スポニチ2009年菊花賞特集号

  菊の子別れ  

 戦前の一時期、淀川の左岸・右岸両方に渡って京阪が大阪京都線を運営した時期があって、その時期いまの阪急「水無瀬(みなせ)駅」は「桜井之駅駅」という奇妙きてれつな名前で呼ばれていた。「桜井之駅」ではなく「桜井之駅駅」だ。戦後阪急線に変わるとき阪急には箕面「桜井駅」があることが問題になる。桜井が二つあるとややこしい、近くには水無瀬川や水無瀬離宮跡もある、「水無瀬で行こう、水無瀬で」てなことで「水無瀬駅」になった。でも駅のある地は水無瀬じゃない、桜井だ。奈良時代から馬便の駅宿・桜井之駅の置かれていた桜井だ。
 これは全部死んだ父が繰り言のように話していたことだ。父だけじゃない。われわれ年来桜井に住んできた者はこの話を耳にタコが出来るほど聞かされている。地蔵盆や花みこしなど子供が公民館に集まる機会があると、世話人と称する地域のじいさんが出てきて必ずこの話をする。そしてそのあとには「♪青葉繁れる」の合唱だ。必ず歌わされて「元気がない」とか「それでも桜井の子か」とか叱責受けるから、ぼくらはみんなやけくその大声で歌う。意味はさっぱり分からんけど。
♪青葉しげれる桜井の 里のわたりの夕まぐれ 木下かげに駒とめて世の行く末をつくづくと・・・
 楠正成(まさしげ)という後醍醐天皇の忠臣が九州から東進してくる足利尊氏(たかうじ)の大軍を兵庫湊川(みなとがわ)で迎え撃つ。敵の戦力は十倍だ。天下の趨勢も尊氏に傾いている。軍略の雄、正成には結果が看取できていた。天皇を守るため「尊氏との和睦」や「比叡山隠棲」を勧めたが、天皇や周りの公卿たちは「正成臆したか!」と無責任なそしりを放つ。正成は静かに“死地”湊川に赴く決意をする。京都から一日かけて正成の軍勢が桜井に着いたとき正成は十五歳の息子正行(まさつら)を呼ぶ。
「その方はここから淀川を渡り領地河内の城に戻れ」。初陣として父の戦いに加わる決意をしていた正行は驚く。「わたくし父上の戦いに加わるため母上に別れを告げ、故郷千早赤坂を出て参りました」「正行よ、このたびの戦さは天下の安否。今生にてその方に会うことは二度とかなわぬ。正行よ、そなたはまだ浅春の蕾、春さえ知らぬ。あたら命を無駄にしてはならぬ。身を修め、我が身を作り、母を助け、領民を安堵させてくれ、それが父の願いだ」
 世に言う“桜井の子別れ”だ。これをぼくたち“桜井子供会”は繰り返し聞かされる。そして地域ではいつのまにか“桜井の子別れ”話が“子別れの桜井”として、つまり「子別れするのが桜井地域の特性」みたいなことで認識される。「辛い子別れ?それならうちの桜井以上の所はないよ」という自慢になる。正成・正行親子の別れは、正成が京都から兵庫に行く途中、たまたま桜井が河内への分かれ道だったということのように思うのだが、桜井地域では違う。「子別れさせりゃ桜井は日本一よ」みたいな雰囲気が街全体を覆う。
 たとえば馬場さんという家だと例外なく子供を「忠太郎」と呼ぶ。一郎でも義夫でも十歳過ぎればみな「忠太郎」だ。何かにつけて「忠太郎だって?あたしにそんな子はいやしないよ、お前さん、もしかしてうちの身代狙おうって、そんなカタリをしてんじゃないのかい!」と叫ぶ。自分で「忠太郎」と呼んでおいて「そんな子はいない」と言う。馬場さんちでは『瞼の母』の馬場(ばんば)の忠太郎と料亭「水熊」の“おはま”になって全員で辛い子別れをやる。
 熊谷さんの家なら子供はみな「一子・小次郎」になる。五人兄弟でもみんな一子・小次郎だ。「平敦盛(あつもり)十七歳の首をはねよという頼朝公のご命令なれどあまりに不憫、身代わりにそちを殺してわしも出家する」などとことあるごとに父は意味不明のことを言って家族を恐れさせる。これは『熊谷陣屋』という歌舞伎の子別れだ。
 油谷さんの家では娘をいさ子と呼ぶ。娘はごく普通の名前だが十歳過ぎると「いさ子」だ。「お前はわしが百歳越えてから出来た子だが生け贄として捧げなければならん」などと父親が言う。油谷さんちではイスラエルの祖アブラハムが神ヤーヴェに試されて一子イサクを捧げるという旧約聖書の子別れをやる。
 そしてうちだ。うちは粟田(あわた)という苗字で父は一郎、ぼくは哲夫、ごく普通の名前だ。でもやっぱりぼくが十歳を越えた頃から父はぼくのことを「つる夫」「つる夫」と呼び始める。「父ちゃん、オレはつる夫じゃねえ、哲夫だ、しっかりしろよ」と怒ると「ああすまん、すまん」と謝るが、しばらくしたらまた「つる夫、つる夫」どうかしたら「つる」とだけでも呼ぶようになる。火鉢の前で「お弓、茶をくれ」などと岡っ引きの伝七のようなことも言う。母は弓じゃなくて祐子だ。そのことをぼくが言うと「して、ととさまのお名前は?」と聞く。「はあ?」とぼくが聞き返すと「あーいー、アワタの十郎兵衛と申しますぅ」と父は甲高い声を出す。聞くところによると「桜井の粟田家」の伝統で、子供が十歳過ぎると自然に文楽『傾城阿波鳴門(けいせいあわのなると)』に入っていくらしい。文楽では阿波の十郎兵衛・お弓という夫婦が盗まれた主君の刀のえん罪を晴らすため大阪玉造に住んでいる。そこへ五年前に別れた娘お鶴が巡礼姿で徳島からやってくる。お弓は我が子とすぐに分かるが、そこで親子の名乗りをしたのでは子供に災いが及ぶ。お弓と十郎兵衛は心を鬼にしてついに名乗らないまま鶴と別れる。「して、ととさまのお名前は?」「あーいー、阿波の十郎兵衛と申します。巡礼にご報謝あ」という、あれだ。
 しかしである。鶴というのは娘だろうが。息子の哲夫に「つる夫」から「つる」と呼ぶとはどういうことだ?息子を女にしてまで子別れやりたいかと心底腹が立った。
 阪急水無瀬駅から淀競馬場までの直通バスが出来たのはその頃だった。それまでJR山崎から京都駅、そこから近鉄、京阪と乗り換えて淀競馬場に行く、これは喜望峰回りインド航路のような大迂回コースだ。水無瀬駅改修と共に駅前にバスターミナルが出来て父はじめ桜井の競馬好きはみな大喜びだった。しかしこの直行バス乗り場、人知れず悲喜劇が起きる。競馬場到着まで時間的余裕が出来たことで日曜午前中という健康的時間帯にもかかわらずバス停のあちこちで“桜井の子別れ”が現れたからだ。
 お好み焼き屋の裏や阪急高架のガード下、水無瀬交番の脇、ちょっとしたスペースさえあれば“桜井の子別れ”だ。桜井の競馬好きたちはまるで競馬に勝つための儀式のように自分の子供を引きずり出して無理矢理“子別れ”をやる。
 もちろんうちもそうだ。日曜朝「5レンジャー」とか「仮面ライダー」とか好きなアニメ見ていると「してととさまのお名前は?」という声が聞こえる。むろん無視だ。でも無視しているとどんどん「ととさま」が大きくなる。しょうがない。「アワタの十郎兵衛ですぅ」とやけくそで言う。そうしたら「してかかさまのお名前は?」だ。「お弓だよ、お弓」とテレビ見たまままた答える。
「不憫なりわが子よ。この世に共に生を受けながら名乗りあえない親子の辛さよ」とか何とか言って父はぼくを抱きかかえて淀行きバス停の近くまで強引に連れて行く。
「父はこれより死地に赴く」「はあ?」「大御心に報いるためだ。しかしお前、一子つるは、命を粗末にすることまかりならん。ここから千早赤坂に帰るのじゃ」。ファミレス“さと”の空き地に立たされてそんなことを言われる。言われたって分からん。何だ?「千早赤坂に帰れ」って?
「今生において二度と相まみえることはない」などと言い、8時間後に「本当に馬どもが言うこと聞かん」と言いながら父は酔っ払って帰ってきた。その父が死んでもう十年だ。最近テレビで「セレクトセール」という仔馬のセリ市が映されるようになった。「馬の世界にも子別れがあるんだ、オヤジ、これ見たら泣くだろうなあ」などと感心して見ている。「父ダンスインザダークに母エアグルーヴ、本日期待の一頭でございます。6千万から参りましょう」とタキシードのディーラーが宣する。もしここで「ツルちゃん、ごめんね」とエアグルーヴが突然子供抱きしめたらどうだろうと思う。「ツルちゃんごめんね、お母さんが労咳で満足に働けないものだから、まだ一歳にもならないお前を売りに出して、・・・ああ貧乏が憎い」とグルーヴは泣き、ツルも「お母ちゃん」と叫んですがりつく。これはもう立派な“傾城阿波鳴門”だ。しかしグルーヴ親子はそんな安芝居はしない。高値がついた子供はジョンジョロ、ジョンジョロ小便垂れ流し始める。
 かつて千早赤坂城に立て籠もった楠正成は北条軍に糞尿まき散らして戦った。つまりグルーヴ親子2億4千万の子別れは正成・正行親子の踏襲かもしれない。糞尿のあとの桜井の子別れかも。
 このツルちゃん、のちにフォゲッタブル(忘れやすい)と名づけられ今年の菊花賞に出る。辛い子別れ、人間が思う以上に案外忘れられやすいのかもしれない。

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