モハメド殿下のATM

  スポニチ2007年JC特集号  


 東京競馬場総務課庶務係金融施設班で働いています。でも正社員じゃありません。所沢にある「キキ商会」という会社からの派遣です。“危機”商会じゃありません。工作機器のメーカーです。銀行向けのATMを主に作っている会社です。
 みなさん知ってます?ATMというのは Automatic Teller Machine の略なんです。Tellerというのはもちろん“喋り人”という意味だけど、いつのまにか“銀行出納係”という意味も持つようになったんです。出納係というのは「あ、入金ですか?ありがとうございます、このティッシュ、どうぞお使い下さい、いろんなときに、フフフ」とか「え、定期の解約ですか?何か急なご利用でも?でもね、お客さま、踏ん張るってことも必要ですよ」とか、テメエに関係ねえだろってなことでもよくぺらぺら喋るからでしょうね。
 でね、わたしがこの会社入って驚いたのはATMというのがAとTとMに分かれてるってことです。これ「部外秘」ってことになってるんだけど、でももうそろそろ広報するべきだと思うんです。ATMコーナーというのは基本的に3台ワンセットなんです。競馬場のATMを担当しているから知ってるんだけど、最近出来た東京競馬場や京都競馬場のATMコーナーは3台設置です。以前からある阪神競馬場のATMも3台です。これには理由があるんです。AとTとMがそれぞれの台に入り込むからです。
 AとMはautmaticとmachineだから、これは機械なんです。機械といってもちょうど「スターウォーズ」に出てくるR2-D2みたいな人工知能持ったロボットを小型化したやつで、だからときどき言葉を発して反撃したりして、これが問題を起こす。Tはtellerだから、これはぺらぺら喋る人間が実際に入って応答すると同時に、隣りのAとMを指揮監督するという役目も持つんです。
 よくATMコーナーには「トラブルがあったときはお電話下さい」ってドアホンのような受話器が置いてあるじゃないですか。で「おカネが出ないんですけど」って電話したら「困りましたねえ」って他人事のようなことを言う人がいるじゃないですか。あの人ね、実は機械の中にいるtellerなんです。嘘だと思うのなら、今度電話するとき、しゃがみ込んで機械の下に耳を当てて見て下さい。電話の応答声がそこから聞こえてきますから。tellerは喋るのが仕事だから、苦情処理は重要な職務の一つです。
 どうしようもないトラブルのときは「じゃいまから処理に伺います、しばらくお待ちいただけますか」と言って作業着着た人が来るときがあるでしょ?あれはわたしたちtellerがATM機の裏からこっそり抜けだして囲いの陰で作業着に着替え、わざと息切らせて表に回ってるんです。ほんとです。
 でもたまにスーパーの片隅にあるやつなんか、スペースの関係で1台しか置けないATMコーナーあるじゃないですか。あのときはtellerはAやMと一緒に入らなきゃいけないんです。場所は狭いし、このAやMが人工頭脳という性格上、熱持ってて、それはまあ機械の宿命でしょうがないんだけど、とにかくこいつら暑いんです。それに機械のくせに「もうちょっと向こう寄ってくれ」とか「息が臭い」とか(わたしホルモン好きでよく食べるんです、ごめんなさい)偉そうなこと言ってゴネて、「鬱陶しいのはこっちじゃ、お前らこそ向こう行け!」とほんとはそう言いたいけど、お客さんがいたらそんな大声出せないし、ほんと困ります。
 うちのキキ商会だけでも、わたしのような“ATM・teller”が二千人います。いまはちょっとしたコンビニなんかでもすぐに「当店ATM設置」って看板出るけど、そのたび我々tellerは24時間三交代体制で配属になる訳で、そりゃ大変なんです。
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 たぶんうちの専務がむかし農水省の役人だったからだと思うんですけど、うちの会社、特に中央競馬会には強いんです。東京競馬場改装と共に新しく出来たATMコーナーもうちの納入ということになって、わたしがtellerとして派遣されることになりました。
 土曜の朝になると、日通の現金輸送車でAとMがやってきて(それを見るたび“おまえら現金かい!”と叫びますが)機械3台のうちのどれに入るかでミーティングやります。「オレ、左サイドの方が得意なんだ、“ATM界の中村俊輔”って言われてるから」とAが口笛吹きながら言い、MはMで「オレも左や。オレのMは“輪島の左前みつ”のMや、ライバル北の湖を苦しめたあのMや」とか訳の分からないことを言って譲らないし、この調整だけでも一苦労です。
 それにくわえて、いやあ、東京競馬場の客にも驚いてます。大体ダービーのあとに目黒記念なんていう重賞をやるのがいけないんです。あのときはまるでアマゾンの巨大ヘビ・アナコンダのごときうねうねとした行列が隣りのフロアまで続いたんです。「おまえら目黒記念買うんだったら、ダービーで有りガネ勝負するな!」とわたし2号機の中で叫んだけど、でもそんな声は欲猛者たちの呻りに掻き消されてしまいました。
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 東京競馬場ATMにもやっと慣れてきたと思った先日、わたし、東京競馬場長から呼ばれました。「きみは秘密は守れるか?」と場長はいきなり小声で聞きます。「カタクチイワシって言われてます」と答えます。間髪入れず答えます。これは秘密保持が最大要件のATM業界に勤める者の悲しい条件反射です。場長は「ふふふ」と笑ったあと、さらに身を寄せて、わたしに頼み事をしてきました。
 ドバイのシェイク・モハメド殿下がジャパンカップの日に来場、それもお忍びで、一般客に紛れて来場するという情報が入ったそうなんです。殿下の所有馬はこれまでにもファンタスティックライトとかアルカセットなど、何度かジャパンカップその他日本のレースに出ているんだけど、そういう外国馬の所有者として貴賓席に入るのは本意ではない。あくまで日本の馬、日本で生まれ日本の厩舎にいて日本の競馬場で走る馬のオーナーとして、一般応援ファンの一人として日本の競馬に行きたいという意向らしいんです。何でもモハメド殿下はドバイで「暴れん坊将軍」のビデオを見ていたく感激し、「わたしも日本の“め組”の詰所に居候して“モハさん”と呼ばれたい」などとしょっちゅう口にしているらしいんです。
「我々が一番心配しているのは、殿下は競馬場に来るとまずATMを利用するという噂があることだ。ロイヤルアスコットでもロンシャンでも、“今日は少し馬券買ってみよう、とりあえず3億ドルほど出せるかな”と言ったらしいんだ。3億ドルっていったらきみ、400億円だぞ、ジャパンカップ全体の売り上げより多いんだぞ、ロンシャンでもロイヤルアスコットでも、それで競馬場金融係の首がふっとんだという噂があるんだ」場長はそう言って頭を抱えます。
 ATM担当者のわたしに、殿下が順々にATMを使い、穏便に馬券を買い、パニックのない一日になるよう、そこはかとなく取りはからって欲しいという、それが場長の頼みでした。でもそんなこと可能なんでしょうか。第一、そうでなくても外国人客の多いJCの日に、一般客に紛れ込んだモハメド殿下なんか、見分けがつくんでしょうか。
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 でも物事には案外ということがあるようです。ジャパンカップの日、わたしは簡単に殿下を見つけてしまいました。群衆の中で一人突っ立ち、メモリアル・スタンドの「JRA」という文字を見上げていました。アラビア人の定番のグトラとかいう頭巾も、トーブという白いガウンもまとってない。あご髭は立派だけど、普通のジャンパーにジーパン履いているし、とてもアラブの王様には見えません。でも「JRA」を見上げているその姿に、わたしはピンときました。
 1973年、もう古い話だけど、パリ発東京行き日航機を日本赤軍がハイジャックしてドバイに緊急着陸させた事件があったんです。そのときドバイ空港で交渉人を務め、人質解放に貢献したのが国防大臣に就任したばかりの若きモハメド殿下だったんです。そのときハイジャック犯たちは「我々はJRA(Japan Red Army)だ」と名乗っていたんです。「JRA」という文字にこれだけ鋭敏に反応する外国人、きっとモハメド殿下に違いありません。
「JRA?」とわたしの姿を見て、その外国人は壁面を指さして聞きます。出番です。こう見えても所沢のNOVAに三年通ったわたしの、ここが腕の見せ所です。
「イッツJRA、バット・イッツノットJRA」自分でも何を言ってるのか分かりません。情けない。だからNOVAはダメなんだ、くそーっと舌打ちしていると、その外国人「オー、アイ・シー」と大きくうなずいたんです。一体何を理解したんだ?こいつ。
「ATM?」と外国人は次に聞きました。ついに来ました。これです。ロイヤルアスコットとロンシャンをパニックに陥れた、これがその脅威の問いかけです。   
「あなたの気持ちは分かる、しかしものには段取りがある、両替は1千万ドルずつぐらいに分けて順々にというのはどうか?」とそういうことが言いたかった。言いたかったけど、でもさっぱり単語が出てこない、“くそー、NOVA何してる”とか思いながらアーとかウーとか呻いていると、その外国人も困った顔になってポケットから紙幣を一枚出しました。見ると「5ディルハム」と書いてあります。
 ドバイの通貨ディルハムは1ディルハム=30円の換算です。5ディルハムは150円です。何や、おい、これで馬券買おうってんかい。日本じゃ路上に新聞敷いて寝てるオッサンでもその十倍は馬券買うぞ。
 わたしが睨むと、その外国人、泣きそうな顔になりました。顔をしかめて死にそうな表情をします。たぶんモハメド殿下じゃないと思います。


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