スポニチ2008年有馬記念特集号

  そうでありまの水天宮・そうじゃなかっぺセントウル  


 きっかけはほんの偶然だった。「お若えの、お待ちなせえやし」から始まる町奴(まちやっこ)幡随院(ばんずいん)長兵衛と“美剣士辻斬り”白井権八(ごんはち)の歌舞伎名ゼリフがある。男色を伴う二人の交流はほとんど歌舞伎狂言の創作らしいが、長兵衛も権八も江戸中期に実在した人物だ。白井権八と吉原の遊女・小紫の比翼塚(ひよくづか・心中した男女の墓)は東京・目黒不動尊の山門前にある。大罪人と遊女の心中墓は寺の中にも入れてもらえなかった。この塚は心中の二百年後に出来た目黒競馬場(第一回・第二回ダービー開催)の四コーナー外れに位地する(07年スポニチダービー特集号小説“タービー地底人”にもこれを書いた)ことからも興味をそそられ、ちょこちょこ調べた。
 ぼくの知る限り、長兵衛・権八について書かれた最も詳しい書物は有馬頼義(よりちか)「虚栄の椅子」だ。角川書店・昭和三十七年刊、古い。とうの昔に絶版になっているのを古本屋で探り当てた。史実やフィクションや自分の生い立ちなどをバラバラ入れながら、長兵衛と権八を語る。読んでいて幻想の世界に入ればいいのか、歴史研究すればいいのか、作者の境遇に共感すればいいのか、集中力をブッツンブッツン切ってくれる本だ。しかしまあ長兵衛・権八についての考察ではこれ以上のものはない。
 でもぼくがこの本の中で一番驚いたのは長兵衛・権八の所ではない。エッセー風に書かれた有馬頼義本人のことだ。
 直木賞作家有馬頼義は有馬頼寧(よりやす)の三男。元伯爵有馬頼寧は戦後発足中央競馬会の第二代理事長であり、中山グランプリを創設、その功績から同レースはのちに「有馬記念」と呼称されるようになった。
「(僕の先祖の)系図をたどると赤松氏から別れた源氏直流だが、途中でその系図があいまいになっている。僕と、僕の父が調べたところでは、何でも人を殺して追放になり、播州有馬の里にかくれた。それが有馬という姓のおこりだという」
「虚栄の椅子」のこの一節“長兵衛・権八”とは全然関係ないが、ぼくには目から鱗だった。
“有馬氏”は九州だと思っていた。キリシタン大名有馬晴信は島原半島から肥前(佐賀県)の武将だ。有馬家ゆかりで“情けありまの水天宮”と地口が残り、今も有馬頼義の子息が代表総代を務める東京日本橋水天宮は九州筑後川のほとりに建つ久留米水天宮の分祀と聞く。しかし調べてみるとこの二つの事にはどちらも誤解が潜んでいた。
 有馬大名家には二系統ある。一つは瀬戸内の海賊藤原純友の末裔“肥前有馬氏”でキリシタン有馬晴信はこの系統に属する。この一族の動きも複雑で肥前で龍造寺家、鍋島家と争ったあと江戸になって日向、越後、越前と移って幕末に至る。
 もう一つが“摂津有馬氏”だ。源氏嫡流一族が平安末期、播州佐用赤松村を根拠とするようになり赤松姓を名乗った。当主赤松円心の時代、室町幕府成立に勲功を立て“四職(ししき)”の一氏に入ったが、赤松満祐(みつすけ)の時代、横暴な室町六代将軍足利義教(よしのり)に反発し将軍を謀殺するという(一四四一年“嘉吉の乱”)大事件を起こす。幕府側からの猛烈な粛清によって満祐はもとより赤松一族は根絶やしになるが、そのとき満祐のいとこ赤松持家(もちいえ)は摂津(有馬頼義は“播州有馬”と書くが有馬は摂津だ)有馬の里に逃れ「うちは“有馬”です、“赤松”とは別派です」と難を避けるために急激に名乗りだす。このおかげで“摂津有馬氏”が成立し、持家一族は“赤松粛清”の中で生き延びる。
 中央競馬会の勲功者・有馬頼寧とその子頼義には悪いが、調べてみるに、どうも持家というこの住宅金融公庫課長みたいな名前の摂津有馬氏創設者がずる賢い。八代将軍義政(よしまさ)の厭世趣味に乗じて義政乳母の今参局(いままいりのつぼね、通称“おいま”)、義政いとこ烏丸資任(からすますけとう)と共に“おいま・からすま・ありま”の“三ま(三魔)”を形成、側近紊乱(びんらん)政治をやって応仁の乱(一四六七)の因を作ったと言わる。
 応仁の乱から戦国、秀吉、家康時代も摂津有馬一族はあっちつき、こっちつきで巧みに生き残り、一六一五年には大坂の陣の功績を認められ、家康の命で久留米二十一万石に封じられる。摂津有馬一族としては近畿・中部から初めて九州に行った訳だが二十一万石というのは大出世だ。これ以後摂津有馬家は“久留米の有馬”として江戸・明治(廃藩後は伯爵)を生き抜き、久留米水天宮も“有馬家水天宮”として江戸上屋敷に分祀され、新政府下では日本橋蛎殻(かきがら)町で一般公開される。“情けありまの水天宮”“そうでありまの水天宮”の地口は「有馬と水天宮は一体」という意味で明治にも残り、現在も有馬頼寧のお孫さんが代表総代をやっている。しかし元々は一体ではなかった。
 水天宮は源平合戦の水死者安徳天皇(八歳)とその祖母二位局(にいのつぼね)を祭って筑後川河畔に(恐らく鎌倉初期に)建てらたものであり、有馬家は室町半ば播州赤松から別れて有馬温泉の有馬に逃れたとき「いいや、うちは赤松じゃありません、有馬です」と名乗って難を逃れたところに発する。全然別のものだ。しかし時代のいたずら、偶然のいたずらで江戸前期久留米で出会って一体になった。
      *
 われわれ関西の競馬人間は競馬を知って数年、若干分かってきた女の子などによく同じ質問を受ける。「鳴尾記念や宝塚記念は阪神競馬場でやるのに有馬記念はどうして関東でやるの?」
 これに対してわれわれの答えは決まっている。「ははは、ユーコちゃん、よく聞きなさい。鳴尾記念の鳴尾や宝塚記念の宝塚は兵庫県の地名だから阪神開催だけど、有馬記念の有馬は有馬温泉の有馬じゃない。あれは有馬何とかっていう競馬会理事長の名前から来てる。まあユーコちゃんがそういう疑問を持つのは当然だけど、これからはさらに突っこんで勉強してね、はははは」
 でもこの定番回答は間違っていた。恥じねばならない。「有馬記念の有馬は有馬頼寧の有馬だが、有馬頼寧の有馬は有馬温泉の有馬だ。だからキミの指摘は正しい。しかしわれわれは『だから有馬記念は有馬温泉でやろう、馬も騎手も“いい湯だなあ有馬は”と溜息ついて競走するレースにしよう』とは主張して来なかった。これはひとえにわれわれ関西競馬人の怠慢である」と自分の頭叩き慚愧の呻きを発さねばならなかった。
「今年は第五十三回有馬記念だけど」と言うと、質問された“歩く競馬辞典”は両こぶしを握って前に出る。ユーコは質問発したまま口半開きにして立っている。ユーコは神経回路のスピードが若干ゆるいという特徴がある。状況がよく飲み込めない。歩く競馬辞典はユーコを置き去りにしたままじっと夕闇の仁川、特殊照明に輝くセントウル像を見上げる。
「ああこれがもし第五百五十三回有馬記念だったら」そう言って競馬辞典はグッと唇を噛む。「室町幕府協賛有馬記念でやれたのにぃー」
「何言うとんねんオッサン」とユーコは首傾げる。
「ああオレももしこのセントウルのように跳躍力を持ち時空を突き抜ける弓矢を持っていたら“今年もいよいよ有馬記念か、六甲山越える有馬ケーブルは今年も三十万人の客を運ぶ、去年も一昨年もケーブル切れて百人死んだからちょっとだけ心配”とか言える」
「・・・・・・」
「しっかし有馬温泉競馬場、こんな山あいの町によく三十万人も入る競馬場作れたよなあ、それも年一回有馬温泉記念しかやらない競馬場なのに。真ん中には金泉の大浴場があって、五万人がタオル頭に置いてグランプリレース見てるし。ああ馬券が温泉に濡れてフニャフニャやないか!・・・関東からも十万人の客が来ている。でも彼らは“有馬記念を関東に返せ!”などと無教養なことは言わない。“有馬記念はほんとは有馬温泉記念だから有馬温泉でやっていいよね?”って聞いたら十万人が口そろえて“そうでありまの水天宮”って大合唱した。えらいよなあ、水天宮十万人の氏子は。・・・あ、でも、四コーナーの五百人が“有馬記念を赤松記念に!”って横断幕出して叫んでる。“有馬は元々赤松や。佐用郡赤松村にもちゃんと世界一売上げレースのために競馬場作った。一周三百五十メートル、客だって千五百人入れる。有馬記念は赤松裏切った者のレースや。赤松記念にして佐用郡赤松村、千五百人収容赤松村競馬場でやれー!”って叫んでる。見苦しいなあ、そんな五百年も前の出来事にこだわって、ねえ?」
 そう言って競馬辞典はユーコの方を振り返るが、ユーコは口から落ちるヨダレを腕で拭いながら、ただじっとセントウル像を見上げていた。

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