ちゃりんこダビデ

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  第7章  


「川瀬さん、この前、尼崎でアライグマ強盗ってのがあったの、知ってます?」
「うん?」
 ぼくは廃用自転車のリムを重ねて作った手製ダンベルを動かすのを止めて、ヘーゲル語録から顔を上げる。
「アライグマ強盗です」
「何や、それ、アライグマ盗むのか?」
「ね、そう思うでしょ?普通はそう思いますよね、違うんです、“アライグマを殴るぞ、カネ出せ”って言うんです、強盗が」
 テツはつついていたETプロムナードから手を離し、スパナを振りながら言う。
 チャリンコ・ママ屋のバンに乗って、ぼくとテツは甲子園の南、今津浜・朝凪(なぎ)町県営団地の脇、大半が雑草に覆われた通称ブタクサ公園に来ていた。公園とは言っても計画的に作られたものではない。数年前まで「阪神甲子園パーク」という阪神電鉄が運営していた巨大遊園地の廃墟の南東の端で、いつまでも整地されず次期計画も決まらない状態なので、県営住宅の住民が雑草の一部を刈り込んで滑り台やブランコを置いたものだ。
 県営団地の向こうはすぐに海で、今津港の積み出し用倉庫の屋根が連なっているのが見える。“キリン”と呼ばれる背の高いコンテナ船への積み込み用クレーンが三台ほど並んでいるのも見える。でも肝心のママ屋の客はさっぱり来ない。
 昔は団地に着いたら、バンに備え付けたスピーカーからまず音楽を流していた。
「みどり〜の風も さ〜わやぁかぁに にぃ〜ぎ〜るハ〜ンドル 心もかぁるぅく サイクリング サイクリング ヤッホー ヤホー」
 小坂一也の「青春サイクリング」だ。ちょっと古いが、いや大いに古いが、テツはこの曲が大のお気に入りだった。
「奥様、ぼっちゃん、おじょうちゃん、自転車の調子はどうですか、ギアが錆びると心が寂しい、チューブがへこむと気持ちが萎える、あなたと愛車の整備士さん、動く自転車ドクター、チャリンコ・ママ屋が今週もやってきましたよ」と運転席でハンドマイクを持ってテツが口上を叫ぶ。でもスピーカーもハンドマイクもとっくに壊れてしまった。残念だけど、もう直すカネもない。
 それでもどういう訳か、今日のテツは嬉々としている。まるで客が来なくて幸いとでもいうように、バンから例のETプロムナードを取り出してつついている。
「でね、川瀬さん、だとしたら、アライグマ連れてる人間を狙うのかってことになるでしょ、アライグマ連れてる人間なんてめったにいないじゃないですか、非常に確率悪い強盗じゃないかってことになるじゃないですか、違うんです、それが違うんですよ、川瀬さん、自分の連れてるアライグマを殴るって言うんです、強盗が」
「はあ?」
 二週間の黄檗山山ごもりを怒りと共に終えて、ぼくは帰ってきた。帰ってきたが、まだ延々と斡旋停止は続くからぼくはすることがない。テツの倉庫にあった軸受けの両側にギア板をくっつけて作った自家製ダンベルを上げたり、下げたりしながら、ヘーゲル語録を読む毎日だ。
「こうね、尼崎大物町あたりの通りをアライグマ抱いて歩いていて、すれ違う人間がいるとするじゃないですか、そしたら“おい、ちょっと待て、オレはいまからオレはこのアライグマを殴る、いいのか、殴っても”って訊くんです」
「はあ」
「おかしいでしょ?変じゃないですか、呼び止められた通行人の方だって戸惑いますよ、“え?そのアライグマ殴るの?きみの抱いているそのアライグマを殴るの?うーん、他人のアライグマだから殴られてもいいような気もするけど、でもこの男がいいのか?って自信をもって訊くぐらいだから、多分わたしにとってこれは辛い出来事なんだ、カネを出してでも阻止しなきゃいけないことなのかもしれない”とか色々考えますよね」
「ああ・・・・・・」
「川瀬さん、でもね、ぼく、このニュース聞いたときこれじゃないかと思ったんです」
「何が?」
「何がって、ETプロムナードが空飛ぶ理由ですよ」
「・・・・・・」
「普通はね、川瀬さん、“お前を殴るぞ、嫌ならカネ出せ”でしょ。カネ出すのは嫌かもしれないけど、出さないともっと嫌なことが起こるぞ、カネ出すぐらいで納めといたらどうだって一応筋が通ってるじゃないですか、強盗だけど、一応辻褄の合うことを言っているじゃないですか。でも“オレのアライグマ殴るぞ、嫌ならカネ出せ”ってのはカネ出すのは嫌かもしれないけど、出さないとお前にとって嫌かどうか分からないことが起こるぞって、全然辻褄が合ってないじゃないですか、こう、プラスとマイナスが対応してないじゃないですか、でもこれ、新しい強盗じゃないですかね、・・・・・・つまりそういうことなんですよ、きっと」
「何や、それ、ETのチャリンコとどう関係があるんや」
「いいですか、川瀬さん」
 テツは立ち上がってぼくの方にさらに近寄り、身振り手振りを入れて語り始める。
「いいですか、自転車は金属で出来ている。例えば気球は合成樹脂とアルゴンガスで出来ている。気球はアルゴンガスだから浮くけど自転車は金属だから浮かない。でもオレここにET乗せちゃうよ、いいのか、ET乗せても。ET乗せるともっと重くなるよ、何せ地球には引力ってのがあるからね、いいの?ほんとに乗せても、ほーら浮いた、浮いちゃったよ、知らねえよ、オレはって、そういうことなんじゃないですかね」
「何言っとるか、さっぱり分からん」
 ぼくはそう吐き捨てて、またヘーゲル語録黙読と自家製ダンベル昇降運動に戻る。
「川瀬さん、ちょっとこの前カゴに乗ってくれませんか」
「何?」
「オレ考えたんです、ひらいめいたんです、アライグマ強盗のおかげで、あのですね、いいですか、川瀬さん、ETの自転車が空飛んだってのは、超能力とかそういうんじゃなかったんです」
「・・・・・・」
「実は力学だったんです。地球上のぼくらが気がついていないだけで、今の力学にほんのちょっと、でも誰もが見落としてしまう落とし穴があって、なーんだ、自転車や人間が空飛ぶなんて、こんなことだったのかという、そういうことなんです、人が自転車乗ってちゃ絶対浮かない、でもET乗せると、ETは見た目よりずっと重いとか、ずっと軽いとか、そういう地球の重力体系から外れている体重をしていて、それが乗るだけで、チャリンコ自体が地球の力学から少しだけずれるんですよ、そういうことなんですよ、きっと、超能力でも何でもないんですよ」
「ほお」
 空はどんより曇っている。肌寒い風が吹き、港湾の海面も波立っている。今津浜の対岸にある大阪南港のテクノポートのビル群も、阪神高速湾岸線の高架の向こうに見える六甲アイランドの巨大クレーンも霧にかすんでいる。
「だから川瀬さん、乗って下さい」
「何?」ぼくはヘーゲル語録から目を離さず、うるさそうに返事する。
「乗って下さい、ほんとにうまく行きそうな気がするんです、普通大人が乗った自転車の前カゴに、漕いでいる人間より大きい人間が前カゴに乗るってありえないじゃないですか、そんな男が前カゴに乗ってるチャリンコって見たことないじゃないですか、ここですよ、つけいる隙は」
「何でそんなとこ、つけいる必要があるんや」
「大丈夫です、川瀬さん、川瀬さんが乗っても大丈夫なように前カゴに鉄板仕込んだんです。ほら、川瀬さん、あなたが訳の分からない本を読んでる間にコースもセッティングしました」
 テツは後ろを振り返り、胸を張ってぼくに指し示す。ぼくもそちらの方を見上げてみて驚いた。ブタクサ生え放題の小山の錆びたすべり台の裾に、どこから持ってきたかトタン板を継ぎ足し、その下に自転車の古いリムやスポークやチューブを置いて支えている。まるで二十メートル級ジャンプ台だ。
「いやや」とぼくは硬直したまま答える。
 小山の下には何本か自転車チューブが置かれていて、一応それが滑落したときのクッションという意味なのだろうが、とてもそんなものがぼくの八十五キロの体を守ってくれるとは思えない。
「絶対いやや」
 ぼくは錆び付いたすべり台のてっぺんから滑落地点の小山の下まで、もう一度ゆっくり視線を這わせて、こわばったまま首を振る。子供の遊具と思ってばかにしてはいけない。すべり台の上にはびゅーびゅー風が吹いていて、台全体が揺れている。すべり台だけの高さだけならまだしも、その下の小山が公園の一番下から五メートルほど盛り上がっている。テツがご丁寧にそこにスロープを付けている。
「それでも浪速の黒豹と呼ばれた男ですか、あのサンノゼヒルズ・バンクの五十度カントの最上部でスタンディングやってヤンキーたちを驚かせた大和魂はどこ行ったんですか、競輪界のダビデ像と自負していた筋肉のプロテクターはもう消えてしまったんですか。エラの谷で巨人ゴリヤテを撃ち倒したちゃりんこダビデの度胸を見せて下さいよ」
「・・・・・・」
 人の急所をグイグイ突いてくるテツの言葉に、ぼくは迂闊にも踊らされてしまった。
 気がついたら錆びたスベリ台のてっぺんにいた。上まで来ると風景が一変していた。南には荷揚げの桟橋が見える。港湾倉庫の連なった屋根の向こうに大型フォークリフトが行き交っているのも見える。海上を渡る強い風のために桟橋に当たる波が白く砕けているのも見える。ブタクサの剥げた空き地に止め、後部ハッチを上げて自転車工具を並べているママ屋のバンだって、ここから見るとほんとに小さく見える。下から見ていた以上に古びたすべり台が揺れる。ぼくは思わず手摺りを持って体を支えた。
「さあ、ここ乗ってください」
 テツはぼくの後ろからすべり台最上部までETプロムナードをかついで持ち上げてきて、鉄板で補強したバケモノのような前カゴ、というより前板を指し示す。
「川瀬さん、そんな真ん中に立ってると、プロムナードをセット出来ません。もっと横に寄って下さい」
「横に寄れって、お前、だいたいこんな狭いスペースにチャリンコ持ち上げてくるのが間違っとるやろ」
 ぼくは手摺りを持って、かろうじて体をずらす。
「何ですか、すべり台の上に立つだけでびびって。幼稚園児に笑われますよ」
 テツはぼくすぐ脇にプロムナードをセットする。
「さあ、行きますよ」
「・・・・・・」
「はい、川瀬さん、このチャリンコ・ママ屋特製強力前カゴに座って」
「こ、こんなとこに座るんか」
「川瀬さん、早くしてください。ETプロムナードは駐輪装備は最小限にしてあるから、走りだすと安定するけど、停車中はバランス悪いんです」
「何言うとんや、走ってても安定感なんかないやないか、このチャリンコ、ほんまコケてるとこしか見たことないで・・・・・・」
 ぼくのグチは強風に掻き消されてテツの耳には届かない。
 座ってみると赤ん坊用の自転車椅子のように、足二本だけがカゴの穴から下に出る。まるでオムツされた大人のような格好だ。
 三十代のいい歳した男が二人、こんなすべり台の上で自転車に乗って喚いて、どこがETかという感じだ。
「川瀬さん、満月は出ていますか?」
「何?」ぼくは怖ろしくて後ろへ後ろへのけぞり、声も満足に出ない。
「月ですよ、川瀬さん、満月は出てますか?」
「あほか、昼間やないか」
「へへ、そうでしたね。でも、これも決まりなんでね、我慢してくださいね、・・・・・・それにしても、やけにデコボコした道だなあ、ET、もうここからは歩いていかないといけないよ」
「何言うとんねん、訳の分からんことを」
「川瀬さん、そんなに後ろに来ないで下さい、全然前が見えません」
「そ、そんなこと言うたって、しょうがないやないか」
「ET、ほんとにここからはもう歩かなくちゃいけないよ」
「・・・・・・訳の分からんこと言うな」
「川瀬さん、後ろに来ないでって、ほら、風に当たるように前に顔を突き出して、ETは前に行きたい一心なんですから」
「・・・・・・」
「それにしても、これ、やっぱり前が重たいなあ、全然バランスが取れない、あ!」
 ぼくが怖さのあまり上体をねじった瞬間、テツのETプロムナードはスロープをすべり出した。
「ET、高すぎる、これは高すぎるよ」
 テツはなおもエリオット少年のセリフを口にする。
「バカタレ、そんな悠長なことを言うてる場合か」
 ぼくが叫んだとき、チャリンコはすべり台下に作ったトタン板に乗っかり、乗っかったとたんトタン板は外れて、二人とチャリンコは空中に投げ出され、古チューブの置かれた小山の下に叩きつけられた。
「Don't crash please!」
 痛さの中、それでもテツはお決まりのエリオット少年のセリフを吐く。
 ・・・・・・・・・。
 やっぱり雨が降り出した。
 公園入り口の銀杏の枝に吊した「あなたのチャリンコ診療師 ママ屋」の段ボールの下げ札が雨滴を浴びて黒く変色してきている。色づいた銀杏の葉もパラパラと落ち始め、その段ボール札に貼りついて一瞬躊躇して、路面に落ちる。テツはバンの後ろ扉をいっぱいに上にあげ、そこに雨よけのビニールシートをパイプの支柱を付けて張り出す。そのひさしの下で、ぼくはすりむいた肘や膝にオキシフルを塗り、染みるたびに顔をしかめる。
「だいたい何でこんな医薬品がチャリンコ屋のバンに用意してあるんや。理論だとか、解明したとか、訳の分からんことをなんのかんの言いながら、転ぶことを前提に試走してるんやろ、くそー、人を実験台にしやがって」
 ぼくはぶつぶつ言ってテツを睨むが、テツは首を傾げながら、ETプロムナードの被害状況を調べている。
「テツ、お前、ワイシャツのここんとこ、それに肩口も破れてるぞ、おでこにはタンコブ出来てるし、とりあえず薬塗っといたらどうや」
「いえ、オレは大丈夫です、・・・・・・でもおかしいなあ、どうしたんやろ、何とかなるはずだっのに」
「何ともなるか、ETの自転車なんて、この世に存在するか。だいたいどんな女にお前たぶらかされたんや。この前のあのインチキ予想屋の女か、あの女にたぶらかされてインチキ予想やらされた上に、ETの自転車まで作らされてんのか」
「たぶらかされたんじゃありません、珠樹さんは心の純粋な人なんです」
「“わたしETの自転車が欲しいの、テツさん作って下さらなーい”とかって、こうやって胸の前でハンカチ持った手を合わせて、そんな女のどこが純粋や、この単純そうな男なら、こうやりゃイチコロで騙せるとか、そう思ったのに違いないんじゃ」
「やめて下さい、珠樹さんの悪口言うのは、いくら川瀬さんでも怒りますよ」
 テツは雑巾を持ったまま立ち上がる。
「あほらし」ぼくはバンの荷台にゴムシート敷いて寝転がる。
 開いたハッチから目の前の朝凪町市営バス車庫の看板が見える。その向こうに雨に濡れ始めた甲子園競輪場の錆びたスタンドが見え、その向こうに、それを圧するように甲子園球場の銀傘が一際高くそびえている。
「オレも野球やりゃよかったかなあ」ぼくが呟く。
 ここにいると、一層甲子園球場の大きさがよく分かる。その手前にある甲子園競輪場の屋根の何と古びてチャチなこと、ぼくはあらためて溜息をつく。
「川瀬さん、甲子園競輪場がなくなるって本当なんですか?」
「うん・・・・・・、市議会のお偉方が議論しているらしい。ここ何年か、ほんとに客入ってなかったからなあ」
「でも甲子園競輪場なくなったら、川瀬さん、どうやって練習するんですか、兵庫支部の選手のホームバンクはどうなるんですか」
「どうなるか分からん。トップの選手たちは京都向日町(むこうまち)や大阪岸和田にホームバンクが変わって、そこの支部に入るみたいやけど、今回はかなり引退勧告が出るらしい、・・・・・・腐ってもタイ、川瀬、お前は下のクラスでも客を呼べる選手や、さすが元オリンピック選手やって、ちょっと前まではそう言われてたけど、・・・・・・オレももうB級やからな」
「寂しいっすねえ」テツはそう言って下を向く。
「寂しい」
 ブタクサの草むらから雨水が筋を付けて流れ始めた。ブルーのビニールシートの真ん中が窪んで、そこに雨滴が溜まっているのが分かる。
「オレにもETのチャリンコがあればなあ・・・・・・」
「え?」テツが驚いて顔を上げる。ぼくは笑って続ける。
「テツ、オレな、こう言ったら何やけど、“前の脚”はあるんや、前に踏むだけやったら、B級、A級どころやなくて、いまでもS級のトップのやつらにも負けない自信があるんや、でもあいつら当たりに来るやろ、人押しのけに来るやろ、何でや、そこまでして勝ちたいんかって思う、いやオレだって勝ちたい、ほんと言うと、当たってでも勝ちたい、でもオレ当たり合うのが怖い、最近特に怖くなってきた、転びのタツとか、達造じゃなくてコロ造やっていう、あのバカ客の言うヤジもほんとは当たってんねん、ほんとはな。・・・・・・でもな、テツ、ETの自転車があったら強いで、当たられてこけそうになったら、フワッと浮くがな、フワッと浮いて、先行選手の直後の一番ええ場所にシュッと降りられるがな、ええで、これ」
「分かりました、川瀬さん、ETプロムナード、もう一台作ります。いや一台出来れば、原理が分かれば、それは一台作るのも二台作るのも一緒です。きっと珠樹さんだって、川瀬さんが同じETプロムナードに乗ってくれるんなら大喜びのはずです。分かりました、川瀬さん、もうちょっとです、もうちょっとで出来ます、もうちょっとだけ待っていて下さい」
 テツはバンの荷台からスパナを取り出す。それを持ってニヤッと笑い、また雨の中にETプロムナードを持ち出して調整し始めた。
 今津浜に高い白波が立っているのがここからでも分かる。荷揚げクレーンの手前の空き地に、雑草の中に少しだけコスモスが咲いていて、そのピンクや白の数十株の花が風雨になびいている。
「なあテツ、ETって“ホーム、ホーン”って言ってたよな」
「何ですか」
 テツがプロムナードをつつきながら答える。
「ホーム・ホーンって、ほら、こんな長いクシャクシャの指出して、家に電話するとか何とかって言ってたよな、ETって」
「川瀬さん、ET見たんですか?」
「うん、ロスで」
「え、ロス?ロスってロサンゼルスのことですよね」
「あ、まあ」
「へえ、ロスかあ、かっこいい、・・・・・・でもロサじゃないんですか?」
「うん?」
「ロサンゼルスを略すんならロスじゃなくて、ロサじゃないんですか?あれ、なんでみんなロス、ロスって言うんですか?ロサでしょう」
「ロサとンジェルスに分かれるのか?おかしいやろ、そんなこと」
「そうですよね、変ですね・・・・・・。まあいいや、そうですか、ロスですか、カッコいい、え、川瀬さん、ET、ロサンゼルスで見たんですか?」
「雨のセブンス・アベニューやった」
「わ、ますますカッコいい」
「テツ、ロスのダウンタウンじゃ、セブンス・アベニューなんて田舎者の集まるところよ、オレ自分で言いながら、いま顔から火が出るほど恥ずかしかったもん、ウォークライ・ストリートとか、ギルティッド・パークとか、せめてそれくらい言わなきゃな」
「へえ、そういうものなんですか、へえ、ウォー何ですって?へえ、とにかく凄いですね、でも川瀬さん、言葉分かったんですか、向こうじゃもちろん日本語の字幕なんかないですよね?」
「ET、ホーム、ホーン、ET、ホーム、ホーン」
 ぼくはETのように電話を掛ける真似をする。
「あ、分かったんですね、英語、すごーい」
「ま、ほら、こう見えてもオリンピック代表選手、日の丸を背負ってアメリカに渡ってた人間だし」
「あ、これはまたお見それしました。ですよね、ですよね、うん、うん」
「ET、ホーム、ホーン、ET、ホーム、ホーン」
 ぼくはまたETの電話の真似をする。ちょっとくどい。
「川瀬さん、その電話は分かったんですけど、ほかのところはどうだったんですか」
「よく見てない」
「え?」
「オレ、この怪獣、故郷に電話したいんだと思って、そう思うと涙があふれてきて、第一、ほかは何言ってるか分からんし、ただ、もう故郷に電話したいと思って、オレ涙があふれてきて」
「・・・・・・」
「ちょうど自転車競技で日本初のメダル獲得かと騒がれたスプリントの準決勝でスッテンコロリンやったあとやったんや。寂しかった、泣いた、ああ考えてみたら、あの頃からオレの自転車人生はスッテンコロリンのおむすび人生やった、わあ、何や、何が言いたいんやオレは、わあーっ」
 ぼくは突然こぶしで頭を叩いて泣き出す。
 テツが驚いてETプロムナードから手を離し、スパナ持ったままこっちを見る。
「大丈夫っすか、川瀬さん」
「オレ、選手村から一人ふらふらロスのダウンタウンに出て、訳の分からん黒人のやつらが何か話しかけてくるし、怖くなって、逃げるように映画館に入った」
 ぼくは俯いて涙声で早口に言う。
「五ドル札出してポップコーン買ったら、ほら、アメリカ人は映画観るとき、いっつもポップコーン食うとるやないか」
 そこまで言ってぼくは急に顔を上げる。
「こうやってポリポリ、ポリポリ、ほれ、ポップコーン食うとるやないか」
 テツが素直にうなずかないので、ぼくは思わず声を高める。
 その急変ぶりに驚いて、テツは「あ、あ、ああ」と慌ててうなずく。
「だからオレも買(こ)うたんや、買うたんやけど、五ドル出したら、こんな大きなバケツみたいなもんに入れて渡しやがって、いいんですか、五ドルだと、かなりありますよとか言えっちゅうんじゃ、オレはまた悲しうなって、もう死んでやるとか思いながら、ゲ出るほどポップコーン食いながら映画観てたら、筋も何も分からんかったけど、ほらあのバケモンが、ホーム、ホーンとか言って、とにかく故郷に電話したがるんやな、ほんまに、宇宙人のくせにとか思いながら、観てたんやけど、涙でポップコーンぐしゃぐしゃになった」
 ぼくはそこまで言ってまたこらえきれなくなって俯く。オキシフルの染みこんだ脱脂綿を鼻に当ててすすりあげる。
「あいた、鼻、痛、・・・・・・でもな、テツ、あ、思い出した、そうや、オレ、ET観てて疑問に思ったことがあるんや」
 ぼくはまた脱脂綿を鼻に当てたまま不意に顔を上げる。
「ETはどうして地球に置いていかれたんや?いくらCIAに追いかけられてたって、子供放っぽりだして親が出発するか?万が一やむ終えぬ事情があったとしたって、迎えに来るやろ、ETが必死こいて電話して、“ここにいるよ”なんて言わなくたって、いる場所なんか分かってるはずやないか、置き去りにした場所なんやから。電話なんかしなくたって迎えに来るやろ、親は普通」
「・・・・・・ですよね」
 テツは一瞬置いたあと、スパナを持ったまま「そういえばそうだ」という感じでぼくを見る。
「なんで電話しないと迎えに来てくれないんや、あれほど文明の発達している星から来てるのに」
「・・・・・・ですよね」
 テツはプロムナードをいじる手を止め、ぼくの方を見て小さな声を出す。
 ぼくはまたオキシフルの瓶を倒し、新しい脱脂綿にドボドボ落として、まるで無気になっているように脱脂綿に浸しながら、鼻をすすりあげる。
 雨が音を立てて降り始め、今津浜の荷揚げクレーンの赤い警戒灯がぼやけて見える。
「オレもテツ、お前のふるさとに電話しようかな、うめぼし村に、“ホーム・ホーン”ってな」
 ぼくは急に立ち上がって言う。
「うめぼし村じゃありません、梅の木むらです、確かにどの家もうめぼし作って暮らしてますけど、でもそんなの和歌山じゃ常識です、和歌山の人間は全員うめぼし汁の産湯に浸かって生まれてくるんです」
 テツが無気になって反論する。
「酸っぱーいんよ、うめぼし村のやつらは全員」
 ぼくはテツの匂いを嗅ぐ。
「ああ、ツバが出る、ああ健康だ、うめぼし酢は体に一番いいんだ。あ、お父さんですか?いまからうめぼし村に帰ります。はい、村民の資格はちゃんとわきまえております、みそ汁にうめぼし、納豆にうめぼし、風呂にうめぼし、トイレにうめぼし、耳たぶにはうめぼしピアス、手にはうめぼし指輪、はい、きんたまの代わりにもちゃんとうめぼし埋め込んでおります、わたしはちゃんと村に入れます。あんたんちのセガレ、大河原哲二郎と一緒に帰ります。うめぼし畑の麓でうめぼしチャリンコ屋やります」
 ぼくはこぶしの受話器を耳に当て、テツの父親に早口で通話する。
「・・・・・・でもな、テツ、なかなか通じないんよ、うめぼし村の電話は。何といっても、ほら、うめぼしの酸っぱい汁が村中立ちこめて電波さえぎるからな」
「いえ、うめぼし汁は電波なんかさえぎりません」
「いや、さえぎるんよ、テツ、さえぎるに決まっとるんじゃ」
 ぼくは無気になって怒り出す。何でこんなに瞬間的に怒り出すんだろうと、テツは呆れてこっちを見上げている。
 ぼくはホーム・ホーンを演じ続ける。
「ホーム・ホーンはなかなか通じないものなんよ、テツ。それでこそホーム・ホーンなんよ。で、この甲子園球場の隣りの阪神パークの廃墟に捨てられているカサの柄や掃除機や冷蔵庫のフタを集めて反射電波鏡を作って電話を試みる」
 ぼくはそのへんにあったエア・ポンプやらスポークやら雨に濡れた銀杏の落ち葉なんかを集めて続ける。
「応答してくれ、頼むから、うめぼし村応答してくれ、赤ジソの絞り汁なんかに負けるな、じわじわ酸っぱい汁出してがんばれ、とっちゃん、かあちゃん。でもダメ、通じない。落胆し、失意のうちにウトウトする。どれくらい眠ったか、朝焼けの光の中で何やらザワザワと音がする。薄目を開けて見ると、阪神パークの猿山の廃墟に置いたコウモリ傘と掃除機の柄で作った反射電波鏡が赤茶けてきていて、すっぱーい匂いがしてくる。ああ、応答している、うめぼし村が応答している。ホーム・ホーンや、テツ、うめぼしが応答してるぞ、とっちゃん、おいら、ここにいるよ、かあちゃん、おいらレオポンのオリの前に一人取り残されてるんだ、梅干し漬けるの止めて迎えに来てくれよお」
「訳が分かりません、川瀬さん」
 テツはバンの中に工具を握ったまま、ぼくの言葉を遮るように大きな声を出す。
「・・・・・・川瀬さん、うちはもう両親とも死にました。うめぼし村、いえ、梅の木むらにはもう遠い親戚しかいません。もうぼくの帰りなんか誰も待ってないんです。それにチャリンコ屋なんかしたって誰も買いに来ません。梅の木むらは、梅の木と、山道に置かれたうめぼし樽だけの村です。チャリンコじゃ暮らせない村です」
 テツはバンの中に向いたまま、しんみり言う。
「梅干しの樽だらけなら、その上飛び越えるスラローム自転車屋やろうや、腰曲がったじっちゃん、ばあちゃん捕まえて、あなた自転車スラロームやりなさいって勧めるのよ、いや腰曲がり方、スラロームチャリには持って来い体型やって、スラロームよ」
 ぼくはテツの方に寄って、スキーの回転競技のように腕と腰をくねらせる。テツは自転車を拭く雑巾を持ち、言葉をなくして、泥だらけになったETプロムナードのタイヤを拭い始める。
 知らぬ間にもうとっぷり暮れて、さっきまで見えていた大阪北港のインテックス・ポートのビル群も、神戸ポートアイランドの巨大観覧車も、窓灯りやイルミネーシュョンがぼやけて見えるだけになっていた。
「テツ」とぼくが俯いたまま声を出す。
「は?」
「いや、何でもない」
 ぼくが首を振って体を反転させると、バンの横っ腹に当たってしまった。バンの棚に置いてあったアルミのケースが開き、トロフィーと写真立てがガタガタと落ちてきた。
「これ・・・・・・」車外に飛び出してきた古ぼけたトロフィーを見て、ぼくは驚く。「これ、オレのトロフィーやないか。・・・・・・テツ、お前、オレの国体スプリント競技連覇のときのトロフィー、大事にしてくれてたんか」
 ぼくはトロフィーと写真立てを拾い上げて呟く。七、八年前、自分のアパートを引き払ってテツの移動チャリンコ屋に転がり込んだとき段ボール箱に入れたまま放り込んだものだ。こんなものがあったのさえ忘れていた。テツはぼくの手からトロフィーを取って恥ずかしそうに俯く。
「カッコよかったっすよ、あの頃の川瀬さん」
 そう言うと、テツはトロフィーをしまい、ニコニコして振り向く。
「和歌山国体見に行きましたもん、オレ、十八年前。まだ小学生でしたけどね。紀ノ川かわっぷちの和歌山競輪場でやってた自転車スプリント競技見たんです。ロス五輪の直前でしたよね。国体のスプリント競技全体が何だか川瀬さんの壮行試合みたいでしたよね。あの頃の川瀬さんて、ほんとアマチュア界じゃ無敵だったですもんね。ほんとカッコよかったっすよ」
 テツは俯いたまま、呟くように言う。
「テツ、やめろよ」
「三コーナーのバンクから山おろしかけるとき、ほんと自転車うなってましたもん。金網で見てて、オレ震えがきました」
「お前、そんな言い方したら、まるでオレに惚れてるみたいやぞ」
「惚れてますよ、あの頃からずっと」
 テツはトロフィー持ってバンの方を向いたまま呟く。
「・・・・・・」
 ぼくは近くにあったスパナを手にしながら、薄暗くなってきた公園の銀杏並木にかかる雨粒を見る。
 雨が段々強く横殴りになってきてETプロムナードを触るテツの顔が濡れる。薄くなっている前髪が濡れて額にかかっている。
「もう一度、見せて下さいよ、国体三連覇のスプリント決勝で見せた、あのちゃりんこダビデの山おろしを」
 テツが雨よけシートの下にいるぼくの後ろ姿に向かって言うが、雨音に消されて聞こえない。
 そのとき、雨だれの向こうの闇の中、色づいた銀杏の黄色の前にピンクのシルエットが現れた。ピンクのビニール傘をクルクル回しながら、女がやってきた。
「雨に濡れなが〜ら、たたず〜む人がいる 傘の〜花が咲〜く土曜の昼下がり〜」
 懐かしい三善英史の「雨」だ。女がレインコートの肩に掛けている小型CDプレーヤーから流れてきている。
 その古い歌を三善英史の声に合わせて歌いながら、女は手をかざしてママ屋のバンや、その横に張られた雨よけシートの中をチラチラ覗いている。中がよく見えないというより、このわたしの姿を誰か気づいてくれないかという態度のように思える。
 女の真っ赤なエナメルのレインコートが公園の街灯を反射してぴかぴか光っている。
「や〜くそくした じ〜かんだけが か〜らだをすりぬける 道ゆ〜く人は誰一人も見向きもしな〜い・・・・・・」
 相変わらず鼻歌を歌い、ピンクの傘を回しながらキョロキョロする。女は肩に掛けたCDプレーヤーには携帯用スピーカーも付けている。チンドン屋のパチンコ店改装景気づけじゃあるまいし、何で普通の女がCDプレーヤーから古い歌謡曲を流し、それを歌手と一緒に口ずさみながら歩かなきゃならないんだ。
「あのう、エリオット少年いませんか?」
 中腰になってシートの下のぼくに話しかける。
「うん?」と言ってぼくは見上げる。
「わたし、エリオット少年にお願いしてたんです。わたしのプロムナード直してもらうように。わたし、プロムナードに乗って伊丹空港まで行かなきゃいけないんです」
「とりあえず傘たたんだらどうや」
 女のクルクル回すビニール傘から滴が飛んでくるのに顔をしかめながらぼくが言う。
 でも女はそのぼくの言葉には関係なく、相変わらず傘を回し、「雨」を口ずさみながらあたりを窺っている。
 女が傘を少しどけたときはっきり分かった。八月の終わり、八番町三角公園でテツと一緒にインチキ予想を売っていた女だ。やっぱりこいつか、珠樹ってのは。
「わたし、伊丹空港からANA九三三便に乗って北海道石狩河畔の風の街、風別に帰らなきゃいけないんです。そう言ったら、ここのエリオット少年がそりゃ大変だ、武庫川大橋の向こうに夕日が沈むこの時間は国道一七一号線は大変な混みようだ。普通のプロムナードじゃ間に合わない、分かりました、それなら、この十三ワニさん公園のチャリンコ・ビルダーがETの自転車に組み上げてあげましょう、任せてくださいって、そう言って胸を叩いてくれたんです。そのとき、わたし気がついたんです。この人はきっとエリオット少年に違いないって」
「訳の分からんことをペラペラと・・・・・・」
 ぼくが無意識にスパナを持って立ち上がろうとしたとき、テツが女に気が付いて転びそうな勢いで出てきた。
「珠樹さん、珠樹さんじゃありませんか、よく来てくれました、え、でもどうしてぼくらがここにいるって分かったんですか?」
「近くのショッピングセンターにいたの、ほらあそこの」と珠樹は雨に煙る港町のビルを指差す。「そうしたらこのオンボロの、あ、ごめんなさい、このね、あまり新しくないバンが見えたものだから」
 珠樹は明かりのついているビルから薄闇の海の方を向いて言う。
「あ、そうですか、そうなんですか、実は、あの、オレ・・・・・・、もう珠樹さんは来てくれないんじゃないかと心配していたんです」
 俯いてモジモジ言ってたテツが意を決したように顔を上げる。
「そのうるさい歌謡曲、止めたらどうや」
 ぼくは手製のリム・ダンベルを下に置いて言う。でも女とテツには聞こえていない。
 テツの残り少ない頭髪は濡れて、ワカメのようになって額に貼りついている。泥だらけの両手をズボンに擦りつけて拭うが、ズボンも泥だらけだから手は少しもきれいにならない。でもテツはそんなことには気づかない。テツは珠樹というその女を見て、ただまぶしそうにハニカむ。
「だって、オレ、この前、天草四郎はいいにしてもラフ・カラーはちょっととかって、珠樹さんの提案にいちゃもん付けるようなこと言ってしまったし、オレ、ほんと、あれから考えたんですけど、ラフ・カラーはやっぱり天草四郎にはなくてはならないものだ、ラフ・カラーあっての天草四郎だって気づいたんです、で、ラフ・カラー付けるとなると、マントだって、金ぴかのクルスだって当然の必需品てことになるなって気づいたんです」
「ありがとう、テツさん、嬉しい」
 珠樹はそう言ってテツの手を握る。
「いえ、あの、そんな・・・・・・」
 テツは慌てて手を引っ込めて、自分の濡れた前髪を分ける。テツが貼りついたワカメの髪を上に返すと、雨滴のついた血色のよい額と、うぶ毛だけになりつつある前頭部が出て、点いたばかりの公園の街路灯に照らされる。
「テツさん、ETの自転車、出来ましたあー?」
 珠樹はシートの中に入っても、まだピンクの傘をグルグル回しながら、中腰になって、そのあたりを窺っている。傘からのしずくがテツや川瀬や、空しく泥だらけになって転がっているETの自転車に降りかかる。
「わたし、ETの自転車に乗って、ANA九三三便に乗って風別に帰らないといけないんです。ANA九三三便に乗って、ライラックと風花の舞う北の街に帰らないといけないんです」
 珠樹はキョロキョロと落ち着きなく、バンの中を窺う。相変わらず傘をクルクル回しているからこっちに雫がかかる。
「珠樹さん、これ、ヒサシ出してるから、もう傘たたんでも大丈夫ですよ、ヘヘヘ」
 テツはぼくのしかめた顔に気づいて雨よけ用ひさしを指差して珠樹に言う。でも嬉しそうにニコニコしながら言うから珠樹に緊迫感が伝わらない。珠樹は相変わらずキョロキョロして傘を回している。その雫がぼくの大切な『ヘーゲル語録』の冊子にかかった。
「ああ、何ちゅうことを・・・・・・」
 ぼくは猛然と立ち上がった。慌てて『ヘーゲル語録』の雫を手で拭いながら、強盗に立ち向かうグレートデンのように下から女を見上げて猛烈に唸る。
「傘たためっちゅうのが分からへんのか!」
 ぼくが無意識にこぶしの中にスパナを握っているのを見つけて、テツは慌ててぼくと珠樹の間に割って入ってきた。
「あ、川瀬さん、ダメです」とぼくを制する。
「珠樹さん、すいません、傘たたんでください」と今度は珠樹に哀願する。こんなに素早い動きが出来るちゃりんこ屋も珍しい。ほんとにびっくりするぐらい機敏なターンだ。
「え、メリーポピンズに傘をたためって言うの?」
 珠樹は西欧人のように両手の平をさらし、ことさら目を剥いて驚いた表情を見せる。
「誰がメリーポピンズや!」
 珠樹の言葉を聞いて、ぼくはスパナを持った手を振り上げる。
「た、珠樹さん、お、お願いです。傘たたんで下さい」
 テツがぼくに背中を押し当てて制しながら、珠樹に向かって哀願する。珠樹も「あら、そう」と言いながらやっと傘を畳むが、視線はまだキョロキョロしている。
「その歌謡曲も止めろ、やかましい」
 ぼくはまだスパナ震わせている。
「あ、珠樹さん、その曲も、はい、そのCDから流れてる歌ですね、それもちょっとだけ止めて・・・・・・」
 テツは相変わらずスパナ持ったぼくを止めながら、顔だけ珠樹の方に向けて頼む。
「えー!わたしの雨の日にはこの曲掛けないと歩けないの、三善英史の“雨”。♪♪追い越す人にこずかれても 身動きしない ・・・って、追い越す人がこずくんだ、みんな、新宿反戦デーか何かだったんだね、きっと」
 珠樹はCDに合わせて一節歌い、勝手に首を傾げ、ブツブツ言って勝手に納得する。
「何でもええから、そのバカ古い歌、止めろー!お前いったい何歳や!」
 テツに止められながらぼくが唸る。
「もうね、中学校のときからわたしのテーマソングなの。“雨”。・・・・・・恋は〜いつの日〜も はかな〜いものだから〜 じっと耐えるの〜が〜 つとめ〜と信じてる」
 またCDに合わせて歌い出した。
「このガキャーッ」
「珠樹さん、お願いです、CDちょっとだけ止めて下さい」
 ぼくの唸りとスパナ震えに、またテツが慌てて珠樹に哀願する。
「そおお、また歩き出すときには掛けるからね、テーマソングなんだからね、それは仕方ないのよ」
 珠樹は不承不承CDを止める。
「テツ、お前の言う珠樹って、この女か。お前たぶらかして、ETの自転車作れとか、天草四郎やれとか、龍の玉取って来いとか、火鼠の皮取って来いとか言う、かぐや姫みたいな無理難題押しつけるのはこの女か」
「何ですか?その龍の玉とか、火鼠とかって」
 珠樹が目を丸くして言う。
「お前が男に押しつけた無理難題や」
「いや、川瀬さん、珠樹さんはそんなものは注文してません、ETの自転車って言ってるだけですから」
 テツがまたぼくを制して言う。
「見てみろ、テツ、これがかぐや姫って顔か、月から来たんやなくて、地底から来たような顔してるやないか、地底人ヘルシュタインみたいな顔してるやないか、・・・・・・無理難題押しつけて、男はその気になってホイホイ苦行に出て、そのくせ女は、それじゃ皆様ゴキゲンヨウ、わたくし月に帰りますとかって、陽気に手を振りやがって、そんなこと許されるんか」
 ぼくはスパナを手にしたまま、だんだん感極まり、珠樹の顔を覗き込んで、近づいていく。
「川瀬さん、珠樹さんはそんなこと言ってないですって」
 テツは必死になってぼくを押しとどめるが、珠樹はぼくのけんまくに押されて後ずさりする。
「川瀬さん、この珠樹さんは、実はずっと川瀬さんのことを探していたんです」
 テツは静かに言う。
「何?」
 ぼくは珠樹の方からテツの方に振り向く。テツはちょうどビニールシートの切れ目の所に立っていて、上からのしずくを受けて、残り少ない髪がワカメのようになって額に張り付いている。それでもテツはその場所から動こうとしない。顔をびしょびしょにしたまま続ける。
「珠樹さんはずっと川瀬さんのことを探していたんです」
 そう言ってからテツは珠樹の方に振り向いた。
「何じゃ?」
 ぼくはスパナ握ったまま顎だけ突き出す。
「・・・・・・珠樹さん、あなたが探している十年前のエリオット少年というのは、ぼくじゃありません。たぶんこの川瀬さんです」
 テツが珠樹の方を見て静かに言う。
「え?」
「実はこの前、珠樹さんの話聞いたとき、すぐ分かりました。・・・・・・何かといえばロス・オリンピック、ロス・オリンピックと、参ったなあ、どうしても言わなきゃダメ?と聞きながらロス・オリンピックのことを口にして、・・・・・・甲子園と聞けば真っ先にチアガールどもの逆上不純異性交遊を気にして、・・・・・・目一杯チャリンコ漕ぐときは、小倉の無法松がご新造さんをどうのこうのって言わないと踏ん張れない、そんな自転車漕ぐときに“小倉の無法松”なんて言う競輪選手は、日本の競輪選手五千人の中で、珠樹さん、この川瀬達造以外にはいません」
 シートの端まで下がってしまったので、珠樹の顔にも雨がかかり始める。テツも相変わらず降りかかる雨をものともせず話し続ける。
 ぼくだけが訳が分からず、二人を交互に見て、スパナのやり場に困っていた。
「そうですか・・・・・・」
 珠樹はそう声にならない声を出し、ブタクサ公園の薄暗い街灯を頼りにただじっとこっちを見ていた。
「すいません、川瀬さん。・・・匂い、Tシャツの匂い、嗅がしてもらってもいいですか」
 珠樹が急にじっとぼくの顔を見て言う。
「な、なにぃ?」ぼくは顔を突き出して訊く。
「すいません、わたし、十年前、ただ自転車のうしろで男の人の背中にしがみついていただけなんで、顔よく覚えてないんです。でもあの背中の感触と、汗の匂いだけは分かると思うんです。背中の匂い、嗅がせてください」
「何言うとんねん、おかしなことを」
「嗅がせてあげてください、川瀬さん」
 テツがそう叫んで、ぼくを抱き固め、珠樹の方に背中を向かせる。
「な、なにするんや、テツ」
「珠樹さん、さあ早く嗅いで、思う存分、背中嗅いでください」
 テツの声に珠樹はこっくりうなずき、一歩一歩意を決するようにこっちに近づいてくる。背中を向けられたぼくは敵に襲われたイシガメのように首だけひねって、その猫足忍者のように近づいてくる女を見る。何だ、こいつ。
 女はぼくの腰に両手を置いてぼくの背中に顔を近づけ、しばらくじっとしたあと「ウォーッ」という叫び声を上げた。何や、オオカミか。
 でも珠樹は相変わらず顔を離そうとしない。
「な、な、何事や・・・・・・、あ、痛」
 ぼくは気味悪くなってまた後ろを見ようとするが、あまり顔をひねったために、首下のあたりがつってきた。
「われら・・・にてその・・・見たれば、・・・ために来た・・・。われら東方にて・・・・・・」
 珠樹はぼくの背中にむしゃぶりついたまま何か言うが、顔を押しつけている分だけ声がくぐもってよく聞こえない。
「おじいさんの言うことはあまり明快ではありませんでした。頭の悪いわたしには理解できないことばかりでした」
 珠樹はぼくの背中から顔を離し、下を向いてぶつぶつ言う。
「でもこの言葉だけはわたしいつもいつも繰り返し唱えていました。我ら東方にてその星を見たれば、拝せんために来たれり」
 雨は相変わらずひさしのシートから音を立てて落ちている。ぼくはようやく体勢を立て直して女の方を見る。雨の雫を受けながら、ぼくの前の女が泣いている。そしてふと振り返ると、女の後ろの男テツも鼻をすすり上げてないている。な、なんなんや、お前ら。
「わたしは遠い北の地で繰り返し繰り返し十年前のことを考えていました。そして、そのことを思うたび、東方の博士のことを思い起こします。我ら東方にてその星を見たれば・・・・・」
 女は真っ赤なエナメルのレインコートを着て、匂い嗅ぎなど不穏な動きをしたため、胸元がはだけている。下にはブルーに赤のラインのサテン地のノースリーブを着ていて、どっちにしても派手な服装だ。そのサテン地が首から落ちてきた雨だれに濡れて染みが出来ている。
「わたしはいま、競輪場の外れや競艇場の脇の敷地で予想屋をやっています。もう半年になります。予想はほとんど売れません。もの笑いになっているだけのような気もします。たまに競輪場の敷地の中に入ると、警備課の人や、共済会というお立ち台予想の組合の人に追い出されます。仕方なく、競輪場の近くの空き地なんかでやってるんですけど、まったく人が集まらないことがよくあります」
 女はさっきまであれほどしつこく差していた傘を小脇に持ったまま、雨に打たれながら続ける。
「それでも売れない予想屋の商売をしているのには訳があります。わたしは一人の男の人を探していました。わたしが十年前、甲子園球場脇で世話になった人です」
「はあ・・・・・・」
「もし間違いだったらごめんなさい。もしかして、あなたは十二年前、甲子園球場のA−13番ゲートで、一人の女子高生を自転車に乗せませんでしたか?」
「・・・・・・」
「あなたは十年前のこと覚えていませんか」
 女の声はだんだんゆっくりしてくる。
「仲間にはぐれた風別実業高校のチアガールを、ここで自転車の後ろに乗せたのを覚えていませんか。ペルシアからやってきた東方の博士たちは、星が流れたのを見てベツレヘムにやってきて、人々に訊いて回りました。このへんでユダヤの救世主、ダビデ王の末裔は生まれませんでしたか」
「うん?」
 ダビデという名前に無意識に筋肉がピクリとする。条件反射だ。ぼくは右手を柔らかく内側に曲げ、着ていたTシャツを脱いで、左手で肩に担ぎ、鋭く首を左にねじって横を見る。悲しいことだが、これは体作りをする者の生体反応だ。仕方ないことだ。ミケランジェロのダビデ像のポーズは、体作りを標榜する者なら誰でもポージングの理想として知っているものだ。
「どうしたんですか?」
 女は理想のダビデに対して、怪訝な表情をする。ダビデの裸を見たイスラエルの女はたぶんこんな表情じゃなかったよなあ、たぶん・・・・・・。
 ぼくは相手に与えるインパクトが少なかったことを知り、自慢の大胸筋を少しだけピクピクさせてみる。たいていの人間、特に女はこれに驚く。「キャー」という嬌声を上げて喜ぶ。でも今回はそれほど影響を与えていない?
「何ですか?」
「ダビデ像。ミケランジェロのダビデ像。巨人ゴリアテに挑む青年ダビデの澄んだ瞳」
 ぼくはTシャツを肩にかつぎ、片足をちょっと出して半身になり、遠くを見つめる。でも女は首を傾げるだけだ。もう半歩踏み出してさらに腰をひねってみるが、女はもうこっちすら見ていない。残念、ぼくはまたこそこそとまたTシャツを着なけりゃならない。
 前から思っていたことだが、ボティビルディングというもの、自分の自分に対するイメージと他人の自分に対するイメージに往々にしてギャップがある。私が他者を、他者が自分でそうとみなしている人格どおりのものと認識するということと、他者が私を、私が自分でそうとみなしている人格どおりのものと認識するということだ、問題はって精神病学者が言ってたなあ、・・・・・・いやそんなことじゃない、そんなこと気にしてたらボディビルなんかやれない。ボディビルはどこまで自分に陶酔できるかを競うスポーツだ。
「新しいユダヤの救世主がお生まれになったのではありませんかと訊いて回りました」
 女は前より大きな声でじっとこっちを見て話を続けた。
「名前も知らない、住所も分からない、ただ関西弁の人だったし、甲子園近くの地理にも詳しかったから近畿の競輪選手なんじゃないかと思いました。近畿の競輪場を回れば会えるんじゃないかと思いました。東方の星占いの博士が、一条の流れ星を見て、ベツレヘムの街にメシアを探しに来たように探しに行こうと思いました」
 女の髪や胸にも雨垂れがかかっていたが、雨よけシートの完全に外にいるテツはまるでアオガエルのように全身ずぶ濡れになっている。二歩ほどこっちに来れば雨よけシートの中に入れるのに、何考えてるんだ。ただもうじっとこっちを見ながら女の言葉に聞き入っている。
「わたしは気の触れた香具師(やし)だとか、コジキ予想屋だとか言われながら、あなたのことを探していました。江戸市中に火をつけたお七がただひたすら吉三郎を探すように、雲仙の絵師・田中右衛門作の碧眼の娘まきが島原原城でジェロニモ四郎の名前を呼んでいたように、わたしはただ一人の競輪選手のことをずっと探していました。でもわたしはその人の顔をよく思い出せないのです。わたしはその人の背中にしがみついていただけなので、汗の滲んだその人の背中の匂いしか思い出せないのです。でもさっき、あなたの背中の匂いを嗅いだときはっきり分かりました」
「・・・・・・」
「チームが試合に負けて、わたしは通路で泣いていました。そのうちにみんながどこかに行ってしまって、試合に負けたらその足で風別に帰ることになっていたんだけど、飛行機で帰るのか、列車で帰るのか、それすら分からなくて、わたし、甲子園球場Aー13のゲートの前で泣いていました」
 地面にも雨水が浮くようになり、ぼくの立っている地面に敷いたグランドシートもビショビショになってきた。
「テツ、カッパ貸せ」
「は?」
 テツがずぶ濡れの顔を上げる。目のあたりが赤い。泣いてんのか、こんな女の話ぐらいで。
「街道練習して帰る」
「え、この雨の中?」
「オレのロードレーサー出してくれ」
「ロードレーサーって・・・」
「街道練習用のロードレーサーや。入れてたやろ、バンのどこかに」
「ロードレーサーって、あったかなあ・・・・・・、もうほこりかぶってると思うし・・・・・・、でも何で急に、まるで練習熱心な競輪選手みたいじゃないですか」
 テツはバンの中に入ろうとして、首ひねりながら振り返って聞く。
「お前のインチキETチャリと違うぞ。オレのロードレーサーや。十年前に作ったやつ。・・・違う、それは栄町の魚正からかっぱらった買い出し用のチャリンコやないか、そんなリヤカーみたいなロードレーサーがあってたまるか、あ、それ、そのスポークとハンマーとテツのパンツの下に隠れた、そう、それ。ああ、でも・・・古いなあ」
 テツと一緒にバンの奥からロードレーサー引っ張り出し、白いメットと紺色のゴーグルも着けてまたがる。
「川瀬さん、ギアだけでも油注さないと・・・、それにブレーキディスクの点検も。もう四、五年は乗ってないと思うし・・・」
 テツは心配そうにブツブツ言うが、ぼくは委細構わず五年ぶりのロードレーサーの上で胸を張る。
「知性はこのような自己の直接性において自己自身に目ざめており、この直接態において自己内へと想起しているゆえに、知性はもはやこの直接態と有限性とを必要としないのである」
 懐の『ヘーゲル語録』をちらっと見て、それから前を向いて大きな声を出した。だいたい覚えている箇所だ。ほとんど『語録』なんか見なくても言える。でも念のため、間違いがあっては困ると思って確認しただけだ。何ら恥じることはない。雨音が聞こえるだけで、もちろんテツと珠樹から「なるほど」というような声は聞こえない。
 ぼくは二人を見て、ゴーグルを首のあたりまでずらす。
「知性はもはやこの直接態と有限性とを必要としないのだ!」
 顔をびしょびしょにしながら、ぼくはもう一度大声を出した。でも相変わらず二人はポカンとしている。何だ、こいつら、驚かないのか。これだから教養のないやつらと付き合うのは計(はか)がいかない。
 ぼくは目に入ってきた雨滴を拭い、もう一度ゴーグルを着け直して勢いよく雨の中に飛び出した。県営住宅脇から女子大の横を通り、甲子園九番町の交差点を右折すると、左に甲子園競輪場、正面には甲子園球場大屋根の見える馴染みの大通りに出る。片側二車線の広い通りで、その脇の街路樹の左側を走っているのに、車の巻き起こす水はねをまともにかぶってしまう。きついにわか雨になっている。前輪ハブのあたりが雨音に負けないほどギーギー音を立てている。ハンドル下のヘッドラッグあたりも微妙に振れている気がする。でもそんなことなんか何でもない。甲子園球場まで三百メートルほどの直線道路を、水はねを浴びながら、それでもぼくはツール・ド・フランスのゴール、凱旋門につながるシャンゼリゼ大通りのような気持ちで漕いだ。
 思い出していた。いや、正直言えば、女がピンクの傘を取り、その顔を正面から見た瞬間から思い出していた。ぼくは確かにずいぶん昔、一人の女子高生をママチャリに乗せて走ったことがある。ぼくは確かに十年前、甲子園球場のA−13番ゲートにうずくまっていた黄色いTシャツを着たチアガールを乗せて、夕陽の沈む武庫川べりを走った。

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