スポニチ2008年菊花賞特集号

  菊の旗、淀に立つ  


 もう古い話になります。昭和四十一年、京都淀競馬場は前年のスタンド全面改修に続き、来るべき車社会を予見して駐車場拡大を企図していました。競馬場が目を付けたのはパドック側の北東、京阪電車鉄路を挟んだ反対側です。納所(のうそ)大野から横大路にかけて約三万坪の広大な低湿地があり、この葦原を買い取って整地する計画でした。淀競馬場全体の約半分にも匹敵する面積で、土地代はさすがに安かったようですが、駐車場工事としては例をみない大規模なものです。
 わたしは当時「納所(のうそ)土木」という会社にいて、この横大路駐車場整地の下請けに入りました。平地の整備だから簡単と思われがちだけど、横大路は“横大路沼”で知られるようにまれにみる低湿地です。葦原を掘るたびに地下水が溢れるし、雨が降ればたちまち滞留する低地だし、大変な工事でした。
 下請けにも五・六社が入り、全体では約三百人の人間が働いていました。わたしが入っていた工区は京阪線路とその向こうの競馬場スタンドに一番近い所で、整地のあと、線路越えに駐車場とスタンドにつなぐ陸橋の下地も作らないといけない重要な場所です。
 工区長は東京出身の土方という人でした。最初名札を見たとき「ドカタ?」と読んで「ドカタじゃねえ、ヒジカタだ、ヒジカタタイゾウ、武蔵の国・日野の出身。ゆえあって天然理心流土木工事の免許を拝する」と工区長は胸を反らしました。訳が分かりません。何なんですか、天然理心流土木工事ってのは。
 この人、何かといえば両こぶしを腿に置いて胸を反らします。一緒にネコぐるま押していたとき、区長の車が石ころに躓いてよろけたことがあって、そのときわたしがプッと、ほんの少しだけプッと吹き出したんです。そうしたら工区長、どういう訳か、ネコぐるま放り出して「き、き、きさま水戸の一橋組かあ!」と烈火の如く怒ったんです。「われ農民の出といえども武人となりて名を天下にあげん」と空を見上げて叫び、それからいつものように腿に両こぶしを置いて胸を反らし「帰着ならずば大慶とおぼし召し下さるべくそうろう」とか何とか意味不明のことを呟いてさめざめと涙を流すんです。
 その様子を見て、わたしが唖然としていると、工区長は突然歌い出しました。「♪♪カーモーのカワラーで千鳥がさーわあーぐー まーたも血のアーメ 涙アーメー」とまるでマーチングバンドの行進のように拳を振ってリズムを取りながら向こうへ行ってしまったんです。「工区長、このネコぐるま、どうすんの?」とわたしは倒れたままのネコ車見て立ち尽くしました。
 この土方という工区長、東京から京都市内にやって来て、壬生(みぶ)や木屋町や御所周辺で工事をしていたそうです。池田屋とか近江屋とか、そういう大きな宿屋の駐車場も手がけたらしいけど、いい評価が得られずに伏見まで南下して、伏見一の船宿・寺田屋駐車場も工事したらしい。でもそこもうまくいかず、この淀競馬場の駐車場工事が関西での最後の仕事になったようです。ほかの作業員の話では、天然理心流の土木工事というのは元々人力車や馬車のための駐車場工事法だったらしく、自動車には向かないということでした。そう思うと、少し土方工区長のことが気の毒になったりしました。
「いいか、駐車場工事で最も肝要なのは“誠(まこと)”だ」と毎朝の朝礼のとき工区長はこれを繰り返します。「誠って言われてもなあ・・・」と我々のうちの誰かが首をひねったりすると、これは大変なことになります。井上源三郎という、いつも工区長に付いている副長がそれをめざとく見つけて「工区長、こいつ“誠が分からない”と言ってます」と大声で注進します。それを聞いて工区長はその者の前へおもむろに進みます。
「誠とは、ひとーつ!烈しき虎口においてしかばね引き、退くことあたわず。ふたーつ!虎口においてもし臆病をかまえ、逃れきたるヤカラこれあるときは斬罪申し渡すべくそうろう・・・」と延々“誠”の教えを説き聞かせ、それが終わると「♪♪カーモーのカワラーでー」といつもの歌を小さな声で口ずさみます。“一緒に歌え”という合図です。工区長の腕が振られていますから。もし全員が追唱しないと、いつまでも壊れた蓄音機のように「♪♪カーモーのカワラーでー」の所だけをリフレインし、腕を振り続けます。我々は仕方なく「千鳥がさーわあーぐー」と続け、「まーたも血のアーメ 涙アーメー」と全員やけくそになって合唱します。一種の拷問です。これで午前の工事が大幅に遅れることになるんです。
 秋も深まって工事の遅れがささやかれ出した頃、我々の工区にも何人かの追加人員が配属になりました。ある日、夫婦者とイガグリ頭に浴衣着た変なおじさんが来ました。夫婦者は「坂本馬之助。高知の出身じょ。こっちはうちの嫁で“おりょう”と言うっチ」と変な言葉で自己紹介します。「坂本りょうこさん?」とわたしが奥さんに聞くと「いえ、ただの“おりょう”っち」と旦那が遮る。「ただのおりょう?名字なし?」と首傾げると「悪いか?」と旦那が言います。「“りょう”っていう女優だっているだろうが。“お”が付いてるだけましだろうが」などと旦那は食ってかかります。
「わたしたち、新婚旅行行ってきたんです」とおりょうさんが初めて口をきく。「鹿児島の霧島温泉。日本で初めての新婚旅行なの」と言って旦那に腕をからませる。変な女だ。
「でもこの工区、女の人の出来る仕事ないんじゃないかなあ。パチンコ屋じゃないんだから夫婦って変でしょ?」とわたしが言うと「うちのおりょうは裸になれます。特にワシに火急の事があったときは裸のまま風呂から出てこれます」と男は急に変なことを言って弁明し始めました。
 もう一人の浴衣着の大男はただ黙って立っていました。不気味です。みんなが怯えた視線をその男に送ったとき、男の後ろから紐につながれた柴犬がチョロチョロと姿を現しました。何なんだ?犬連れて働く気か?
 副長が「こっちの男は西郷隆志って言うらしいです」と報告書を見ながら工区長に言い「土方さん、こいつら怪しいです」と耳打ちします。そのときの土方工区長の苦渋の表情はいまでも忘れられません。土方工区長は「来たか」と珍しく小さな声で呟いたのです。
 京都の水の玄関・伏見からその南の淀にかけては桂川・宇治川・木津川という三大河川が北の天王山、南の男山(おとこやま)という二つ丘陵地に挟まれる手前で合流する水郷地帯です。古来無数の島や州が点在し、人々は度重なる氾濫被害と闘いながら渡し船や架け橋をたどって行き来し生活していました。中書島、向島、槇島、競馬場のある葭島(かしま)渡場島もそうです(“葭島”とは“葦の島”という意味)、これらはすべてかつて点在する島だったことを意味しています。
 長岡京、鳥羽離宮など奈良・平安時代における土木改築もありました。秀吉・伏見桃山城築城の際には城への水利のために宇治川を巨椋(おぐら)池から分離する巨大土木工事が行われ、巨椋池は溜池化しました。昭和初期には水質悪化し疫病発生源とまでなっていた巨椋池は干拓事業によって農地化されました。
 そのように太古から連綿と大規模土木工事を繰り返してきた淀近辺、もちろん京都競馬場も例外ではありません。あの馬場内の名物、白鳥池にしても、あれは別に風流心で作ったんじゃありません。旧宇治川水路の名残です。秀吉工事の段階では今の京阪線路の所が宇治川堤であり、競馬場のある所は川だったのです。その“秀吉堤”(京阪線路)の北側、ちょうどいまの競馬場駐車場南端あたりには秀吉が植えたと言われる美しい松並木が続き“千両松”と呼ばれていました。そここそが幕末・鳥羽伏見の戦いの最激戦地、五十名になんなんとする幕府軍(東軍)・新選組隊員が死んだ“千両松”でした。
 昭和四十一年駐車場工事最盛期の出来事でした。三人の奇妙な新参作業員が我々に紹介された翌日明け方、ある当直作業員から「錦の御旗」が見えるという奇妙な通報が入りました。我々宿泊所に寝ていた作業員が駆けつけると、朝靄の中に、紅地に菊紋の金糸刺繍の入った旗が駐車場予定地南端、京阪線に面して高く翻っているのが見えました。その下には「戦没者墓石」と書かれた苔むした石が転がっていました。我々が迂闊にもそれと気づかず掘り起こしていた石でした。
 その日から土方工区長も井上副長も、坂本夫婦も西郷作業員も柴犬もみんな姿を消しました。駐車場完成のときに作った「戊辰役東軍戦死者埋骨」の慰霊碑はいまもスタンドにつながる歩道橋の下に立っています。
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