なにわ忠臣蔵伝説

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  五章  

 南海本線粉浜(こはま)駅近くのコンビニのバイトを終えて、チンチン電車に揺られて住吉のアパートまで帰ってきます。
 住吉大社の前の停留所で降りて、着物と袴の包みを抱えて大通りを歩き、南海本線のガードをくぐり、再びチンチン電車の軌道を渡ればわたしの住んでいる文化住宅です(大阪では引き戸の小さな玄関のついたアパートを文化住宅と呼びます)。
 そのチンチン電車踏み切りにじっと佇んでいる人影が見えました。暗闇にもそのズングムックリした影で誰だか分かります。叔父弟子にあたる雪蛍です。
 「あら、奇遇」
 こっちをチラッと見てオカマのようなかん高い声をだします。口元に卑屈な笑みを浮かべ、それからまた俯きます。
 奇遇でも何でもないのです。このところ三日に一度はこうやってこのチンチン電車阪堺線の踏み切りで待っています。最近ではこの細井川踏み切りの柱は雪蛍の丸っこい手で撫で回されてすっかり角が取れてしまっています。
 「月に十回も奇遇は起こらない」
 わたしの雪蛍への返答も決まっています。
 一門の中でも“雪蛍”というのは破格のロマンチックな名前です。わたしの“雪だるま”という名前などいまだに恥ずかしくて昔の友達に言えないくらいです。“雪合戦”・“雪んこ”というおとうと弟子もまあ似たようなものでしょう。しかしこのすぐ上の兄弟子だけは師匠も間でもさしたのか突出したファンタジックな命名をしました。
 でもたぶんそれがいけなかったのです。
 三十越えたばかりだというのに、デップリ太り、背は低く、度のきついメガネを掛けて、この一門の中でも傑出したぶ男に、よりによって“雪蛍”などとロマンチックな名前をつけたばっかりにこんなイビツな芸人が出来てしまったのです。
 「寒いから少し暖まっていこうかな」
 わたしが無視して歩いて行こうとすると、うしろをついてきてボソボソ呟きます。叔父弟子(と言っても歳はたった三つ違いですが)の威厳などカケラもありません。
 その昔、上方講談が盛況を誇っていた頃はきちんとした格式があったと言われます。人数では圧倒的に劣勢でも江戸講談に対峙するんだという気概があり、また落語や漫才などの大手興業主による寄席とも一線を画して、独自の序列を作っていたと聞きます。
 しかしわたくしが入門して以来、たまたま機嫌の悪いときに先輩たちに威張られることはあっても、古典芸能らしい師匠とか兄弟子というもののピリピリした畏れとか緊張感をほとんど感じたことがありません。あるのは「貸せ、返せ」のカネの話(それも千円、二千円の涙が出るほどのいじましい少額論争)と、誰かがテレビやラジオから声が掛かり、ちょこっと売れそうになったときの妬みそねみ、引きずりおろし、だめです、もうグチャグチャです。
 わたしが憧れていたような純粋話芸の世界などもうどこにもありません。
 わざと叔父弟子雪蛍を無視してわたしは早足で進みます。
 雪蛍もズングリした体で小走りについてきて「寒いから暖まって行こうかな」と小さな声で繰り返します。
 「悪いですが」
 チンチン電車の踏切を渡ったところで、わたしは思い切りました。ふいに立ち止まって振り向きます。
 「今日はダメです」
 グッと睨みつけて真顔で言いました。
 でも雪蛍はいつのまにかわたしの脇をすり抜けています。こういうときは太い体が嘘のように素軽く動きます。
 わたしは慌てて雪蛍の前に回って、また通せんぼです。
 「今日はダメです。今日だけは絶対ダメです。客がきます」
 首を振って必死に言うわたしの姿に、今度は雪蛍も立ち止まり、わたしの顔を見つめます。それから俯いて足元を掻き慣らしながらしばらく黙っています。
 「客って、ひょっとして」
 雪蛍は俯いたまま半歩、身を寄せます。
 「女か?」
 「・・・」
 雪蛍の真剣な表情にわたしは一瞬言葉をなくしました。
 「女か?」
 こちらを見上げ、雪蛍はさらに詰め寄ります。
 わたしは観念してこっくり頷きます。
 「そうか」
 雪蛍は顔を背け、しばらく沈黙していました。よく見ると微かに唇を噛んでいます。
 「やはりそうであったか」
 瞬間「あ、まずい」と思いました。侍言葉が出ています。
 人間というのは誰でも何かしらそういうところがあるのかもしれませんが、困ったとき、窮地に追い込まれたとき、わが一門は仮託するというのでしょうか、自然に感情転移が出てきます。自分の置かれた苦しい立場がいつのまにか艱難辛苦に耐えに耐えた義士たちにすりかわってしまいます。
 これは一種の逃避なのだと思います。でもわが一門ではこれを賞賛するのです。
 「思い起こせば、あれは元禄十五年師走の十三日、赤坂氷川台には夕刻より大粒の牡丹雪が降っておった」
 ふいに顔をあらぬ上方に向け、ポツポツ呟くように独り言を言い始めます。
 「おお、内蔵助か、よう来やった、よう来やった、さぞかし存念あってのことであろう、わらわも待ちかねておりましたぞ、さては故殿霊前への鉄石心の報告であろう?誓詞血判の献上であろう?」
 わたしの方を見上げて尋ねます。もちろんわたしは答えません。するとクルリと後ろ向いてチンチン電車の線路に話しかけます。
 「  この瑶泉院、過日の大変以来、この日の来るのを待望せぬ日はありませなんだ。   いえいえ、おそれながら御前さま、家中離散の三百余名、みな欲望足ってこそもののふの道でございます。みな知行を去り、家族を離散し、わたくしも伏見撞木町ではその渇きを癒しておりましたが、それもすでに半年も前、恥ずかしながら女のやわ肌恋しゅうございます。   言うに事欠いて何を申すか、内蔵助、この故殿の御霊前でその言もう一度披露してみやれ」
 住吉細井川の手すりを懐から出した拍子木で叩きます。雪蛍の独り言は瑶泉院と内蔵助を早替わりしながらみるみるうちに熱気を帯びてきます。
 「赤坂氷川台、三次浅野家の中屋敷を転げ落ちるように追い出された内蔵助、すでに麻布、白金、目黒の原、辺り一面は銀一色。そこへ泣きながら走ってくる瑶泉院の下女おうめ」
 雪蛍はチンチン電車の線路脇に残雪に片膝つき、顔を回し、拍子木を振り回してすでに幻覚状態です。
 「   内蔵助様の心も知らず、ああ申し訳ございませんと御前様はただ泣き崩れていらっしゃいました。なにとぞ、なにとぞ傘なりと・・・。南部坂はただ一面の雪、   御前さま今生の別れでございます。今生の別れでございます」
 「蛍兄さん、部屋上がりますか?」
 わたしは観念して“にわか路上講釈”を中断させます。
 「内蔵助、そちはこの瑶泉院を、まことの忠臣の操さえ疑ったこの瑶泉院を・・・」
 片膝ついたまま、“チンチン阪堺電車・雪の別れ”の演者はネタを中断して「あーん」と顔を上向けます。
 「こんなチンチン電車相手に“南部坂”やっても実入りないですから、部屋上がって下さい」
 片膝ついた“アーンおじさん”は、そのままの姿勢でニッと顔ほころばせます。
 「ありがとう」
 雪蛍は立ち上がって膝の雪を何事もなかったように払います。
 「いや、女っていってもね、彼女じゃないんです」
 部屋に入る道々、わたしはボソリ言います。
 「何?」
 「いや、彼女といえば彼女かもしれないんだけど・・・」
 歯切れのない言葉のまま部屋に雪蛍を招きました。
 一階に三軒、二階にも三軒の小さな文化住宅の外付けの鉄パイプの階段を二人で上がります。ただでさえ老朽化している建物が肥満した雪蛍の歩みに合わせてギシギシ音をたてます。
 「どうもですね、ぼく変なんです」
 建て付けの悪い玄関戸のカギを開けると、わたしの横を「寒い、寒い」などと言いながら雪蛍がすり抜けて入っていきます。雪蛍はまるで自分の部屋のように明かりを点け、コタツのスイッチを入れ、「おお寒」などといいながらその中に滑り込みます。
 「何?何か言ったか?」
 コタツふとんを掻き上げて中の明かりを確認すると、薄汚れた靴下をモゾモゾ脱ぎながら突っ立っているわたしの方を見上げます。
 「何か変なんです」
 わたしも雪蛍の反対側に入ります。座椅子を一つだけ置いて、そこはテレビにも正対できるし、手を伸ばせば本棚にもコーヒーカップにも耳掻きや爪切りにも届く特等席になっているのですが、そこは当然のごとく雪蛍が占領しています。
 雪蛍は“ああ寒かった、何であんなとこで長いこと待たせるんや”と当てつけのように両手を大仰に擦ります。
 「何や、何か変なのか?」
 わたしは溜息つきます。
 「変て、具体的に変なのか、それとも漠然と変なのか」
 脱いだ靴下をコタツの外を蹴り出しながら訊いてきます。雪蛍独特のうがった訊き方ですが、こういう訊き方をするときは彼の意識はその質問や答えから外れています。
 「具体的かどうかは分からないんですが・・・、女の人といて、その人が好きで、いいなあと思ってても、ひょっとしてこれは大望のための手段なんじやないかとか思ってしまうんです」
 「どういうことや?」
 「何なんでしょうね、ふとした時に“あとさき考えずここまで来たけれど色恋沙汰は大望あるもののふに取って禁句である”という毛利小平太の言葉がふと頭にちらつくんです。“オメエなんざ吉良邸の絵図面手に入れるための単なる方便、鏡見てテメエのつらよーく見直してみな、男に惚れられるなんて百年早え了見なんだよ”と、足蹴にし、毒づく岡野金右衛門の涙を思ってしまうんです」
 わたしが意気込んで言って雪蛍兄さんを見ると、意外にも俯いたままなのです。
 「そうか、雪だるまには彼女がいるのか・・・」
 小さな声で全然関係ないことを呟いて溜息をつきます。
 「そんな、まだ彼女とも言えないですよ。ただ毎週月曜の八時過ぎには最近寄ってくれるようになって」
 わたしは思わずデレッとはにかんでいました。
 「雪だるまは鼻毛は抜く方か?切る方か?」
 雪蛍は不意に顔を上げて訳の分からないことを聞きます。
 「は?」
 「最近分かったんやけど、人間には二種類いる。鼻毛を抜く者と、鼻毛を切る者や。・・・どっちが痛いかっていうと抜く方が痛い。よう涙浮かべて抜いてる人間がおるやろ。そんな痛いんなら止めたらええのにと思うんやけど、ほら、むきになって抜いてる人間おるやろ」
 雪蛍は急に快活になってきました。
 「でも一方、鼻毛は断固切るという人間もいる。切る方が痛くはない。しかし切るというのは根もとは残ってるということや。そうやろ、雪だるま」
 「何ですか?」
 「根もとや。・・・聞いてるんか、人の話。鼻毛の根もとや」
 雪蛍は今度は憤激します。
 「はい」
 「切ると根もとが残るやろ、鼻毛の」
 「はあ・・・」
 「その点、抜くと根もとは残らない、そやけど痛いがな、抜くと。ここが問題や。ここがハムレットやないか」
 「はあ・・・」
 「つまり痛いけど根もとの根もとまで断ちたい人間と、とりあえずこの場をしのぎたい、この場をしのいでいれば何とかなる。どうせ人生はその場、その場の連続やないかという、その両方の人間がいるということなんや」
 雪蛍はまた俯きました。カメレオンのように雰囲気が一変します。
 「はあ・・・」
 「雪だるま、お前、髪の毛と手の指はどっちが汚いと思う?」
 ふと思い直したように、また雪蛍は顔を上げて訳の分からないことを聞きます。
 「何ですか?」
 「髪の毛と手の指はどっちが汚いかって聞いてるんや」
 「え、何のことですか?」
 「さっきから何ですか、何ですかって、どういうことや。ワシの言葉が通じへんのか。ワシは言語障害か」
 今度は怒りだしました。
 「あ、はい、すいません。髪の毛と手の指って・・・、それどっちが汚いんですか」
 「こっちが聞いてるんやないか」と怒鳴ったあと、兄さんは不意に我に返ります。
 「・・・いや、ええ。益もないことでムキになってしもた。初心者には難しいかもしれん。戯れ言じゃ、許せ」
 この「戯れ言じゃ。許せ」は雪蛍の得意のセリフです。きっと世の中を斜めに見て、何かあれば引こうという消極的世渡り精神が作り出した得意セリフなのです。
 「兄さん、でもそれ何ですか?髪の毛と手の指って」
 「聞きたい?」
 「は?」
 「聞きたい?“汚いもの選手権”」
 「・・・」
 「例えば、こう、手の指で髪の毛、触るやろ。これ、よくやるよな。別に“キタナーイ”とか言わないな。だからこの場合の“汚い試合”は引き分け。しかし、もし指を口の中に入れてグチュグチュしたらどうや。これは汚い。この場合、被害者はどっちだって考える。指のバイキンを口の中に入れられて口が困っているのか、口のバイキンを指に付けられて指が困っているのかを考える。するとこの場合被害者は口だと分かる。だから手指と口の“汚いものレース”では手指の勝ち。足の指で髪の毛触ると、これは汚い。どっちが被害者かというと足指のバイキンが髪の毛に付いて汚いのであって、髪の毛のバイキンが足指について汚いのではない。だから被害者は髪の毛。だから足指と髪の毛の“汚い試合”は足指の勝ち。つまりこの段階での“汚い”ランキングは1位足指、2位同着で髪の毛と手指、最下位が口となる」
 兄さんは折り込み広告の裏に取り組みと、勝敗と、ランキングを凄い勢いで書いていきます。
 「しかしな」と顔を上げてわたしの方にグッと近づけます。
 「しかし、確かに足指は強力や。でも体というのを舐めたらあかん。“体、オレの体やろ、そんなの全部知ってるわ”と、ついつい高をくくってしまう。人間の傲慢や。謙虚になって、初心に帰って、体というものを丹念に試合に出していってみることが肝心や。そうすると意外な実力者がいることが分かる。中国なんて探せば探すほどとんでもない選手、2メートル50ぐらいあるバスケット選手や300キロぐらいある柔道選手とかが出てくるやないか。つまりそういうことや。ああいうことがあるんや、体にも。いや神秘やな、これは。これこそ体の神秘や。肛門や。肛門は凄い。足指で肛門触ってみ、これ汚い。何が汚いかというと、肛門のバイキンが足指に付いて汚いのであって、足指のバイキンが肛門に付いて汚いのではない。あれほど、髪の毛でも口でも手指でも足指がきたら太刀打ちできなかった“強力汚い”の足指も肛門の前では被害者になる。つまり、いやまだ全部調べたんかと言われると恥ずかしい限りで、あえて現段階の調査状況ではという但し書きをつけよう。現段階での調査では“汚い”ランキングは1位・肛門、2位・足指、3位同着・髪の毛と手指、最下位・口となる。どうや、ワシの考えた“体部分対抗・汚いもの選手権”」
 「はあ・・・」
 「はあって、どうや」
 「でも、その“汚いもの選手権”って何なんですか、どういう意味があるというか、何かあるんですか」
 「何かあるんですかって、体の汚いところはどこかっていうことが分かるやないか」
 「それ、分かって何かいいことあるんですか」
 「じゃあ分からんでいいのか、体のどこがどこより汚いかということが分からんまま、そういうことで死んでいっていいのか」
 「はあ・・・、でも何だか、ただ汚いだけのような気もするけど・・・」
 その言葉に不意に雪蛍は黙りました。俯いて置いてある新聞の上で拳を握ります。その拳に力が入って、ジリジリ新聞が破れる音がします。
 参りました。また何か起こるのでしょうか。
 「そうや、わしはどうせ汚い人間や。下ネタでしか受けへん人間や」
 雪蛍はその言葉だけ顔を俯けたまま呟きました。腹の底から絞り出すような声です。
 それからグッと立ち上がります。ポロシャツが縁日の風船ヨーヨーのようにプワーッと張った丸くずんぐりした体を折り曲げて脱兎のごとく外へ飛び出していきました。
 ドタドタドタという鉄はしごの震動と共に「女なんかに気を許しやがって」という捨てゼリフが聞こえてきました。
 「ワシなんか、どうせ汚いブタ芸人や。下ネタ芸人や」
 階段の途中に止まって、うちの窓に向かって怒鳴っているのです。
 一体何なんでしょうか。

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