スポニチ2008年天皇賞春特集号

  継体天皇賞  

 先生の研究室に入ってもう三年になります。阪西大学というのは、通っているぼくの口から言うのも何ですが、まあ大した大学ではありません。「入試会場の入り口で屁すれば入れる」と言われている大学です。でもこの阪西大学を選んだのには理由があります。そりゃもちろん第一はぼくでも入れる大学だったからということなんだけど、もう一つ、日本古代史のちょっとユニークな先生がいるんです。江波祐太郎という人です。
 最初の授業のとき、忘れもしません。演台のマイク握り、体勢を低くしてじぃーっと学生見回して先生は何か低く唸っていました。百人も入る大教室だから後ろの学生には全然聞こえなかったと思います。でもぼくは何しろこの人めあてに阪西大学に入ったんだから、もちろん最前列に座っていました。
「野良馬ども、去勢してやるぞー」
 はっきりそう言ってました。うちの大学は枚方(ひらかた)の牧野という所にあるんですが、ここは昔、馬の牧場だったというのが先生の主張なんです。「昔って、どれくらい昔ですか?」と聞くと「千五百年ぐらい昔だ」と言われました。とんでもない昔です。
「昔牧場だったから“牧野”という地名になっている、だからそこに集まってくる学生は馬だ」というのが江波先生のポリシーです。「千五百年前馬だらけだった場所なのに、馬なんていなかったと人間が言うということは、つまりそういう風に言う人間は馬だということじゃないか?え?違うか?」と先生は言います。訳が分かりません。
 三年前のことです。不安だらけだけど、とにかくそう決めて入学してきたんだからと諦めにも似た気持ちで先生の研究室に入ることを決め、教授室の古ぼけたテレビを先生と見ていました。
 スキーのジャンプ競技というのをやっていました。先生はスポーツなどおよそ縁のない人だろうと思っていたんですが、予想外に熱心に見ていました。ニッカネンとかソイニネンとかニエミネンとかフィンランドの選手(ジャンプというのはフィンランドが強いんですね、ぼくも初めて知りました)の名前が続けざまに出てくると「何やねん、こいつらの名前」と唸り、ガバッと上体を起こしたんです。
「先生、それ、ダジャレですか?」とぼくはなかば呆れて言いましたが、先生は「何やねん、どういう意味やねん、どないなってんねん」とぼくの言葉なんか無視して枚方弁を連発します。
「フィンランド人は誰でもネンネン、ネンネンや。どう思う、これ?」とぼくの方を見ます。
「は?」
「我々関西人も“ネンネン、ネンネン、うるさい”と言われる」
 呆気にとられているぼくを無視して立ち上がり、先生は教授室の壁に貼ってあるくすんだ世界地図のユーラシア大陸の真ん中あたりをバンと叩きました。
「ええか、中央アジアには紀元前紀、約千年に渡って活躍したスキタイという人類史上最強の遊牧騎馬民族がいた。この最強最大の騎馬民族が紀元前五世紀、理由は分からんが突如東西に分かれて大移動し始めた。スキタイの中でも一番有名なのはフン族だ。このフン族は西に入ってちょうど今のルーマニアのあたりまで侵攻し、そのおかげでその辺にいたゲルマン民族を玉突きのようにローマ帝国内に押し込み、ローマ帝国滅亡のきっかけを作った。ゲルマン民族“みなうごく(三七五年)”や。このフン族、東に入っては匈奴(きょうど)という国を作って当時の漢王朝と激しく争った。さらにその匈奴の末裔の騎馬民族は日本にまできて天皇朝を制圧し征服王朝を作った。江上波夫先生の“騎馬民族征服王朝説”だ。この枚方、牧野に広大な馬牧場を作ったのはその征服フン族の末裔や。ぼくやきみやこの枚方に古くから、といってもめちゃくちゃ古くからやけどな、とにかく古くからの枚方住民は全部フン族の末裔、スキタイの旗印の下にいた騎馬民族なんや」
「え、ぼくもスキタイの末裔ですか?」
「末裔や、マツエイゴッホや」
 何だか分かりません。先生は騎馬民族の誇りだと言ってよく競馬場に行くので脈絡なく馬名が出るんだと思います。
 この江波先生が騎馬民族王朝説を提唱した江上波夫という人の学説を信奉しているのは前から知ってました。「江波」という名前も江上波夫から採った教壇ネームだろうと噂する人もいるぐらいです。でも日本古代史学会では騎馬民族説というのはほとんど下火になっているということもあって“江上信奉者”であるということを先生はあまり表立って言わないんです。こんなに熱っぽく騎馬民族説を語る先生は初めて見ました。
「ただなあ、ぼくにも疑問がある」とそう言って先生はぼくの隣に座り直し、棚から天皇系図を引っ張り出しました。
「初代神武から十四代仲哀までは“神武王朝”と言われて、まあたぶん、ほとんど推定だが、飛鳥あたりを都にしていた。十五代応神から二十五代武烈まで、“応神王朝”とか“仁徳王朝”とか言われて中国史書に“倭の五王”として記されているこの部分が江上先生の言う征服王朝で、この時代の大王は飛鳥ではなく、いまの堺や藤井寺、いわゆる百舌(もず)古墳群や古市(ふるいち)古墳群のあたりを根拠地にしている。いまの大阪市のあたりは当時は“河内湖”って言って海水の入り込んだ大きな汽水湖で、そこに船で大陸から馬を運んできた訳や。その河内湖の周り、今の四条畷(しじょうなわて)や枚方に牧場を作って、騎馬軍を作り、飛鳥の豪族を押さえていたんや。・・・でもや」
 そこまで言って先生はまた立ち上がり、窓のブラインドを石原裕次郎の七曲署の窓のようにひょいと引き下げました。
「あそこに天王山見えるよな」と先生は淀川の向こうに見える新緑の山を指し示します。「あの天王山の西の端、名神高速の下に今城塚(いましろづか)古墳という巨大な前方後円墳がある。第二十六代継体天皇の墓だと言われている」
 最近はよく先生と一緒に淀競馬場に行きます。でもおかしいんです。牧野から淀は、京阪電車で樟葉(くずは)、橋本、八幡市(やわたし)と続いてわずか四つ目の駅なのに、先生は淀に行くとき必ず淀川下流の枚方大橋まで行き、そこをバスで渡って淀川対岸の高槻に行き、そこから阪急電車に乗るんです。めちゅくちゃ大回りです。「何でこんな迂回を?」ってうんざりして聞くと「騎馬民族の誇りだ」ってまた訳の分からないことを吐き捨てます。
「何で継体天皇は神武王朝の飛鳥でも、倭の五王の大阪平野南部でもなく、淀川の北側に墳墓を作ったか。今でこそ淀川岸は大阪と京都を結ぶ大動脈になっているが、当時の主要な水脈は淀川ではなく、難波・河内湖の南の飛鳥川・大和川水系だった。継体だけなぜぽつねんと、当時ひなびた所であったに違いない淀川北岸に墓を作ったか。・・・いや、不可解なことはほかにもある。継体は先代武烈とは微かな血縁しかない。武烈に継嗣(けいし)がなかったため、福井の田舎にいた応神の五代孫の継体を呼んできたとか言われている。そんな、五代前のまたいとこなんて、一般の人間でも親戚とは言わんだろう。さらに連れて来られた継体は飛鳥ではなく、この牧野のそばの樟葉に宮を作って五十七歳で即位した。そのあとも筒城(つづき)今の京田辺市、弟国(おとくに)今の長岡京市と、難波とも飛鳥とも離れた所に宮を移しつつ、二十年経ってやっと飛鳥に入っている。まるで飛鳥に入るのが嫌で淀競馬場の周りをぐるぐる巡っているみたいじゃないか」
 ぼくが「ふう」と息を吐いていると、先生はにやっと笑ってみせた。
「ネン族だ」と言う。
「は?」
「いいか」と言って先生はまた世界地図の沿海州のあたりをバンと叩いたのです。「古代スキタイにはフン族のほかに北方を巡っていたネン族という有力氏族がいたんだ。フン族・匈奴が朝鮮半島から瀬戸内海を通り、馬と一緒に難波河内湖に入ってきたのとは別に、ネン族は途中、鮮卑(せんぴ)や突厥(とっけつ)という騎馬民族国家を作りながら北方のアムール川河口あたりから外興安嶺を通って、今のウラジオストク周辺から帆船に馬と食料を乗せ、能登・福井あたりに上陸してきた。フィンランドのニッカネンと関西人のドナイナッテンネンは千五百年前に東西の端に行き着いて花開かせたんだ。継体天皇こそ、北方騎馬民族ネン族の倭国定着の祖だった。わが国の古代騎馬隊の英雄なんだ」
 五月四日、連休のさなかの天皇賞の日、ぼくと先生はまたいつものように枚方大橋から高槻に渡り、まず継体天皇墓・今城塚古墳に参拝、それから弟国宮(おとくにのみや)のあった長岡天神から淀へという大迂回ルートを通ります。「騎馬民族の誇りだ」という訳の分からない掛け声で徒労感をごまかしながら現場参戦するのです。
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