奈良林さんのアドバイス

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  10章 雪の八幡平  

 「おととしから父親が東京で働くことになってね、わたしがちょうどこっちで浪人してた時だから、それ以来、ずっと父親と二人で暮らしてるの」規子はこちらを見て笑う。「もともと父親、あんまり丈夫な方じゃないし・・・」
 初めてのデート。秩父宮ラグビー場でラグビーを見て、駅の方へ向かう群衆に恐れをなして何となく反対方向へ歩き出す。冬枯れの銀杏並木が続く。規子はジャンパーに手を入れ、真っ赤なマフラーに顎を埋める。大きな通りとの交差点で喫茶店に入る。
 「へえー、これが青山通りなのね」窓から見える道路標識に感心している。マフラーとジャンパーを横に置く。
 「田舎、どこ?」そう言って、規子を見る。ブルーの薄手のトックリセーターに、小柄な割りには膨らんだ胸が目立っている。
 「東北の山の中。十和田湖の近くなんだけど・・・、田舎者ってわかるでしょ?」コーヒーカップを両手で抱えて、答える。
 「いやあ・・・、オレだって、田舎者だから・・・」

 ぼくの頭に、西日の当たる六畳間がくっきりと浮かぶ。
 「お父さん、帰りにスーパー寄ったら、アジのおいしそうな干物があったの、・・・アジでよかった?」ガスレンジの火をのぞきこむ娘。「お父さんは決意していた」新聞の活字に目をやったまま、父親が静かに話す。娘が怪訝な顔つきで振り向く。「規子、まだ言ってなかったが、父さんは実は決意していたんだ」「・・・」「夕飯がアジ以外だったら絶対食わない、・・・そう決意していた」
 フッと力を抜き、ニッコリする娘。夕刊を下ろす父親。笑っている。窓の外には、遠く高層ビル群。道路工事のドリルの音がようやく止まった。細かい咳を漏らす父親。
 「お父さん、運送の仕事きついんじゃない?」
「いやあ・・・」
 冬をつげる一陣の風。父の脳裏には雪をかぶった八幡平の山々が。
 ・・・減反政策。出稼ぎ。厳しい現実の中で、父と娘が都会の片隅で肩を寄せ合い、つつましく、美しく生きていく。

 ぼくはジャンパーのポケットからぺちゃんこになったタバコの箱を取り出し、一本つかんで火を点ける。窓の外の喧噪を二人でぼんやり眺める。薄暗い空からチラチラと粉雪が落ちてきて、それが灯し始めたヘッドライトに照らされる。ライトの射程の円筒形の部分だけ見ていると、まるで街灯に集まるウンカの群れのようだ。
 「雪だね・・・」規子が呟く。
 「・・・うん」
 「・・・うちなんか、冬になると人の背丈ぐらい雪降るのよ」
 「・・・へえー」
 喫茶店を出て、青山通りを赤坂見附の方へずうっと降りて行く。
 「たぶん、ここ真っすぐ行くと、ウチの方へ行くと思うんだけど・・・、でも、かなり距離あるかもしれないよ」
 「いいよ、歩こう」
 「・・・でも」ぼくの顔を覗き込む。「ほんとに遠いかもしれないよ」
 「いい。歩くの好きだから」歩くのは好きではなかった。しかし、毅然とした性格は生来のものだから、どうしようもない。
 ほんとに遠かった。行けども、行けども赤坂御所の鬱蒼とした繁みと長い塀が続いて、雪はミゾレに変わってだんだんひどくなるし、“ああ、地下鉄にすりゃ良かった”と後悔して、毅然とした性格のわりに後悔が早いな、でも後悔が早い毅然とした性格だと思えばいいかとか、訳の分からないことを考えながら、ふと横を見ると、マフラーに口を埋めた女が、手袋をはめた手で顔を拭って「チキショウ」と呟いている。
 赤坂御所の塀を抜けると、急に視界が開けて、大きな交差点に出る。明るい照明の灯ったホテルや大企業のビルが立ち、高速道路が走り、車が渋滞している。
 「この辺来ると、東京って感じするでしょ」
「うん・・・」ぼくは立ち止まって、ミゾレに煙る周りのビルを見上げる。「この近く?」規子を見る。
 「うん、もう少し」
 「へえー、・・・凄いんじゃないのか」モゴモゴと独り言のように言う。
 橋を渡り、ホテルニューオータニの向かいのマンションの前で立ち止まる。
 「ここなの」
 「へえ・・・」
 門の内側には守衛がいて、造りの割に厳重なマンションのようだ。
 「ちょっと、そこの公園で待っててくれる?」そう言って規子は中へ駆けていく。隣の公園に行く途中、マンションのプレートを見て驚く。“参議院議員宿舎”と書いてある。 少しすると、傘とタオルを持って規子が出て来た。
 「上がってもらえばいいんだけど・・・、いま父親がいるから、・・・ゴメンね」規子はタオルを差し出す。
 「いいんだけど・・・」タオルで頭を拭う。
 「あ、これ、珍しい物じゃないけど・・・」規子はスーパーの袋に入ったリンゴを差し出す。「重たいけど、・・・荷物になるかなあ」
 「いや、いいんだけど・・・、それはいいんだけど、・・・お父さんて、ひょっとして国会議員?」
 「・・・うん」
 「へえ・・・」出稼ぎじゃないのか、という言葉は呑み込む。・・・そうだよな。考えてみれば、出稼ぎの父親と女子大に行く娘が一緒に暮らすというのも、アンバランスな取り合わせだよな。
 「おととし初当選したんだけど、・・・でも、体の調子が悪くてね。来月には田舎の方で入院する予定なの」
 「ふーん・・・」
 スーパーの袋に入ったリンゴを抱え、女物の黄色い傘をさし、麹町の駅に向かう。規子が駅まで送ってくれる。今日はほんとによく歩いた。帰ったら東京区分地図で確かめてみよう。
 「あ、ここでいい。ありがとう」地下鉄の降り口の踊り場で立ち止まる。
 「これ」ぼくはおずおずとポケットから紙切れを出す。「さっき公園で書いたんだけど・・・」下宿の地図と電話番号を書き込んでいる。
 規子はそれを覗き込んだあと、顔を上げる。
 「いや、あの、もし近くに来たらでいいんだけど、軽い気持ちで寄ってくれたらと思って、軽い気持ちで・・・。あ、ついでだから、こいつも渡しとこうかな」スボンからジャラジャラとキーホルダーを取り出し、「このやろうが、ほんとにね」と訳の分からないことを言いながら合鍵を一本抜く。それを差し出そうとしたけれど、規子がじっとこちらを見ていたので、一瞬躊躇する。
 「受け取ってくれる?」
 「・・・」
 日曜日の夜。誰も通らない地下鉄のはずれの降り口にミゾレが降り込んできていて、ぼくは深呼吸し、背筋を伸ばす。
 「受け取って欲しい」鍵をもった手を突き出す。「知り合ってほんとに少ししか経っていないけど、でも、かけがえのない女になって欲しい」
 片手に開いた傘とメモ用紙を持ち、片手に鍵を握り締めた女が目の前に立っていて、ぼくはこの両手の自由の効かない女の肩を抱き寄せ、ミゾレの中でキスをする。


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