ダービー新宿南口

  スポニチ2005年ダービー特集号  


 動き出したばかりの山手線に乗り、新宿で乗り換えて四谷まで行く。改札を出ると早朝の寒気が顔を差す。霜ですべりそうな石段を踏んで外堀沿いの土手に上がる。
 左手に上智大学の教会、右手にはずっと低くなった外堀跡にラグビーグラウンドがあり、その向こうには立体交差している地下鉄とJRの線路が見える。土手の向こうには迎賓館の壁が朝もやの中に白く浮き上がっている。寝不足の目が痛い。霜の降りた木のベンチをジャンパーの袖で拭いて二人で腰掛ける。
「わたし、卒業したらやっぱり田舎に帰らなきゃいけないみたい」
 グラウンドの方を向いて話す恭子の息が白い。
「父は地元の電気メーカーの組合委員長やってて、それから県会議員になって、おととし参議院初当選して、そのときは張り切ってたんだけど、でも体調がよくならなくてね、引退決めたみたいなの」
 恭子は両手をコートの袖の中に入れて膝の上に置き、前屈みになってラクビーゴールのあたりを見ている。あと三ヶ月もすれば彼女は卒業する。

 恭子とは一年半前、芝浦の荷受け倉庫のバイトで知り合った。初給料の日、田町の駅前の食堂で初めて一緒に晩飯を食べた。
「父親が東京で働くことになってから父親と二人で暮らしてるの。父はあんまり体が丈夫じゃないから看護婦代わりみたいなところもあって」と言う。
「田舎どこ?」と聞くと「東北の山の中、十和田湖の近く・・・、田舎者って分かるでしょ?」と笑う。
 これはきっと出稼ぎだ。東北寒村の悲劇だ。なけなしの田んぼが青枯れにやられ、病身の父親は「東京さ行ってカネ稼いでくる、心配すんでねえ、ゴホゴホ」と咳き込みながら決意する。地下鉄工事の仕事は辛い。現場監督に怒鳴られながら、地下水の噴き出す壁にドリルを突き刺し、父親は汗みどろになって働く。
 それでも恭子は案外屈託なくビールを飲み、モツ煮込みを食っていた。
「それ何?」とぼくの脇の赤線の入ったスポーツ紙を指差す。
「スポーツ新聞、ダービーだから」
「ダービーって何?」
「ダービーってのは馬が走るんだ。ダービー買うのは国民の三大義務の一つだ。憲法二十五条で決まっとる。十和田じゃまだ新憲法は普及してないかもしれないけどな」と何だか分からないが怒った口調で言った。
 ぼくにもほとんど競馬の経験はなかった。前年のダービーで友達が買ってきてくれるというので、ビンゴガルーという馬の馬券を頼んだが、でもカツラノハイセイコという真っ黒い馬が勝って、それ以来競馬なんてもういいと思っていた。でも「ダービー」の文字が踊り出すと何となくワクワクして、今年もスポーツ新聞を買った。
 ぼくらは翌々日、新宿で映画を観ることにした。紀伊国屋で落ち合うと「少しだけ馬券買いたい」と言って彼女の手を引っ張った。「地図見たらこの辺のはずなんだけど」と新宿南口のあたりをウロウロしていると、おじさんたちが集まっている一角があって「ああこれが馬券売り場なんだ」と一気に緊張した。
 すごい人混みだった。それでもここまで来て馬券買わずに帰る訳にはいかない。意地になってぐいぐい前に進み、彼女と二人、オペックホースという馬の単勝を千円ずつ買った。モンテプリンスという馬が人気だったが、画面に映るオペックの真っ赤な騎手服と真っ赤な手綱は群を抜いてかっこよかった。
 オペックホースはゴール寸前でモンテプリンスを首差交わして勝った。オジサンたちの溜息の中で彼女と握手して喜ぶ。
 新宿地球座で映画を見たあと、嬉々としてアドホックビルの最上階に上る。二人で一万三千円ほどの儲けだ。三日分のバイト代だ。黒服のウエイターに「カネあるぞ」と胸の中で呟いて、高そうなイタリアレストランの一番奥の席に座る。
 そのあと彼女を家まで送って行った。恭子は地下鉄永田町の駅で降り、高層ホテルと高速道路と鬱蒼とした堀の茂みの間を「こっち」と案内する。見上げると建物の上の方に「赤坂プリンスホテル」とか「ホテルニューオータニ」とか書いてある。こんな所に寒村の出稼ぎ親子が住んでるのか?首を傾げながらついていくと「ここなの、ありがとう」と言って手を振って建物の中に入って行った。門扉に「参議院議員宿舎」と書いてあり、呆然と立っていると、すぐまた彼女が出てきて「これ田舎から送ってきたの」と言ってリンゴの包みを渡してくれた。

 あれから一年、この宿舎まで送ってきたことは何度かあったが、こんな早朝に来るのは初めてだ。
「去年のあのオペックホースっていう馬、どう?」
「ダービーのあと全然勝てない。もう十数回走ってるのに全然勝てない。恩ある馬だだから時々馬券買ってるけど全然勝てない」
「ふーん」
「モンテプリンスっていう馬は大きいレース勝ち始めたけど、オペックはどうしたんだろ、何かショック受けたのかもしれない、とにかく全然勝てない」
 ぼくは俯いて首を振りながら力を入れて話す。
「卒業したらどうするの?」と恭子が急に話題を変えて聞く。
「え?」と顔を上げる。
「東京で就職するの?」
「卒業できるかどうかも分からんし・・・」
 一緒に入学した同級生たちがどんどん卒業していくのに、ぼくの未収得単位はまだ山のように残っている。多分一年留年したって卒業は無理だろう。他に何があるという積極的留年ではない。振り返ってみると、ただ怠惰なだけの大学生活だったような気がして、それが少し悔しい。
「ウチ、来る?」
「え?」と恭子を見る。
「今日は父もいないし、よかったら・・・」
「行く」
「来る?」
「行く」
 恭子の方に顔を近づけて男らしく返事する。こういうときぼくは普段からは考えられないほど積極的になる。
 紀尾井坂を下り、いつもとは反対の方向からホテルニューオータニの脇を抜ける。宿舎の中に入るのはもちろん初めてだ。警備員の目を避けるようにこそこそと入り口に向かう。
 議員宿舎とは言っても、想像していたよりずっと質素だった。どこにでもある3DKマンションだ。
 ぼくは鼻息を荒げ、朝日のあたる畳の部屋で膝を赤くしてセックスした。途中で恭子は急に「出しちゃダメ」などと叫び、どこからかコンドームを出してきた。どうしてそんなものが家の中にあるのかという疑念も浮かんだが、じっくり考える余裕はなかった。
 彼女から離れて濡れたコンドームを外す。それをゴミ箱に捨てて戻ってくると、恭子は上体を起こし、膝を抱えて座っていた。
「もう、終わったの?って言うのかなあ・・・」
「なに?」
「よく娼婦の人がこうタバコ吸いながら言うみたいな、あんな感じがね、ある」
 恭子はタバコをくわえる真似をして苦笑する。
「あ、それはしょうがない、女はしょうがないんだ、そのうちだんだんよくなる、大丈夫」と何が大丈夫なのか意味不明の太鼓判を押す。トイレに行くと、台所に田舎から送られてきたらしい段ボール箱があって、ジャガイモや玉ねぎやキュウリが見えた。
 パンツ履いただけの恭子の横に座り「キュウリ、入れてみようか」と言う。
「え?」
「キュウリ入れてみよう、思い切って、な、ちょっとだけ我慢して、ハハハ、ほら、軽い気持ちで、ね、軽い気持ちで」
 ぼくは台所から持って来て後ろ手に隠していたキュウリを見せる。恭子はぼくの持つキュウリを取り、自分の顔の前でポッキリ折って、それからフーッと溜息をついた。

 恭子は十二月になると田舎に帰ったが、すぐに一通の速達が届いた。

 何て書いたらいいか分かりません。でも急を要するので思い切って書きます。今日こちらの婦人科病院へ行きました。トリコモナスという病気だそうです。セックスによってうつるそうです。ごめんなさい、別の人と一度だけセックスしました。それから少し変だったのですが、病院へ行く勇気のないままあなたとセックスしました。あなたにうつしているかもしれません。お願いです、できるだけ早く病院へ行って下さい。
 許されないことだと思います。もしかしたら一番大切な人に病気をうつしているかもしれません。もう逢えないのだと思っています。そう思うと寂しいです。ごめんなさい。とにかく早く病院へ行ってください。

 読み終えた手紙を持ったまま、窓の一番上から隣のアパートとの隙間を眺めていた。
 卑怯じゃないか。さっぱり分からんじゃないか。こんな手紙一本で何かが終わったり始まったり、そんなことがあっていいのか。
 夜になって十和田に電話した。
「手紙貰った」
「はい」
「どういうこと?」
「・・・はい」
「どういうことだ?」と言いながら少し興奮する。
「・・・はい」
「はいじゃ分からん。はっきり説明しろ」
「・・・ごめんなさい、病院行って」
「病院行けってどういうことだ」一気に堰を切って言葉が出てきた。「病院行けってどういうことだ、よその男とセックスして、病気うつしてごめんなさい、はいさようならって、そんなこと許されるのか?性病なんかうつしやがって」
「ごめんなさい、・・・でも性病じゃないの」
「何?」
「性病じゃないの、トリコモナスといって原生虫の一種らしいの、性病じゃないの、ちっちゃな虫なの」
「虫、虫って、偉そうに、お前は虫博士か、虫だったら威張れるんか、虫なら上品か、昆虫採集できるんか、誰なんだ虫男は、芝浦倉庫のあの主任か?あいつか、虫男は」
「・・・ごめんなさい」
「あいつか、やっぱりそうか、前から虫くさいと思ってたんだ、あいつ」
「・・・やめて」
「うん?弁護するのか、虫男を弁護するのか?セックスうまかったか?ビンビン感じさせて貰ったか?虫の匂いでむせかえるように感じてしまったか?虫にこんなに快感があるとは思いもよりませんでした、か」
 恭子の答えが聞こえない。意味不明のことを喚いている間、ぼくは十和田の雪の音だけを聞いていた。
 次の日、風の強い朝、高田馬場まで電車で出る。大学の近くに「秘尿器科・休日診療」の看板があったのを思い出しやってきた。
 待合室で数人の男と一緒になる。ぼくは前屈みになり「お前ら性病じゃないのか」と様子を伺う。
「言っとくけどオレは違うからな、オレのはただの虫だ、それもまだうつってるかどうか分からない、いや、多分うつってない、シッコのときに痛いような気がするのは多分気のせいだ」
「検査結果は三日後」と言われて病院を出て、コスモ会館でパチンコをし、駅前のビルの電器量販店に入って有馬記念を見た。
 オペックホースは人気を背負いながらまた惨敗し、ぼくは前日買っていた馬券をポケットの中で握りつぶす。それからふらふらと歩きながら就職のことや恭子のことを考えた。
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