奈良林さんのアドバイス

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  9章 ロシアンルーレット  

 ぼくは失意にくれて、芝浦運河を歩く。東京湾からの吹きさらしの風が海の続きのように運河を波立たせている。小さな雨がまた落ちてきた。窓の少ない倉庫のビルはこの時間になると、巨大な黒い箱になる。その黒い箱の間を見えない駅に向かって歩く。
 今日の昼休みも食堂の入り口で会った。でも規子は避けるように擦り抜けて行った。仕方がないと思った。自業自得だと思った。でも、・・・あの給湯室から一週間。ちょっと辛いから・・・、このバイトも終わりかな、という気がしていた。三ケ月続いて、これは今までで一番長くて、このバイト、結構気に入っていたのに・・・、悔しい。

 駅前にくると、サラリーマンや港湾労働者の集まる一杯飲屋が何軒か並んでいる。一人で飲むことはめったになかったけど、一軒の店に入り、モツの煮込みとコップ酒を二杯ひっかける。今日はしらふで山の手線半周帰るのはしんどいと思った。外に出て、フッと息を吐く。紅潮した顔に小雨まじりの寒風が当たる。吸っていたタバコを柱の灰皿に押しつけ、サラリーマンの一団とともにホームに向かう長いスロープを上がる。陸橋の途中で立ち止まる。間断なく出入りする電車。流れ続ける案内アナウンスとベルの音。ビルの群れの向こうにきらめいている東京タワー。ぼくは手擦りにもたれて、涙を流す。

 自動券売機で切符を買う。大塚まで二三〇円。この区間の切符を買うのもあと何日か・・・。千円札はさっきの飲屋で使い果たしたけど、小銭はまだジャラジャラとある。それををポケットからつかみ出して、一〇〇円玉を入れる。あと一枚入れようとしたけど、手の中になかったので、もう一度ポケットを探って残りの小銭をつかみ出す。小さく「あっ」と声が出る。一〇〇円玉がない。一〇〇円玉がなくて、一〇円と五円、一円ばかりだ。不安の電流が全身に走る。全身に走ったけれど、ぼくのうしろにはすでに何人か並んでいたので、枚数をかぞえるというような、そんなミミッチイことはできない。
 天は自ら助くる者を助く。口をついて出てくる。“Heaven helps them that helps themselves.”受験勉強で培った英語力がこのピンチで見事に生きる。一一〇円。一二〇円・・・。運命のロシアンルーレットが、この何気ない駅の切符売り場で始まっているのをだれも気づかない。
 モツ煮込みを一皿にしとけばよかった。飲屋を出たあと、タバコを買ったのが悪かった。せめてハイライトにしとけばよかった。自ら助くる者がだんだん弱気になってくる。
 足りない。一五〇円あたりから背筋がゾーッとしてきた。一七〇円まできたとき、はっきり予測できた。足りない。天は自ら助くる者を見放した。Heaven didn´t help them that ・・・。いやもう、そんなつまらないこと言ってる場合じゃない。とにかく足りない。ぼくはコイン投入口に指を置いたままうなだれる。
 「足りない」吐息のような呻き声が洩れる。雨の中、上野あたりから知らない道をトボトボ歩いて帰る憔悴コウモリの姿が目に浮かぶ。
 そのときぼくの指の間からコインを入れようとする者がいた。うしろの奴だ。
 「なんだ!」こみあげてきた。順番を守れとか、人の迷惑を考えろとか、そんなチンケな、公衆道徳とかを言ってるんじゃない。わからないか? この恰好。片手はコインの投入口。片手は腰。頭は券売機に頭突きまでしてるじゃないか。わからんか? 一人の若者がこの切符一枚の購入にかけたパッションが。“ああ、この若者はいま人生の岐路に立っているんだなあ・・・。ああ、時は流れ、人は移り行くけれど、・・・確かにこの私にもあった、・・・頑張れ、いまこそ君の正念場だ”とどうして思えないんだ。どうして一分二分、他人の傷みを分かってやるデリカシーが持てないんだ。
 ぼくは感極まってきた。肘でうしろの奴の腕を押し退ける。「まだ終わってない」と怒鳴る。
 怒鳴る予定だったが、途中で言葉を呑みこむ。規子が上目使いにこちらを見て、困ったような顔をしていた。
 「もしよかったら、使って・・・」消え入りそうな声を出す。投入口に入れようとした五〇〇円玉をこちらに差し出す。
 「何だ」
 「・・・」
 「何のまねだ」
 ぼくは言い放った。
 言い放ったあと、洟みずをすすり上げるために少し口が歪む。唾が一度に喉に突き上げる。規子の顔がぼやけてくる。あふれるように涙が落ちてきた。


五〇〇円玉をこちらに差し出す。
 「何だ」
 「・・・」
 「何のまねだ」
 ぼくは言い放った。
 言い放ったあと、洟みずをすすり上げるために少し口が歪む。唾が一度に喉に突き上げる。規子の顔がぼやけてくる。あふれるように涙が落ちてきた。


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