淀一等館入口

  スポニチ2006年菊花賞特集号  

             
 グリーンチャネルの「競馬本ブックレビュー」というコーナーを年一回担当していたことがあって、最初のうちはお気に入りの本を紹介していたが、三年、四年と経っていくと、なかなかこれといった競馬本を思いつかなくなる。馬券必勝本や、有力馬や有力騎手を扱う競馬ドキュメントは年々数出版されていて、ここから選ぶのは難しくないが、出来るだけ色んなジャンルから紹介本を出したいという思いもあって、競馬を扱う小説、これを探し出すのに苦労した。
 織田作之助の『競馬』という文庫本20ページほどの短編も、時間に追われる中、苦し紛れに見つけたものだが、これはよかった。これまで読んだ競馬小説の中で最高だった。「ブックレビュー」コーナーの終わった今でも、競馬にかかわらず、何か行き詰まったとき読み返している。
“オダサク”といえば法善寺の「夫婦善哉」や将棋・阪田三吉の「聴雨」などを書き、大阪人情作家などと呼ばれるが、短編「競馬」は甘くない。好いて好いて一緒になった女房“一代(かずよ)”が二十六歳の若さで乳癌から子宮癌を併発し、命脈尽きる日までその痛みに悶絶し続ける。そののたうち回る女房の、注射続きでこぶのように凝り固まった腕に、主人公“寺田”は麻薬鎮痛剤ロンパンを打ち続ける。
 寺田は三高から京大を出て旧制中学の歴史の教師になっていた真面目一方の男だが、ある晩入ったカフェで出会ったナンバー1ホステスの一代を忘れられなくなる。店の客などと数々浮き名を流してきた一代だったが、寺田の一途な申込みに結婚を受け入れる。しかしカフェのホステスと一緒になったことで寺田は実家から勘当され、勤め先の中学の父兄にカフェの常連客がいたことからあらぬ噂を立てられ、寺田は職も失う。新しい勤め先を見つけられずゴロゴロしているうち一代は病気になり、寺田は妻の看病の日々とになる。
 一代は体の痛みが増すと「肩や背中を噛んでくれ」と寺田に頼む。歯形がつくほど噛むと、一代は「ああ」と声を漏らして痛みに耐える。この性癖は誰から得たものだと寺田に悋気(りんき)が襲う。少しだけ体調がよくなると、一代は寺田の手を取って京都蹴上(けあげ)の逢い引き宿に誘う。「こんな宿、どうして知ってるんだ」とまた寺田に疑惑がわく。
 そしてその年の秋、一代が明日をもしれない重態になったとき、「明日午前十一時、淀一等館入口、去年と同じ場所で待っている、来い」という一代あての一通の葉書が舞い込む。
「来い」という高飛車な言葉から、一代を自由にしていた男からに違いないと寺田は衝撃を受ける。「去年と同じ場所」ということは少なくとも去年の秋、この男と一緒に競馬場に行っていたことではないか。去年秋といえば、オレとの結婚直前じゃないか。ひょっとしてその競馬遊びのあと、あの蹴上の逢い引き宿に二人して行ったのではないか。結婚後のいまの新住所を男が知っているということは、一代は結婚後もまだこの男と連絡を取り合っていたというじゃないのか。
 のたうち回る妻を介抱しながら、寺田の頭は嫉妬で狂いそうになる。
 真面目一方だった寺田は、妻の死後、猛烈に競馬場に通い始める。新しい勤め先で預かったカネまで使い込み“一代”の名前を慕って「1番」の馬ばかり買い続け、周りにいる競馬客にはヒステリーのように、かつて妻と関係のあった男ではないかと疑惑の目を向け続ける。
            *
 オダサクの実生活の妻は宮田一枝といい、やはり京都のカフェでホステスをしていた。実の妻・宮田一枝もまた乳癌から子宮癌になり、苦痛の上に昭和十九年、三十一歳の若さで死んでいる。オダサクもその三年後、結核による大量喀血により三十三歳で死ぬ。
「“一代”の名前を思い、寺田はとにかく1番の馬ばかり買い続けた」という小説の下りは、たぶん事実なのだろう。自分が1番の馬ばかり買い続けたということを書きたいために小説の中の妻の名にも“一”の字を付けたのだ。
 つまりと、思う。小説というのは本当のことを書かないといけない。自分や自分の家庭の秘密だけはバラしたくないとか、あの恥ずかしい話だけは書けないとか、そんなことを言っているから人に衝撃を与えられないのだ。
 わあ、もう言ってしまおう。いつだって、オダサクと同じように、人の行動原理を支えるのは愛情と嫉妬だ。これはぼくの経験からも確かだ。これまでぼくの競馬が当たらなかったのは、おのれの愛情と嫉妬を隠していたからだ。それに違いない。
 ぼくの妻は素子という(急激にリアリズムの世界に入る)。ひとには「“味の素”の素子です」と紹介するが、最近では各家庭で味の素をあまり使わないようで、ほとんど受けない。これが悔しい。(ちなみにうちの母親は「悦恵」と言い、父親は酔客を家に連れて来るたび「エ・ツ・エ、上から読んでも下から読んでもエ・ツ・エじゃけえ」と紹介し、これはこれでそこそこ笑いを取っていた、悔しい)
 でもこれでは何番を買ったらいいのか分からない。“一代”や“一枝”のように、何で番号の付いた名前で生まれて来なかったのか。「モト」の付く馬がいればすべて買うといったって「アジノモト」みたいな馬はめったにいない。
『競馬』では、小倉競馬場まで行って、寺田はついに妻のいまわの際「淀一等館入口で待つ、来い」という葉書を出してきた男に出会う。風呂で一緒になったときは「この手で死んだ妻を抱いていたのか」、男が京都の地理に詳しいのを知ったときは「妻が蹴上の連れ込み宿を知っていたのはこの男のせいか」などと激しい嫉妬に襲われる。しかし競馬場ではその男と共に1番の馬を買い続けて、最後の最後に二人で大穴を当てる。つまりこれだ。
 嫉妬こそ、競馬の深奥に行きつくための最大の道明かりだ。ご灯明だ。ランドマークだ。
 ほんとのことを言わなければいけない。ほんとのことを書いてこそ文学だ。オダサクもそう言っている。
 ぼくの嫁は乳癌でもなければ、のたうちまわってもいないが、嫉妬ならある。結婚三年目のころ(もうずいぶん古い話だ)、いつものように嫁が仕事に行き、ぼくが洗濯かご持ってベランダに出ようとしたとき、鏡台からポロリと黒色の手帳が落ちた。ポロリとだ。ここが大事なところだ。別に鏡台の中をひっくり返して嫁の過去を検索した訳ではない。向こうから、手帳の方から「ああワタシ落ちちゃった、ああページまで開いてしまった、これじゃ読まれちゃうわね、ワタシ困るぅ」と言ってきたのだ。しょうがないじゃないか。
 その古い手帳には結婚前の2、3年の出来事が記されていた。
「BY CHANCE」「DAYBREAK COFFEE」「VICE」
 うちの嫁は英文科などというものを出ていて、その手帳にも生意気にも(といっても人に読ませるために書いたんではないんだろうが)英単語がいっぱい出てくる。ぼくは自分の生涯、あのときほど気合い込めて英和辞典引いたことはない。
 BY CHANCE?「偶然」とかいう意味だ。「○○さんとBY CHANCE」とかって、こりゃどういう意味だ。そのあと「二度目のDAYBREAK COFFEE」とかって、こりゃどういうことだ。DAYBREAK COFFEEは「夜明けのコーヒー」だろうが。
VICEは「悪徳」って出てる。悪徳って何だ。「マイアミ・バイス」とかってアメリカの警察ドラマがあるけど「マイアミ悪徳」って何だ。あ、でも「副」とかという意味もある。バイス・キャプテンって言葉もある。あ!そうや、このころ嫁は副社長の秘書やっとった。え、じゃあ、この「VICE」って副社長のことか。
 わあ、嫉妬や。ジェラシーや。悋気や、悋気。
 悔しい言葉が出て来たら、その言葉を避けるんじゃない。その言葉を追い続ければ幸せが来ると、オダサクの『競馬』はそう言っている。「バイチャンス」とか「デイブレークコーヒー」とか「バイス」とか、こういう馬がいたらすぐに買う。もう二十年も前に衝撃受けた言葉だけど、この嫉妬を今まで競馬に生かしてこなかったことが、これまでの我が馬券難渋の最大の原因だったんだ。
 でも今回の菊花賞にはバイチャンスとか、デイブレークとか、バイスとか、こんな馬はいないなあ。
 でももう一つオダサクから教えられたことがある。
 文学は晒(さら)さなくてはいけない。真実でなくてはいけない。トゥルーでなければいけない。うん?マスト・ビー・トゥルー?
 ひょっとしてこの馬か、今年の菊は?でもマストビートゥルーって、菊花賞出られる?
     *
「菊花賞の日、淀一等館入口、去年と同じ場所で待っている、来い!」
 ぼくは今年もはがきを書く。
 誰?ってうしろ見るんじゃない。お前のことだ、お前の。
 もう、あの去年の、めくるめくような秋の一日を忘れたのか、この忘れんぼ!

Copyright (c) 2004年 乗峯栄一 All rights reserved.
 

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