ダービー地底人

  スポニチ2007年ダービー特集号  


 2000年ダービー前の武豊の記者会見は、いまだに折に触れて思い出す。
 この年、武豊はダービーで皐月賞と同じくエアシャカールに騎乗する。大本命だ。しかしシャカールには斜行癖があって、それについての質問が出た。
「シャカールが皐月賞を勝ったときは確かに斜行しました。ただ現時点では内に行きたがるのか、右に行きたがるのか、そこはまだ分かりません」
 皐月賞は右回りの中山競馬場で行われ、勝ったエアシャカールはゴール前の直線で右前方の内ラチの方に走った。これをとらえて、武豊は「右へ行きたがるのか、内へ行きたがるのか分からない」と言い、居並ぶ記者たちは「そうなのか、右へ行ったとも言えるが、内へ行ったとも言えるな、なるほど」と感心した。
 ダービーは左回りの東京競馬場で行われ、結果としてシャカールは今度は外によれ、勝ったアグネスフライトにぶつかって長い審議になった。
「そうかシャカールは内に行きたがるのではなく、やっぱり右に行く癖だったんだ。武豊が右回りの皐月賞の時点で結論を出さなかったのは正解だった。これは右回りと左回りを両方走ってみて初めて出せる結論だ」
 記者たちはそう言って、あらためて武豊の聡明さを称えた。
 しかしぼくにはいまだに疑問がある。ひょっして武豊は「皐月賞のシャカールのよれ方は内に行ったと“言っていい”のか、右に行ったと“言っていい”のか、ぼくには判断がつきません」と、それが言いたかったんじゃないか。

[つまり武豊は地底人のことが言いたかったんじゃないか]

 これがぼくの結論だ。中山や京都は右回りで、東京や中京は左回りだというのは地上人の話である。地底人なら「東京競馬場は右回りだ」(地底から地上を見上げている者には人馬は右へ右へと回っている)と言うはずだ。地底人なら「エアシャカールは左にヨレている」と言うはずだ。武豊はそれが言いたかったんじゃないのか。
「内に行きたがるのか、右に行きたがるのか分かりません」というのは「地上人には右に行きたがるように見えるけど、地底人に言わせれば左に行きたがると言うだろうし、その場合は内に行きたがると言った方がいいのかなあ・・・・・・」と、そこを武豊は悩んでいたのではないか。
 ぼくの考えに賛同する者は一人もいなかった。「訳の分かること言え」と吐き捨てられただけだ。
 でも広い競馬場を見下ろしていると、ときどき思うことがある。
 ひょっとして地上と同じぐらい数万人の地底人(目や髪は退化した頭の丸いモグラのような人間たち)がズラッと並んで地上の競馬を見上げているんじゃないか。彼らに見えるのは馬のヒズメや腹ばかりだろうけど、そういう競馬も結構迫力あるんじゃないかとかと想像する。
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 目黒不動尊という、東京でも屈指の歴史を持つ寺がJR目黒駅の西、約1キロの所にある。最澄の直弟子・慈覚大師が開いたと言われ、その歴史約1200年を誇る。境内にはサツマイモで有名な青木昆陽の墓や、二・二六事件の理論的首謀者・北一輝の碑、水ごりをする滝や神社の鳥居などもあり、よく言えば広範な、悪く言えばごった煮的雰囲気の寺だ。
 しかしこの度量の広い寺にも入れてもらえず、門前で涙を飲んだ人間もいる。江戸の辻斬り白井権八(ごんぱち)と吉原の遊女小紫(こむらさき)である。
 白井権八は元は鳥取藩の武士だが、父の仇として同僚藩士を切って出奔する。江戸に紛れ込むが、食うや食わずの中で辻斬りに明け暮れるようになる。斬り殺した武士・町人百数十人と言われ、結核を患っていた権八は本所、永代橋あたりで人を切るたび、返り血と自らの喀血で紅の羽二重をまとっていたと言われている。
 この権八に道ならぬ思いを寄せた者が二人いた。小紫と幡随院長兵衛(ばんずいちょうべえ)である。町奴(まちやっこ)として既に町人たちのスターだった長兵衛は、品川鈴ヶ森の宿(しゅく)で江戸入り直前の権八が雲助に絡まれ、やむなく切り捨てるのを偶然目撃する。さらに長兵衛は権八の美しい容姿にも一目惚れ、衆道(しゅどう、ホモセクシャルラブ)の道に迷い込む。
 通り過ぎようとする権八に、長兵衛が駕籠の中から掛けた「お若けえの、お待ちなせえやし」は歌舞伎名ゼリフの一つになって、今も残る。
 吉原一の太夫・小紫も権八に一目惚れ(そんな男前がおってたまるかという気もするが)、小紫に横恋慕する旗本奴(はたもとやっこ)寺西閑心は「権八こそ自分を邪魔する不倶戴天の敵」とつけ狙うことになる。
 長兵衛はその閑心の横暴から権八と小紫を守る。ほんとは自分が権八のことを好きなのだが、そこをぐっと押さえ「権八さん、小紫と逃げなせえ」と金子(きんす)を与え、自分は閑心に切られる(いつの世もホモセクシャルは報われない)。逃げた権八も喀血で斃死(へいし)、小紫も権八の遺体の置かれた目黒不動尊の前まで追いかけて、そこで自害する。
 その権八と小紫の悲劇の比翼塚(ひよくづか、心中死した男女の墓)が目黒不動尊の門の南側にひっそりと立てられている。
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 問題はここからだ。日本ダービーというのは昭和7年を第1回とし、終戦前後の混乱期3年間を除いて連綿と受け継がれ、今年で第74回となる。しかし第1回と第2回は府中ではなく目黒競馬場で行われている。そして昭和初期の目黒の古地図を見ると、四コーナーは権八・小紫比翼塚のすぐ脇になる。
 地底人というとどうも、いしいひさいちの漫画「地底人の逆襲」のイメージが強い。歯を剥き出しにした大きな口で「グヒヒヒ」と笑い、頭の先からチョウチンアンコウのような明かりの管を出してドドドド、ドドドド集団で歩く。でも概して明るいのではないか。
 世をはかなんで後追い心中したと思われている権八・小紫、極悪人と遊女の心中で寺の中にも入れてもらえず悲惨の極みのようだが、土の中に入ってからは結構明るくやっていたのではないか。いつしかチョウチンアンコウの明かり管も二人の頭から生え、口は大きくなり、巨大な歯を剥き出しにして笑うようになる。
「みんなの話題になったんだし、死んだとはいえ添い遂げられたことだし」などと言いながら二人腕からませて地上を見上げる。
「やってるよ、競馬」「ほんと。へえ、ダービーだって」などと言いながらニコニコして見ていたように思える。
 ただ多少の不満は言っていたかもしれない。
「大体地底から見たら目黒競馬場が右回りというのがおかしい。みんな左へ左へと回ってるじゃないか。ヨれるときだって左へヨれてるんじゃなくて、あれは右にヨれてるんだ。あまりに勝手なこと言うと、辻斬りしに行くぞ!」
「権八さん、悪い癖だよ。さあさ、刀はお仕舞いよ。地底人になったら物騒なことはなしだよ。いいじゃないの、右側が左側だと思やいいんだから。わたしたち地底人は臨機応変ということで世間の人から支持受けてるんだからさあ」
 そんなことを言って地底からダービーを見ていたはずだ。
 それがわずか二年で競馬場移転となる。権八・小紫は焦った。
「いや、怒ってはいかん。まず相談だ。“お馬さんたち、お待ちなせえやし”“待てとおとどめなされしは拙者がことでござるかな”」
「権八さん、何言ってんだい、お馬さんがそんなこと言う訳ないだろ。競馬場がこの目黒から府中へ移るんなら、あたしたちも府中へ移れば、それで済むことじゃないかい。地底人は神出鬼没が売りじゃないか。“そこのお墓に私はいません、眠ってなんかいません”て歌手の人も大きな声出して歌ってるだろ。墓地公園なんかいつだってあんた、もぬけの殻さ。わたしたち地底人は超高速モグラのように穴掘ってあっちゃこっちゃ行くっていう、それが特技なんだよ、忘れたのかい、権八さん」
 そう言って、権八・小紫は五月下旬の日曜になると、二人そろって猛烈に地中を移動している。
 今年のダービーも直線で馬のヨれるのを、色んな地底人が「右か、左か、内か、外か」とわいわい言いながら見ているはずなのだ。


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