スポニチ2009年ダービー特集号

  鵯越(ひよどりごえ)八百年ダービー  

 新宿からの京王電車が東府中、府中と競馬場の大屋根を見ながら通り過ぎ、多摩川を越え町田に入り、しばらく行ったところに「平山城址公園駅」というのがある。多摩丘陵の面影を残す雑木林の街だ。駅名の通り、駅から十分ほど歩いた所に全体をくぬぎや栃の木に覆われた「平山城址公園」がある。オレはそこに住んでいる。
 でも、この駅名にまでなっている城址公園だが、不思議だけど城あとがない。「城址公園」なのに「城址」がない。ほんとは城址公園じゃなくて笑止公園だって、オレは公園看板見るたびいつも含み笑いしている。
 長い間手つかずの丘陵地で、それこそトトロが出てくる森とか、ドラエモンやのび太たちが「どうやったら未来に行けるんだろ」などと腕組んで考える街全体を見下ろせる丘、あの雑木林に覆われた小山の感じだ。最近は丘のふもとを中心に宅地開発が進んできた。同じ区画、同じ様式の住宅がずらっと建ち並び始めている。でも、それでも東京都心の雰囲気とはまるっきり違う。夜など駅に降り立つと「寂しい」という形容詞が最初に出てくる。
 オレはその笑止な城址公園の入り口、東西に続く尾根の突端あたりに住んでいる。見晴らしはいい。西には富士山、東には多摩丘陵地から多摩川、その向こうの東京競馬場の屋根やレースコースもはっきり見える。
 ここに住みだして、もうずいぶんになる。十年や二十年じゃない。ざっと八百年だ。
 あの頃富士山は毎日煙を吐いていて、ここらあたり一面見渡す限り火山灰の野っ原だった。ヒエやアワを作る畑作農民と鹿狩りやくぬぎの実を採る狩猟民、そして領内を警護する荒くれ者のわれわれ阪東武者、そして都との間を往復する少数の商人や飛脚、そういう人間で成り立っていた。
 武蔵の国の中心は律令国府の置かれていた府中であり、平成のいまをときめく皇居や国会議事堂のある千代田などただの入り江に過ぎない。中心地府中を取り巻く武蔵の国には平将門の乱鎮圧を発端に出来上がった同族武士集団“武蔵七党”があり、それぞれの小さな領地を騎馬軍団で駆け巡りながら守っていた。ここ平山の地は七党の一つ“西党”の支配下だった。
 オレは平山武者所季重(ひらやまのむしゃどころすえしげ)と言う。もし「平家物語」などという長編戦記物を丹念に読む暇人がいたら記憶にあるかもしれない。でももしかしたら「へえ平山城址公園に住んでる平山さんか、偶然の一致って凄いなあ」などと感心する者も中にはいるかもしれない。そんなやつは襟首つかんでビンタしてやる。偶然じゃない!平山一族という武者集団が支配していたから「平山郷」と呼ぶようになったんだと、そう言いたい、そう言いたいがしかし違う。残念ながら逆だ。国定忠治だって清水次郎長だって幡随院長平衛だってみなそうだ。国定村や清水港や幡随院の近くに住んでいたからそういう苗字を名乗る。いまだって“西宮のおじさん”とか“東村山のおばあちゃん”とか言うじゃないか。オレのライバルの熊谷直実(くまがいなおざね)だって武蔵の国・熊谷村に住んでいたから熊谷を名乗る。オレも平山の地に住む武士団だったから、うちの一族は代々平山姓なのだ。地名は苗字を生むが、苗字が地名を生むことはほとんどない。
 いまの平山城址公園の中の尾根の先端「季重(すえしげ)神社」がオレの住処だ。「へえ、神社に祭られてんのか、凄いじゃない」などと言う者がいたら、これも「ちょっとこっち来い」と言ってまたビシ、ビシ、ビシってビンタだ。来てみろっちゅうんじゃ、うちの季重神社に。社務所も宮司も何もない。おみくじだってもちろんない。ただ野ざらしのススキっ原の中に、それこそ三人手をつなげば取り囲めそうな小さな祠(ほこら)があるだけだ。寒いっちゅうねん、冬になったら。賽銭持って来いっちゅうんじゃ。
 ライバルの、いや、もうこれは言うまい言うまいと思って八百年になるのに、いまだにどうしても口をついて出てくる。ライバルの熊谷直実なんか、あなた、え?熊谷の街行ったことある?駅前の一等地に熊谷寺、熊谷稲荷、直実銅像、宮沢賢治の直実賛歌の碑文よ。松本幸四郎おはこの「熊谷陣屋」って歌舞伎も有名だし、浅草矢先稲荷神社にある日本乗馬史史料を集めた「馬の情報館」、え?ここ行ったことある?まあ古代からの日本乗馬史料のほとんどが集めてあって感心するんだけど、でもここも悲しい。「熊谷直実と愛馬・権太栗毛(ごんたくりげ)」はもちろん一等目立つところにあるんだけど、それ以外にも「宇治川先陣争い」で有名な「佐々木高綱と池月(いけずき)」「梶原景季と摺墨(するすみ)」もしっかり人馬一体で飾ってある。なんで「平山季重と愛馬・目糟毛(めかすげ)」だけないの?同じ“平家物語仲間”なのになんでそうまでして平山だけいじめるの?
 ああ、あのときタッチの差で二着になったばっかりに・・・。
 でもあれだって、見方によっては微妙だったんだ。「平山の方が一着だろう」という人だっていたんだから。日本写真判定株式会社は源平合戦の頃は何してたんだ。
 一一八四年二月六日、四万の兵で固める生田・一の谷の平家(神戸)砦を急襲する計画を立てたわれわれは大手から攻める源範頼(のりより・頼朝の異母弟)軍二万とは別に、源義経を総大将とする搦め手(からめて)軍一万を結成し、京都亀岡から丹波街道を通って平家一の谷陣地裏側の三草山に到着する。義経大将はここで一計を案じる。土肥次郎実平(といのじろうさねひら)に一万のうちの七千を預け、三草山からさらに西に向かわせ播州加古川あたりに下り、西から平家一の谷陣を攻めさせる。自身は残り三千を率いて三草山から一直線に一の谷陣を攻めようとする。世に言う“鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし”だ。
 しかしその急坂の上に立ったとき、さしもの義経大将も馬上のまま躊躇する。ちょうどいまのオリックス・ブルーウエーヴ、スカイマーク・スタジアムの脇あたりだ。
 このとき「ふふふ、大将、何をヘジテイトしておられる、大丈夫、You can trust me!」と当時としては珍しく英語を使って進言したのが、誰あろう、この平山季重だ。「そんなこと言って、お前、阪東武者ではないか、こんな一の谷のことなんか分かんのか?」と用心深い義経大将はなおも聞いてくる。そのときオレは言ったね、一世一代のキャッチコピーを。
「吉野、初瀬の花の頃は歌人これを知る。敵の後ろの案内をば剛の者などか知らざらん」
 義経大将もこれを聞いて「明日、鵯越を駆け下りる」と決心する。「よし、ならばこの平山が一の駆けの栄誉を得るは必定」と自分も思うし、周りもまあそれは仕方なかろうということだった。でもこの呟きを聞いていたんだ、熊谷直実が。
 熊谷は宵のうちに一の谷陣まで、しかも一子小次郎直家まで連れて駆け下りていて、平家陣の前で“武者名乗り”をやる。しかしオレも熊谷に出し抜かれたことに気づいて慌てて続いていた。熊谷が名乗りを上げ、平家が門を開けて立ち合いに出てきた瞬間を見て、門内に愛馬・目糟毛と共に入り込む。だから門内に入り込んだのは平山が一位なのだ。これをどう見るの?という、つまりそこが言いたい。
 でも世間は認めない。どうにも、あの世紀の一の谷の合戦「熊谷一位、平山二位」で審議ランプさえつかないんだ。名乗りゃいいのか、声上げりゃいいのか!
 でもまあ、熊谷はそのあと清盛の甥っ子十七歳の敦盛を討ったとか、いいや、あまりに不憫だったから一子小次郎を敦盛の身代わりにして殺したとか、あることないこと色々騒がれ、おまけに自身の殺生を悔やんで出家してそれ以後反戦平和を訴えて回ったり、色々スタンドプレーをやったから、すっかり向こうの方が有名になって、あーあ、銅像なんかあちこちに建ちやがって・・・。
 いやまあいい、まあそりゃ、オレんとこの祠(ほこら)はこんなに寂しいけど、熊谷のおかげで平山も有名になってるってところもあるし・・・。でもそれにしても許せないのはこのところの関東乗馬陣の不甲斐なさだ。この季重神社から東京競馬場は丸見えなんだ。何なんだ。
 そりゃ確かに一位か二位かで不服はあるけど、それにしたって熊谷も平山も関東騎馬武者だ。八百年前に関東騎馬武者が兵庫の平家陣をさんざんに痛めつけたことには間違いない。その前の宇治川真っ先渡りだって、佐々木高綱も梶原景季も、愛馬の池月・摺墨だってみんな関東産だ。淀競馬場の向こうの宇治川で関東人馬が関西人の目を見張らせたんだ。
 どうなってんだ、最近のダービーは。「美浦トレセンは起伏がないもんで坂路調教がやりづらくて」とか、そんなこと言うんだったら、うちに来い。平山城址公園のアップダウン使って調教やれ!秘儀・鵯越の逆落としを愛馬・目糟毛と共に見せてやるから。

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