仁川の恩返し

  スポニチ2006年桜花賞特集号  


 正直者のおじいさんは町へ出た帰り道、いじめれている鶴を見つけて買い取り、縄をほどいて放してやりました。その夜おじいさんの家に美しい娘が訪ねて来ました。
「この雪の夜、道に迷ってしまいました。一夜の宿をかしていただけないでしょうか」
 次の日、娘が「泊めていただいたお礼にハタを織らせて下さい、でも決してわたしのハタ織りの部屋は覗かないで下さいね」と言い、その日から離れにこもり、夜も昼もハタを織りました。娘の織物はたいそう美しく、町へ持っていくととんでもない高値で売れ、おじいさんはたちまち大金持ちになりました。

 ぼくは西宮の南の端、鳴尾浜に近い埋め立て地にある公民館に勤めている。ちゃんとした公務員じゃない。非常勤だ。それでもいま子供相手にちょこまかと仕事している。動物文化を子供たちに伝えるための「動物文化普及員」なんていうよく分からない肩書きまで市からもらっている。
 近所の団地の子供たちを神戸の動物園に連れて行ったり、動物の写真を見せながら話をしたり、動物の出てくる紙芝居を作って読んだりしている。いまは「鶴の恩返し」をやっている。
 
 おじいさんは娘がどうやってハタを織っているのか気になってしょうがなく、しのび足で離れに近寄り中を覗いてみました。驚きました。布を織っているのは女でなく、一羽の鶴でした。自分の羽毛をむしりとってはハタに入れて織っているのです。おじいさんの叫び声に、鶴は動きを止めて寂しく言いました。
「おじいさん、なぜ見てしまったんです?わたしはこの間おじいさんに助けてもらった鶴です。ご恩返しにハタを織らせてもらいましたけど、本当の姿を見られてしまってはもうここには居られません」
 そう言って鶴は離れの窓から夜空に飛び立っていきました。

 ここだ、どうも納得がいかないのは。「鶴の恩返し」は人気があるので何度か紙芝居に描いて上演しているが、絵を描いていても、子供の前で読み上げていても、いつもここのところで首をかしげる。
「糸もないのにどうやってハタ織ってんだ?」とじいさんが疑問に思うのは当たり前だ。チョロッと覗いてみるのも自然だ。へえ、鶴の姿で自分の羽引っこ抜いてたのかとじいさんが驚く。これも当然だ。でもそれに対して「見ましたね、あれだけ約束したのに」って、何だ、この捨てゼリフは。ほんとに恩返しする気があるのかと言いたい。
 じいさんが覗き見しているのが分かったら「もうイジワル!」とまず言う。恩返しは「イジワル!」から始まる。「見ないでって言ったのに」と恥ずかしそうに胸を覆い隠して涙を流す。その悲しむ娘を「大丈夫だよ」と言ってじいさんが抱きしめる。それでこそ恩返しというものだろうが。
               *
 七年前、岡山の山の中の実家から阪神間の名もない私立大学の経営学科とかというところに入学した。でも「棚卸高」とか「仕入高」とか「売上原価と総利益」とか、いっぺんにイヤになった。何ていうか、全然スペクタクルがない。
 スペクタクルがあるのは動物のセックスだ。きっかけはこの公民館に併設されている図書館だった。どうにも大学へ行く気力がなくて、図書館でブラブラしていると「ムササビの愛し方」という本の背文字が目に入った。ムササビは岡山の田舎でよく見かけた。夜になるとキエーン、キエーンと鳴き声がして、そのあとガサガサガサとクヌギや柏の葉がよく音を立てていた。
 ムササビのメスは繁殖期になると、一晩に5、6匹のオスと一気にやりまくる。いままで決してオスを近づけなかったメスが堰を切ったようにやりまくる。メスは「ふう」と額に手をやり「疲れた」と言い、満足そうに夜明けを迎える。その様子を見て、あぶれたオスたちは「なんだよう、貞淑そうにしてたくせに結局アバズレじゃないか」と吐き捨ててうなだれる。
 しかしオスの方も浮気メスを漫然と許している訳ではない。ムササビのオスは精子と共に“交尾栓”というゼラチン質をメスの体内に注入する。自分の次のオスの精子が自分の精子より先に子宮に到達するのを妨ぐためだ。女が他の男とやりまくるのを防げないのなら「せめて精子はオレの分だけを」という、ムササビのオスの悲しい創意工夫だ。
「分かる、分かる」と言いながらこれを読んでから、取り憑かれたようにここの図書館に通い、動物の繁殖の仕方について勉強するようになった。
「動物好きなんやね?」
 あるとき、いつものようにトンボとカエルのセックスについての本に集中していると、女の人から声を掛けられた。小学校入学したばかりぐらいの男の子の手を引いたおかあさんだ。
「いつ見ても動物の本読んでるもんね」
 白いセーターの胸のところがふっくらしていて、ベージュのタイトスカートも決まってるし、ショートヘアがまぶしそうな笑顔によく似合っている。
 それから図書館で会うたび瑤子さんと話すようになった。瑤子さんは離婚して、いまは近所の団地で息子と二人暮らししている。週に三日、ここの図書館の書庫整理のパートに来ていて、週末は子供を両親のところに預けて阪神競馬場で働いているらしい。ぼくにここの公民館の動物文化普及員の働き口を紹介してくれたのも瑤子さんだった。
「動物では何が好きなの?爬虫類?」
 ぼくが「爬虫類のセックス」を読んでいるときも、書庫整理のユニフォーム着てワゴン押していた瑤子さんが突然声掛けてきた。ぼくは書名の「セックス」の部分を慌てて覆い隠しながら「あ、いや、一番好きなのはムササビかな」などと答える。
「へえ、不思議やね、わたしもね、実は“阪神競馬場のムササビ女”って言われてるのよ」
 そう言って瑤子さんは含み笑いする。分からん。何だ、ムササビ女ってのは。
 阪神競馬場最上階の窓口に「宝塚記念、一番人気タップダンスシチーの単」と男が馬券を買いに来る。おねえさんが馬券を差し出すと、男はその手首をぐいと握り、「瑤子、キミはオレ以外の男にもタップの馬券を売るのか」と見詰める。
 呆気にとられる瑤子さんを前に男は首を振り、「いや、それは言ってもセンナイことだ、我々はそういう習性に生まれついているんだ、言っちゃいけないんだ、ただ、ただこれだけは・・・」と言いながら、男は口からゼラチンを吐き出し、それをベタベタ窓口に貼り付け始める。
「瑤子、キミが受け容れるのはオレの精子だけだ、あとの男には入れさせない」と男は意味不明のことを喚いて飛び出す。
 駆けつけた警備員が「え、逃げた?階段か?」と言うと、「いや、バルコニーから飛び出した。あの男、腕の下の膜を広げて飛んで行った、甲山森林公園の方に。甲山のムササビ男なのよ、きっと」と周りの窓口おばちゃんたちが興奮して説明する。
 その脇を抜けて突然瑤子も空に飛び出す。「ほかの男とやりまくったって、精子はあなたのものよー」と叫ぶ、その瑤子の両脇にもしっかり膜が張っている。
“ムササビ女”という言葉にぼくはただ妄想を浮かべるだけだ。大体ぼくは妄想と現実が入り交じって判然としなくなるタイプの男だ、特にセックスに関して。でも一体何なんだ“阪神競馬場のムササビ女”ってのは。
    *
 春三月末、ちらほら咲き出した鳴尾浜公園の桜の下で子供たち相手に「鶴の恩返し」の紙芝居をやったあと、道具を片づけていると、息子の手を引いた瑤子さんが近寄ってきた。
「“鶴の恩返し”読みながら“こんなのはほんとの恩返しじゃない”って怒る紙芝居屋さんも珍しいね」と笑う。
 今日も朗読途中、「おじいさん、どうして見たんですか」と鶴が難詰するところが許せなくて、思わず「こんなこと、ほんとは恩返しする者が言っちゃいけないんだ」と呟いてしまった。子供たちは唖然としていたけど、どうしても言わなきゃ気がすまなかった。
「あ、いや」と言葉にならない返事をしていると、「桜花賞来ない?」と瑤子さんが言う。「桜も咲いてるし、それに息子がいつも世話になってるお礼もしたいし」と言ってハニカんだ。
 武庫川土手の満開の桜の下、ぼくは自転車に乗って鳴尾浜から仁川まで北上する。いままで馬券を買ったことは何度かあったけど、競馬場に行くのは初めてだ。
 4コーナー寄りの5階スタンドに、瑤子さんはぼくのために席を取っておいてくれた。「観客誘導係」の名札をつけたシックな紺のスーツで、ぼくを案内してくれる。
「競馬場初めてでしょ?馬券はわたしが代わりに買ってあげます。あ、でも、わたしが馬券買っているところだけは決して見ないでね」
 6、7、8Rと瑤子さんの買ってくれた馬券は百発百中だった。ぼくは「瑤子さん、一体どうやって買ってるんだ」とどうしようもなく疑問が沸いてきた。そっと彼女のあとをつけて行くと、瑤子さんは4コーナー寄り5階の端の大きな柱の陰に入る。誰もいない「特殊発券機」と書かれた機械の前に来ると、スーツの下のブラウスのボタンを外し始める。発券機のモニターに自分の乳房や股ぐらを擦りつけて馬券を出しているのだ。
 ぼくは思わず「あっ」と声を出す。瑤子さんはその声に驚いてこっちを振り向いた。
「わたし、実は売り上げが落ちて苦しい時みなさんに助けてもらったJRAなんです。こんな女の姿になってオッパイや股ぐらを武器にあなたに恩返ししようと思いました。でも見られてしまったんですね」
 はだけた胸からは赤いブラジャーが見え、まくれ上がったスカートからは黒いガーターベルトが覗いている。それから瑤子さんは涙だ潤んだ目で近づいてきた。
「あわわわ・・・」
 ぼくは言葉にならないうめき声を発する。胸のはだけた瑤子さんはぼくの首に両手を回す。
「イジワル!」
「え?」
「イジワル、見ないでって言ったのに」
 そう言って赤いブラジャーの乳房を押しつけてくる。
 何だか分からん。何だか分からんけど、わあ「鶴の恩返し」だ。やっぱり「鶴の恩返し」ってあったんだ。

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