奈良林さんのアドバイス

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  7章 カリフォルニアのチクワ  

 山口がやってくる。ぼくはいつものように押し入れを開け、腰をかがめて将棋盤を出そうとする。
 「いや」山口が制する。「今日はいいんだ。今日は将棋はやらない。いい若い者が日曜日ごとに将棋してちゃいけない」顔の前で手を振る。
 「・・・?」
 「・・・スポーツだ。スポーツ」胸をぐっと反らす。「若者はスポーツしなきゃいけない」
 「・・・?」口を半開きにして山口を見つめる。
 「オレは目覚めた。若者がこんな暗い部屋で一日中くすぶってちゃいけない。モヤシじゃないんだ」
 「・・・でも、お前。いつも、“この部屋何となく落ち着く、このジメッとした感じが何時間かいると妙に肌に馴染む”って言ってるじゃないか」
 「・・・いや、その考えは間違ってた。カリフォルニアじゃ、その考え方は許されない。カリフォルニアじゃ、太陽のもとに出て行かないのは人生に対する怠慢とみなされる」言ったあとウンウンとうなずく。ぼくは首をひねる。・・・何だ、カリフォルニアって。
 「・・・でも、スポーツって・・・、何するんだ?」
 「スポーツっていったら、お前。・・・キャッチボールに決まってるじゃないか」
 「・・・キャッチボールか」自然に首がうなだれる。
 「あっ、馬鹿にしたな。いま、お前、キャッチボール馬鹿にしたな。“すべての基本はキャッチボールにある”見てないのか、川上監督の少年野球教室。毎年言ってるぞ。・・・オレが言うキャッチボールは普通のキャッチボールじゃない。極意だ。極意。キャッチボールの極北だ。ザ・シュープリーム・オブ・キャッチボール。・・・ついてこれるか?」 「・・・たぶん、ついていけない」小さな声を出す。
 山口は、腹とか首筋とか、脂肪の付きやすいところの脂肪はちゃんと付けるが、胸とか腕などの余分な筋肉は一切排除するという、首尾一貫したネイティブな体つきである。とてもスポーツには縁のない体型である。その山口が「ほら、隣の部屋のやつから借りて来たから・・・」手提げ袋に入ったグローブとボールをこちらに見せる。
 訳の分からないまま、二人で近くの公園目指してアパートを出る。いい天気だ。二人とも自分のグローブにボールを放り込みながら歩く。カリフォルニア目指して歩く。
 「オレ実は、夜中この坂道でピッチングやることがある」アパートを出てすぐの道で山口に話しかける。
 こちらを見て、「ほう・・・」と声を出す。“あなたもスポーツやるんですね”という口調だ。いつの間にスポーツの先輩になったんだ。
 「もちろんフォームだけだけどな。ときどき車通るから危ないんだけど。でもそのとき、“おっ、危ない。これはシャドーピッチングだ”って思うんだ。・・・ハハハ」
 「・・・」山口は少し首をひねっただけでドンドン歩いて行った。
 山口のキャッチボールは何か変だった。例えば顔の正面のボールを取るとき手の平をこちらに向けて、手首を立てて、つまり指先を上にして取る。これは普通だが、体の右側に来たボールも、膝のあたりに来た低いボールもこの同じ手首の形で、腕とグローブがちょうどワイパーのように動いて、しかも少年野球教室の影響なのかどうか、必ず右手を添えて両手取りするものだから窮屈そうで見ていられない。
 「ちょっと、山口、お前の取り方、変じゃないか? こっち側に来たボールは、こうやってグローブ横にした方が取り易いし、下のボールはこうやって下からすくい上げるほうがいいんじゃないのか」
 「・・・お? 何か言ったか」山口が近づいてくる。「何だ?」
 「いや、取り方のことなんだけど・・・」
 「・・・おお、やっぱり気が付いたか。オレも今、それ言おうかどうしようか迷ってたんだ。あんまり専門的かなと思って・・・。でも、やっぱり自分でも気が付いたか。・・・いや、悪くはない、悪くはないんだけど、この・・・、リストワークがミートのときにスウェーしてるんだな。それが原因なんだ、キャッチングが安定しないというのは。・・・うーん、分かりにくいかもしれないけど。何て言うのかなあ、このリストワークっていうのは、ただ腕のことだけじゃないんだ。専門的には“球は膝で取れ”って言われてて・・」 山口は折り曲げた膝を両手で叩きながら説明する。ぼくはそれをチラッと横目で見ながら、金網にボールをぶつける。こっちの相手の方がよっぽど練習になる。
 「・・・悪いけど、疲れてきたから、オレちょっと休憩する」ぼくはスタスタ歩いて行く。
 「そうか・・・」山口は、しばらく自分の膝のあたりを名残惜しそうに眺めていたが、渋々あとに従って来た。
 噴水の近くのベンチに座る。すぐ目の前を都電が走って行く。山口が線路の向こうに酒屋を見つけて、缶ビールとチクワを買ってくる。
 「なかなかうまいな、このチクワ」山口は竹に巻いてある大振りのチクワにむしゃぶりついている。
 「山口、お前、セックスの方はどうなんだ?」前を向いたまま、小さい声で訊く。山口には聞こえなかったらしい。チクワに食らいついたままだ。
 「山口。お前・・・」山口の方に向き直る。「お前・・・、おい、ちょっとチクワ置けよ」
 「ああ・・・、何だ? 何か話か?」
 「唐突なんだけど・・・、お前、セックス・・・。どうなんだ」
 「うん?」
 「セックスの経験。・・・どうなんだ?」
 「ああ、理論の方か? それとも実践の方か?」
 「ちょっと待て。理論て何だ。“ぼくはセックスの理論の経験が豊富だ”とか言う奴がいるのか。そんな奴がいるのか。セックスしてる最中に“そもそもセックスとは”とかペラペラ喋りまくるのか。・・・実践に決まってるだろうが。実践に」
 「ああ、実践の方か。実践の方は数は少ないが・・・、まあ、ないことはない」
 「へえ、経験あるのか。・・・童貞じゃないのか」
 「いや、それは、何て言うか、難しいところもある」
 「何だ・・・」
 「いや、入り口で終わったから・・・」
 「あは、・・・あははは、・・・あ、そうか。・・・うん、うん。わかる。・・・それ、よく分かる」
 「・・・お前、少し、共鳴が強すぎるんじゃないか」山口がこちらを睨む。
 「いや、オレも、失敗したんだ。・・・それで、ちょっと考えてたんだけど、・・・いや、オレも立たなくて、立たないけど出ちゃったんだ。・・・でも、それはよくあることなんだよな。・・・うん、よくあることなんだ」
 「立たない・・・って、お前、立たなかったのか?」
 「・・・うん」
 「いつ・・・」
 「・・・大学入ってすぐに一回と、それからすぐこの前、相手は体で返すって言ったんだけど、結局返してもらえなかった、というか、オレの方が返して要らないと言ったというか・・・、何だかよくわからない・・・」ぼくの声が小さくなる。
 「えっ、何言ってんだ。こっちの方がわからない。・・・つまり、あれか? 二回もダメだったってことか?」
 「・・・そうとも言える」
 「・・・うーん、それは、お前、おかしいぞ。よくあることじゃないぞ。・・・いや、何回も言うけど、オレは理論には卓越してる。・・・お前、それはちょっと深刻かもしれないぞ」山口は両手を膝の上に置いて、ぼくの顔を覗き込む。
 「・・・」
 「だって、オレなんか、そりゃ、入ったか、入らないうちに出ちゃったけど、でも、お前ギンギンだったぞ」
 「・・・ギンギン」
 「そう。ギンギン。・・・それが普通だぞ。早く出すとかっていう早漏はな、これはよくあることなんだ、若いうちは。エネルギーが有り余ってるからな。これは経験を積めば必ずよくなる。うん、必ずよくなる。・・・しかし、立たないっていうのは・・・、うーん、・・・インポか」
 「やめろよ。その言葉」力なく言う。
 山口は腕を組み、目をつぶって苦吟を始める。「これは奈良林さんも“いけない”って言ってたなあ・・・」空を見上げて呟く。「奈良林さんて、知ってるだろ? あの『HOW TO SEX』の」こっちを見る。「・・・え、知らない? ・・・まあ、いいや、その奈良林さんも言ってたけど、お前、・・・うーん、病気かもしれないなあ」
 「え・・・」
 「・・・そうか。インポか」深く俯いて、溜息をつく。
 「やめてくれって。その言葉」
 「本に書いてあるだけかと思ったけど、・・・いるんだなあ。そういう奴。・・・でも、まあ、(顔を上げる) 元気出せよ。・・・セックスだけが、お前、人生じゃないし、・・・学問に生きるとか、芸術に生きるとか、何か生き方あるよ。・・・セックスは不能でも、社会的に名を残した人は一杯いるじゃないか。・・・頑張れ。(ぼくの背中をドンと叩く)クヨクヨするなって。・・・あ、そうだ。高野山に籠れ。うん、あれは、もともと女人禁制なんだから、インポかどうかなんか、分かりゃしないし、むしろ、生殖能力なんかない方が修行に専心できる。(またぼくの背中を叩く)・・・そうだ、それで行け。世界一の宗教家になれ」
 「もう、いい」ぼくはガバッと立ち上がり、飲み干したビール缶を握りつぶす。「自分で解決する」ベンチの横のゴミかごに空き缶を叩き込む。
 「がっかりするな。元気出せ」背中から山口の真剣なアドバイスが届いてくる。


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