ミジンコ桜花賞

  スポニチ2007年桜花賞特集号  


 ずいぶん昔から「お前は暗い」とみんなに言われてきた。大学出て大津の車のディーラー会社にしばらく勤めたけど、どうにも客とうまく話せなくて一年ほどでやめた。いまは実家の近く、近江八幡の観賞用魚類の店でバイトしている。夜、店を閉めたあと一人で50ぐらいある水槽の水質と水温、それに魚たちの状態をチェックしている。
 うちの店は主に琵琶湖に生息する淡水魚を扱う。発情するとオスだけ頬を染めるバラタナゴも面白いけど、最近一番興味があるのはバラタナゴに給餌するために飼っているミジンコだ。腐葉土敷いた水槽に水入れとけばミジンコは勝手に増える。それを網ですくってバラタナゴに与える。ほんとに重宝なエサだ。でもたまにミジンコの水漕に水が少なくなったり、腐葉土が減ったりすると、この小さなミジンコがどうもセックスしているように見えるのだ。
 ぼくは図書館行ってミジンコを調べてみた。ミジンコごときがセックスするのはどうにも許せなかったからだ。やつら、やっぱりセックスしていた。それも単なるセックスじゃない。普段は単為生殖といって、ミジンコにはメスしかおらず、そのメスが勝手に自分の分身の卵を産む。でも水が減ったり、池に栄養がなくなったりしたら途端にオスとメスの両方を産むようになり、その生まれてきたオスとメスがセックスして卵を産むのだ。セックスしたり、勝手に卵産んだり、どうなっとるんや、ミジンコの性生活はと思った。
     *
 スティルインラブの勝った桜花賞のとき、ぼくは阪神競馬場にいた。競馬はぼくの唯一の趣味だ。特に桜花賞は好きで毎年競馬場に行っている。もちろん一人でだ(悲しいけど)。
 帰り際、一階中央コンコースの払戻場に並んでいた。なんでそんな所にいたかというと、つまりその日の桜花賞をぼくは少しだけ当てた訳で、こう見えてもぼくは桜花賞には結構強いんだ、エヘン、いやそんなことじゃない、その心たわやかに行列にいるとき、おっさんに肩を叩かれた。
「よおギョウチュウ、当たったのか、桜花賞」
 おっさんは両手をズボンのポケットに突っ込み、ぽっこり突き出たお腹を揺する。花粉症なんだろう、鼻の周りを真っ赤にして、媚びた下品な笑いを浮かべている。
 飯田祐史ファンサイトなどという、地味でマニアックなホームページに出入りしたのが運のつきだった。ぼくは昔から飯田祐史が好きだ。彼は騎手の中で一番誠実だ。会ったことないけど、きっとそうだ。顔見たら分かる。だからネット上で「飯田ファンのページ」を見つけたときはめちゃくちゃ嬉しかった。でもしばらくすると、そのサイトに自称作家を名乗る男が出入りし始めた。「飯田?ダチだよ、ダチ。みんな飯田好きなのか?何なら会わせてやろうか」とか、いきなりこんな書き込みして、一人大ボラ吹いてサイト掲示板で悦に入っていた。
 ホームページにはオフ会企画というのがあって、ネット上だけじゃなくて一度顔合わせしましょうてなことになったんだけど、これが最悪だった。参加者はたったの五人(飯田ファンサイトはほんとに寂しい)、真ん中にはこの自称作家が座って色々差配し、「飯田?飯田はいいやつだよ」などと大きなことを言って一人で高笑いする。勘定になると「じゃ一人5千円でいいや」とか言って集金して、あとで伝票盗み見たら5人で2万2千円やないか。おっさん、どんな計算しとるんや。自分のことを作家とか言うけど、このおっさんの本なんか見たことないし、ほんとに怪しい。
 でも一番ショックだったのはぼくの名前のことだ。ぼくは行中(ゆきなか)という苗字で、ネットでは“コウチュウ”というハンドルネーム使う。自己紹介の時そのことを言ったら、おっさん、手の平に漢字を書きながら「“行”に“中”ならお前、コウチュウやなくて、ギョウチュウやないか、ハンドルネームはギョウチュウにせえ、あ、今いやな顔したな、寄生虫バカにしたな、ええか、寄生虫は地球上の生物共生の証しやぞ。生きるエコや。ギョウチュウは環境省だって泣いて喜ぶ名前や。夜明け近くになったら人の肛門付近でウロウロして、その何が恥ずかしい。肛門だって立派な生き場所や。お前、肛門バカにしてんのか」とか訳の分からんことを言って突然怒り出した。
 おっさんとはあれ以来の再会だけど、いきなり「ギョウチュウ」と呼ばれて、あのオフ会の悪夢が蘇ってきた。
「ギョウチュウ、何取った?馬連か?」
 ギョウチュウという言葉に列の前の人が驚いて振り返る。
「いや馬単。ぼく桜花賞は結構強いんです」とここだけは言わねばならない。
「あ、分かった、ギョウチュウ、お前チェリーボーイやもんな。そりゃチェリーボーイは桜花賞強いわな」
 おっさんはことさらでかい声で喚く。オフ会のとき「ギョウチュウは彼女いるのか?」と聞かれ「いや、そっちの方は」ともじもじしていると「え、経験ないんか?ひょっとしてチェリーボーイか、お前?チェリーボーイのギョウチュウか?」と言われて「ええまあ」と頷いてしまった。一世一代の不覚だった。
 仁川駅への道があんまり混んでいたので、おっさんと二人、武庫川の土手を帰る羽目になった。辛い展開だ。
「でもお前、なんでまた1番人気アドマイヤグルーヴ切ったんや」とおっさんが聞く。
「ああ、まあ何となく」
「日本競馬史上最強牝馬エアグルーヴに日本競馬史上最高種牡馬サンデーサイレンスのかかった馬やぞ、何で負けるんや。生産牧場のノーザンファームやったって泡食っとるぞ、エアグルにサンデー、これで負けたらどんな配合せえっちゅうんじゃって牧場の壁ドンドン叩いとるぞ」
 おっさんはそう言いながら土手の下に降りて座る。ぼくも横に座る。
「ぼくね、いま近江八幡の観賞用魚類の店でバイトしてるんです」とぼそっと言う。「知ってます?ミジンコのセックス」
「は?」とおっさんがこっち向く。ミジンコセックスの話、興味あるようだ。
 ぼくは武庫川の桜の花びらを受けながら、ミジンコセックスについて懇々と話す。
「つまりね、ミジンコに言わせれば、男とセックスして子供産むのは何か不都合な状況のときだけなんです。急場しのぎのときだけ男とセックスするんです。エアグルーヴはいま北のノーザンファームで“ミジンコ競馬だったらいいのに”と舌打ちしてます、きっと。“わたし一人で産めば桜花賞だってオークスだって天皇賞だって全部勝てるのに、サンデーサイレンスとかいう余計なツマ楊枝が入ったばっかりに”と地団駄踏んでます」
 そこまで言ったとき、ぼくは突然首を絞められた。「やっぱりお前はただのオタクやなかった、無意味なチェリーボーイやない、意味あるギョウチュウやった。これは絶対、いまをときめくノーザンファームに教えてやるべきや」とおっさんが叫んだ。
    *
 アドグルがオークスも勝てず生産界が「どうなんやろ?」と首をひねり始めたとき、ぼくとおっさんはほんとに北海道まで行った。“近江八幡ミジンコ北海道ツアー”というのぼりを立て、台車に乗せたミジンコ水槽を引っ張ってノーザンファームの前まで行った。
「風の噂でエアグルーヴの繁殖に悩んでおられると聞きしました。悩んだときはミジンコセックスです、それー!」
 おっさんの拡声器の掛け声に合わせて、ぼくはかねて仕込んでいた通り、ミジンコたちに危機セックスをさせ始める。組んずほぐれつ、水槽の中はえらいことになる。
「ご覧なさい。お分かりですか、いまをときめくノーザンファームの皆様。来年からエアグルーヴの産駒は次のようになるのです。エアグルーヴ、エアグルーヴ、エアグルーヴ、エアグルーヴ、あ、競馬不況だ、アドマイヤグルーヴ、イントゥザグルーヴ、よし不況脱出、エアグルーヴ、エアグルーヴ、エアグルーヴ、エアグルーヴ、エアグルーヴ・・・。もちろん桜花賞とオークスと天皇賞は競馬不況の二年を除いて毎年“エアグルーヴ”が勝ちます。もちろんこの牧場の繁殖馬房もエアグルーヴだらけです。吉田社長も満足気に見て回ります。でも中に二馬房だけ異質な馬がいる。“そうか、この二年は競馬不況だったんだな、サンデーサイレンスが入り込んだのか”と吉田社長が溜息をつき、アドマイヤとイントゥは体小さくして社長を恨めしげに見上げるのです」
 すぐに警備員が飛んできて、我々二人はつまみ出され、おっさんは「ミジンコセックスは一日にしてならず」と捨てぜりふを吐いた。

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