奈良林さんのアドバイス

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  終章 お願い、ノーリィボーイ  


 年が明け、後期試験も終わり、ぼくは一年遅れながら、専攻過程に進めることになりそうだ。芝浦のバイトは年末でやめた。規子が父親の病気のことで先にやめていたので、未練はなかったが、山口だけは驚いていた。規子のことを話したら、本気で首を絞めてきた。「清純な付き合いなんだな?」とぐっと顔を寄せて念を押してきて、「ウウ」と呻いていると、もう一度、「清純な付き合いなんだな?」と言って来た。「清純な付き合いだ。・・・清純な大人の付き合いだ」と答えると急に手を離して、俯き、「・・・大人の付き合い」と繰り返した。そのあと「・・・でも」と気を取り直して、顔を上げ、「お前、あれだから・・・」と言った。顔がにわかに輝きだした。カメレオンのようにコロコロ態度の変わる奴だ。「ハハハ。セックス嫌いだから・・・。形而上的に生きることをモットーにしてる男だから・・・。ハハハ」ぼくは襟元を直し、肩のあたりのゴミをゆっくり払う。「セックス嫌いな奴はいないんじゃないのか・・・」「・・・?」「これからは歩く男根と呼んでくれていい。シェラネバダのコヨーテと呼んでくれてもいい」山口はキツネにつままれたような顔をしていた。

 このところ暇だ。規子は正月に帰省したまま帰ってこない。手紙も一通来ただけだ。父親の入院で大変なのは分かるけど、でも、もう少し何か言ってきてもいいんじゃないのか。・・・ひょっとして、と最近妄想が浮かんでくる。問題は父親の第一秘書だ。これがなかなか凛々しかったりする。
 ─────お嬢さん。先生のことは御心配要りません。わたくしが付いていますから。どうぞ、学校へ戻って下さい。
 ─────山田さん(という名前かどうかは知らない)こそ。このところ、寝てないんじゃないですか。この上、山田さんに倒れられたら、わたし一体どうしたらいいか・・・ ──────お嬢さん。泣かないで下さい。
 ここで第一秘書山田は感極まって、ひしと手を握る。ピピピピー。離れろ。そこの二人、四の五の言わずに離れろ。この警笛が聞こえないのか。

 山の手線の始発が部屋の蛍光灯を揺らして通り過ぎて行く。夜中の貨物列車とは振動が違う。ああ、きょうもまた朝まで起きていた。朝刊を読みながらビールを飲む。新しいバイトのために求人欄にも目を通す。テレビをつける。テストパターンのあと、いつものように“早見優のアメリカンキッズ”。早見優が出てきて、これは当たり前だ。でも、いつも思うんだけど、これがなかなかいい。学者スタイルの黒のローブを着て、単語の発音を教えるんだけど、“ピー・エー・アール・ティー・ワイ、パーリィ、パーティじゃありませんよ、・・・パーリィ”と言ってるときに、画面の右上に早見優の口が大映しになって、薄い唇の下に小さいホクロがあって、白いきれいな歯の間から舌が見え隠れする。発音の練習してるんだから、当然だ。別に、この口に何か舐めさせて下さいとか、そんなことは言ってない。何か差し込んで下さいとか、そんなことも言ってない。そんなこと言ってるわけじゃないんだけど、でも、この舌がほんとにペロペロよく動く。発音に必要だとしても、でも、ちょっと動き過ぎじゃないのか。・・・うーん、そこまで挑発するのか。どうしても・・・、そこまで挑発するんだな。・・・PTAは早見優のこの口をどうして取り締まらないんだ。青少年に悪影響及ぼしてるぞ。勉学に打ち込もうとしている学生に邪悪な心を呼び起こさせかねないぞ。ほんとに起こさせかねないぞ。ほら、起こさせた。勉学一途に打ち込もうとしている若者が、両親はもちろん、小学校時代は神童とまで呼ばれ、将来を担う男として、故郷の町を上げてまで囑望されている若者が、何を考えたのか、ジャージーとパンツを下ろし始めているではないか。この責任はどう取るんだ。
 “いたずらはノーリィ。ノーティではありません。いたずら坊主はノーリィ・ボーイ。では、みんなも一緒に。・・・ノーリィ・ボーイ。・・・はい。ノーリィ・ボーイ”
 「・・・これでもくらえ」
 俗悪番組のために個性まで崩壊させられた被害者の若者が、ついに、低い呻きを漏らしながら剥き出しの下半身をテレビの画面に押し付けるという暴挙に出た。
 “ノーリィ・ボーイ”
 台の上に置いてあるテレビの画面は位置が少し高かったので、若者は急いで本棚から広辞苑とイミダスを引っ張り出して、その上に乗る。このあたりの機敏な振る舞いは、神童の面影をしっかりと残している。
 “くつ下はストァッキングス。真ん中のトァを強調しましょう。・・・ストァッキングス。・・・OK?”
 「何がOKじゃ・・・」テレビの画面を上から見下ろす。「オラ、参ったか、こら、この唇の下のホクロ、このホクロが卑猥なんじゃ」
 若者は大胆にもテレビを両手で抱え込み、力を入れて、ぐいぐい押し付ける。そのとき、場面が変わってしまった。
「クソー」テレビを離し、フーッと息を吐く。あまり短時間にエネルギーを集中したため、若者は息が切れる。「・・・あしたの朝は逃げ延びられると思うな」若者は憤怒の呟きを漏らす。
 そのとき、ドアをノックする音がした。あわてて、テレビを切り、ジャージーを引っ張りあげて、フトンに潜り込む。まだハーハー息が切れる。
 「ゴメン。・・・寝てる?」ドアの隙間から小さい声がする。規子の声だ。
 「あっ、ちょっと待って」息を整えてドアを開ける。規子は紺のダッフルコートに首をすくめて、「・・・寝てた?」とこちらを覗き見る。
 「いや」顔が紅潮してないか心配だ。
 「ゴメンね。こんな時間に」
 「いや、いいよ」ジャージーの股のあたりにさりげなく手をやり、念のため点検する。「・・・いつ? こっちへは」
 「いま、さっき。夜行で帰ってきて・・・」
 「へえー」フトンを片付ける。敷きブトンを引っ張りあげようとして、不自然に置かれた広辞苑とイミダスに蹴つまずく。
 「ちょっと、ちょっと」コートに半分隠れた手で呼ぶ。
 「うん?」
 「富士山が見えるの」
 「うん?」
 「そこの陸橋から・・・。遠くに見えるの。富士山」規子は訳の分からないぼくの手を引っ張って、アパートの外へ連れ出す。夜が明けたばかりのアスファルトの坂道を牛乳配達とすれ違いながら上る。陸橋の上に立つと、頬が凍りつくように冷たい風が吹きつけて来る。
 「さみぃー」ぼくは素足にサンダルのかかとをバタバタさせ、二の腕を擦る。
 「ほら、あそこ」規子が腕を伸ばして指さす。
 「・・・どこ?」唇が震える。
 「ほら。見えるじゃない。あの“なんとかキカイ”って書いてあるビルとずっと向こうの風呂屋の煙突みたいのとの間・・・。ほら、あそこ」規子は陸橋の手擦りから落ちそうなほど身を乗り出す。
 「危ないよ」規子のコートを押える。
 「・・・うん、もう」と口をとんがらせて、「あ、そ、こ」と拍子を取って、差した指先を振る。
 「ああ・・・」
 「ね。・・・あるでしょ」こっちを見て、ニッコリする。
 驚いた。ビルとビルの間に富士山の白い頭が見える。下の方は手前の山の青い色に隠れているが、上部だけ朝日に輝いて、ぽっかり空中に浮かんでいるように見える。その位置の高さからだけでも雄大さが分かる。東京に住んで三年。富士山が見える、それもこんな下宿の近くで見れるなんて初めて知った。
 規子は手擦りに両肘を置き、頬杖をついて眺めている。ぼくはそれを背中越しに見る。紺色のダッフルコートの上に、やわらかい髪があって、下を電車が通るたび、寒風にその髪が舞い上がり、遠くビルの向こうにはキラキラ輝く富士山の頂。あっ、これ、太宰治の『東京八景』。夕焼けの新橋駅前に立つS先輩とそれを見る太宰治。“フフン”・・・うれしくなって頬が緩む。・・・この情景は忘れない。もし、この先東京を離れることになっても。もし、規子と別れることがあったとしても。
 規子は父親の用事があるから、部屋に寄らずに帰るという。ガックリ。・・・しかし、火急のときだ。ここは男の度量を見せねばならない。
 駅前の立ち食いソバ屋で天麩羅ソバを食べる。「わたしね、休学することになると思うの・・・。家に寝たきりのおじいちゃんがいて、それで、母親が辛そうで・・・」規子は淡々と話す。安っぽいかき揚げの天ぷらを、うまそうに食べている。「妹に父の世話まかすわけにもいかないしね・・・」汁を飲み干したあと、元気が出たという感じで、両肘を曲げて胸を張る。  
 「休学かあ・・・」ぼくはそばを持ったまま考え込む。
 「あっ、でも、多分半年で済むと思うし、それにときどきは東京出てくるからね」ぼくの顔を覗き込んでいる。「浮気したらだめよ」
 駅前のキャバレーやパチンコ屋も全部シャッターを下ろしていて、昼間見る街の様子とは全然違う。ゴミぶくろだけが目立っている。
 規子が切符を買ったあと、近寄って来て、「今晩来てくれる?」と小さい声で言う。
 「え?」
 「夕方には用事終わってると思うから・・・」
 「ああ・・・」
 山の手線のガード下を都電が抜けて行く。ぼくはポケットからタバコを取り出して、火を点ける。
 「・・・今の、もう一回、言ってくれる?」
 「何?」
 「今の言葉、もう一回聞きたい。・・・ああ、それで、悪いけど、最後にノーリィ・ボーイって付けてくれるか? ノーティ・ボーイじゃなくて、ノーリィ・ボーイね」
 規子はこちらを見て首をひねる。ウォホンと小さく咳ばらいをしたあと、「今晩来てくれる? ・・・ノーリィ・ボーイ」とぎこちなく繰り返す。
 ぼくは遠くを見て煙を吐く。それから首を斜めにして、はすに規子を見る。
 「泣くぜ」
 規子はそれを聞いて、ゆっくりぼくの腕に自分の両腕をからませてくる。「泣かせて。・・・ノーリィ・ボーイ」と今度はしっかり言って、それからニッコリほほ笑んだ。





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