スポニチ2008年ダービー特集号

  武蔵野の風の又三郎  


 競馬場の向正面、北上川の土手に並ぶ桜並木が開花して、奥州にも遅い春がやってきた。田んぼのあぜ道を歩く競走馬たちの背中も輝いてきて、やっぱり一年で一番いい季節だ。水沢競馬場正門前で父親がやっていたうどん屋をつぶし、古本屋を開業してからもう二十年になる。宮沢賢治専門の古本屋だ。「中年の多い古書店」という屋号を付けて看板を上げた。賢治の「注文の多い料理店」のパロディだ。でも農作業の合間に競馬場に来るおじさんたちがそんな名前に関心を示す訳がない。だいたい宮沢賢治たって、そりゃ都会の文学少女たちには関心呼んでるけど、地元じゃ観光業者と商工会議所の連中が人寄せに使いたいと考えているだけだ。せめて花巻空港の中とか、新幹線盛岡駅の前とか、そういう都会から人が来る所に賢治古書店を作れば少しは話題を呼んだろうけど、もうそんなこと今さら言っても遅い。
 古本は全然売れないので、岩手競馬予想紙「エイカン」と「いわて馬」、専門誌「テシオ」も置いている。これはまあ売れる。店主の努力でも何でもない。場所が場所だからだ。三年ほど前から水沢競馬場は中央競馬の馬券も売るようになったので、中央競馬の予想紙と全国版スポーツ紙も置く。土日にはこれもよく売れる。いまでは予想紙が店のスペースの半分以上を占め、店の奥の賢治の本を見つけたおじさんは「この新聞屋、そげな本さ置いとるべ、売れにぃべさ」と笑って去っていく。
 賢治ゆかりの岩手出身ではあるけど、ぼくが宮沢賢治に目覚めたのは、実は東京にいるときだった。東京の大学に通っているとき演劇に憧れ、天井桟敷や黒テント、早稲田小劇場や六本木自由劇場、つかこうへい事務所など、当時盛んだった小劇場と言われるものを片っ端から見て回った。でも一番強烈だったのはゴミ埋立地・夢の島で見たテント公演「唐版・風の又三郎」だった。
 テント小屋の奥が開け放たれ、十貫寺梅軒の運転するブルトーザーに主人公の根津甚八と李礼仙がゴミの島上空に釣り上げられていく。そばでヒゲを生やし、航空自衛隊員のようなボロボロの制服を着た“風の又三郎”唐十郎が薄ら笑いを浮かべて立っている。
「今日はお昼からお茶の水にもゆきました。陸橋に顎かけてあんたのヒコーキのくるのを待っていたんです。バラ色の雲ついて飛んでくるあんたの一機を。夕方頃、風が吹きました。新聞売りの重しの石がゴロリと落ちて、何枚かのスポーツ新聞が風に舞いました。暗く濁った運河がいくらか波だって、あたしはその時あんただ、これはあんたのせいだと思ったの」
 そんなことを李礼仙がブルトーザーに吊されながら叫ぶ。一体全体、何のことなのかさっぱり分からん。でもそのときぼくは脈絡なく、へえ、宮沢賢治ってカッコいいんだと思った。別に宮沢賢治がこんな劇を作ったんじゃないんだけど、こんな宮沢賢治、破天荒で、意味不明で、もう破れかぶれじゃないかって、思わず笑ってしまった。
 岩手にいたときも郷土の誇りってなことで、賢治の童話も詩も短歌もいやというほど読まされた。そりゃ確かにいいんだけど、「どうですか、こんなに自然を愛し、家族を愛し、そして美しく純粋な文章の書ける人がこの岩手から出ているんです」って学校の先生から言われると、ぼくはもうそれだけで嫌気が差してしまった。ぼくにとっては校庭の銅像の二宮金次郎と宮沢賢治が一緒くたになって「自然を愛さない、郷土を愛さないヤツはお前か」と襲ってこられるような気がした。
「唐版・風の又三郎」以来少しずつ、岩手出身の人間が東京で、宮沢賢治を読み始めた。「よだかの星」「オッペルと象」「グスコーブドリの伝記」「銀河鉄道の夜」・・・、賢治の作品は限りがないけど、でもやっぱりぼくには「風の又三郎」が別格だった。読んでいて、ふっと周りを見てしまう。お前の周りにお前には見えない別の世界があって、気づかないのか、風の又三郎をと、そんなこと言われているみたいな気になった。
 テレビつけたらダービー中継をやっていて、カブラヤオーという馬が勝った。「驚異的なペースで影をも踏ませない、ダービー史上に残る逃げ切りだ」と実況アナウンサーが叫んでいた。カブラヤってのは「鏑矢」のことだよなとふと思う。どんなものか、実際に見たことはないが、風にヒュルヒュルと鳴る矢だと聞いている。まだ合戦に優雅さの残っていた時代に、まずこのカブラヤを射って「宣戦布告」を告げたという、そういう“風を告げる矢”だ。ぼくは読んでいた「風の又三郎」を伏せた。
 そのダービー中継の最後、ほんの一瞬だけど、客がいなくなったあと砂塵ならぬ“外れ馬券塵”が巻き上がっているのが見えた。幻だったろうか、「風の又三郎」に出てくる“サイクルホール”というのを見た気がした。
「スリバチ状の入れ物の中で自転車漕いでいて、その巨大な容器の縁まで自転車が上がって来る」と賢治が言っている“サイクルホール”だ。賢治の時代には自転車だったんだろうが、これってつまりサーカスでやっている巨大な金網球儀の中をオートバイが駆ける、あれのことか?とにかくそれに対して又三郎が「オレたち(風)の作るサイクルホールは全然規模が違うぜ」と言う。“風が作るサイクルホール”これはつまり竜巻のことか?あるいは台風のことか?ぼくはよく分からないでいたが、でもテレビで客が去ったあとの東京競馬場が一瞬映り、そこで風がグルグル巻き上がっているのが見えたとき、「あ、サイクルホールだ」と叫んでしまった。「カブラヤオーのダービーに“風の又三郎”が来ていたんだ」と思った。
 演劇の夢破れたのと、彼女に振られたのと、あと何やかやで大学中退して、水沢に帰って父親がやっていた競馬客相手のうどん屋を手伝った。でもそのときも賢治だけは読み続けていた。
 宮沢賢治の「風の又三郎」には二種類あることもそのとき知った。「風野又三郎」と「風の又三郎」だ。宮沢賢治は、いまでこそ有名だけど、出版に関してはまるっきり不遇で、生存中に出版されたのは二冊だけ。膨大な著作は革の剥げたトランクに入れられて持ち歩かれていたと言われている。「風の又三郎」も賢治生前は原稿用紙やチラシの裏なんかに走り書きされただけだった。「風野又三郎」は賢治二十六歳、一九二二年(大正十一年)頃に出来、「風の又三郎」はその十年後、ほとんど賢治の死の直前になって、昔の作品に訂正、加筆を行って出来たもののようだ。
 主人公も「風野」では「おいら“風野又三郎”だい」と自ら名乗るが、後年の「風の」では「高田三郎っていうんだ」と名乗る。そう名乗るのを同級生の嘉助が「お前は風の三郎、“風の又三郎だい”」と決めつけている。“サイクルホール”の部分も後年の「風の」ではなくなっている。なくなって、水沢競馬場の正面に見える“種山ヶ原”という丘で嘉助と一緒に馬追い競馬をやって嘉助一人が道に迷い、途方にくれているところを、いつのまにかガラスのマントを着けた高田三郎(又三郎)が助けるという文章に替わっている。十年の年月が「風野又三郎」を「高田三郎」に変え、「サイクルホール」を「種山ヶ原競馬」に変えている。
 でもぼくは“サイクルホール”をその後も見た記憶がある。アイネスフウジンのダービーのときだ。このときは久々東京に行って生のダービーを見た。一九九〇年、ちょうど競馬人気がピークにあったときで、勝負が決まったあと期せずして“ナカノ”コールが起きた。七五年カブラヤオーと同じ逃げ切り、それもレコードタイムでの猛烈な逃げ切りだった。十八万人の観客が帰ったあと、ぼんやりスタンドにいると、あのカブラヤオーのときと同じく“風のサイクルホール”が起きた。一階全体に広がっている外れ馬券や予想紙の束をまるで竜巻のような風が空高く巻き込んで飛ばした。
「又三郎来てたんだ、なるほどな、勝ったのが“風神”だもんな」とボクはその予想紙を巻き上げるサイクルホールを見ながら笑ってしまった。
 今年のダービーにはタケミカヅチという馬が出る。タケミカヅチは「健御雷」で、これは雷神だ。十八年前の風神は皐月賞二着からダービーを勝った。雷神も皐月賞二着だった。皐月賞馬(ハクタイセイとキャプテントゥーレ)はどちらも芦毛で、どちらも戦線離脱した。何かあるんじゃないのと思っている。
 でもなあ、雷神じゃ又三郎は来ないだろうなあとも思う。タケミカヅチは風のような逃げ馬でもないし、やっぱりたぶん又三郎は来ない。当日は又三郎が競馬やった種山ヶ原に寝っ転がり、ラジオでも聞きながら、ガラスのマントの馬を探してみようと思っている。

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