ちゃりんこダビデ

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  第5章  


 八番町県営住宅の中の月見里公園は競輪場から阪神甲子園駅への近道に当たるため、レースのあとは競輪客たちの通路になる。赤線だらけのクシャクシャの競輪新聞を持ち、夏のオレンジ色の黄昏の中、灰色のシャツの背中や脇の下に汗のシミを浮かび上がらせた中年男たちが「ちぇっ」とか「クソッ」とか言ってヨモギの葉を蹴って進む。まるで怒りの葬列だ。代官になぶり殺された一揆の首謀者を野辺送りする百姓たちのように、ある者は唇を噛み、ある者はこぶしで涙を拭って悔しさに耐える。
 夏の甲子園大会が終わると、このあたりは数日前までの若人たちの喧噪が嘘のように静かになる。高校野球開催中は日陰を隠れるように歩いていた競輪客たちが束の間主役を演じるようになる。「あほたれ、あのボケが」という吐き捨てゼリフと、ごくたまにある「そやからワシはEーB一本しかないと昨日から言うとったやろ、ハハハ」という不自然大声の自慢話だけが空き地に響く。
 公園を囲む八番町県営住宅は旧式の低層団地だが、集合棟は二十以上ある。しかしまるで空家の寄せ集めのように人の気配がしない。夏休み中のはずなのに、公園で遊ぶ小児の姿も見えない。競輪客のやけくそ行動を恐れて、競輪の引け時間には親たちが子供を外に出さないのである。セミしぐれだけが老朽化した県営住宅のコンクリート壁に空しく響いている。
「吉三郎様、わたくしです。品川鈴が森の仕置き場で火あぶりにあった、本郷の八百屋八兵衛の娘お七です。よもや、お忘れではございませんでしょうね」
 月見里公園の静寂を若い女の唐突な叫び声が破る。
 雑草生え放題の公園だが、一隅に銀杏の木が数本立っている木陰があり、唐突な女の大声はその銀杏の前の広場から聞こえる。足早に歩いていた競輪客たちが「何や」と振り返る。
 女が誰に向かって叫んでいるのかも分からない。ただ県営住宅の上空の方を見、両手を胸の前で握って放心している様子だ。
「ヤバいやつか」という警戒と興味半々の視線で、競輪帰りの客たちがそれを見る。
「どげんしたとね、お七とかいう娘」
 九州弁の男が若い娘に後ろから近寄って声をかける。これも不自然に大きな声だ。
 夏だというのに、女はまるで「アルプスの少女ハイジ」のような、くるぶしまであるドンゴロスのような分厚い生地のスカートを履いている。終戦直後の焼け跡を歩く女のような格好だ。男はどういう訳か、かすりの浴衣姿である。
「わたしは江戸の街に火をもたらしたお七という女です。江戸市中を手縄で引き回されるという辛いハクガイを受けました。でも愛する吉三郎様は知らんふりをしたのです」
 女は振り返って言う。でも相変わらず木立の上の方に視線が向いている。
「火までつけとるとにか」
 男も同じように県営団地と、反対側の木立の上の両方に、すがるような視線を送る。一見しただけでアブナい二人だと分かる。
「そうです」
「火あぶりの極刑も承知で江戸の街に火をつけて回った、そこまで恋心を募らせていたというのに、愛する吉三郎という男は会いにも来んかったとか」
「はい・・・・・・、わたしが碧眼(へきがん)の女だからという、ただそれだけの理由です」
「碧眼?」
「はい、その理由だけで、吉三郎さまは自分の仕える駒込吉祥寺に義理を立て、会いに来てくれなかったのです」
 女はうずくまり、泣いている素振りを見せる。
「碧眼とはどげんことばい」
「ワタクシはー、ジッポのオーナー、ジョージ・ブライスデールの孫娘でーす。ペンシルベニアの田舎町ブラッドフォードから人さらいにさらわれて日本にやってきまーした」
 女は急激に西洋なまりになり、手の平で自分を指し示したり、腕を回したり、急にジェスチャーが大きくなる。男が「何だ、こいつ」という唖然とした表情で女を見る。
「お前はお七だ、ブライスデールという名は忘れろとー、言われまーした。それイガーイに名はなーいと命令されまーした。とても悲しかったでーす。日本に来てもすることがありまシェーん。八百屋の店先でペンシルベーニア産のカリフラワーを見つけて、あまりの懐かしさに涙を流しました。ペンシルベーニアでは、まいばーん、カリフラワー食べまーす。そうしたら、あの小野川吉三郎という男が、あいつは八百屋の店先でカチャカチャ、ライターをつけるアブナーい女だと言いふらしたのです」
 そう言って女は自分のスカートのポケットから銀色のオイルライターを取り出して火を付ける。
「あ、いま、わたし、ライターつけてましたか?いやーだ、わたーし、これ、癖です。無意識にやってしまうでーす。悲しいナガサキ、悲しいクマモート、いえいえ、悲しいサガでーす。はーい、ペンシルベニアのブラッドフォードでは、みんな四六時中カチャカチャやってるんです。何せジッポの街ですから。みーんな、悲しいナガサキ、悲しいクマモート、いえいえ悲しいサガでーす」
「お?女、いま何と言ったとか?」
「悲しいナガサキ、悲しいクマモート、いえいえ悲しいサガでーす」
 女は脳天気に同じギャグを繰り返す。
「ヌハハハハ、ついに吐きおったな、お七とやら」
 男の言葉が一変する。
「おまい、いまサガを言うとに、ナガサキとクマモトを口にしたばい。語るに落ちたというのは、このことばい。おまいが島原原城で総大将ジョロニモ四郎時貞より寵愛を受けた田中右衛門作(えもさく)の娘・まきだということは大方目星がついとったとよ。まきは碧眼の女と言われとった。ジェロニモ四郎時貞に耶蘇の心を植え付けたのは碧眼のまきと察しがついとったばい。島原大江名、原城に作られた巨大なクルスに四郎時貞をくくりあげ、山と積まれた枯れ枝に末期の一灯をつけた、火付け女は、ほんなこつ、おまいに間違いなか」
「え、あなたは、一体・・・・・・」
 女が顔を上げる。
「まだ分からんとか、この隠れキリシタンの残りかすが。わしは時と所を越える雲仙普賢岳の“穴吊り奉行”たい。諸国にその名を轟かした長崎奉行・戸田采女(うねめ)重次とはおいのことばい。おまいはまだわしば知らんとか。賢うみえてもやはり無知蒙昧よ、バテレン女は。おまいは鈴が森の火あぶりの刑から蘇ったと思うちょるらしいが、助けたとよ、この穴吊り奉行が。ペンシルベニアの田舎町ブラッドフォードから黒船に乗せて運んできたのも、この奉行、ウネメ・トダよ。ドゥー・ユー・アンダスタン?」
 浴衣姿の男が裾をはだけて女の首を押さえ、銀杏の木の下まで連れてくる。
 ぼくは斡旋停止明けの三ヶ月後(ずいぶん先の話だ)の和歌山B級戦に出るため、競輪場の中の施行者事務所に出走手続きに来た。斡旋停止中は出走手続きも出来ないので、こんなに早くから登録しておかないといけない。競輪開催日に来なくてもいいようなものだが、何というか、これから三ヶ月間開催日の雰囲気を味わえないとなると、人の賑わいというのも感じておきたいというところもある。
 競輪というのは個人競技だが、スピードを上げると倍加する風圧を避けるため必ず何車か一団になり、ラインと言われるものを組んで戦う。その方が勝ちやすい構造になっている。このラインというのは同県、その中でも特に練習場を同じにしている選手を中心に形成される。生きのいい若手で、きっぷよく先行してくれる選手などがいれば、先輩たちはその選手の面倒をよく見る。レースでその選手の後ろに付けば勝つチャンスが増えるからだ。そういう若手がいなくても、同県選手は試合でラインを組む可能性は高いから普段から集団で練習し、情報を交換し合って交流を深める。集団練習は練習の効率を上げるというより、互いの親密度を増しておく意味がある。競輪は個人競技のようだが、その実、地縁と血縁、義理と恩着せの入り乱れた大人脈スポーツである。
 でもぼくはもうB級レーサーだ。練習に来てもB級の選手はほとんどいない。B級選手はパチンコ屋に行ったり、新聞配達したり、ヤキトリ焼いたり、アルバイトで忙しいからだ。薄情なもので、一緒にラインを組む可能性がないとみると、これまで愛想のよかった後輩たちですらろくに挨拶しなくなる。バイク誘導や集団追い抜きなど大勢でやる練習にも誘いをかけて来ない。
 いや別にそんなもの、頼んでまで集団練習やる必要はない。オレはこれまでだって一人でやってきた。一人でやってロス五輪だって出た。一人黙々と調整室でローラー(自転車を載せて回る)を踏み、レース終了後バンクで“一周もがき”を三度やり、もうこれで十分だ。何せB級戦だぞ、川瀬達造ナメんじゃねえ。軽く圧勝してやる。
 外に出て、キャリーバッグを背にいつものママチャリで月見里公園まで来てみると、銀杏の木の下で男女二人の異様な声がする。ぼくは公園脇の道の端で自転車に足をかけたまま、その様子を見ていた。
「さあ、踏まんね」
 男は何やら板のようなものを女の足許に置いて要求する。
「オーウ、フアット?これは何ですか」
 女は両手を広げて大仰に驚く。
「もう英語はよかよ、この隠れキリシタンが。ほんなこつ、せからしかオナゴよのお。知っとろうもんを。踏み絵たい、踏み絵。何のためにおいがおまいを鈴が森の炎の中から助け出したとか、何のためにブラッドフォードのライター工場から連れ出したとか、みーんな踏み絵を踏ますためでんなかとか、そげん簡単なこつもよう感じよらんかったとか」
「踏み絵?」
「そうたい」
「なんで踏み絵なんか・・・・・・」
「火の中で神を裏切ろうとした者の報いよ。愛などというウツロなものに身を委ねて神を忘れた者の罰よ。さあ踏みんしゃい。さあ転びんしゃい。一度は裏切ろうとしたオナゴたい。踏んで、世間にしっかり背信を告げんしゃい。踏んで、楽になりんしゃい。さあ転ばんね」
「踏めまっしぇーん。わたしが聖母マリアと主の姿を足下にするなどと、そんなことができるはずがありまっしぇん」
 女は万緑の銀杏の木の下に置かれた踏み絵を踏めず、思わず幹にしがみつく。男はなおも踏め、踏めと迫る。
 女はたまらず、太い幹をよじ登るが、そこはか弱き女のうで力、哀れ一メートルの所から「ああ」という嘆きとともに、踏み絵の上に落ちる。
「おっーと、八番四番と出た」
 男は大声を出して、遠巻きに見ていた競輪帰りのオジサンたちを見回す。
「今日の十レース、一万三千二百円の大穴のG・C、この地獄の火責めを抜けだし、踏めぬ、踏めぬとイヤイヤをした八百屋お七、またの名をペンシルベニアのジッポの孫娘が、左足を八番、右足を四番の上に置いている。これはどうしたことだ。単なる偶然か。ハッハッハッハ、信仰薄き者たちよ。見よ、この十レースの出走表、第一本命、九州小倉の高井重信から九番千葉の高山善太までズラリ並んだ選手の名前の上に、燦然と輝く黄金のクルスが見えんとか。信ずる者は救われる。信じぬ者はどこまでいっても貧乏タレじゃ。えーい、分かった、イモを洗う貧者どものために、もう一レースだけ試してやるばい」
 テツは女の方を振り返るが、女は出走表の“踏み絵”の上に両足を置いたまま放心している。
「お客さまが信じられんごと言いんしゃっとるとじゃ。悲しかことよのお、お七。悲しかことばってん、こげんときは分かっとるとじゃな、そげんたい、もう一度踏まねばならんとじゃ」
「いやです」
 女は俯いたまま首を振る。
「何ば言うと?」
「いやです。二度と踏み絵は踏みたくないです」
「何ばせからしかことを」と男は女の髪を掴んで揺する。
「おまいはカネで買われた女たい。それば忘れとるんでなかか。お客さんがもう一度踏めと言いんしゃっとるとじゃ、なんでんかんでん、踏まにゃならんとよ。それが信仰に生きる者の宿命たい。さあ今度はこっちの踏み絵を踏んでみんね」
 男は段ボールの箱から別の板を女の前に差し出す。
「いやです。絶対いやです」
 女はまた銀杏の木の幹によじ登ろうとする。しかし哀れ、女の細腕(と、どうも二度も同じパターンが繰り返されると、予定の行動ではないかと思えてくるが)、一メートル上から落下してくる。
「ああ」とまた蝉時雨の中に女の嘆き声が響く。
「おお、二番七番たい。八レースの大穴、本命の鍵山威一郎、いくら何でもこの負け戦なら名前で勝つだろうというファンの期待をものの見事に裏切って、八三七〇円つけた大穴車連、二番と七番の番号の上に確かに左足と右足が乗っとる! 左足は一着、右足は二着を表すと、これは福音書にもちゃんとそう出とるとよ。特に連単のときはこの順番に注意しろとマタイによる福音書にもそうはっきり出とるとよ」
 半信半疑、帰り客四、五人が「何や?」という感じで、その踏み絵(という名の予想板)を覗きに前に出る。すると男ではなく、さっきまで「踏めぬ」「踏めぬ」とイヤイヤをし、虐げられていたはずの“お七”が前面に出てきた。
「さあ、たった一万円、この島原大江名、焼亡(じょうもう)寸前の原城からデウスの加護を持って奇跡の生還を果たした乱数表、煙火の潮見櫓(しおみやぐら)からジェロニモ四郎時貞が天草海峡に放り投げ、クルスの先の白鳩がくわえて飛び去ったと言われる、あの幻のデウス秘奥書が時と所を越えていま阪神鳴尾浜の海岸を越えて飛び来たった、この競輪福音書が一部わずかに一万円、どうや、自分の薄幸を嘆いてきた敗残の子羊たち、この乱数表、一部たったの一万円じゃあ」
 ザラ紙をホッチキスで止めただけの特製冊子を掲げて、お七が説明し始める。
「一万円?その数字並べただけの、イタズラ書きみたいなのが一万円もするんか?」
 クシャクシャの競輪新聞を持ち「ヤンマー」の帽子をかぶったおっちゃんが素っ頓狂な声を上げる。
「おっちゃん、なんぼやられたんや?二万か、三万か、それが、たった、えーい、聞いてなかったんかいな、いまの十レースの大穴、あれ一発で千円買うても十三万、ああ信じる者は救われる、信じぬ者はどこまで行っても貧乏たれじゃ」
“お七”は口から泡を出して力説する。さっきまで主導していたバテレン抑圧の悪辣奉行はジリジリ下がり、団地の壁を背に両手を前で重ねて立っている。その姿はまるで「すいません」と謝っているようにすら見える。
 ぼくは気になって、ママチャリを公園の中に進めて近づいていく。
 ドンゴロスのスカート女にヨレヨレの浴衣男、でも十人ほどの競輪客の後ろにママチャリを付けたとき、ぼくは確認した。男はテツだ。遠くから見ていても何となく雰囲気はあった。口調も似ていた。見たこともない浴衣を着、ちぢれっ毛のカツラを着け、ファンデーションまで塗っているが、その下は油ぎった赤ら顔のテツである。
 もう一人の、この“お七”は誰だ。この前言っていたタマキという女か。何でまたこんな芝居がかったことをやっているんだ。今日が初めてという雰囲気ではない。けっこうやり馴れてる感じがある。
「こらーっ、お前ら、まだやっとるのか、最近近所から怪しげな予想屋が徘徊して困っとると競輪場の方に苦情が来とるんじゃ」
 自転車振興会のユニフォーム、歳に似合わないマリンブルーの派手なブレザーを着て白い帽子をかぶったおっさん二人が、競輪場通用口から予想屋の方に自転車目一杯漕いで近づいてくる。
「わしら自転車振興会の人間がどれほど近隣環境整備に力を入れとるか知らんのか、ご近所さまの苦情ほど怖いもんはないんや、ここは八番町団地の所有地や、団地の人たちの迷惑になるのが分からんのか、とっとと出て行けー」
「ちょっと、おっちゃん、ここ、あんたんとこの土地と違うんやろ、何の権利があって人の商売邪魔するんや」
 お七が猛然と反撃する。
「土地と違うとか、そんな問題やない。あのなあ、わが自転車振興会が近隣町内会になんぼほど賛助金拠出してると思うとるんや」
「なんぼ出してんのよ」
「なんぼって・・・・・・、そりゃもう莫大なカネや」
「莫大って、なんぼよ」
 お七がなおも食い下がる。
「なんぼでもええやないか、とにかく想像を絶するカネや」
「へええ」
「とにかくや、そんなカネまで拠出して近隣住民の理解を得ようとしてるんや。それやのに、それほど血の滲むような苦労をして近隣地域にとけ込もうとしているというのに、甲子園競輪場廃止・解体の議案が出とる、わー、なんでや、一生懸命やってきたやないか、これだけみんなに気を配り、賛助金を払い、ほんまに頭下げてまで払っとるんや、“ごめんなさい”と言いながら札束出しとるんや、それやのに甲子園競輪場はつぶされるかもしれんのじゃ、わーぁ、お前らのごとき得体の知れんやからに、わしらの空しく張り裂けそうな胸の内が分かってたまるか」
 振興会職員は自転車乗り捨てて膝を落とし、急に泣きわめきだした。
「そんな、別に泣きださんでも・・・・・・」
 職員の異様な気配に圧倒されて、お七は冊子持ったまま立ち尽くす。
「あいつら、どこかで見たことある」
 ぼくのうしろで聞き覚えのある声がした。清之助だった。多分、ひそかにぼくの後ろから近づいてきていたのだ。振り向くと、サキも一緒に来ていて、「うん」という感じで頷きながら女の方をじっと見ている。
「頼むから、このへんで不可解な行動はやめてくれ」
 職員は顔を覆ったまま繰り返す。
 お七はなおも困ってじっとしている。
「それ、くれ」とぼくは前に出て言う。「一冊くれ、ほれ、一万円」
 ぼくはジャージのポケットからこの前、誘導アルバイトで得たなけなしの一万円を取り出す。
「八レースと十レース、二レースも大穴当てるなんて、そんな予想本はめったにない。きっと神様の加護があるのに違いない」
 ぼくがテツの方に近づくと、テツもこっちを見て驚く。
「あ、川瀬さん」と小さな声を出して固まる。
「ほれ、一万円」とテツの手に万札を握らせる。「何しとるんや、テツ、こんなところで」とテツだけに聞こえるようにぼくは小声を出す。
「あ、きみは川瀬達造じゃないか、どういうことだ、競輪選手が予想本買うとはどういうことだ」
 振興会職員がくしゃくしゃの顔をぬぐって振り返り、ぼくを見つける。
「きみは確か、これから黄檗山謹慎の身だろう、どういうことや、ひょっとしてこんなインチキ予想屋の片棒担いでるんじゃないやろなあ」
 職員の言葉に、居合わせた数人の競輪客もこっちを見てざわつく。
「これはええ予想や、競輪選手が読んでもためになる」と、ぼくは冊子を開いて大声を出し、そのままママチャリを漕ぎだす。
「じゃ、まあ、今日のところはこんなところで」
 テツも浴衣の裾をからげ、訳の分からない撤収の言葉を吐きながら、引き上げようとする。そのとき「テツ!」と大声が出た。清之助である。いつのまにか清之助はテツのすぐ横まで寄っていた。
「お前、テツやろ、和歌山ぶらくり町のマッチ売りのテツやろ、オレや、昔、梅の木むら分校の野球部の面倒をみた清之助、兵藤清之助や、お前、マッチ売りのテツやろ」
 兵藤清之助がなおも詰め寄ってテツの腕を掴もうとする。テツは慌てて、インチキ冊子と衣装を抱えて逃げ出した。お七もテツのその様子を見て、仕方なく一緒に駆けだす。
「先生、あの女、珠樹です」
 サキが声を出す。なぜか清之助を“先生”と呼んで、お七の方を指差す。
「珠樹?珠樹って、あの珠樹か」
「間違いないです。分厚い化粧して、あんな格好してるから、よく分からなかったけど、腕の、ここのところにヤケドのあとがありました」
 サキは自分の肘下のあたりを示しながら、清之助に訴える。
「珠樹、こんなところにいたのか、ファールチップ」
 清之助は上げた指先をもう一方の手でこすってファールチップのゼスチャーをする。二人を捕まえたいのなら、そんなジェスチャーをせずに追いかけていかんか。
「ファールチップだと言っとるだろうが、待たんか、ファールチップ!ファーアールチイーップ!」
 清之助は追いかけていくが、追いかけながらファールチップのジェスチャーを何度もしないといけないから、どんどん置いていかれる。清之助はハーハー言いながらそれでもなお「ファールチップ!」を繰り返し、しまいには膝に手を置いて二人の予想屋を恨めしそうに見送った。

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