タカマガハラの電波塔

  スポニチ2006年有馬記念特集号  


 四年前に死んだ父親は「知らない」という言葉の言えない人間だった。
 はるか昔、岡山の田舎で姉と二人ボクシング中継を見ていると「カウンター」という言葉がよく出てくる。「何じゃろうか、カウンターいうて?」と小三のぼくと中二の姉が首をひねっていると、「カウンターいうたら、カウントできるパンチいう意味じゃ」と後ろにいた父親が言う。
「カウント出来るいうて・・・」
「数えられるいう意味じゃがな」
「数えられるいうて・・・、そんなん、どんなパンチでも数えれるじゃろ?」
「どんなパンチでも数えれる?そんなら数えてみぃ」と父親は急激に怒り出す。
「プロのボクサーのパンチいうのは、そりゃ、どえれえスピードじゃけえ、数えれるパンチいうのはめったにあるもんじゃねえ、それでカウンターいう言葉が出て来たんじゃ」
 よく意味の分からない話だったが、とにかく納得するしかなかった。
 野球中継見ていると「スライダー」という言葉が出て来るので「お父ちゃん、スライダーって何でえ?」と聞くと、爪を切っていた父親は「スライダーいうたら、あれじゃがな、ボールがトタン板のように波打って来るやつじゃ」と言う。
「波打って来る?」「波打って来るって、こんな・・・」と姉と二人、手の平をユラユラさせてみる。
「そうじゃ、ほれ、いま投げた金田のタマがスライダーじゃ、波打っとったろうが。まあテレビでははっきり見えんけえ、そんな凄いタマとは分からんけどな」
 父親はテレビ画面を指差して言い、また爪切りに向かう。
「でも、そんなトタン板のようなボール、打てるん?」とぼくは父親に聞く。
「日本のプロ野球でスライダー打った者はまだおらん」
 下向いて爪を触りながら、父親は自信に満ちた断言をする。
「ときどき“シュート”いうのも出てくるけど、お父ちゃん、シュートって何でえ?」と姉が次の質問をする。
「シュート?シュートいうたら、ボールがこう、シュッと来るやつじゃ」
 父親は爪切り器をボールに見立てて顔の前を猛スピードで横切らせる。
「うーん?」とぼくと姉は思わず顔を見合わせるが、そんな姉弟のかすかな疑問などには何の頓着も示さず、父親は爪の入った新聞紙を片づける。「どがいしても、こがいしても、シュートいうのはものすげえタマなんじゃけえ」と父親は意味不明の捨てゼリフを吐いて風呂に向かった。
         *
 父親は水力発電所に勤めていたが、酒好きで、夜勤明けなどにはよく会社の同僚や近所のおじさんたちを引き連れてきて家で飲んだ。ぼくら姉弟の部屋の隅の大きな甕(かめ)で作っていたドブロク(もちろん違法醸造)を客にふるまいながら延々与太話をする。父親の世代の特徴だろう、与太話の中心はいつも戦争中のことだ。
「わしは北支に三年行っとってな、旅順の第二十四特科連隊の宣撫班じゃ。引き上げるときには兵長じゃったけどな」てなことを客が言う。ドブロク片手に客たちの笑顔は変わらないが、こういう軍隊位階の話が出ると人知れず父親の闘志はむらむら燃え上がる。
「わしは予科練から海軍通信隊に入って千葉の行田の通信基地におった。真珠湾攻撃のニイタカヤマノボレはわしが行田基地から打ったんじゃ。トン・ツー、トン・ツー、トントンツーツーツーいうてな。作戦の成功のおかげでわしは二階級特進、軍曹になったんじゃけえ、はっはっはっは」
 父親は盃をちゃぶ台で打ってモールス信号の真似をして大声で笑う。ほかの客も「へえ」などと驚嘆の声を上げる。
 不思議な会だった。生年月日から言うと父親は終戦の年に二十二だ。予科練からといったって、真珠湾攻撃の年はまだ十八歳だ。そんな、十八の人間が開戦無線なんか打てるはずがない。それぐらいの小学生でも分かることが、軍隊経験者の客たちに分からないわけがないだろうという気がする。父親にしたって軍隊経験者の客に向かって「ワシがニイタカヤマノボレの開戦無線を打った」などと、そんなことをよく言えるなあという気がする。しかし言う方も平気で言うし、聞く方も「ほう」などと驚き、あとはドブロク片手にみんなで「お互い苦労しましたなあ、カンパーイ」である。訳が分からん。
「お父ちゃんて軍曹じゃったん?」と翌日母親に聞いてみた。
「いいや、お父ちゃんは終戦直前の招集で半年ほど入隊しただけじゃいうて聞いとるで。いいやあ、半年の入隊で軍曹なんかなれるもんか。二等兵のままに決まっとるが」とにべもなかった。
 父親は酔うと一つ覚えのように山本五十六の浪花節をやった。
「番号! 1、2、3、4、6、7、8! 番号もとい! 1、2、3、4、6、7、8! 5番はどうしました! 先生、5番は泣いているんです」
 いま覚えているのはこの部分だけだ。この“泣いていて声を出せない5番”の子が少年時代の山本五十六で、友達のことを思って心配している心根の優しい少年というような話だったと思う。しかし全体は覚えていない。後年、気になって山本五十六の浪花節や講談、逸話など色々調べたことがあるが「泣いている5番」の話はついに見つからなかった。
 しかしとにかくこの浪花節はうちの家では定番中の定番、「5番はどうしました!」と父親が言えば、間髪を入れず家族全員で「先生、5番は泣いているんです」と唱和するのがならわしになっていた。
         *
 最近、行田の海軍無線基地はいまも痕跡が残っているのを知った。有馬記念を見に中山競馬場に行くたび、武蔵野線を挟んで向こう側に大きな円形の道路があり、何だろうと思っていたが、あれが通信基地跡で、確かに太平洋戦争開戦打電はここから送信されたものらしい。
 中央に高さ200メートルの巨大な主塔があり、それを支えるため周囲に16基の副塔を設置し、そこに鋼鉄線を延ばして安定を保つ。力の均衡のため副塔は主塔から等距離でなくてはならず、そのため巨大円形状の鉄塔群になったということだ。
 大正4年に建設され、戦後は進駐軍に接収されて通信は行われなくなったが、昭和46年までは主塔が存続していたらしい。敷地は中山競馬場より広く、200メートルの主塔は現在の中山競馬場スタンドより遙かに高い。中山競馬場が現在の地に設立されたのは昭和2年ということだから、四十年余りに渡って三コーナーの向こうに巨大な鉄塔が対峙していたことになる。
「わしは軍隊で関東におったけえ」というのは父親の口癖だった。東映フライヤーズから日本ハムファイターズへと続く連綿としたファンだったが(今年44年ぶりの日本一は見ることはできなかったが)、これも「戦争中関東におったけえ(東京本拠地の東映が好きになった)」というのが本人言うところの理由だ(ただ東映フライヤーズが出来たのは戦後らしく、戦後ということは父親はすでに岡山に帰っていたし、この理由もほんと言うと怪しい)。
 田舎暮らしなので馬券売り場もなく“競馬をやる”というほどでもなかったが、それでも年末の有馬記念はときどき誰かに頼んで馬券を買っていた(あるいはノミ屋だったろうか)。「中山競馬場はよう見た。戦争中関東におったけえ」というのがテレビで有馬記念見るときの父親の口癖だ。「タカマガハラ」とかいう神様のような名前を言っていたのはおぼろげに記憶がある。昭和37年、ちょうど東映フライヤーズが水原茂監督のもと日本一になった年、有馬記念で活躍した馬だ。
 晩年の父親はぼくによく馬券を頼んでくるようになったが、決まって5番の馬を絡ませていた。あれは山本五十六の影響だったろうか。
「中山競馬場の筋向かい、行田の海軍通信基地にいた」という、これだけはひょっとしたら嘘じゃなかったかもしれないという気もしている。ハッタリで固めたような父親だったが、少なくとも海軍や山本五十六に憧れていたことだけは確かだった。いまはもう墓の下で真実は聞きようがない。でももし生きていたとしても、たぶん何が本当か分からないまま、あることないことごちゃ混ぜでまくし立てられていただけだろうが。
 最近、この昭和37年有馬記念のレースビデオを見る機会があった。勝ったオンスロートと好敵手5番タカマガハラがマッチレースのように抜きつ抜かれつして、大変なデッドヒートだ。この2頭を追うカメラが2周目3コーナーで一瞬引きになった。松林の向こう、白黒画面の遠景に巨大な鉄塔のようなものが・・・。画面をストップさせてみると間違いない、電波塔だ。北太平洋機動艦隊に「ニイタカヤマノボレ」を打電したバカでかい電波塔が44年前には確かにあった。

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