なにわ忠臣蔵伝説
四章
わたしはスーパーマーケットが好きです。
住吉大社の駅の周りにもいくつかスーパーがあって、わたしは昼間そこをウロつきます。カネはありませんが、暇はあります。何を買うという訳ではありません。ジャージの上下を着て、ただカートを押して回ります。これが結構楽しいです。新聞のスーパーチラシなど隅から隅までチェックしています。
「関西スーパー」や「近商ストアー」や「ジャスコ」など、隣りの粉浜(こはま)や住之江公園まで足を伸ばして、あちこち見て回りました。近辺のスーパーは大概制覇しました。でもたまにバイトのカネが入ったりしたら、帝塚山の「イカリヤ」に行きます。これが目下のところ最大の楽しみです。
帝塚山は大阪では高級住宅地として知られていて、そこにあるスーパー「イカリヤ」もブランドになっています。わたしは並の主婦では太刀打ちできないほどスーパーには詳しいですが、確かにここの品揃えは一種独特で、よく言えば高級品志向、悪く言えば高慢ちきなハナもちならない雰囲気があります。この気取った雰囲気がいいです。「イカリヤ」と書かれた袋持って帰るときはウキウキして、人に見せびらかしたくなったりします。悲しいサガです。
少し春らしくなった三月のある日、わたしは珍しくバイト料の千円札何枚かポケットに押し込んで帝塚山の「イカリヤ」に出掛けていきました。
南海本線・住吉大社駅まで歩いていくと、駅前に二つのチンチン電車の線が交差しています。
一つは通天閣の下の恵比須町に向かう阪堺(はんかい)線、もう一つは天王寺に向かう上町(うえまち)線です。バイト先に行くときや恵比寿町で余興をやるときは南海本線と平行に北に上がる阪堺線を使うのですが、「イカリヤ」に行くときだけは上町線に乗ります。住吉大社を出るとぐっと右に曲がり、少しずつ坂をのぼって帝塚山(てづかやま)四丁目で降ります。ブラブラ万代池のあたりを歩くと、お嬢さん学校として有名な帝塚山学院の女子高生たちのテニスコートにぶつかります。
ジャージー着て、ときどきニッと笑いながらその女子校のテニスの練習を見ていると、何人かが気づいて気味悪そうにこっちを見ます。これ、結構快感があります。わたし、自分でも変態の素質があると思います。
万代池を十分ほどかけてグルッと回ると「イカリヤ」に着きます。
平日の昼間は主婦が多く、ジャージー姿の男は目立ちます。さりげなくブランド品を着こなしたような主婦が、わたしを見てそっと子供を背後にやったりします。
まず野菜のコーナーをワゴンを押しながら歩きます。ポケットの中にはわずか2千円ほどしかないのですから、こんな大きなワゴン持っていったって意味はありません。でも、この人、格好も見た目も貧乏そうだけど、平日の昼間、「イカリヤ」を堂々とワゴン押しながら歩いている。ひょっとしてひとかどの人物かもしれない、あるいは若くして無類の才能を発揮するような侮れない人なのかもしれない、軽々に判断するのはやめようと高慢奥様族に警戒心を与えることが「イカリヤ」では主眼になる。ワゴンは必需品だ。
ズラリと見たこともない野菜が並んでいます。
[エシャロット]
ニンニクのびろーんと伸びたようなやつです。気取ってます。「何がエシヤロットじゃ。ただのニンニクとたまねぎの混ぜ合わせやないか」などと呟きながら手にとってあれやこれや覗きます。それだけです。もちろん買いません。
「帰せばエシャロット」などと言いながら元に戻します。つまりそういうことです。そういう種類の言葉を言うことが、わたしがこの気取り野菜売場を巡ることの最大の目標です。もちろん芸のためです。講釈に膨らみをもたせることの稽古、もう日々いついかなるときも稽古、稽古です。
[ゾッキーニ]
何のことはない、キュウリです。あえて言えば西洋のキュウリでしょうか。人をなめてます。
「胸がゾッキーニ」などと言いながら戻します。自分でも何のことか分かりません。
[サラダ菜]
これは見たことがあります。「下はサラだな」などと軽く言って戻します。
そういうことを繰り返していると、こっちをチラッと見る主婦がいます。きっと場違いなジャージ男を訝しく思っているのでしょう。ジッと見るならまだしも、チラッとしたこういう視線には腹が立ちます。
何だ、こういうスーパーにそぐわしいヤツは偉いのか、「奥様、今日は天気がおよろしくてねえ」とか、そういうやつは偉いのか。ジャージー男は追い払うべきだとでも言うのか。逆らうやつには戦車でひき殺すのが改革解放政策なのか。ドン=コサックの農民は放射能食えっていうのか。
訳は分からないがムカッときて、その主婦にグッと近寄ります。
近寄ってウッと息を飲みました。その解放改革主婦は先日のあの“奥様の部屋”のキョウコとかいうSM人妻ではありませんか。間違いありません。驚きました。
向こうは気づいていません。
ワゴンを引っ張るその横につっと寄っていき、わたしはパシッと膝を打ちます。
「後先考えずここまできたけれど、よくよく思えば色恋ざたは大望あるもののふに取って禁句である」
野菜陳列ケースを見ながら、一気に言います。
二度目の邂逅、それも一度目はゆえある客と接待係という出会いでしかなかった人間にこの言葉はあるいは奇異かもしれません。しかしこの言葉には深い含みがあります。
これは討ち入り当夜になって、縁ある商家の娘と心中し、赤穂浪士最後の脱盟者となった毛利小平太が恋人まゆに向かって吐いた言葉です。
わが一門では好きな女が出来て、何か窮地に立つと呪文のようにこのセリフを口にします。
別に女が「捨てないで」と追いすがるという小平太のような状況でなくても(そんなケースはわが一門では聞いたことがありません)、例えば初対面のようなときでも、やけに緊張したり、言葉に困ったりしたらこのセリフを口にします。大抵の女は「何、この人」と体を遠ざけてジロジロ見たりします。でもそういう行動をとるというのは単にその女に深慮というものが足りないからだと兄弟子たちから教えられました。男の内奥に広がる深い志というものを知らないからだと、事あるごとに諭されてきました。
「確かに辛い試練や。・・・しかし雪だるま、“何、この人”という顔をされたとき、そのときの気持ちこそが実はもののふの心だとわたしは思っている」
以前、余興の帰りに列車で師匠と同席したとき、珍しく恋愛論の話になって師匠がこんこんと語りました。
ことによると、師匠も昔、女で痛い目に会っているのかもしれません。
「スーッと心の空洞に風が吹く。“何、この人”という寂寞の風。ついに世界はおれの志を了解しなかったという隔絶の風。しかし雪だるま、孤高というのは気持ちいいもんなんや。・・・でもええんや、ここはしなやかな微笑みを送ろう、従容として大事に向かおうと、そういう気になる。甘美な感覚が心一杯に広がってくる。これや。これこそ、実は恋愛の極致、人を愛するということはな、雪だるま、愛されないことを了解する気持ちや」
何だか分かりませんが、珍しく師匠の話が心に染みてきました。
わが一門の恋愛呪文はこうしていまも受け継がれています。
“キョウコ”は「ヘ?」と意表をつかれ、それから見覚えあるわたしの顔を見て驚きました。
不思議な再会でした。キョウコは4歳ぐらいの女の子を連れていました。
SMクラブの客とこうやって外で会うことは歓迎しないことだろうと思い、わたしはそのまま立ち去ろうとしましたが、キョウコはこっち見て「アラ」と微笑み、「この辺なの?ウチ」と向こうから訊いてきました。
「はあ・・・、住吉大社の方なんだけど・・・」
「あ、そう」とキョウコは驚いて「へえ、じゃあ近くね、わたし、沢の町に住んでるの」
沢の町というのは住吉大社から歩いて十五分ほどの隣町です。
でも人妻の秘密アルバイトなのに、そんなにおおっぴらに色々喋っていいのでしょうか。こっちの方が心配になってきます。
「今日は店、休み?」
わたしが訊きます。
「今日はね、この子の保育園の父兄会でね・・・」
「でも、帝塚山のイカリヤで買い物なんて、凄いじゃないですか」
スーパーの一郭の喫茶コーナーでアイスコーヒー飲みながら訊きます。キョウコの連れている幼稚園の娘も大人しくフルーツパフェを食べています。何となく変な再会で、娘の顔を見るのが気が引けます。でもキョウコの方はまったく平然、ただの近所の人と出会ったという雰囲気、大したものです。
「あなたの方こそ凄いじゃない。貧乏な芸人ですとか言いながら、こんなとこで買い物するし、うちのようなとこにも来られるし・・・」
「はあ・・・、ここのスーパーは買い物じゃないんです。ただ見慣れない野菜とかコショウとかワインとかを見に来るだけ。・・・買わないんです」
さすがにSMクラブへは一門の賛助金をチョロマカして行ったということは言えません。
「やっぱり本当に人妻なんやね」
キョウコは白いブラウスにブルーのセーターを着ていました。眉を描き、真っ赤な口紅を塗って化粧はやはり派手目ですが、それでも人妻という感じでした。
「わたしね、実は三年前離婚してるの」
「え」
「ほんとはね、人妻じゃないの」
「はあ・・・」
キョウコはそれから時々わたしの文化住宅を訪ねてくるようになりました。
昼間(キョウコは昼間だけの勤めでした)店に出た帰りなど、子供を保育園に迎えに行く前にケーキなどを買って持ってきたりするようになりました。
「ちよっと寄っただけなの」と玄関で躊躇しているキョウコを中に通します。
玄関先にフッといい香りが残ります。
化粧は店を出るとき直しているのでしようが、鼻の頭や額に水分が浮いていて、それがわたしには店での客との想像を絶する格闘のあとを物語っているような気がして、何だか顔をまともに見られません。
「ケーキ食べる?わたしがお茶入れて上げるよ」
視線を落としているわたしの横を抜けようとするとき、ガバッと抱きしめます。
ブルーのウールのコートの下から香水の甘い香りがします。でも、その下には男の精液の匂いやキョウコの愛液や脱糞の匂いも混ざっている気がします。
「あっ」とキョウコは声を上げ、しばらく困ったようにジッとしています。
筋張った首筋が脈動しているのが見えます。髪に顔を押しつけると、汗の匂いがしてきました。
「浣腸したか?」
わたしが耳元で訊きます。
「・・・」
キョウコは黙っています。
「浣腸したんかって訊いてんねん」
キョウコはわたしを突き飛ばしました。
「帰る」
わたしはそのまま抱きしめてキョウコを押さえつけます。コートを剥ぎ、スカートをまくり上げてパンティーをあらわにします。
「今日は黒パンティーか、これ、客の好みか、ここ、舐められたか、ぶっといバイブ突っ込まれたんか」
キョウコはジッとしていました。
「そう、今日のお客さん、凄かったの」
まくりあげられたスカートの下で大きな声で言い始めます。
その声にビックリして手を止めると、キョウコはガバッと立ち上がります。
「ドア開けたらいきなり仁王立ちで、ズボンもパンツも下ろしてて、こうやってシャツたくし上げて腰に手を当ててチンポしゃぶれーとかって怒鳴って、・・・もうビックリして、お客さん、まずシャワーを浴びてからというシステムになってますからって言っても、システムは破られるためにあること知らんのかって言って、もう無理矢理・・・、それがこんなに凄く大きいの・・・、こうやっても口に入らへんの。一回口で出してもまたすぐ青筋立てて、こんなにカチンカチンになるの・・・」
キョウコはポーズを取りながら順々に堂々とセーターからスカートを脱いでいきます。
わたしはキョウコにむしゃぶりついていきます。
でもアッと言う間に終わります。悲しいです。
壮大なプロローグに零細なクライマックス。いつもこうです。
残念です。悔しいです。
「今日の客はもっと上手やったんやろな」
はだかのキョウコの横に寝っころがって訊きます。
キョウコは体をこっちを向けたまま黙っています。でもキョウコが答えるまで訊きます。
「そう、今日の客は凄かった。ずっと立ちっぱなしで全然出さないの。わたしの体のあっちこっちに押しつけてくるし、わたし仕事なのに何度もイカされちゃって・・・」
憤然わたしはまたむしゃぶりつきます。
「なんでそんなこと言うんや」
猛々しくのしかかります。
「このビラビラをこうやってイジクられたんか、穴ん中、こうやって指突っ込んで掻き回されたんか、それでイカされたんか、凄いテクニックやったんか」
俄然盛り上がってきます。
しかし終焉はいつも突然訪れます。雫は人を待つものかは。
フーフー息を吐きながらキョウコの横にドタッと倒れ、天井を見ます。天井を見ながら「客の中にはうまいヤツもおるんやろな?」と訊きます。
エンドレスです。
「わたしね、一度言おうと思ってたんだけど」
あるときセックスのあとキョウコが言い始めました。
「あんたたち、ちょっとおかしいんじゃないの」
「あんたたちって・・・」
「あんたをはじめ、師匠も、この前会った何て言ったっけ、兄さんとか呼んでた、え?雪蛍さん?どうも変よ。変ていって、貴重だとか、一般水準を越えてるとかといういい意味は全然なくて、怪しいっていった方がいいのかしら、何かジメッとして山小屋の風呂場に生えてるシメジみたい」
でもわたしとキョウコ、結構相性がいいような気がしています。
わたしは長年考えていた『SM忠臣蔵』を今度の月例会で演じようと思っています。
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