珠樹に向かってこぶしを突き上げる。
「義を見てせざるは勇なきなりですよ、ねえ川瀬さん」
 テツはこっちを見て言う。でもピクピクしているぼくの大胸筋は相変わらず見ようともしない。
「義って」ぼくは大胸筋をしまいながら言う。
「ジェロニモ四郎の予想屋ですよ」
「義か、これ?」
「義ですよ、当たり前じゃないですか、盗人に追い銭って言うじゃないですか?」
「何?」
「知らないんですか、盗人に追い銭ってことわざ?」
「それ、意味が違うんじゃないか・・・・・・」
「何言ってるんですか、え、違いますか?まあいいや、紺屋の白ばかまとも言うじゃないですか」
「は?」
「イワシの頭も信心からとも言うし、石の上にも三年っていう有名なことわざもあるじゃないですか、昔から」
「・・・・・・」
「とにかく行きます、あしたも、あさっても、しあさっても。あ、川瀬さんも一緒に、さあこぶしを握って、“あしたも、あさっても、しあさっても・・・”」
「センタープール行くぞ!」
 力強くこぶしをあげるテツと珠樹の後ろで、チャリンコ乗りのフランチェスコも力なくこぶしを上げる。しかしそんな偶然が何回も続く訳がない。その後、三日センタープールに通ったが、もちろん一度も当たらず、最後の日にはほんとに客が「カネ返せ」と迫ってきた。これは怖かった。
「仕方ない、センタープールの無教養なアホどもはほんとにどうしようもない。カシ変えましょう」

 十二月に入って急に寒風が吹くようになった。十三のキャバクラ風俗街にも場違いなジングルベルが流れ、サンタクロースのきぐるみを着たねえちゃんたちが呼び込みチラシを撒き始める。そのジングルベルの微かな響きとキラキラしたネオンサインの一部がワニさん公園にも差し込んでくる。
 風が放置ゴミの発泡スチロールや段ボールの切れ端を巻き上げる。チリのような細かい、何か正体の分からないゴミがバラック小屋に飛んできて、バラバラ音を立てる。近所のやつら、何を捨てとんねん。
 ぼくは相変わらず『ポケット精神現象学』の、もう何度も読んだページを開いて、「かくてここにわれわれは、自己意識が自らの最内に帰り、あらゆる外面が消え去っていることを知り、自我の直観に帰り、この自己が全本質および定在となっていることを知る」、だめだ、うつらうつらしかかる。
「千円札が一、二、三、四・・・、五百円玉が一、二、三・・・、あと百円玉が一、二・・・」
 テツはこの前のセンタープールの稼ぎを数えている。もう何度もやっている。何度やったって同じだと思うが。
「なあ、テツ、マッチ売りの少女って、コペンハーゲンのちょうどここみたいな繁華街の外れでマッチ売ってたんだよなあ」
 ぼくは読んでいた『ポケット精神現象学』を伏せ、腕枕する。風にガタガタ揺れている天井を見ながらテツに言う。でもテツは守銭奴のように小銭ばかり繰り返し数えていて、返事しない。
「マッチって、そんなに、女の子が売ったりするものなのか?」
「何ですか?」やっと手を止めてテツがこっちを見る。
「ちょっと聞いたんやけど、“マッチ売りの少女”の頃のマッチってのは、こう、黄燐を使ったもので、ちょっと何かと擦れただけでも発火するし、有毒ガスは発生するし、十センチぐらいの長い棒になっていて、みんな危険物だと思ってたって話だぞ、そんな少女が街角で売れるようなものじゃなかったって話だぞ」
 ぼくは身を起こして続ける。
「テツ、お前も昔、和歌山ぶらくり町で“マッチ売り”の呼び込みやってたんやろ?マッチ売りってのは、テツ、いまで言うダイナマイトみたいなもんじゃなかったのか?」
 札を数える手を止めてテツがこっちを見る。
「ダイナマイトですか」
「少女がコペンハーゲンの冬の夜にダイナマイト売るんよ、“ダイナマイトはいかが、おじさん、ダイナマイト買ってくださいな”って」
「それは危ないです」
 テツは極めて冷静に否定する。なんでそんなに生真面目な応答をするんや。
「おじさん、ダイナマイトはいかが、ダイナマイト買って下さいな、ああ、今日もダイナマイトがこんなに売れ残ってしまった、このまま帰ったら、またおとうさんにぶたれるてしまうわ」ぼくは立ち上がって、弁当売りのようにダイナマイトを売る少女になる。
「まだ家に帰るわけにはいかないわ。ダイナマイトはまだ一束も売れず、おカネだって一シリングももらってないんですもの。ああ、コペンハーゲンの粉雪にうたれて、わたしのこの小さな手にはこんにいっぱいアカギレが。ああ、こんなときはたった一本のダイナマイトでもほんとうに役立つのです。女の子はとうとう一本のダイナマイトを引き抜いてシュッとやりました。ドッカーン、あれー!もう一本もシュッ、あれー!またドッカーン、危ないじゃないの、どうしたのよ、ドッカーン、ドッカーン、ドッカーン」
 ぼくは壁に体を打ち付けたり、床を這いずり回ったり、のたうち回る。でもテツは唖然とした表情で、数枚の千円札を握ったままじっとしている。仕方なく、ぼくは元の位置に戻って尻を下ろす。
「・・・・・・あのな、テツ」息を切らせながら言う。
「何ですか」テツがこっちを見る。
「オレ気になってるんや」
「・・・・・・」
「日本でも昔、花売り娘というのが隠語になってたことがある。あの子は花売ってたってな」
「何ですか、それ」
「つまりな、テツ。・・・ええか、テツ」とぼくは息を整える。「渡辺珠樹は“オーデンセの会”にいた。オーデンセの会はハンス・クリスチャン・アンデルセンの世界を至高のものと考えていた。出家信者で教祖の身の周りの世話をする若い女たちは“神の人魚”と呼ばれ、クリスマスページェントには必ずマッチ売りの少女を演じていた。根雪のある凍てつく紀伊山地の山あいの町で“マッチはいかが、マッチを買って下さいな”と言い、教祖が死んだあとは和歌山紀ノ川の河川敷で最後の一本のマッチを灯油に投げ入れて天国への炎に包まれたんや」
「どういうことですか、・・・・・・それ」
「アンデルセンの母親はオーデンセのオーベルゲイド通りで行きずりの男とセックスしてカネをもらって生活していた。靴職人だったアンデルセンの父親と知り合ってからは家庭に入ったが、その夫がナポレオン戦争に従軍して気が狂って帰ってきたあとはまた売春を始め、それもうまくいかず、夫が自殺したあとはアル中になってやっぱり自殺した。母親だけじゃない、アンデルセンの母親の母親もやっぱり売春婦だった。つまりそれはどういう意味や?」
「どういう意味って、どういう意味ですか?」
「・・・・・・」
 ぼくはしばらく黙る。テツは数えていた千円札と小銭を下に置いたまま、ぼくの方ににじり寄ってくる。
 木枯らしがまた小屋のトタン板をガタガタガタと、ほんとに壁が吹き飛ぶんじゃないかというぐらい揺らして、そのあとまた何か訳の分からないものがゴミ捨て場から飛んできてゴーンと大きな音を立てる。
「川瀬さん、ぼくは売春婦好きです」
「何・・・」
「いいじゃないですか、売春婦」
「テツ、お前、知ってたのか?」その声にテツは顔を上げる。
「ぼくは売春婦が好きです、川瀬さん。・・・・・・こうやってタバコ吹かせて、おにいさん、初めてなの?寒いから、早く済ませてねって、あの人たち、そう言うじゃないですか」
「お前、経験あるのか?」
「経験あるのかって、川瀬さんだってあるじゃないですか。この近所だって、十三栄町の裏の淀川公園のあたりに行けば、国籍不明のおばさんたちがカタコトの日本語でそんなこと言ってくるじゃないですか・・・」
「ああ・・・」
「ぼくは売春婦が好きです。あれはあのおばさんたちが“気はやらないぞ”っていういきがりなんです。ぼく最近やっと分かってきました。“参ったわよ、神の思し召しだって”って、鳴滝町丸太小屋の人魚たちはそんなこと言ってたんです、きっと。“アンデルセンの精髄だって。アンデルセンの母親がオーベルゲイドの橋の下で男呼んでたときの気持ちになってみろだって、まったくうちの先生も頭いかれてんのよ、さあ、とっととやってね”って、あの神の人魚たちはそう薄ら笑いしながら、自分たちに火をつけたんです」
「お前、知ってたのか・・・」
 バラック小屋の上を新幹線が通り抜けて、テツはまだ何か言っていたようだけど全然聞こえなくなる。新幹線の振動と木枯らしの突風で小屋のトタンの一部が剥がれたようで、ぼくらの背後でガタガタガタと大きな音がした。
 テツは泣いていた。俯いて両手床につけたまま、肩を揺すっている。でもまた反対方向からの新幹線が通過したようで、轟音と振動が小屋全体を覆う。棚も作業台も古い自転車フレームたちもみな揺れて、テツの肩は目立たなくなる。
 振動が過ぎ去ると、テツは涙を拭いながら後ずさりして、予想屋の売り上げの小銭を一つ一つ丁寧に瓶にしまう。それからまた乾布を取り出し、プラチナ・ナノコロイドの銀色のチェーンホイールを一心に磨き始めた。

「いかにも、おいはジェロニモ四郎たい」
 次の日の朝十時、園田競馬場の塀の前に立つ。じっとしていると体の底から震えが来るような朝だ。昨晩からの木枯らしもまだ続いている。空もいまにも降ってきそうな鉛色をしている。第一レースに間に合うようにと小走りに入場門に急ぐ客に向けて、ぼくは声を上げる。不思議なことに、場所を変え、回数を重ねるごとに恥ずかしさが薄れてきた。
「おいは長崎で神の使徒としての修練ば受けてきたとです。神はおいに悩み苦しむ人々を救い、福音を授けるように啓示されたとです」
 平日のこんな底冷えのする曇り空の朝、競馬場に入っていく人間の数はしれている。
 丹波山地から来た猪名川が伊丹空港脇の工場地帯に入ったあたりで急激に淀み始め、葦原とホテイアオイの水草の中で、二手に分かれる。園田競馬場はその二手に分かれた中州の空き地に出来ている。競馬場の塀の前に立つと、鉛色の雲の間から急に出てきたジェット機が低い音を残して伊丹空港に着陸していくのが見える。鋳物工場とゴミ処理場の煙突をかすめるように銀色のジュラルミンの巨体が川向こうに消えていく。煙突のけむりは猪名川からの寒風にあおられて低く流れている。河川敷に縄を張って競馬場の駐車場にしているが、止まっている車は数台で、長く続く猪名川の堤防の枯れすすきが丸見えだ。
「ばってん、おまいがた、知恵ある者たちはおいの言葉を聞かれんね。おいの言葉に耳を傾けんね。口が食物を味わうように、耳はおいの言葉をよくわきまえると思とります。悪しき者のはかりごとに寄らず、罪びとの道に立たず、あざける者の座に座らぬ者は幸いのごとできとります。こげん人は、流れのほとりに植えられた木が時がくると実を結び、その葉が繁るように、みな栄えるばってんが、悪しき者は風に吹き散るもみがらのようなものごつなるのが、ことわりというものですたい」
 ぼくのお決まりの口上がしみだらけのブロック塀と錆びた鉄骨に囲まれた広場に響く。テツは今朝起きたら熱があるとか言って、まだバラック小屋で寝ている。「今日も行く」と言ってきかなかったが、ぼくが無理矢理休ませた。だいたいもうやり方も口上も覚えてきた。珠樹と二人でも何とかなる。一人分の役が減ったって、とどのつまりわら半紙のインチキ冊子を売ればいいだけのことだ。どうにでもなる。
「四郎さまは、またの名をジェロニモと申し上げる。ほんに生娘のごと、やさしいお人じゃった。島原領主松倉重政の踏み絵検分のときに、四郎さまは聖母マリアさまの上に御み足を差しだしなされたばってん、その足下から白い霞が立ち、そのまま空高く舞い上がりなされたとじゃ。そいだけでんなか。サタンのごとき寄せ手に、ついに島原大江名の城に籠もられ、お館まで矢弾が雨アラレのごとく飛んできたばってん、四郎さまが手をさしのべなさるとな、空から鳩が舞いおりてきて、手の上に卵を産み、その卵を割ると、なんと、中からデウスさまの絵姿が現れたとじゃ。付き従ったキリシタンはもとより、寄せ手のつみ人たちもみな、その様子に恐れおののき、地べたに額をこすりつけて四郎さまに手を合わせたとじゃ。デウスさまのお加護はあらたかなもんじゃ。こげんひどかことがいつまでん、続くことはなか。そのうちにきっと笑うて暮らさるる日の来ると、きっと来るとじゃけん」
 珠樹が塀の陰で力をこめて言う。
 一レースがもうじき始まるというのに、心細い客の入りだ。しかもその少人数の客がブロック塀の前の異様な出で立ちで大声を出す二人連れにおびえている。みんな、チラッとこっちに目を向けると、“きっと、かかわってはいけない人間どもだ”とでも言いたげに反対の壁の方を見たまま通り過ぎていく。
 阪急園田駅前から競馬場まで続く猪名川沿いのダラダラとした道がある。枯れすすきと板金工場の屋根を両側に見る道を抜けると、競馬場入場門までキリンや象のペンキ絵の描かれたブロック塀が続いている。そのペンキ絵の前で、ジェロニモ四郎とマッチ売りの少女の駆け引きが始まる。
「おお、寒い。暖かい部屋でストーブに当たりたいわ。でも、マッチを売らなきゃ、またママ母にぶたれるわ」
 珠樹がブロック塀の窪みから出てくる。黄色の半袖のスウェットシャツに白いフレアスカート、手にはボンボンをつけている。十年前の、あの風別実業高校のチアガールの衣装だ。ぼくはびっくりして思わず声を詰まらせる。いつのまにこんな衣装を荷物の中に詰め込んでいたんだ。
「そ、そこな、マッチば売っとるオナゴ」
「なんですか」
 膝を抱えて座っている珠樹が、ぼんやり見上げる。十年前の、甲子園球場A−13番ゲートのあの顔だ。すでに目尻には皺が走っている。うっすら化粧したファンデーションも寒さのせいで浮き上がっている。どだい、チアガールなど無理なのだ。
「ちょっとこっちこんね、おまい、怪しか。ほんなこつ、怪しかあ。クルスでん、胸の中に隠しとるとでなかか」
「このクルスですか」
 女は悪びれず、白い乳房の谷間から、鎖を引き上げ、金色のクルスを出す。そしてこっちをじっと見詰める。
「ほーれ、やっぱり隠れキリシタンでなかか。家の納屋の奥にサンタ・マリアば隠して拝みよっとるとやろ」
「あなたは誰ですか」
「お、おいか、おいは雲仙普賢岳のポンティオ・ピラトと恐れられた長崎奉行、竹中采女(うねめ)重次たい。普賢岳の噴火口が寂しがっとるとぞ。最近、穴吊りが少なかあ、腰に火つけて登ってくる蓑踊り女が少なかあっちゅうてな。ハッハッハッハ」
「普賢岳のピラト?でも、あなた、首周りにひらひら広がるラフ・カラーをしているじゃありませんか。胸に黒いクルスをしているではありませんか。ラフはバテレンの印、クルスは耶蘇の証しではありませんか」
「う、おなご、なかなか言いよるの。おいの一番辛かことば、簡単に。いかにもおいはまたの名を天草ジェロニモ四郎と言うたい。島原の岬の先端に立って手を差し伸べれば、指先にデウス様の姿をした鳩が止まる、あのジェロニモ四郎たい。そいでん、おいは天草では天童の四郎、長崎に行っては隠れキリシタンを苛めさいなむ長崎奉行よ。胸の中にクルスを抱きながら、踏み絵と火打ち石を持って歩いた悪魔の化身よ。心にクルス、腕にタイマツよ。分かるか、このおいの辛か二律背反の人生が」
 何事か遠くから覗きながら通り過ぎる客が数人いるだけだ。
 顔を上げると、猪名川からの川風に乗って、チラチラと粉雪が舞ってきた。
「分かるか、この辛か生き方が」バテレン衣装を着た四郎と非情奉行の二役はうなだれる。でもぼくはまた顔を上げる。
「おお、思わず隠れ者の謀りごとに落ちるところであった。落ち込んでいる場合ではなか。おまいは何か。何者か」
「わたしはみんなからはぐれてしまったコペンハーゲンのマッチ売りの少女です。わたし、帰り方が分かりません」
「どこまで帰るとね」
「北の大きな川のほとりです」
「この冬空にノースリーブとフレアスカートでは寒かろう。いかれた服装ばい」
「はい、でも先生から、ここで座って、洗礼をほどこしてくれる人を待つようにって、きつく言われていますから。どんなに寒くても、その心から暖めてくれる人が来なければ、北の国に帰ってはいけないと言われていますから。ほかの仲間たちはみんな、暖めてくれる人を見つけて帰っていきました。わたしだけ、まだ見つけられなくて、このA−13番ゲートでこうやって待っているんです」
 天草四郎はチラチラとノースリーブ姿のマッチ売りの少女の胸元を覗き込む。
「暖めてやらんこともなかばってん・・・・・・」
「二万円でいいです」
「う?」
「二万円でいいです」
「カネば取るとか」天草四郎は大声を出す。
「先生が二万円だけもらいなさい、それ以上はダメだって、何度もきつい言葉でそう言われていましたから」
「二万も取れば上等たい。そげんこつじゃなか。カネば取るとはどういうことね。おまい、カネば取るとね。十二年前、凍えるわたしを救ってくださったと言うたっち、あの感謝の言葉はソラゴツと言うとね。ママチャリの荷台で武庫川大橋ば越えるとき、酷寒のコペンハーゲンの空にただ一条のオーロラを見たっちゅう、あればソラゴツね」
「二万円下さい」
 マッチ売りの少女は、天草四郎の大声にも動じることなく、ただ俯いて金額だけを口する。
「二万円下さい」
 少女の頭に白い粉雪が舞い降りている。ちょっとの間に雪が急激に降り始めた。まだ午前中なのに、辺りは夕暮れのように暗く、ただ白い雪だけが斜めに吹きつけてくる。
「胸にクルスば隠す信仰の者がカネば取るとかって、おいはそれを聞いとるとよ」
「先生はおカネをもらうというのは相手に対する思いやりだって言いました。カネをもらっておけば、相手は安心してお前のことを捨てられるからって。くれぐれも愛を求めるな。カネで買った女にしてもらいなさいって」
「十年間、ひたすら胸の奥深く、ひっそりとコンジキのクルスをひた隠しに隠しながら、北の大河のほとりのマッチ売りの少女はジェロニモ天草四郎を探していたというのはソラゴツね?東方の博士のごとく、導きの星を見たというのもソラゴツね」
 珠樹の頭と黄色のノースリーブの衣装の上に粉雪が白い灰のように積もっていく。
「二万円下さい、お願いです、二万円だけ下さい」
 まつげに粉雪を積もらせながら、珠樹がこっちを見上げて繰り返す。
「南無天帝大菩薩、南無天帝大菩薩。いかさま四郎さまは天使の子のごとござらっしゃった。昨日も寄せ手の衆が、おおぜいで打ちかかったが、四郎さまは、ほんに、かすり傷ひとつしなさらん。それにひきかえて、寄せ手の側は総大将まで討ち死にして引き上げたごつある。南無天帝大菩薩、南無天帝大菩薩」
 テツだった。「今日はカゼひいて辛いから」と言って、ワニさん公園の小屋に引きこもっていたのに、いつの間に出てきたのだろう。
 ぼくも珠樹もテツの姿に驚いて、しばらく黙る。
「珠樹さん、どうしてもこれだけは言っておかないといけない気がしていました」
 テツが唐突に「珠樹さん」と言ったものだから、ぼくは驚いて次の口上が出ない。
 珠樹は膝を抱えたまま首だけ上げてテツの方を見る。ノースリーブから出た腕には鳥肌が浮き出て、その上に雪がどんどんかかる。
「昭和六十二年十二月十八日の未明、今日のように粉雪が舞う寒い日でした。和歌山市紀ノ川にかかる北島大橋のたもとのESSOで、まだ高校生だったあなたに灯油を売ったのはぼくです。ポリタンク三つはいくら何でも持てないでしょうと言って、そのうち二つを持って白蓮河原に下りる土手の所まで送っていったのも十九歳のときのぼくでした。その数時間後白蓮河原で火の手が上がり、救急車が駆けつける中、ぼくはただじっと様子を見ていた。ジッポのライター持って放心しているあなたを警察官が連れて行くのをぼくはただ土手の上から見ていた」
 動けなくなった珠樹の髪にも粉雪がかかる。テツの残り少ない髪の毛が川風に巻き上がり、禿げ上がった前頭部にも粉雪がかかっている。
「そうたい。ワシが小野川吉三郎たい。八百屋お七を鈴ヶ森の磔刑場に送り飛ばした吉三郎たい。そうたい、無視したばい。なんば、せからしか火のごと点けおって」
 また横から思いがけない声が聞こえた。振り向くと水本サキだった。どうしたというのだ。なんでここにいるのだ。
「この際、はっきり言うてやるばい。ワシは島原原城の隠れキリシタンの生き残りたい。齢(よわい)若干十四歳のとき、ジェロニモ四郎様直々に衆道の道、隠れキリシタンとしての衆道の道を手ほどき受けた者たい。おいは長崎奉行・戸田釆女重次に復讐するために、ただそのためだけに生きとるとよ。同志たちを草と土壁しか食う物がないよう兵糧責めにした上に、皆殺しの火の手を放った、あの憎き釆女に復讐するために。せからしか人間たちばい。なんでんよかけん、さっさとマリアの絵を踏まんね」
 サキはほんとに衆道の者のような声を出し、男物の着流しを着ている。
「そっちのバテレンの格好したガタイのでかいやつ。おまいは競輪界で“転びのタツ”とあだなされた男ではなかか。転ぶのが取り柄の男でなかか。さっさと転んだらよかよ。さあ、さっさとマリア様を踏んで楽にならんね」
 サキは棍棒を持ってぼくの方を指さす。
「驚いたか、この島原の隠れキリシタンたちは。そちらの戸田采女様が連れて来て下さったのよ」
 サキはテツの方をあごで示す。
「え?」ぼくは驚く。
「そちらの戸田采女様、またの名を穴吊り奉行と申される方が、隠れキリシタンならあちらにおりますと言うて、ご親切に連れてきた下さったのじゃ」
 ぼくはどういうことなのか分からず、黙ってしまう。
 みんなの頭や背後のトタン板に粉雪が降りかかり、溶けずに貼り付いていく。
「マグダラのマリアは娼婦でした」
 珠樹が口を開き、それからよろよろと立ち上がった。
「主イエスが自分の家の近くに来たとき、涙でイエスの足を濡らし、髪の毛でそれを拭き、それから御足に接吻して持ってきた香油の壺をイエスの頭からかけた。正気の人間のすることではありません。でも切羽詰まったマグダラのマリアは、イエスさまにはそれしか自分の愛を伝えるすべがなかったのです。マグダラのマリアはそれほどイエスさまのことを恋い焦がれていたのです」
 珠樹は誰に言うともなく、ただ自分に言い聞かせるように静かに前を向いて続けた。
「マグダラのマリアはイエスがゴルゴダの丘で処刑されるのをじっと見ていました。愛する人が十字架にはりつけにされ、無惨に最後を迎えるのを瞬きもせず見つめていました。気を失うことも、涙を流すこともせず、じっと見ていました」
 珠樹はそう言ってぼくの方に近づく。
「われわれはCIA合同捜査班だ、宇宙からの未確認飛来物体について重要な調査をしにきた、この辺りに宇宙から飛来し、地球に取り残された生物がいないか」
 兵藤清之助だった。GIジャンパーにジーパンを履いている。ベルトには多数の大きな鍵がぶら下がったキーホルダーを付けていて、言葉の合間合間に腰を振ってジャラジャラと音を立てる。あの、腰の鍵束から「キーズ」というニックネームで呼ばれたCIA調査官、ETを怯えさせたあのキーズと同じスタイルだ。
「ホーム、ホーン、ホーム、ホーン、ぼく、おウチに電話したいんだ、みんな迎えに来てよ、みんなどうしてぼくを置いて行ってしまったのって、軟弱な電話をかけているやつがいるんじゃないのか、甲子園球場からも、北海道の風の街からも、一筋に思い続けた人からも、そして天国に行く仲間たちからも取り残されてビービー泣いてるやつがいるんじゃないのか、タイム!ピッチャー、ボーク!そんなやつはこの甲子園の歩くルールブックが許さない、ボーク!ボーク!断然ボークじゃ!」
 清之助は一昔前まで使われていたサンドイッチマンのような巨大胸前プロテクターを構え、タイム!のコールのあと、指でピストルを作り、予想屋集団を指してボークを連呼する。
「電話ならオレにして来い、イー・・・ティー・・・!」
 ボークの連呼のあと、清之助はさらに一歩前に出て、ぐいと右手を突き上げ、そのこぶしを悲痛な顔で見上げながら、絞り出すように言う。
「わたし置いていかれたの、悲しいチアガールなの、誰も迎えに来てくれないの、おじさん、マッチはいかが、悲しいチアガールのマッチはいかが、こんな寒い、凍え死んでしまいそうなコペンハーゲンの夜にはわたしのマッチが一番よ、一本二万円、とっても暖まるわよ、おじさん、マッチはいかが、わたしを暖かいふるさとに連れて帰って、お願い。おじさん、ほんとにマッチはいかが、A−13ゲートを根城に、ノースリーブ着てじっと男を待っている、そんな女は甲子園球場衛生管理主任のわたしが容赦しない」
 サキが言う。いつのまにか着流しを脱ぎ、白衣の上下にメガネを掛け、カルテ板を持っている。
「もういい、珠樹、帰ろう、ずいぶん探したわよ、わたしと一緒に和歌山に帰って、紀伊水道の見える丘で静かに暮らしなさい、昔の仲間だって紀伊水道の水の泡になって待っているじやないの。珠樹知ってるでしょ、わたしがオーデンセの会の後始末に当たったケースワーカーだったってこと。ケアしてたのよ、あなたたちのことを」
 サキがそう言う。
「わたしたちは」と清之助が言い、「さまよえる若者を救う」とサキが言い、「青春ケースワーカーだ」と二人で両手を上下に広げて唱和する。なんだ、こいつら。
「わたし、十年前から、一つのことを思って、それを伝えて、迎えに来てもらいたいと、何とか連絡取りたいと、そればかり願ってきて・・・・・・」
「もういい、珠樹、帰ろう」清之助が強く言う。
「まだうまく連絡が取れないんです、電話がつながらないんです、あのとき、みんなに乗り遅れてごめんなさいって謝って、あれからずいぶん経つけど、こちらでもこんないい人たちに助けられてって、ちゃんと報告しないと、それしないといけないんです、まだちゃんと報告出来てないんです、まだうまく連絡取れてないんです」
「ETが連絡するところはどこにもない。自分を見捨てた者は電話に出ないんだ」
 サキがドスを効かせた声で言った。
「川瀬さん、あのときの、あなたの背中にしがみついたときの汗の匂い、忘れません。わたしを伊丹空港まで送ってくれた、あなたの優しさ、ずっと覚えてます」
 粉雪が顔にかかったまま、珠樹はかすれた声で言う。言いながら、サキの方へ近づいていく。
「川瀬さん、行って下さい、連れ戻して下さい、珠樹さんを。ハーシーズのリース・ピースなんです、川瀬さんは。ET連れ戻すには、唯一の好物リース・ピースを持っていくしかないんです」
 テツが泣きながら言うが、ぼくはただじっと立っているだけだった。

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