ちゃりんこダビデ

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  第6章  


 甲子園球場から北へ向かい、阪神高速と阪神電車の高架をくぐり、鳴尾通りに面したホルモン焼き屋と牛丼屋の間の路地を入ると、大昔、海路保安のために設置された高楼とその土塁の名残がある。こんもりとした木立になったその旧跡を取り囲むように、駄菓子やお好み焼き屋や風呂屋が並び、その後ろには文化住宅やアパートが入り組んでいる。甲子園潮風町と名付けられた一帯だ。その名の通り、江戸時代まではこのあたりが海岸線だったらしい。しかし長年にわたる武庫川の堆積と、人工的な海岸埋め立てが続いて、いまでは海岸線は甲子園球場の遙か南、埋め立て地や海浜倉庫の立ち並ぶ突堤の先になっている。潮風町は「潮風」とは名ばかり、焼き肉と排気ガスとヘドロの風が吹く街である。
 路地の突き当たり、「ドライ太陽」の看板のかかったクリーニング店の裏に回ると、ドブ板の並ぶじゅくじゅくとした袋小路がある。その突き当たり、ひびの入ったガラス戸の奥に渡辺珠樹の住むアパートがある。
 テツと珠樹のインチキ予想屋二人が、ぼくと清之助、それにサキにも目撃された日、テツは自転車振興会の連中から逃れるように初めてタマキの部屋に入る。ドンゴロス・スカートの珠樹と、予想表やら「踏み絵」やら商売道具の入った段ボール箱を抱えた着流し姿のテツがアパートに入っていく。テツの薄くなった前頭部には玉のような汗が浮き上がり、箱を抱えたまま、したたる汗を浴衣の袖で拭う。珠樹は商売道具の競輪新聞を箱から取り出して、胸前を開け、その“新聞うちわ”で風を送り、「暑い、暑い」と喚く。
 ガラスの引き戸をぎしぎし言わせて開けて建物の中に入ると、珠樹はテツがついて来ていないことに気づく。
「何?」
「いや、ぼく、入っていいんですか、珠樹さんの部屋」
 テツはアパートの入り口で、顎を引き、コンクリートの土台のあたり見てじっとしている。建物の入り口には夏の夕陽が当たっていて、暗いアパートの中から見ると、汗をかいたテツの前頭部がキラキラ輝いて見える。
「許す」
 珠樹はそれだけ大声で言い残してどんどん入っていく。テツは珠樹の後ろを俯いたまま段ボール箱を抱えて進む。
 引き戸の向こうは十メートルほどの細い土間の廊下が続いて、両側にはそれぞれ五つほどの部屋が並んでいる。廊下の電球が切れていて、真っ暗な土間を珠樹が両側の壁に手を添えて位置を確かめながら先導する。自分の抱えた段ボールのせいで珠樹の姿さえよく見えないテツは掃除箱や消化器につまずき、よろけながら進む。
 珠樹の部屋はどん詰まりの左側だった。手探りで鍵穴にキーを差し込んで、珠樹が中に入る。冷房はなく、むせるような暑気を払うために珠樹はまずカーテンを開き、窓をあける。あけたって入ってくるのは生暖かい風だけだが、それでもいくらかすっきりする。
 テツは段ボールを部屋の隅に置くと、窓から首を出してみる。隣のクリーニング屋のモルタルの壁穴から蒸気が吹き出していて、突きだした管からは正体不明の下水のようなものが絶えずチョロチョロ落ちている。壁との間からわずかに見える夕方の空もクリーニング店の屋上に干された大量の洗濯物で遮られ、珠樹の部屋に入るわずかな明かりはその大型洗濯物の揺れに応じてゆらゆらと陰を作っている。
 窓から突き出たわずかの幅の鉄製ベランダに、珠樹は三つの鉢植えを並べていた。どれも鮮やかな朱色の花が咲いている。
「ゼラニウムっていうの」
 窓辺に立って見ているテツに気づいて、珠樹が言う。
「え?」
「その花、ゼラニウムっていうの、知ってる?」
 テツは花を見たまま首を振る。クリーニング屋のむせるような蒸気の匂いに混じって、甘い香りが漂ってくる。
「日本じゃまだあんまりないんだけど、その花ね、こんな日の当たらない窓でもちゃんと咲くの。夏の花なんだけど、夏過ぎてもずっとずっと咲いてるし・・・・・・」
 そう言いながら珠樹がテツのすぐ横に来る。テツと同じように窓枠に手を置いて、一段低くなった鉄製サッシの上な置かれたゼラニウムの鉢を見下ろす。汗の浮き出た珠樹の二の腕がテツの顔にくっつきそうになり、珠樹の匂いや体温が感じられて、テツは急激に緊張する。
「たぶん劣悪な環境に強いのよ」
 珠樹はテツの気持ちにもかまわず、一層テツに顔を近づけ、花を覗き込んで言う。
「え、あ、劣悪な環境?」
「え?・・・・・・花よ、ゼラニウムのことよ」
 そう言って、笑いながら珠樹はテツの横から離れる。クリーニング屋の屋上に干してあるシーツを通して注がれる細い白い光に当たって、ゼラニウムの朱色が浮き上がっている。テツが部屋の中を振り向くと、珠樹が「それにしても暑かったわねえ」と言いながら、タオルで自分をバタバタ扇いでいる。それから勢いよく白ブラウスとドンゴロスのスカートを取り去ってベージュのブラジャーとパンツが露わになる。使い古した下着のようで、あちこちほつれているし、珠樹の下腹はぼてっと膨らんでいる。でもその肌の白さはテツの目を奪い、思わず息を飲む。テツは慌てて視線を逸らし、意味もなくまた外を見る。
 ゴォー、ゴォーという低い響きが伝わってくる。ゼラニウムの鉢の上から外を見ると、クリーニング屋との隙間から阪神高速の高架が見える。騒音は大型トラックたちの唸りの音だ。阪神高速の向こうには甲子園球場の蔦に覆われた緑の外壁が見える。珠樹は甲子園のこんなに近くに住んでいるんだと、テツはあらためて思った。隙間から見える阪神高速の向こう、甲子園球場の半面が夕陽を浴びて光っていて、不気味な感じがした。
「甲子園て、なんか巨大宇宙船みたいやなあ」
 テツは一人小さく呟く。巨大宇宙船の甲子園があって、阪神高速の柵があって、クリーニング屋とぼろアパートの間の誘導路があって、その手前に送迎用のゼラニウム花畑があって、何だか『未知との遭遇』の宇宙船の舞い降りた丘の上のような気がした。
 タンクトップとショートパンツに着替えた珠樹が予想屋の小道具をかたづけ始めたので、テツもそれを手伝う。部屋には競輪新聞やカストリ紙や番号を押すゴム印なんかが散らばっていて、それを拾う中腰になった珠樹の白い胸や突きだした尻がテツの目に止まる。そのたびテツは硬直し作業の手がストップする。でもその硬直した体勢を気づかれそうになると、テツはまた慌てて作業を再開する。
 しかしテツは見てはいけないものを目にした。部屋の隅に黒い筒が転がっていて、その筒にはコードがついていて、これはつまり電動だ。電動で動く黒い筒だ。つまり目にしてはいけないものだ。流し場の方に押しやろうと力を入れてカーテンの向こうに押し出したら、突然ブチッという音がして部屋の蛍光灯が消え、冷蔵庫の唸りが止まった。
「あ、あわわわ」と尻をからげた浴衣姿のテツが部屋中を見回してパニックになる。テツは奇声を上げたが、手にした黒い筒を持ってよく見ると、何だかおかしい。
「コンセントか、あ、コンセントか、見てはいけないコンセントか」
 テツは訳の分からないことを言いながら、慌てて引き抜けたコードを差し込む。
 珠樹は溜息をつきながら、じっとテツの様子を見る。冷蔵庫はまた唸りを上げ始めたが、部屋の蛍光灯は古いのか、パイロットランプが点灯するだけでうまく点かない。
 蛍光灯を調節しようと、テツが手を伸ばしたとき、柱の横に綿の付いた油紙のようなものが目に入る。あ、いけないものだ、これはいけないものだ。女性の部屋というのは一人暮らしだからこういうものが無造作に置いてある。他人には目につきやすいけど、他人は見てはいけない。もし万が一見たとしても見なかったことにしないといけない。何も見ていないまま、見てはいけないものは、見えるわけがない状態に戻ってないといけない。
 テツは訳の分からない警句を反芻しながら、そのはみ出した綿の付いた油紙をぐいっと引っ張って押し入れの中に入れようとした。入れようとしたら、バリバリバリと音がして、柱の脇のふすまの表面が帯になって剥がれていった。
「にいちゃん、壁紙剥がしてどうするんや」
 両手に新聞と雑誌持って部屋の片づけにかかっていた珠樹がテツを見て動作をやめ、深く溜息をつく。
「あ、壁紙か、なんで壁紙に綿がひっついとんねん、まあでも長いわな、こんな長いものは使わない、これじゃフンドシや・・・・・・」
 テツは剥がした壁紙を股間に当ててブツブツ独り言を言ってみる。それから一生懸命壁紙をもとに戻そうとするが、一度剥がした壁紙はなかなかひっつかない。衣装ケースの下からゴミが顔を出しているので引っ張り出してみると、ヒモのように見えたのは黒いガーターベルトで、横の白いゴミはティッシュにくるまれた使い古しのコンドームだった。
 テツはまた慌てて隠しにかかる。いや、これもまた何かの間違いかもしれない。部屋が暗いからかもしれない。テツはガーターベルトをたぐり、伸びきったコンドームをさらに伸ばして窓から入る夕陽にかざしてみる。
 片づけしていた珠樹がテツの方を見る。
「これはつまり・・・・・・、何か事情があるかも・・・・・・」
 テツは珠樹から視線を逸らしてブツブツ言う。
「それはコンドーム」
 それだけ言うと、珠樹はまた片づけを続ける。
「そうか、・・・・・・これがコンドームか」と呟きながら、テツは俯き、そのへんにあった古い広告紙で、コンドームとティッシュをグイと包んでゴミ箱に入れる。
「あの、珠樹さん」
 テツはゴミ箱を見詰めたまま早口に言う。でも珠樹はかまわず片づけを続けている。
「珠樹さん、コンドームだけはきちんと包んでゴミ入れの中に捨てましょう」
 テツが今度は珠樹の方を見てはっきり言う。その声に珠樹が振り返る。
「これは大事なことだから、これはあの、やっぱり大事にして欲しいと思います。つまり、生活は大変でしょうけど、生活のためというのはよくないと思います。胸に抱いた一条の光のように、いまはまだ薄明だけど、ほこりまみれの風の中でかんばせを上げてっていうか・・・・・・」とテツはまた俯いて言う。
 珠樹は片づけの手を止め、黙ってうなずく。しばらくそのまま黙っていたあと、珠樹は何度かうなずいた。夕陽がまた隣のクリーニング屋との隙間から入ってきて、珠樹の顔半分が明るくなっている。それから「ありがとう」と珠樹が小さく言う。
 気を取り直したように、ドンゴロススカートをしまおうと珠樹がふすまに手をかける。でも何かにひっかかってうまく開かない。テツが助けに入り、一緒に引っ張るとガサッという音と共にふすまが開き、赤や黄色の原色のかたまりが飛び出してきた。押し入れの上段のパイプには黄色やピンクなどサテン地の原色ノースリーブが何着も押し詰めて釣ってあり、それがはみ出してきていた。テツはまた「あ」と絶句する。またしても見てはいけないものを見たような気がした。思えば部屋に入ってきてから、テツは「あ」の連続だ。なんて見てはいけないものの多い部屋なんだ。
「あ、これ?」と珠樹がテツの声に反応する。
「ふふふ、けっこう派手でしょ」と言いながら、珠樹はその一つ黄色のノースリーブを取り、胸に当ててテツの方に近寄る。
「テツさん、ひょっとして・・・・・・、お前の歳じゃ無理だって言いたいんじゃないの?」
 珠樹はテツを覗き込む。
「あ、いや、別にそういう意味じゃ・・・・・・」テツはしどろもどろになる。
「わたしね、こう見えても甲子園でチアガールやったことあるの。昔、北海道の風別(ふべつ)っていう石狩平野の風の街の高校行ってて、その高校が甲子園出たのよ、で、そのときチアガールとして出たことが忘れられなくてね、それからスポーツショップでこういうの見ると、無性に欲しくなるの」
 珠樹は胸のノースリーブをハンガーに戻し、笑いながら言う。
「もちろん、こんなもの着て外には出ないわよ。そりゃね、わたしだってわきまえてるわよ。でもこうやって並べておくと嬉しくなる。とぎとき鏡の前では着てみるんだけどね、でもこれがね、けっこうイケるのよ」
「そう思います」
「え?」
「珠樹さん、似合いますよ」
 半畳ほどの靴脱ぎ場に不似合いな赤やゴールドのハイヒールがあり、ドアは花柄のカーテンで隠してある。さっき窓をちゃんと閉め忘れたのか、部屋の外から風が吹いて、その花柄のカーテンが揺れる。こんな所でも薄暗いコンクリートの廊下からクリーニング屋との間の空間へと風の通り道があるのだ。
「さっき男の人が“マッチ売りのテツ”とかって・・・・・・」
 押し入れのふすまを閉め、片づけが一段落する。珠樹は冷蔵庫から缶ビールを二本取り出しながら言う。
「は?」
「さっきの公園で、男の人が“マッチ売りのテツ”って」
 珠樹はちゃぶ台の上に缶ビール二つを置いて言う。
「ああ」
「何、あれ?」
「はい・・・・・・」
「何かあるの?マッチ売りのテツなんて」
「・・・・・・オレ高校出てしばらく、和歌山ぶらくり町の『マッチ売りの少女』っていうイメクラでバイトしてたんです。オカマのように顔に化粧して、“マッチはいかが、マッチを買って下さいな”って・・・・・・」
「はあ・・・・・・」
「酔っ払いにマッチ配って呼び込みしてたんです。客はみな気味悪がってましたけど、店長が雰囲気作りや、やれとかって訳も分からず言うもんで、半年ぐらいやってました」
「へえ」
「さっきの、あの兵藤清之助という人はとにかく高校野球の審判が好きで、甲子園出場が決まった高校があると、近畿各地を回って、その高校の練習試合はもちろん、シートバッティングまで貼りついて、“ジャッジしてやる、今日だけ特別、甲子園のストライクを教えてやる”って言って、そうやって各校の野球部を回るのが趣味だったんです」
「そお・・・・・・」
「珠樹さん、オレもね、こう見えても甲子園出たことあるんです」
 テツは急に立ち上がって、スローイングの真似をする。
 珠樹は「え?」と言ってテツを見上げる。
「オレね、珠樹さん、甲子園出たんです。熊野林業高校・梅の木むら分校って言って、部員十五人だけのちっぽけな野球部なんだけど、県予選優勝したんです。やるでしょ。当時はちょっとした話題だったんですよ、オレはまあその十五人の中でも補欠で控え投手だったんだけど・・・・・・」
「へえ」と珠樹が感心するように見上げる。
「甲子園の一回戦で神奈川の高校にボロ負けしたんだけど、最終回、監督がオレに投げさせてくれたんです。どうせ負けるなら、大河原にも、あ、オレ、大河原っていう苗字なんです、まだ言ってなかったですよね、大河原哲二郎、どうぞよろしく、なーんてね、頭下げてる場合じゃないですよね、ははは、何の話でしたっけ・・・・・・、ああ、リリーフの話ね、リリーフに出たんです、オレ。最終回に思い出作らせてやろうという監督の意図でね、九回ツーアウト満塁、オレこうやって構えたんです」
 テツは珠樹の前で横向きになってグローブを構えるポーズを取る。
「そのとき、あの兵藤のおっさんが、あのおっさん球審してたんです、その試合。“ボーク”って叫んで、こうやって両手広げて“タイム”って言って、それから“ボーク、ボーク、ボーク”って、オレの方指差しながらマウンドに寄ってきたんです。“ランナー、オール・テイク・ワンベース”って走者全員に指示して、オレ、まだ一球も投げないうちに点取られて、“揺れてる、お前の肩は揺れている”って言うんです。ぼくも県予選では何回か投げてました。練習試合でももちろん投げてます。セットポジションでは一旦静止しないといけないことぐらい、そんなことぐらい知ってます。確かに初めての甲子園で緊張はしてたけど、そんな、肩なんか揺れてる訳がない。“揺れてないですよ”ってオレ肩ビシッとして抗議したら、あのおっさん、“いや、揺れている。揺れているというより、お前は震えている”“震えてる?震えてるって何ですか?”って詰め寄ったら“お前の名はレギオンだ。穢れし霊よ、この男より出(い)でゆけ”って、何か凄い顔して訳の分からんこと叫んで、“なに訳分からんこと言うとんねん、何がレギオンやねん、お前の方が穢れとるわ”って言い返して、そしたら慌てて監督が出て来て、一塁に入ってたエースをすぐまたマウンドに呼び戻して、オレ、結局甲子園では一球も投げずに終わったんです」
 テツはへなへな座り込んで、にじみ出た額の汗を袖で拭う。下唇噛んで俯いて、ひょっとして泣いてんの?と珠樹はテツの顔を覗き込む。
「でもまあ、そんなことはいいんです」とテツは不意にまた顔を上げる。
「試合はどうせ負けてたし、一応甲子園のマウンドも踏めたし、まあ、ほんというと少しは肩も動いてたもしれないという気もあるんです、そんなこと、高校卒業して、もう忘れてたんです。でも和歌山ぶらくり町でバイトしてたとき、もう甲子園から三年も経ってたんですよ、それでもあの兵藤のおっさん、化粧してマッチ売り少女の扮装してるオレのこと、すぐに見分けたんです。・・・・・・びっくりしたなあ、あのとき」
 そう言ってテツはまた座り、ビール缶を握って、それを触りながら続ける。
 珠樹は「ふーん」と言いながらじっと聞いている。
「ジロジロこっち眺めるもんだから、あ、やばいって、オレ身を隠したんだけど、結局そばまで寄って来られて、お前、野球はどうした、甲子園でつちかったものは、こんな男化粧してマッチ押しつけて客寄せする、そんなクスネたような精神だったのか、何のための甲子園だったって、それ以後ぶらくり町でオレの顔見ると“マッチ売りのテツ、マッチ売りのテツ”って寄ってきて・・・・・・、でもあれからもう十年以上経ってんのに、よく覚えてるもんやなあ、オレの顔」
 珠樹は何度か「ふーん」と言いながら、ちゃぶ台の上に頬杖ついてテツを見る。
「不思議ねえ、マッチ売りの少女ならわたしもやってた。高校のときの女子寮で。石狩平野の風の街の高校でね、見渡すかぎりの原野の中、ナナカマドの林の中に小さな校舎があるの。ミッション系の証しのように屋根にひっそりと十字架が立ってて、ほんとにこじんまりした学校なんだけど、クリスマスのときだけ近所の農家のお年寄りや子供たちを呼んで賑やかにページェントをやるの。中庭の大きなナナカマドにクリスマスツリーの飾り付けをして、出し物はマッチ売りの少女って決まってるの。マッチはいかが、マッチを買って下さいなって言いながら、子供たちにお菓子を配るの」
 珠樹はそう言って、上部だけ夕陽の朱色に染まっている窓枠を見上げる。真っ赤に紅葉したナナカマドを思い出しているのだろうか。
 テツもつられてそっちを見上げる。
 部屋にいれば、たぶん一日中点けているはずの蛍光灯が窓から吹き込む夕暮れの暖風に揺れている。
 クリーニング屋の屋上のエアコン室外機がずっと唸っている。二人が黙ると、阪神高速を通る車の低周波も届くし、二階のどこかの部屋でトイレを使うとゴォーという轟きもしばらく続く。
「珠樹さん、オレ、やっぱり予想屋は辛いです、無理なような気がします」
「何?」
 珠樹がテツの方に向き直って言う。
「珠樹さん、オレはガード下のチャリンコ屋です、無理です、あんな悪代官なんて」
「なーに言ってんの、よかったわよ、今日の。段々よくなってるわよ、わたし動きながら、ほんと思ったんだから、人間、どんなところにどんな才能が隠れてるか分からないもんだってね」
 珠樹はことさら快活になって言う。
「そうですか?」
「そうよ、ほんと、天才かもしれない、テツさん、役者になったらどう? ほんとに、今からでも遅くないわよ」
「参ったなあ、・・・・・・実はですね、隠してたけど、オレ、傘地蔵のおじいさんやったんです」
「何?」
「小学校二年生のときの学芸会で」
「はあ」
「“なんと寒そうなお地蔵さんだ、この傘をかぶせて上げよう”なーんてね、“年越しのために町に売りに行く商売物の傘だけど、こんな凍えそうなお地蔵さんを見捨てておくわけには行かねえだ、ばあさんだってきっと分かってくれるこったろう”なーんてね、“ばあさんや、何やら表で音がしたような、ほんとじゃ、こんな大晦日の夜にいったい誰なんじゃ、あっれー、ばあさんや、ばあさんや、大変だ、お地蔵さんたちが帰って行く、こんなにたくさんの金銀置いて、これはどうしたことだ、これもきっとポチのおかげじゃ、ここ掘れワンワンとか言ってくれたおかげじゃ”なんてね、途中からどうも“花咲じいさん”になったみたいなんだな、オレ、その前の一年生のときは、へへへ、花咲じいさんやったからね、連続主役だな、まあ、一学年十人しかいない小学校だったんだけどね、でもこの融合、フュージョンていうやつですか、いまで言うコラボレートってやつですか、これがどういう訳だか受けてね、正直に生きてりゃ、きっと仏様のご加護があるんじゃとか、もう何が何だか分からないんだけど、そんなことまで言ってみると、炭焼き休んで学芸会見に来てた村のじいさん、ばあさん、みんな、泣きだしてね、そのときも天才って言われたの、実は、ははははは」
「テツさん、これ新しい台本」
 珠樹は途中からテツの話を無視して、押し入れを開けてガサゴサし、中からホッチキスで綴じられたレポート用紙を持ち出していた。
「新しいって言ってもセリフが少しスペクタクルな感じになるだけで、“四郎もの”には変わりないんだけど」
 テツに一部渡し、自分も同じものをペラペラめくりながら珠樹が言う。テツの学芸会の話はまったく無視だ。
「どんなに変えたって最後は踏み絵に行きつかないと成り立たないもんね、わたしたちの作品は」
「作品?ぼくらのやってるのは作品ですか?」
「うん」と珠樹はレポート用紙見ながら何事もないようにうなずく。
「そうそう、わたしね、天草四郎のラフカラー作ったの」
「え?」
「ほら、天草四郎が浴衣じゃやっぱり変だと思うの。天草四郎といえば、こうギャザーの付いた真っ白いラフ・カラーでしょ。ラフ・カラーに綾錦(あやにしき)っていうバテレン・スタイルでないとおかしいと思うの。で、わたしボール紙折り曲げて、そこにシーツ切って貼り付けて作ったの。綾錦はなかったので、古着屋で一番派手なマントを買ってきたの。それに一番大事なクルスもボール紙に金紙貼って作った」
 珠樹は喋りながらまた押し入れを開け、新しい小道具の入った段ボール箱を引き出して見せた。
「これ、着るの?オレが?」
 テツは段ボールの中の派手なピンクのマントや、ギャザーの入ったラフカラーを取り上げて、困惑した声を出す。珠樹はこっくりうなずいてニコニコしている。
「でもオレ、チャリンコ屋の方も忙しいし・・・・・・」
「何言ってんの、最近、団地回りもちゃんとやってないんでしょ、仕事しなさいよ、ね、仕事しなきゃ、働き盛りの男なんだから」
「仕事?これ着るの、仕事ですか?」
 困惑するテツに向かって、珠樹が大きくこっくりうなずく。
「でも天草四郎って、こんなチンドン屋みたいな格好してたんですか?・・・・・・ほんとに?こんなの、全然ありがたみ、ないんじゃないですか。九州島原の水呑み百姓って、こんな格好した男見て“あ、救世主だ”とかって感じてたんですか?」
 テツは白い手作りラフカラーに首を通し、真っ黄色のマントに腕を通しながら何度も首をひねる。珠樹は糊のはみ出た金紙に包まれたバカでかいクルスを、さらにテツの頭から通して首に掛けさせる。
「うわ、天草四郎」
 座り込んだ珠樹は、マントやクルスを触りながら不安げに立っているテツを見上げて感嘆の声を上げる。
「え、ほんとですか?」
「わたしはね、昔、ほんとに天草四郎のことを教えられたの、隠れキリシタンの人から。こんな感じだって、その隠れキリシタンの人が言ってた」
 珠樹はほんとに感心したように、頭が禿げ上がり、顔がテカテカした天草四郎を見上げている。
「教えられたって、珠樹さん、それ何ですか?隠れキリシタンて何ですか?いまの日本に隠れキリシタンなんているんですか?」
「いるの」
「何で隠れる必要があるんですか?堂々と“オレはキリシタンだ”って胸張ればいいじゃないですか?」
「そうよね、確かにそう、あはははは」
「あはははって・・・・・・、どういうことですか、それ。それに何ですか、天草四郎のこと教えたって?その人、何歳なんですか?なんで天草四郎の顔なんか知ってるんですか?」
 ラフカラーにばかでかいクルス、黄色マント付けた男が、立ったまま珠樹を見下ろして矢継ぎ早に質問する。
「その人、ちゃんと日曜礼拝なんかにも出てたの、わたしの田舎でね。でもそのおじいちゃん、教会行くとき、こうやって横向きになって忍者みたいに壁伝いに歩くの。“オレは隠れキリシタンだから、おおっぴらには教会に通えない”って言うながら。わたし“みんな見とるやないか”って、頭ハタいてやった、あははははは」
 珠樹が気持ちよさそうに笑うので、テツも「はあ・・・・・・」と気抜けして、天草四郎の衣装のまま座り込む。
「町の老人クラブでゲートボールやるときも、そのじいちゃんゲートボールやるのよ」
 テツに代わって、今度は珠樹が立ち上がり、ゲートボールの構えをとる。
「そのじいちゃん一人だけ、ショット前に十字切るの。こう構えてるとき、こうやって片手だけ離して十字切るの。そうそう、ヨーロッパのサッカー選手がゴール決まったときやるみたいに。小さくじゃないの。結構大げさにやるの。で、十字切ったあとは必ず顔上げて周り見て、もし誰も気づいてないみたいだと、グホッて咳払いしてもう一回やるの、十字切りを。わたしその頃、おばあちゃんの付き添いでよく公園行ってたんだけど、ショットのあとわたし見ると、そのじいちゃんわたしの方に寄ってきて、お前にだけ特別に言う、決して誰にも言うなよ、“実はワシはこれや”って言って、周りキョロキョロ見たあと、素早く十字切るの。“隠れキリシタンだ”って言いたいのよ。“さっきゲートボールの会場でみんなの前で目一杯十字切っとったやないか”って、またわたし、頭ハタいてやった、あはははは」
「はあ・・・・・・」
「・・・・・・でもそのじいちゃんが言ってた。キリシタンは隠れてこそキリシタンや、“お前はキリシタンか”って聞かれて“ウンニャ”と激しく首を振る人間だけがほんとのキリシタンになれる。その首振りキリシタンの第一人者が天草四郎や、ほんとに天草四郎の首振りは凄かったぞって。あんた何歳や、どこで天草四郎見たんやって、わたしもそう言ったの。でもじいちゃんにはそんな疑問何でもない。わたしに見せてくれるのよ、天草四郎の首振りを。こうよ。・・・・・・ウンニャ、ウンニャ、これが天草四郎や、天草四郎の首振りや。試しにいっぺん聞いてみろ、ほれ、お前はキリシタンかって聞いてみろって、じいちゃんそう言うから、わたし、あんたキリシタン?って言ったの、ウンニャ、は?ウンニャ、は?首振りや、天草四郎の首振りや、ウンニャ、ウンニャ、ウンニャ・・・・・・」
 珠樹は立ち上がり、まるできつね憑きの女のように猛烈に首を振る。
「でもね」と真っ赤な顔になった珠樹が急に首振りをやめて続ける。
「天草四郎は大きなこんじきのクルスをして、バテレン宣教師かぶれの派手な白いラフカラーもしとる。してないとだめなんじゃと、そうじいちゃんが言うのよ。クルスとラフカラーしながら、お前はキリシタンかと聞かれたらウンニャ、ウンニャ、ウンニャ」
 珠樹はところどころ「はあ、はあ」と息を継ぎながら、またきつね憑き首振りを始める。「これよ、これが天草四郎なんだって、ウンニャ、ウンニャ、はあ、はあ、ウンニャ、ウンニャ、ウンニャ、ウンニャ、ウンニャ、ウンニャ、ウンニャ・・・・・・」
「そうですか・・・・・・」
 テツは珠樹の鬼気迫る姿から目を離して、力ない相づちを打つ。
「聞かなきゃよかった・・・・・・」相づち打ちながら、テツは小声で呟いて溜息をつく。
 テツは静かにマントやラフ・カラーを外し、それらを丁寧にたたみ始める。きつね憑きをやっていた珠樹も、テツが自分を見ていないのを知って、首振りをフェードアウトし、所在なく座る。
「ま、色々あるわよね、隠れキリシタンにも」
 珠樹は一人ごとのように言って、思い出したように扇風機のスイッチを入れる。
「天草四郎だって、つまり目立ってたわけだしね・・・・・・」
 そう言いながら珠樹は冷蔵庫に膝でにじり寄り、もう一本ずつ缶ビールを出す。
 夕暮れ近くになって、開店準備を進めているのだろう、路地の入り口から焼鳥屋の排煙の匂いも漂ってきた。クリーニング屋の蒸気やゼラニウムの花や土の香りと混じって、不思議な匂いになっている。
 ぐるりと壁を見回すと、部屋には色褪せた映画のポスターやスチール写真が何枚か貼ってある。改めて見ると、すべて「ET」のものだ。ETの指先とエリオット少年の指先が触れ合い、その瞬間ピカッと光輪が出来るシーンのものがある。ETが潜む納屋が中から光りを放ち、その不思議な納屋に向かってエリオットがボールを投げ入れるシーンもある。部屋のドアを開けた途端、ヘアピースを着けた奇っ怪な姿のETがそこに立っていて、妹のガーティが大口を開けて叫び声を上げるシーンの分もある。それらのポスターやスチール写真が変色し、あちこち剥がれながらも壁やふすまに押しピンで止めてある。ほとんど光の入らない部屋だが、日の入り前の一条の光が差し込んできて、テツはまぶしそうに窓の方を振り返る。
「おかしいでしょ、朝も昼も全然光なんか当たらない部屋なのに、角度の関係なのかなあ、秋口になると、特に今日のようにいい天気の日には夕陽が一瞬だけ光が差し込むの」
 一瞬の光が部屋の一番大きなポスターを照らしている。たぶんそれは珠樹が光の角度に合わせて、調整して貼ったポスターなのだろう。青い夜、白い大きな大きな満月の前を、黒いシルエットとなったエリオット少年とETの乗るBMXが空を飛んでいる。
「ET、好きなんですね」
 テツは立ち上がって、そのET自転車のポスターを見ながら言う。
「うん」と珠樹が応える。
「それでオレにETの自転車が欲しいって言うんですね」
「何?」
「いや、珠樹さん、オレにETの自転車作ってくれって言うじゃないですか、言っときますけど、珠樹さん、オレ、あのETの自転車のせいで、足やら肘やら傷だらけなんですからね」
 テツはスボンをたくし上げて、珠樹に擦り傷を見せようとする。
「話したっけ?」珠樹はそのズボンたくし上げているテツの横をすり抜け、ETのポスターを見上げて言う。
「何ですか?」
「わたしね、ETの自転車に乗ったことがあるの」
「はい?」
「わたしね、ETのね、自転車に乗ったことがあるの」
「はあ・・・・・・」
「もうずっとずっと昔のことだけど」
「はあ・・・・・・」
 テツは相変わらずズボンの裾を持ったまま、上目遣いに珠樹を見る。珠樹はテツの擦り傷などおかまいなく、ずいぶん昔のことを、まるで昨日起こったことのように生き生きと話し始める。

 十年前の夏の終わりの夕方、甲子園球場では各校の応援団が備品を片づけて帰途についていた。阪神甲子園駅に向かう客もまばらになり、高速道路の向こうのビルが、夕焼けで赤く染まっていた。そのとき突然キィーッという音がして自転車がわたしの目の前に止まったんです。驚いて見上げると、Tシャツにジャージを履いた男がペダルに足を置いたまま、わたしを見ていました。頭を刈り上げて見た目はさわやかなんだけど、ジッとこっちを見るその目つきは何となくねちっこくて、正直薄気味悪かったです。黄色いスウェットシャツにミニスカートのチアガールの服装のまま、わたしは怯えていました。
「オレは前から“わたし、どうなってもええ”とかいうチアガールには意見をせなアカンと思とったんや」
 男の人はブツブツ言い始める。てっきり頭がおかしいんだと思いました。
「“わたス、もう五所川原にゃ帰んネェ”とか言うんだ、いっときのはかない高揚にうなされた女子高生チアガールどもが。あれが我慢できんのや」
 男の人はわたしの横でしゃべり続けるけど、わたしは何のことか分からなくて、ただもう「都会には変な男がいるんだ、気ぃつけねぇとダメだべさ」って北海道風別を出るときに言われてた、そのことばかり思い出して、みんなにははぐれるし、ただもうおっかなくて、泣きたくなって・・・・・。
「それだけならええ。それだけならええんやけど・・・・・・」
 でも男の人は途中から怯えたわたしのことなど眼中にないように、どんどん喋り続けていったんです。
「そういうときは必ず“んだ、んだ。キョウコ、んだよお。俺たちの青春は終わったス、今日の甲子園でなんもかんも燃えつくしたス、もう何も残ってねぇ、キョウコ、こっちさケッ”とか言って尼崎開明町あたりのラブホテル、あそこはオレも前から一度行ってみたかった、いや、一回入り口の前まで行ったことがある、でも“あ、わたし、急に生理になった”とかって、そんな、生理ってホテルの入り口で急になったりするもんか、いやまあ、そんなことはどうでもええ、そんなことが言いたいんやない、とにかくあそこに高校生の分際で入りこんだりするんや。“え、何?”ってチアガールが聞いて“オレたちの青春の残りカスを燃やし尽くすんだ”とか訳の分からんことを男が喚いて“だめー、そったら恥ずかしい格好はできん”とか女が言ったら“このバガッタレがー、そったらことで五所川原農林野球部員の悔しさが晴らせるか。あいつらの血へど吐く練習に比べたら、こったら恥ずかしさはなーんでもねえ”とか何とか逆に怒りだしたりして、もう何が何やら、とにかく一時の激情から五所川原の応援団員とチアガールが取り返しのつかないことに走ったりするんや、あれが許せん、オレはとにかくあれが許せん。オレは何のために毎日、毎日、チャリンコバカとか陰口叩かれながらゲ吐くほど自転車漕いどるんかと思うんや、クソーッ」
 男の人は一しきり喋ったあとフーッと息を吐き、ガックリ首を落としました。それからふと横を見て、わたしが呆然と立ちすくんでいるのを見て、男の人は我に返りました。
「仲間にハグレたんか?」
「え?」
 急に言葉が冷静になって、かえってわたしの方が驚き、思わず聞き返しました。
「仲間にはぐれたんかって訊いてるんや」
「あ、はい・・・・・・」
「どこの高校や」
「え?」
「どこの高校のチアガールやって訊いてるんや、何や、さっきから、えっ?えっ?って、オレは鳳啓介か、ポテチンか、・・・・・・まあ、そんなことはどうでもええわ、どこの高校や」
「風別実業高校、北海道の風の街の」
「風の街でも何でもええがな、しょうもないこと言うな、その高校のチアガールがどうしたんや?」
「分からないけど、みんないなくなってて、みんな、わたしがいないことに気づかないで帰ってしまったと思うんです。わたし、電話しなきゃ。故郷の風別に電話しなきゃと思ったんです。でもこんな格好で、それに、公衆電話を掛ける小銭もないし・・・・・・」
 わたしがしどろもどろの返事をすると、男の人はコックリうなずいたんです。わたしから宿舎の名前を聞くと、球場事務所までママチャリで行って問い合わせしてくれた。
「北海道の高校は六時半伊丹空港発ANA九三三便で帰るらしい。あと一時間しかない」男の人は全速力で帰ってくると、まるでアルペンスキーのゴール後のようにキキーッとブレーキをかけ自転車を斜めにして止まり、深刻な声を出す。
「この時間か」と男の人は自分の手首を上げて腕時計を見る。でもその男の人はジャージにTシャツ姿で、腕時計なんかしてないんです。びっくりしました。何なんだろう、この人と思いました。
「時計・・・・・・」
 まだ自分の素肌の手首をかざして見ている男の人に、わたし、恐る恐る言った。
「あん?」
「時計ないじゃないですか・・・・・・」
 男の人の手首を指差して小さな声で言いました。男の人はジロッとわたしを睨んで、それからまたわたしの声なんか全然聞こえなかったみたいにまた自分の手首をかざした。
「まずいな、この時間は国道二号線も一七一号線も渋滞で全然動かない。六時半は絶望という名の翼を持つムクドリだ」
「ムクドリ?」わたしは小さく言いました。
 男の人はわたしの言葉にようやく見えない腕時計から目を離し、こっちを見る。
「・・・・・・ふふふ、ムクドリだ」
 男の人はそう言って薄笑いを浮かべるけど、どういう笑いなのか全然意味が分かりません。ただ薄気味悪いだけです。
 でもその日少しの間だけ一緒にいて分かりました。一見ただ体力だけの男の人みたいだけど、ビクッとするような、こっちが気恥ずかしく感じるほどの文学的な言葉が好きで、それをけっこう臆面もなく使うんです。
「荷物を抱えて、ここに乗りなさい」
 男の人は顎でママチャリの後ろの荷台を指し示し、どういう訳か急に丁寧な口調になりました。
「へ?」
「伊丹空港は直線距離で二十キロあります。カーブは多いし、ずっと上り勾配、楽なレースではありません」
 後ろの荷台に乗ったわたしに顎を引いて話しかける、それも急に丁寧な口調になって。でも何を言っているのか分からない。レースって何のことなんだろう。
「わたくし、端なくもロサンゼルスオリンピック・スプリント競技日本代表の栄誉を担い、運否天賦、われに幸い来たりて、ブロンズメダルを獲得することができました」
 そう言って男の人は静かにペダルに足を掛け、胸を反らして深呼吸し、遠い空を見てそう言う。
「確かに喜ばしいことです、しかしそれはまた同時に人知れず苦しみを背負うことでもありました」
 男の人はそう言って今度は俯く。時間がないんだから、早く出発すりゃいいのにと思うのだけど。
「実はこの重い十字架を投げ捨てたいと考えてきておりました。日本競輪学校第五七期生首席卒業、昭和六二年度競輪新人リーグ優勝、S級特進、それが何でありましょうか。“サンノゼの黒豹”“なにわのハヤブサ”、ふふふ、お笑い草です。人というのは勝手な呼び名をつけて愉しむ、それだけのことです」
 男の人はようやくペダルを漕ぎ始めた。でもすごくゆっくりしている。
 あとで聞くと、競輪の自転車というのはチェンジギアというのがなく、すごく重いギアを使ってるから、漕ぎ初めというのはとてもスローになるということです。男の人のスロースタートというのは多分それをイメージしていたんだと思う。だけど、そのときわたしが後ろに乗り、男の人が漕いでいたのはただのママチャリです。おばさんがスーパー買い物に行くときに乗るやつです。すごく軽いギアです。一体何の真似なんだろうと思いました。
「わたしはただのチャリンコ漕ぎです。ご新造さんを大恩ある旦那の死に目に会わせるために、ただひたすら人力車を漕いだ小倉の無法松です。惚れて惚れて惚れぬいたご新造さんを旦那のもとに走らせる無法松です。お若い人、どうぞしっかりつかまっていて下さい。夏の大輪・甲子園球場の、その日陰に咲く干からびたヨモギ草、その甲子園競輪場のしがないチャリンコ漕ぎがちょっとばかり根性見せます、ハハハハハ」
 男の人は唾を飛ばして訳の分からないことを喋りながら、漕ぎます。ようやくスピードが出て来ました。でもその喋りをやめて全身の力をペダルだけに集中したら、もっとスピード出るだろうにと、わたしは首をひねりました。
 無法松は額に汗し、国道二号線から武庫川大橋を渡り、河川敷を北上し、一七一号線の渋滞を縫って走りに走りました。
「いまロサンゼルス・サンノゼ・ヒルズ、この這い松ブッシュがわずかに点在するだけの赤茶けた丘に立ち、はるか日本に思いを馳せております。最大斜度四二度、さすが碧眼経済大国の建築物、目のくらむようなカントの高さであります」
 不思議な人です。ハーハーゼーゼー言いながらも、それがまるで唯一自分を奮い立たせる伴奏であるように喋り続けます。
「ああ、大阪の下町、天下茶屋のお父さん、今日このときもいつものように、抜けた前歯の間にタバコを挟み、煙たそうな目をしながら元気にパチンコ台の取り付けをやっておられるでしょうか、ああ、お母さん、今日もパートは忙しいでしょうか。今頃は花園町・万福食肉店でコロッケ揚げている頃でしょうか。近所のハナたれガキどもに“散れ、悔しかったらゼニ持って来い”と今日も元気に怒鳴っておられるでしょうか。あなたたちの息子はこのサンノゼ・ヒルズのカントの頂上に立っております。かねて待望の山おろしを立派にやりとげ“あっぱれ、あれがカミカゼか”“ゼロ戦片肺出撃か”とヤンキーたちの口を開かせてきます。ああ、お父さん、お母さん、この武庫川河川敷にサンノゼ・ヒルズの日の丸がなびいております」
 自転車で切っていく風の音で、男の人が何を叫んでいるのかよく聞こえない。わたしの耳には、遠く、夕方の武庫川の河原で水遊びする子供たちの喚声ばかりが届いていた。ただ必死に男の人の腰にしがみついて、その人の汗ばんだTシャツのぬくもりだけを感じていた。
 十年前、わたしちょうど札幌でETの映画を見たあとでした。この自転車はきっと、ETのあの空飛ぶ自転車なんだ、この人、きっとETなんだ、わたし、絶体絶命のピンチを救ってくれるETの自転車に巡り会ったんだって思った。
 わたし、あのサン・フェルナンド・バレーの渓谷で、CIAの諜報部員に追いつめられて、もうダメだ、捕まって宇宙侵略のために検体されるか、谷底に落ちるか、二つに一つしかない、ああET、どうしようっていう、あの絶望の淵にいるエリオット少年のような気持ちだった。でも思わず目をつぶったら、自転車が空飛んでた、すごーいっていうそんな気持ちでした。

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