天皇賞血しぶきノック

  スポニチ2007年天皇賞春特集号  


 二十数年前、大学を出て、大阪の定時制高校に就職した。毎日、午後三時に大阪市内住吉のアパートを出て、泉南の高校まで約一時間半かけて通う。もっと勤務地に近い場所に住むのも可能だったが、大阪市内から出たくなかった。場外馬券場が遠くなるからだ。これは嘘ではない。電話投票などまだない時代だから、土日ごと往復3時間もかけて馬券買いに行くのは大変なことだ。住吉なら難波場外まで南海本線で15分で行ける。これは大きな差だった。
 とにかくその頃のぼくの興味は仕事以外のところにあった。夜十一時頃帰宅すると慌てて閉店間際の風呂屋に行き、帰りにお好焼き屋に寄って遅い夕食、そこからが自分の時間だ。いつ日の目を見るか分からない原稿を書き貯め、週末が近づくとスポーツ紙見ながら競馬予想して朝まで過ごす。
「作家になる」と大言壮語して辞職するまでの丸4年、この生活を続けた。自分の時間を確保した優雅な教員生活と言いたいが、赴任2年目にちょっとした事件があった。
 週一回、課内クラブの時間というのがあって、ぼくはソフトボールを担当していた。ジャージに着替えてグラウンドに出ると、生徒連中がタバコを吸っていたりする。新任教師の試金石場面だ。
 こういう時のぼくの対応は着任当初から終始一貫していた。見なかったことにする。「あ、蚊にかまれた」とか意味不明のことを言って足元を掻いていると、生徒が気づいてタバコをもみ消す。阿吽の呼吸だ。それから自ら率先してラインを引き、審判をやり、球を拾って生徒たちを鼓舞する。サッサとやってサッサと終わらせたかったからだ。
 しかしこれが生徒たちに歪んで伝わった。「この新任の先コウはちょっとした喫煙でもすぐに生活指導に持ち込む古株たちと違ってオレたちに理解があるし、スポーツにも情熱を燃やす熱血漢だ」と曲解された。ある日、授業の帰りにこいつら数人に取り囲まれる。「な、なんや、つるし上げか」と緊張していると「先生よお、野球部作ろうや」と言う。とんでもないことだ。
 定時制のクラブ活動というのは、午後九時の終業から約一時間半行う。そんなことをしていたら、ぼくなど風呂にも行けなくなる。
「お前ら、次の日も朝から仕事があるのに野球部なんて無理や。野球はそんな甘いもんやない」
 ぼくには野球経験がなく、甘いか辛いかなど、そんなもの全然分からなかったが、ここはとにかく諦めさせるしかない。それに野球部担当すれば試合や何やで日曜がつぶれる可能性が高い。日曜はクラブ活動の日ではなく、競馬の日である。特別手当すら出ない、そんな徒労の仕事によって我が生活最大の楽しみを奪われてなるものか。
 しかしこいつらがしつこかった。授業のたびに寄ってきた。あまりにしつこいので、練習は週二日、火曜と金曜だけ、土日は公式戦以外決して練習には使わないという“勤労生徒のために”厳しい制約をつけて引き受けることになった。
 練習初日の壮絶な光景は未だにに忘れられない。中学からの野球経験者が三人いて、こいつらはまあ形になっていたが、人数合わせのためのあとの六人が強烈だった。ゴロを取るのに膝を曲げるということを知らない。いやこんなこと、知るとか知らないの問題ではなく、ゴロが地を這ってきたら自然に膝を曲げるだろうと思うが、ヤツらはまるで前屈運動のように脚を伸ばしたままグローブだけ下げる。ぼくのような野球未経験者にも、この状況が悲惨だということはすぐ分かった。
 もちろんこれをノックで鍛え上げていくのが監督の勤めだ。「打たせてや、バッティングせなオモロないわ」とやかましい生徒どもに対して「ちゃんとしたゴロも取れんのにバッティングなんか十年早いわ」と言い放つ。せっかくの充実深夜時間を踏みにじられた腹いせに、初めの一ヶ月はノック練習のみと強引にスケジュールを決めた。
 しかし野球未経験監督にとってノックというのは大仕事だった。「ほれ、センター、大フライいくぞ、しっかり捕れよ」という大声と共に、バットからは地を這うゴロが転がる。「しっかりせんか、フライが来そうにみえて強烈なゴロ、これが野球や。油断するな」
 とにかく大声だけには自信があった。「おーい、みんな上がれ、最後はキャッチャーフライや、ほれ、キャッチャー」という声と共に打ち上げた打球がセンターに飛んでいく。センターノックの時には決して飛ばなかった見事なセンターフライである。
「センター、何しとんや、バックして取りに走らんか、たとえキャッチーフライに見えても、それをセンターがカバーするという、それがオレの野球や」“オレの野球"も何もあったものではないが、意味不明の大声だけはやめない。熱意があったからではない。「ほかの教師は皆帰ってるのに、何でオレだけこんな時間まで残らなアカンねん」という悔しさを発散させるためである。
    *
 その年の春天皇賞にはオペックホースとモンテプリンスが出ていた。二年前のダービーで圧倒的一番人気のモンテプリンスをゴール前差して戴冠したのがオペック。しかしダービー以後13戦、出ても出ても負け続け、あのダービーはまぐれだったに違いないと言われ始めていた。一方モンテもダービー敗戦のあと、菊花賞でも次の年の秋天皇賞でも人気を背負いながらノースガストとホウヨウボーイにハナ差差される。モンテが勝負弱いのか、鞍上吉永が勝ちに怯えるのか、とにかく“無冠の帝王”の称号を欲しいままにしていた。
 無冠帝王に春が来るか、まぐれダービー馬が再起するか(ぼくの狙いはそれとは関係なく虹の向こうのオーバーレインボーだったが)、とにかくその注目の春天皇賞を、ぼくは自分の高校のグラウンドでやきもき想像しなければいけなくなった。春の定時制野球大会一回戦を相手チームを自校に招いてやることになった。恐れていた“休日つぶれ”の第一回がこともあろうに天皇賞の日にぶつかったのだ。
 朝イチに難波場外で買ってきた馬券を胸に部員を集める。部室に放置されていた古いユニフォームは全員に行き渡らず、ジャージ姿のやつや、上がユニフォームで下は短パンとか、阪神タイガースの帽子をかぶっている者までいて(キミはどこのチームや)もう訳が分からん。
「バントはこう胸を触る。“乳バンド”や。“待て”はこう股を触る。待つボックリやな。盗塁はこう人差し指を曲げる。塁を盗むんやからな。最初やからサインはそれだけや」と三つのサインを決める。でもサインなんかどうでもよかった。
 定時制の軟式野球は七回制だから21のアウトをとればいい。その試合、ピッチャーの鍛冶という野球経験者は何と19奪三振という離れ業を演じ、なおかつ2つのピッチャーゴロをさばいた。しかし試合は7対0で負けた。なぜか。ピッチャー鍛冶以外ではアウトが取れなかったからである。フライでもゴロでも内外野に飛んだら決してアウトにならない。「あ、ボテボテの二塁ゴロ」と思ってもセカンドがトンネル。「ランナー一塁か」と思っているとライトもトンネル。あっという間に二塁ゴロがホームランになるという、奇跡野球のオンパレードだった。
 しかし監督は自チームのその悲惨な試合を嘆いたかというと、これがそうでもない。
 うちの学校には警備員のおっちゃんがいて、携帯ラジオ下げて悪い足を引きずりながら意味もなく校内をうろつくのを趣味(というか、まあ仕事なんだろうけど)にしていた。気のいいおっちゃんで、その日も「今日は野球でっかいな」などとニコニコしながら何度もグラウンドを周回する。これを使うしかない。
「おっちゃん、競馬にして、ラジオ。1179、やってないか、競馬?今日天皇賞やねん」
 監督はグラウンドを背にして、後ろを通り過ぎるおっちゃんに切羽詰まった声を出す。
「先生、コールド負けになりそうです」とキャプテンでキャッチャーの宮田という子が泣きそうな顔で寄ってくる。
「そうか、まあ仕方ない、これが野球の厳しさや」と言いながら、監督はおっちゃんの方に振り向き「ああ、クソーッ、やっぱりモンテか、オーバレインボーどうなったんや」と小声を出し、歯軋りしてポケットの馬券を握りしめた。
 当初二年だった彼らと結局三年間(定時制は四年制)付き合うことになった。最後の年にはさすがに少し上達してきて、試合に勝ったりするので参った。「よくやった、よくやった」と部員たちと握手しながら「来週はオークスで、その次の日曜はダービーやからな、野球なんかやってる場合じゃない、次は絶対負けろよ」と念じていた。


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