奈良林さんのアドバイス

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  8章 急襲  

 毎日三時の休憩には、交替で四階の給湯室にお茶を貰いに行くことになっていたが、そこに宮下規子がいた。昼めしのときに三人で話しかけたことは何度かあったが、一対一になるのはこれが初めてだ。望外の幸運のようだが、そうでもない。さっき、トイレに立ったとき、ポットを持って階段を上って行く規子が見えた。それで当番の谷村を押し退けてやってきたのだ。
 うしろに立つ。
 「・・・あら」彼女が振り向く。
 「ああ・・・」“へえー、いたの”という驚きと喜びの表情は十分表れているはずだ。階段を上りながら練習してきた。
 「仕事きつい?」規子は大きなポットにお湯を入れながら振り返る。いつも下ろしている髪をアップにしている。
 「うん・・・」
 給湯機の蛇口は二つあったが、彼女のすぐそばに立つのがなんとなくためらわれる。流しの上の古くなった蛍光灯がチカチカしている。
 「いいね・・・」下を向いたまま言う。
 「・・・何?」彼女が振り向く。
 「・・・その髪」
 規子はにっこり笑う。
 ブラウスの背中の二本の皺が彼女の動きにつれて伸縮する。靴の片方のかかとが床の雑巾の端を踏んでいて、かすかに水が滲み出ている。
 「こっち・・・」規子はこちらを向いてもう一つの蛇口を指さした。
 「えっ、ああ・・・」ぼくは目を見開いた。“えっ、そっちにも蛇口あったのか”という驚いた様子を全身で表して、ポットの口を開けながら、いそいそと蛇口に近づく。
 もう一つ蛇口があることなんか初めから分かっているのに・・・。相手の思惑ばっかり考えて。「知ってる」って言やあいいじゃないか。「知ってる。はじめから知ってる。でもそっちの蛇口はいやだ」ってはっきり言やあいいじゃないか。悲しい習性だ。これは本当に悲しい習性だ。
 ここの給湯機は旧式で、二つ蛇口を使うとチョロチョロとしかお湯が出ない。作業着の男とエプロン姿の女が給湯機を間にはさみ、ポットの口を眺めて立っている。給湯機のゴーという湯を沸かす音とポットに入り込むシュルシュルという音だけが狭い部屋に響く。蛍光灯は相変わらず点滅している。
 「きのう・・・」給湯機越しに規子を見る。
 「うん?」規子がこっちを見る。その目をやめろ。その目を。その訴えるような目をやめろ。
 「きのう、御徒町のガード下から砂が噴き出した」早口に言って、またポットの口を見る。
 「・・・」規子の返事が聞こえてこない。
 「それもただ噴き出したんじゃない。噴水のように噴き出した。車までその渦のなかに巻き込まれた。世の中何が起きるかわからないということだ。道から砂が噴き出すなんて、そんなこと」ポットの口を見ながら、一気に言った。ほとんど叫んでいた。
 「・・・」
 規子がかすかに首をひねったあと、また沈黙が二人を支配した。
 規子は湯が入り終わったポットを「ウンショ」と言いながら閉め始める。髪をアップにした首筋にホクロが一つある。古くなったポットはなかなか閉まらないらしく、湯気と汗で前髪が額に纏わりつく。規子はなおも一生懸命ふたを閉める。あまり一生懸命閉めるので、周りのことに気づかない。迂闊だった。
 「悪いけど、これ閉めてもらえる?」と振り向いた女は突然二の句が継げなくなった。なぜかというと、うしろに回っていた男が急に襲いかかってきて、口を覆ったからである。 「好きだ」襲いかかった男は、襲いかかった上に愛情告白までした。
 「ウゥゥゥ・・・」それに対する女の答えは、うまく言葉にならなかった。


 毎日三時の休憩には、交替で四階の給湯室にお茶を貰いに行くことになっていたが、そこに宮下規子がいた。昼めしのときに三人で話しかけたことは何度かあったが、一対一になるのはこれが初めてだ。望外の幸運のようだが、そうでもない。さっき、トイレに立ったとき、ポットを持って階段を上って行く規子が見えた。それで当番の谷村を押し退けてやってきたのだ。
 うしろに立つ。
 「・・・あら」彼女が振り向く。
 「ああ・・・」“へえー、いたの”という驚きと喜びの表情は十分表れているはずだ。階段を上りながら練習してきた。
 「仕事きつい?」規子は大きなポットにお湯を入れながら振り返る。いつも下ろしている髪をアップにしている。
 「うん・・・」
 給湯機の蛇口は二つあったが、彼女のすぐそばに立つのがなんとなくためらわれる。流しの上の古くなった蛍光灯がチカチカしている。
 「いいね・・・」下を向いたまま言う。
 「・・・何?」彼女が振り向く。
 「・・・その髪」
 規子はにっこり笑う。
 ブラウスの背中の二本の皺が彼女の動きにつれて伸縮する。靴の片方のかかとが床の雑巾の端を踏んでいて、かすかに水が滲み出ている。
 「こっち・・・」規子はこちらを向いてもう一つの蛇口を指さした。
 「えっ、ああ・・・」ぼくは目を見開いた。“えっ、そっちにも蛇口あったのか”という驚いた様子を全身で表して、ポットの口を開けながら、いそいそと蛇口に近づく。
 もう一つ蛇口があることなんか初めから分かっているのに・・・。相手の思惑ばっかり考えて。「知ってる」って言やあいいじゃないか。「知ってる。はじめから知ってる。でもそっちの蛇口はいやだ」ってはっきり言やあいいじゃないか。悲しい習性だ。これは本当に悲しい習性だ。
 ここの給湯機は旧式で、二つ蛇口を使うとチョロチョロとしかお湯が出ない。作業着の男とエプロン姿の女が給湯機を間にはさみ、ポットの口を眺めて立っている。給湯機のゴーという湯を沸かす音とポットに入り込むシュルシュルという音だけが狭い部屋に響く。蛍光灯は相変わらず点滅している。
 「きのう・・・」給湯機越しに規子を見る。
 「うん?」規子がこっちを見る。その目をやめろ。その目を。その訴えるような目をやめろ。
 「きのう、御徒町のガード下から砂が噴き出した」早口に言って、またポットの口を見る。
 「・・・」規子の返事が聞こえてこない。
 「それもただ噴き出したんじゃない。噴水のように噴き出した。車までその渦のなかに巻き込まれた。世の中何が起きるかわからないということだ。道から砂が噴き出すなんて、そんなこと」ポットの口を見ながら、一気に言った。ほとんど叫んでいた。
 「・・・」
 規子がかすかに首をひねったあと、また沈黙が二人を支配した。
 規子は湯が入り終わったポットを「ウンショ」と言いながら閉め始める。髪をアップにした首筋にホクロが一つある。古くなったポットはなかなか閉まらないらしく、湯気と汗で前髪が額に纏わりつく。規子はなおも一生懸命ふたを閉める。あまり一生懸命閉めるので、周りのことに気づかない。迂闊だった。
 「悪いけど、これ閉めてもらえる?」と振り向いた女は突然二の句が継げなくなった。なぜかというと、うしろに回っていた男が急に襲いかかってきて、口を覆ったからである。 「好きだ」襲いかかった男は、襲いかかった上に愛情告白までした。
 「ウゥゥゥ・・・」それに対する女の答えは、うまく言葉にならなかった。


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