伝導ハイエナ

  スポニチ2006年天皇賞春特集号  


 ぼくはハイエナだ。“ハイエナのような人間”じゃない。ほんとのハイエナだ。中央アフリカ・タンザニア、セレンゲティの草原に住むごく普通のブチハイエナだ。ついこの前までは。
 日本の四国ほどの大きさのセレンゲティ草原の東の端はマサイ・ステップと呼ばれるマサイ族たちの生活の場と接している。生活の場といっても、マサイ族が牛やダチョウを放牧して生活している草原地帯という意味で、セレンゲティと何も変わることはない。垣根があるわけでもない。そこにゲガして群れから離れたダチョウがいて、もちろんこういう“はぐれダチョウ”を見逃していてはハイエナの沽券にかかわるから、ぼくはそのダチョウを追ってキリマンジェロのふもとのマサイ族の村まで来た。
「バカ、バカ、バーカ」
 突然、腰布一枚だけ身にまとい、ヤリを持ってやたらジャンプするマサイ族の一団に取り囲まれた。みんなこっちを見て気持ちよさそうに笑っている。怪我のダチョウはオトリだったようだ。悔しい。
 だいたい「ハイエナ」という言葉自体があざけりなのだ。これにいつも頭に来ている。 たぶんそれはまずぼくらの体型のことだ。ケツが小さくて下に落ちていて、それに対して前脚や肩が発達、顔もやたらデカく、アゴが極端に発達している。これは獲物をくわえて安全な場所まで運ぶのにとても有利な体型だ。ライオンなんか立派な体型の割にアゴが小さいから獲物を運べない。獲った獲物はその場で食うしかない。ざまあ見ろだ。
 でもこの体型、見た目に弱点がある。顔やアゴがデカいのにケツがショボいというのは、何というか、貧相だ。ぼくらは特にブチハイエナといって、黒ずんだブチが体ぢゅうにある。あと鼻の周りも、まるで漫画に出てくる頬かむりのドロボーのように下品に黒い。不本意だ。ジクジたるものがある。
 あと、アゴが極端に発達して大きいからハイエナはヨダレを垂らす。アゴが体のバランスを無視してデカいんだからヨダレが垂れるのは仕方ない。何なんだ、こんなことぐらい。ヨダレ垂らして歩いて何が悪い。でもこれもきっと人間のあざけりの大きな原因だ。
 キリマンジェロあたりのマサイ族はザモラ教という土着宗教を信じている。マサイ族は温厚だけど、それはザモラ教に由来するところが多い。オトリのダチョウにひっかかってハイエナを生け捕ったにしても、すぐに八つ裂きにして食うようなことはしない。とりあえずカゴに入れてザモラ教の村の預言者の所へ連れて行く。
「ハイエナはハイエナと言われて平気なのか」
 鼻に大きな輪をはめた預言者が訳の分からないことを言う。
「は?」
「人間の世界では“ハイエナのようなやつ”というのは最も軽蔑した相手に向けて使う。ハイエナなんか生まれてから一度も見たことのない人間でも“ハイエナのようなやつ”ってバンバン使う。悔しくないのか」
「はあ・・・」
「ハイエナが集団でライオンを取り囲んで、ライオンの食べているイボイノシシを横取りすることはある。でもそれ以上に、ハイエナが捕まえているヌーをライオンが横取りすることの方が多い。わたしはそれを知っている。でも横取りするライオンを見た人間が“ハイエナのようなライオンだなあ”と言うことはあっても、横取りするハイエナを見た人間が“ライオンのようハイエナだなあ”と言うことがあるか?ないだろ?これ、どう思う?悔しくないのか?」
「すいません、言ってることがよく分かりません」
 ぼくはカゴの中からハイエナが困ったときに出す「ウギィー」という悲鳴を、歯茎を剥き出しにして発した。
「あや!こいつ怒ったのか、失敬な。ひとが親切に、お前らハイエナの汚辱をぬぐってやろうとしてんのに」
 マサイ族の預言者は、預言者の割に短気な口調で無気になる。ぼくは別に怒ったわけじゃない。ハイエナは困ってどうしようもなくなったときに歯茎を剥く。でもこれも多くの場合理解されない。預言者にだって理解されないんだから。
「そんなに訳もなく怒るような無教養なハイエナはわたしは許さん。ザモラ神の名においてお前を世界漂流に出す。いいか、お前は今日から世界中のどこででも“ハイエナのようなヤツ”と誰かが言ったら、即座にそこに行って“旦那、そのハイエナの使い方ちがいまっせ”と説明しなければならない。“ちがいまっせ”と言ったって、ほとんどの人間はそんなこと理解できない。辛い辛い、いつ果てるともない煉獄めぐりのような役回りだ。でもお前は全世界の人間が“ハイエナ”を正しく使えるまでセレンゲティに戻ることはできない、どうだ、辛いだろう」
 ぼくはまた「ウギィー」と歯茎剥くしかなかった。
            *
 4月30日の日曜はいい天気だった。緑の芝生が目に染みて、白鳥のいる池を春風が渡って思わず伸びをしたくなる。その向こうには10万人の人間が自分の紙切れめぐって血走った目をしていて、へへへ、こういうところは「ハイエナのような」のルツボだ。今日はまとめて訂正作業できる気がする。
「ワシはリンカーンからディープをというようなそういう流れを買ったんやない。二頭一緒の大団円、あえて言えば“ディープリンカクト”というような、まああえて言えばそういうことかな、つまりそういう馬を買いたかった訳や」
 一人のオジサンが窓口に詰め寄っている。
「お客さん、二頭一緒とか言うんなら馬連買わなきゃ。これほら、リンカーンからディープインパクトの方に矢印してあるでしょ、逆はダメなの、馬単だから」
「何言うとるんや、リンカーンからディープに矢印って言うけど、ディープからさらにぐるっと回ってリンカーンの方に矢印続いてるやないか、因果は巡る糸車や、知らんのか、オィディプス王の悲劇を」
「あのね、このディープからのぐるっと回した矢印はお客さんが自分で引いたんでしょ、馬単の因果は巡らないの、オィディプス王は馬単買わないの」
 払戻し相談所の窓口の扉がビシャッと閉じられる。
「お前らJRAはハイエナのようなやつらじゃ、こんな善良な市民からカネ巻き上げて。こうやって因果はぐるぐる巡ってんのに」
 オジサンは酔っ払っているんだろう、自分の馬券の、自分がエンピツで描いた矢印をぐるぐるなぞりながらまだ窓口前でうなだれている。
「ウギィー」
 異常に顔がデカく、汚いブチと墨を塗ったような口周りを持つハイエナが歯茎を見せてオジサンにうなる。
「はあ?」とオジサンが目を擦る。
「その“ハイエナ”の使い方は間違ってる、ウギィー」
「はあ?」
「もしどうしても“ハイエナ”を使いたいなら、JRAはライオンのようなハイエナかもしれないし、ハイエナのようなライオンとも言えるかもしれないとか、そういうふうに、そこに“食われるイボイノシシの身にもなってみろ”とか、そういうフレーズ入れるともっと説得力出ると思うけど、とにかく、そんなこと言って欲しい、ウギィー」
「分からん」とオジサンは首を振る。顔を台の上に置いた自分の馬券に擦りつけてまたイヤイヤをする。伏せったまま、シッシとぼくの方を手で払った。
 ライオンほどじゃないにしろ、セレンゲティじゃ、ヌーやシマウマみたいな大きな動物でもぼくらハイエナ見たら恐れるのに、何だ、この慣れ親しんだような態度は。鼻の黒い雑種犬とか、そういうのと間違ってんじゃないのか、オレは味噌汁メシの残りが欲しくて寄ってきてんじゃねえぞ、正しいハイエナの使い方を伝導しにきたんだ、伝道ハイエナだ、ウギィー!
 この日、オジサンは5Rから参戦して天皇賞まで連続不適中だった。軽く8万ほどの負けてた。
「自慢じゃねえけどよ、こんなことには慣れてんだ、“へ”でもねえよ」
 どうしたことか、オジサン急に江戸っ子みたいな言葉を使い、ハナ水が出ている鼻をジャンパーの袖で擦り上げる。ともすればガックリ落ちそうな首を30年の競馬場通いで鍛えた背筋で支えて、ポケットの残りガネ2万円を全額つかみ出す。最終「桃山特別」で一気挽回策だ。
 自動馬券発売機にカネと購入シートを入れると、「投入金額が不足しています」と機械が生意気な声を出す。
「何を偉そうに」とオジサンはムカッとしたが、見ると確かにシートに記入した総計金額が2万1千円になっていた。普段ならオジサンは「カネで済むことやないか、ガタガタ言うな」と鷹揚な態度で追加金を入れるのだが、このときポケットにはもう数百円のジャリ銭しか残っていない。空しく「シート返却」ボタンを押す。
 天皇賞日の大変な混雑の中、周りの客に隠れるように後ろの柱の陰まで戻って自分の購入シートを減額修正する。いざ再出陣と気合いを入れ、柱の陰から身を出したとき、オジサンは「アッ」と声を出す。「オレ、カネ取ったか?」
 オジサンは慌ててさっきの機械に戻るが、もう2万円の陰も見えない。
 そのとき数メートル向こうを若者三人組が歩いていた。「アホが二万円忘れてやんの。超ラッキー」という声も聞こえたような気がした。でも気のせいかもしれない。証拠がない。
「お前ら、ハイエナかあ」
 発券機にバタッと両手を突き、それでも目はチラチラと若者の方に向けながら、オジサンは力なく呟く。
「その“ハイエナ”の使い方は・・・」とぼくはまたオジサンの横に姿を現わす。現さざるを得ない。それをしないとセレンゲティに帰れないんだから。
「お、またお前か」
 オジサンがこっちを見る。今度はこころなしか微笑んでいる。
「その“ハイエナ”の使い方は・・・、えっと、正しいかもしれません」
 あ、間違えた。正しいなんてどうして言ったんだろ。
「だろ、オレこう見えても言葉使いには自信がある、ああ、でも帰りの電車賃が・・・」
 オジサンはポケットまさぐって慌てる。
「調達してきましょうか、ハイエナが」
 思わず言ってしまった。「自虐じゃないか、これ」と思った。そういう世間のハイエナに対する蔑みを拭うためにはるばるセレンゲティから来たんじゃないのか。
 オジサンは嬉しそうに「うん」と頷く。
 でも「まあいいか」という呟きも心の中にあった。不覚にも少し達成感まで感じて、ぼくは「ウギィー」と一声高く叫んでしまった。

Copyright (c) 2004年 乗峯栄一 All rights reserved.
 

-Powered by HTML DWARF-

inserted by FC2 system