スポニチ2008年ジャパンカップ特集号

  ワールドワイド無法松  


「ヤッサヤレヤレヤレヤレ、巡航艦の尻からパイプがでるぅ」
 京王線府中駅から歩いて競馬場に向かう客が必ず通る大国魂神社の鎮守の杜の一角で異様な声を出す女がいる。
「鋳物師(イモノシ)の、大宮司サンナー、スッチャチャモジャモジャ」
 女は訳の分からない言葉を発しながら土産物屋で売っている子供用太鼓を手に持って叩く。襟元のはだけた浴衣を着て草履を履いているが髪は金色で肌も白く目も青い。明らかに西洋人だ。
「じゃあ今まで聞いてきたのは本当の祇園太鼓ではナイノデスカー?」
 こちらも薄汚れた浴衣を着、でっぷりと太った、まるでうだつの上がらない序の口力士のような男が現れる。この男の日本語もたどたどしい。髪は黒く茶褐色の肌をしていて、恐らくアラブ系の外国人だろう。言葉は女の方に向かって言っているが、視線は不自然に通行客の方に向く。
「あんなやつはカエル打でゴンス、ホントーの祇園ダーコはこんなもんじゃゴザンセーン」
 ゴンスとかゴザンセーンて“それ何時代の日本語だ”とツッコみたくなるが、女は気にせず自分の持っている小太鼓を掲げてみせる。
「すると本当の祇園太鼓はもう見られないデースカ?それはザンネーンでーす」
「そこまで言いなさるならワシが真似ゴトやってミセヤショーカー?」
 西洋女がまた股旅人のような日本語使って男に答える。
「そりゃ有りがてえー」「お、兄さん、すまんがちょっと打たしチクレー」と女は架空の兄さんに話しかけ、太鼓を受け取る格好をする。「これが祇園ダーコの流れ打ちダー」と女は言ってドロドロドロと低く打つ。「次は勇み駒ー!」と大声を出しリズムを上げて打つ。打つと言っても子供のおもちゃの太鼓だから音はしれているが。
「ありゃ誰だ?この小倉で勇み駒を打てる男はもうオランと思うちょったが」とアラブ男はさも驚いたという聴衆セリフを言う。「これが本当の祇園太鼓じゃあ!」「ほんとに本物の祇園太鼓だわー」と男は何人もの聴衆を演じて声色を変え、驚きの声を上げ続ける。
「最後にこれが暴れ打ちだあー!」と女を一際高い声を出して乱打する。ほんとにただ暴れて打っているという感じのおもちゃの太鼓叩きである。しかし女はひとしきり叩き終えると両膝に手を置き、ハーハーと肩で息をして、それからチラッと横目で聴衆を見て数人いる客に向かい「♪♪コクーラ生まーれでゲンカーイ育ち、クーチもアラーいが 気もアーラーい」と静かに唸り出す。アラブ男も一緒に、最後には西洋女と一緒に肩を組み「♪♪オトコイーチーダーイ ムホー、オオオッオ、マアアーツ」まで行くと両手広げて見栄を切る。それから木陰から人力車を引っ張り出してきて口上を言う。
「ジンリキシャ、乗らねーか、競馬場までゴッヒャクエーン、府中の坂をヒトッコギ、乗ったらジャペーンカァーップ(ここの発音はさすがだ!)間に合うよーん、乗らねえか、無法松のジンリキシャ!」
 騒ぎを聞いて駆けつけてきた府中署員に、二人の外国人は不法滞在の疑いで連行された。男の方はUAE国籍のムハンマド・ムホーマツ、女の方はアメリカ国籍のムホーマツ・ブライスデールと名乗った。府中署員は「嘘だろ」と耳を疑ったが、パスポート見ると、確かにそういう名前になっている。さらに驚いたことに二人は不法滞在などとんでもない、ジャパンカップに出走する馬の馬主として来日しているというのだ。馬主としての来日ではあるが、二人の共通の祖先・富島松五郎(通称“小倉の無法松”)の故国に初めて来たのは万感の思いがある。この機会にぜひムホーマツを体感してみたいということだったらしい。
      *
 大正八年三月、富島松五郎は小倉船頭町から粉雪の舞う玄界灘へ、小舟のエンジンをかけた。「小倉の松五郎は、祇園太鼓の無法松は、宇佐町(まち)足立小学校の校庭で子供たちの唱歌を聞きながら、酒に溺れて死んだと、そう伝えてくれ」と松五郎は友人の岩下に伝言を残した。岩下俊作はそれをもとに後年「無法松の一生」を書き、阪妻主演の映画にもなって“無法松”は一躍有名になる。しかし松五郎は死んでいなかった。
 出帆の一ヶ月前、松五郎は大恩ある吉岡家の勝手口に立っていた。肩にかかる雪を払おうともせず、じっとよし子未亡人を見詰める。「どうしたの?松さん」と語りかける未亡人に「奥さん、ワシは汚い」と突如叫んで松五郎は走り去る。もともと車夫を職業としているから体力はある。「ワシは汚い!」「ワシは汚い!」と叫びながら松五郎は猛烈なスピードで走り去り、よし子未亡人を唖然とさせる。
「ワシは汚い」とは何なのか。もし自分が汚いと思っていても、人というものは「ワシは汚い」とは簡単に言わない(「お前は汚い」はよく言うが)。「ワシは汚い」と自ら言うときは「汚いから風呂貸して」とか「汚いからきれいな下着ちょうだい」などと汚いことを理由に何か頼むことがほとんどだ。「ワシは汚い」と叫び猛烈に走り去るとはどういうことだ。
 松五郎は車引きをしながら中津口の教会に通っていた。熱心なクリスチャンだったと言われている。つまり「ワシは汚い」の「汚い」はキリスト教の原罪を意味していた。もちろん松五郎が明確にそれを意識していた訳ではないが、松五郎は酒を飲んで意識が朦朧としてくると「わたしは自分がしたいと思うことはせず、したくないことをしてしまいます。したくないことをするのはわたしではなく、わたしの中にある罪なのです。わたしのことを“パウロの松”と呼びなさい」などと意味不明のことを喚き、喚きながら人を殴ったり、ものを壊したりしていた。そのため松五郎は酒のために気が触れて死んだという人までいた。しかし無法松は人知れず原罪に悩んでいた。原罪は風呂に入ったり、きれいな下着を着ても体から落ちない。「汚い」と叫んで走り去るしかない。
「原罪は“約束の地”に行かないと消えない」とおぼろげに思っていた。松五郎は旧約聖書の「アブラハムの放浪」の章が好きだった。「わたしはきみを祝福し、きみに約束の地カナンを与えよう」ああカナンに行きたいと松五郎は擦り切れた旧約聖書を抱いて思った。「でもワシはもう四十八だから」と松五郎は逡巡する。「持病の糖尿もあるし、アリコの保険とカナン行きは無理だろう」と柴犬連れて呟いたりした。しかし何度か読んでみるとアブラハムがカナンに行ったのは七十五歳とある。子供がなかったアブラハムとサラの七十代夫婦にも子供が出来、そのあとも別夫人との間にもバンバン子供が出来ている。やれば出来るのだ。アブラハムは百七十五歳まで生きている。「早くそれを教えてよ」と松五郎は聖書を読みながら呟いた。
 人力車を売っ払ってエンジン付きの小舟を買った。それでも荒波の冬の玄界灘を越えるのは怖かった。運良く朝鮮半島に渡れても、そこからどうやってカナンまで行くか暗澹たる気持ちになる。でも松五郎はイタリアの童話「母をたずねて三千里」も好きだった。イタリア・ジェノバからアルゼンチン最南端トゥクマンまでマルコというとっちゃん坊や(9歳なのに背広着ている)が音信の途絶えた母を求めて命からがらの旅をする。松五郎はいつもこの童話を読んで泣いていた。“マルコの松”と呼ばれたいと思っていた。こんな旅で不安がってたらマルコに笑われると思った。
 カナンへの途中、アラビア半島で松五郎は油田にぶち当たる。インド通過するときにサリという妻をめとり、イサコという男の子も出来ていた。妻がサラで子供がイサクのアブラハムにますます似てきた。そのイサコという息子にこの油田を与えた。「ムホーマツ」とと「ムハンマド」の発音はアラビア語ではほとんど同じで好都合だった。イサコはムハンマド石油財団の初代長官となり、現在の長官はイサコの孫でシェイクという。
 第二夫人はケトリと言い、そのケトリとの間に出来た子にはジョージというアメリカ名前を付けた。ジョージはその名の通りアメリカが好きになり、ペンシルベニアに住むことになる。いつも屋根の上にのぼって火打ち石をカチカチやっていたので「危ない、怪しい」と近所で噂され「痴(し)れ者ジョージ」とあだ名された。でも火打ち石からヒントを得てオイルライターを作り上げた。“ジッポ”の創始者、ジョージ・ブライスデールは無法松とケトリの間の子である。
 ムハンマド石油財団と世界的企業ジッポは馬主として今回JCに来た。松五郎の祖国日本に恩返しするためだ。富島松五郎はカナンの地で百四十五歳まで生きた(って百四十五歳ならまだ生きとるやないか!)。

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