パパーンの桜

  スポニチ2005年桜花賞特集号  


 通天閣の下、霞町は朝から灰色だ。新今宮から天王寺に向かう環状線ガード下をくぐると点在する立ち飲み屋には崩れた作業着を着たおっちゃんたちが、コップ酒をあおっている。その居並ぶ背中も灰色、空も鉛色の雲が広がっている。
 通天閣帝劇には「自転車泥棒」という映画がかかっていた。大衆演劇小屋やスマートボール屋の間の小さな映画館である。こんな高尚そうな映画をやって、この街で誰が見に来るのかと心配になるほど、いつも古色蒼然とした名作をかけている。
 五歳になる息子の手を引いて中に入ると、客の頭は三つほどしか見えなかった。
 雨の降る白黒フィルム映画である。終戦直後のイタリアが舞台だ。廃墟の街に失業者があふれている。職業紹介所の長い列に並ぶアントニオは「自転車持っているか」と聞かれる。「もちろん」と答えてアントニオはやっとポスター貼りの仕事を手にするが、彼の自転車は質屋に入ったままだ。
 妻と二人で家中のベッドカバーを剥ぎ取って持っていき、自転車を受け出し、ようやくポスター貼りの仕事に出かける。しかしその仕事一日目に自転車を盗まれる。自転車がないとポスター貼りの仕事はクビになる。アントニオは子供の手を引きながら犯人を捜し、ローマ中を歩き回る。でも盗まれた自転車は見つからない。途方に暮れた夕方、ふと見ると目の前に放置自転車がある。アントニオは思わずそれに飛び乗るが、途端に見つかって近所の人間総出で取り押さえられる。トッチャン坊やのような子供が警察の護送車に乗せられる父の姿を見て「パパーン」と叫んで映画は終わる。
 拍子抜けした。「何やこの映画、これが名作か。一つも救われるとこがないやないか」と苦笑する。何が「パパーン」や。
 子供が「串カツ食べたーい」と手を引く。映画館ではポテトチップス食ってジュース飲んだら座席三つ分取ってすぐに横になって寝ていたくせに、外に出るとがぜん元気になる。新世界には何度か連れてきていて、子供は串カツが大のお気に入りだ。
 朝の配達を終えて店に帰ると保育所から電話が入った。「健太くん(息子の名前だ)、おなかが痛いって言ってるんです」
 公立保育所という所は、何かあるとすぐに子供を引き取りに行かないといけない。忙しいときには「大丈夫です、うちの子はクソすりゃ直ります」と言うのだが、このところ家業の氷屋はほとんど仕事がないと言ってもいい。まったく住之江製氷業界のアントニオだ。不本意にも今日は子守りの一日になる。
 保育所から出ると子供の様子が一変する。「腹イタは?」と聞くと、一応おなかを押さえてみて「うーん、なおった、かな?」と首をひねる。案の定だ。
 ジャンジャン横町に近づくと、また健太が「お父ちゃん、串カツ食べたーい」とつないだオレの手を引く。
「お父ちゃんと呼ぶな、パパーンと呼べ」
          *
 何度か来た「大盛屋」という串カツ屋に入る。ジャンパーの前をはだけたオッサンや、歯の抜けたじいさんがコップ酒をなめながらこっちを見る。けっこう混んでいる。でも健太は平気で、小さい丸椅子から伸び上がるようにしてカウンターの中のネタを見る。
 おっさんたちの皿の上には串カツが一本乗り、その手前に百円玉が何枚か置かれている。たぶん串カツ一本でコップ酒三杯ほど飲むに違いない。
 お前らな、平日の昼間っから酒飲んで、仕事してんのか。そういう言葉を投げつけながら睨み返すつもりだったが、黙ってメニュー表見上げる。正直言うと、どうも怖い。
「ビールください。あと串カツ二本とシシトウとイカください」
 こういうところに来ても、オレはちゃんと丁寧語を使う。それが生来の育ちのよさというものだ。いや、でもほんとはそうじゃない。どうも横柄な口をきくと、厄災がかかるかもしれないと思うからだ。
「それとタマゴ」と子供が、オレの微妙な神経戦などお構いなく注文する。
 新世界はよく来るが、いまだに馴れない。緊張する。緊張するために来ているようなものだ。そんなんだったら来なきゃいいとも思うが、ついつい足が向いてしまう。修行好きの雲水みたいなものか。わたしに一層の苦難をお与えください、か。何だか分からん。
 とにかくこういうときはガバガバと飲んで度胸をつけるに限る。そのあまりのピッチの早さにL字カウンターの向こうの何人かのおっさんがこっちを見ている。「働き盛りの者が昼間っから酒飲んで、お前、ちゃんと仕事してんのか」という目だ。
 おう、お前ら(少し酔いが回ってきた)、誰に言われてもええけどな、お前らだけには言われたくないんじゃ。少し強気になり、そういうことを言う気分もする。自分で言うのも変だが、オレは酒飲むと人が変わる。
「通天閣はエッフェル塔よりトレビアーンよ」
 一番隅っこの席から女の声が聞こえた。
 グレーのジャンパーに黒いズボンを履き、頭はショートカットで野球帽をかぶっている。声を聞くまでは、そこに女がいて酒飲んでいるとは全然気づかなかった。歳は三十代後半だろうか、焼酎のロックを、ほとんどつまみなしで飲んでいる。その姿は近くのオッサンたちを完全に圧倒している。
「ぼく、串カツ好きか?」
 トイレの帰りに、うちの子供に話しかける。
「そうか、好きか、モナムール・串カツか」と両手を広げて西洋人のようにおどけてみせる。訳が分からない。
「ああ思わずフランス語が出てしまうわ、ああジャンジャン横町サンジェルマン・デュ・プレよ、モンパルナスを離れて一緒に暮らそう、いとしい人よ、過去の苦しみの償いは得られよう、あなたは私のため息と光になる、・・・何言うてんねん、わたしは、クゥー」
 女はそう言うと、オレの隣りでカウンターに突っ伏してイヤイヤをする。店主も「この女にはかかわらん方がええで」という雰囲気で小さく首を振ってみせる。
「ぼく、お母さんは?」
 女は不意に顔を上げると、子供に聞く。聞いてはいけないことを聞く。
「男の人と手つないでどっか行った」
 タマゴの揚げ物を頬張り、そのへんにボロボロ黄身をこぼしながら、健太は素早く答える。
 女はそれまでの饒舌が嘘のように瞬間言葉をなくし、店主に向かって「焼酎ロック、きっついやつね」と注文する。
「わたしも男が出て行った」
 女は焼酎ロックをグイッと飲んだあとそう言って、正面向いたまましばらく黙る。
「彫刻家になるとかって、わたしがパリに行くって聞いたら“オレも行く”って付いてきて、向こうでちょっと有名になったら、画商の娘か何かと一緒になって、それこそ手つないで出て行った、ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ、われらの恋が流れるって、うるさいんじゃ、アポリネール、そんなこと言われんでも分かっとるっちゅうねん」
 女はそこまで正面向いて言って、また突っ伏してイヤイヤをする。
「パパーン、このおばちゃん、誰?」
 女の背中越しに健太が小声で聞く。
「黙れ、クソがき、今おばちゃんと言ったな」とおばちゃんが顔を上げる。
「パパーン、おばちゃんが怒鳴ったぁ」
 息子がタマゴの黄身を口からこぼしながら、泣きそうな顔をしてこっちに寄ってくる。
「ああ、わたしも来年は、わあ四十よ。わたし植栽の研究してて、ジョルダン・デュ・プランテってパリ植物園付属研究所に行っていて、一緒に暮らしてた男が出て行って、わぁ、気がついたら四十や、わぁ。でもね、わたし、JRAのパリ支局からスカウトされたの、日本に帰国して競馬場の植栽責任者になってくれないか、きみのその専門研究を競馬場の動植一体環境整備に活用させてくれないかって誘われたの、もう五年前になるけど、特にいま阪神競馬場の桜で困っている、桜花賞はクラシック開幕を彩るJRA看板レースだが、桜花賞開催地なのに桜が一斉に咲かない。桜花賞当日まで桜が保たない、温暖化やヒートアイランド現象なんだろうけど、これをきみの力で何とかしてくれないかって、そう言ってスカウトされたの、・・・店長、このロックの氷、本格的やね、断面がないし、なかなか溶けないもの」
「オレ、あんたに一度会ってる」
 グラスを掲げて透かし見ている女の横で、オレがボソッと言う。
「え?」
「オレ、一度阪神競馬場に売り込みに行ったことがある、オレの氷を。桜の開花を遅らせるのに阪神競馬場が困ってる、氷冷却もやってみたけど根腐れが起きてかえってマイナスだったって噂を聞いたからな。もう五年ぐらい前の話や。たぶんあんたが帰国してすぐじゃなかったかな。総務カウンターの後ろに、そんな風に髪ひっくくって野球帽かぶった女を見たような気がする」
「氷屋さん・・・」
「あんた、いまそのグラスの中のロックの氷がいいって言ったよな、日本の製氷業っていうのは大正時代に製氷技法を獲得してから、ずっとそれに苦労してきたんや。堅くて溶けにくい氷を作るために、どうやって水の中の不純物と空気を抜くかってことにな。でも日本のほんとの氷はそうじゃなかった、氷室っていって山間部の土中に穴を掘り、ワラを束ねて屋根を作り、その中で真冬に取り出した氷を約半年保存して夏に使っていた。半年の間には土の中の微生物が侵入するし、ワラは発酵して氷に有機物を付着させる。それをかえって有益なものとして利用していたんや、日本人は」
 一気に話す。女は呆れたようにこっちを見る。
「あんた、流氷って知ってるよな」
「流氷って、あの網走の?」
「あの流氷もいい例だ。シベリア黒竜江は膨大な量の真水をオホーツク海に注ぐ。オホーツク海は大陸と多くの島に囲まれているから、その水が外洋に逃げにくく、海水の表面にとどまって凍っていく。この氷の大群がシベリア北西季節風によって南下してきたのが流氷や。この流氷は塩分や不純物を含んでいるから食用には使えない。凝結は緩いから冷却用にも使えない。でも流氷にはケイソウなんかの植物性プランクトン、ミジンコ、オキアミ、クリオネなんかの動物性プランクトンが多く含まれていて、それを食べる魚や甲殻類、さらにそれを食べるアザラシやオオワシなんかも出てきて、とても豊かな食性を作っている。・・・うちはオヤジの代からの氷屋やけど、オレはこの“食性の氷”を作りたかった。“発酵する氷”を作りたかった。オヤジが死んでから、住之江の倉庫でひっそり作ってきて、屋号も『黒竜アイス』に変えた。でもダメやった。スナックや飲み屋じゃ売れないし、カキ氷や甲子園のカチ割り氷にもならない、凝結も緩いから市場の冷却用としても使えない。呆れた嫁はこの健太が生まれたあと、出入りのトラック運転手と出来て帰って来ない。もうそろそろ店じまいしかないと思ってる」
 オレはグラスに残ったビールを飲み干して、ふーっと溜息をつく。
「わたしね、ここにサクラ痣(あざ)があるでしょ」
 女は襟を下げて首の痣を見せる。
「前の彫刻家志望の男は暴力癖があってね、パリのアパートで熱いティーポットぶつけらたの。でもこれ使ったの、JRAパリ支局で。スカウトされたなんて嘘、わたしの方から売り込んだのよ、わたしは桜に詳しい、首にもサクラ痣を付けるくらいだから、ハハハってね、必死よ。何とか仕事見つけて日本に帰りたいっていう気持ちで必死だったの。五年契約なの。今年桜花賞の日に仁川の桜が一斉に咲いていなかったら、また根無し草になる。パリの安アパートでウォッカ漬けの日々になるような気がする。ほんとにこの酒好きはどこ行っても治らない」
 女はそう言って、焼酎グラス持ったまま苦笑いする。
「やってみるわ、その黒竜アイス。三日以内に仁川まで大量配達して。出来る?三日以内よ。発酵する氷で向正面三千本のソメイヨシノの根をくるんでみる。満開の桜の下には屍体が埋まってるって梶井基次郎ていう作家が言ったらしいけど、仁川の満開の桜の下には黒竜アイスが埋まってるってね、ちょっといいかも」
        *
 串カツ屋を出ると、外はすっかり暗くなり、雨もポツポツ落ちてきていた。店の隅で寝込んでいた息子も目をこすりながら出てきた。
「新今宮の駅まで送ってやるよ」と、オレはそのへんに放り投げてある自転車を拾い上げる。
「大丈夫?三人乗りよ」
「オレは自転車で50キロの氷柱運んでた男やで」と言いながら、子供を背負い、桜の女を荷台に乗せて漕ぎ始める。
 天王寺公園の桜がちらほら咲き出していて、雨に煙る中、通天閣のイルミネーションに照らされて浮かび上がっている。オレの中にも、桜の女にも、三千本の満開の花の中をフルゲートの馬たちが走る姿がよぎる。
「自転車泥棒と違うの」と息子が背中で小さい声を出す。
「お前、映画観てたんか。駅まで借りていくだけや、どうっちゅうことない」
 フラフラしながら酔った足でペダルを踏み込んだとき「パパーン、パパーン、パパーン」と息子が取り憑かれたように背中で騒いでいた。


       (了)
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